【2】
「だれかしら。」
席を立って母が客を迎えるために戸口に向かった。元来、客が多い家ではない。住まいは町から随分と離れた少し高台に立っているし、よその土地から嫁いできて中々馴染めなかった母の為に選ばれた場所だと聞いていた。
生活には不便だが、森に囲まれていて静かだし、何より当時体の弱かった母にはぴったりの場所だったらしい。子供の頃には、どこに行くにも長い道のりを歩かされ、足の痛みや体の疲れを訴え続けた。
母もすっかり健康になったので引っ越そうと再三提案したが、父は一向に取りあわなかった。まあ最近では森の中での暮らしもそれなりに気に入ってきたのでさほど不便も感じなかったが。
そんな森の中の一軒家に、こんな早朝にお客が来ることなど全く無かったと言っていいくらいだ。
「まあ!クリスじゃない!どうぞ中にはいって」
「くりす?」
初めて聞く名前だ。その上聞き取れたのは「クリス」という名前だけで、母はとても嬉しそうにしているのはわかるのだが異国の言葉なので内容はさっぱり理解できない。
食堂から除き見て、アオーンは思わず声をあげそうになってしまった。玄関から導かれて入ってきた男は、父よりも背が高く、朝日を背中から浴びて、逆光の所為もあったが透き通るような金色の長い髪をしていた。
そして、見慣れない服装。狩の衣装でも楽士の衣装とも違っていて、今までに見たことのない形をしていた。膝に届きそうな白く長い上着は襟と袖に金糸で刺繍が施してあるし、ズボンにも裾のところに同じような刺繍があった。
肩から垂らしたマントにも全体に金糸でなにやら模様がかかれているようで、歩くたびに静かに揺れている。
「お久しぶりです、ライラ様」
またしても聞き取れたのは「ライラ」という母の名前だけ。
一体何が始まったんだろうと思っていると、急にここに居てはいけないような気持ちになってきて、居たたまれない気分に襲われた。
「母さん、ちょっと出かけてくる・・」
そう言い放つと、母の答えも待たずにお客の横を通り過ぎ出て行こうとした。クリスと呼ばれている男の真横まで来た時、突然立ち上がった客に腕をつかまれた。
「あなたもここに居て下さい。大事な話がありますから」
(なんだ・・・わかる言葉も話せるのか。)そう思ったとたんに、腕を引っ張られ隣に座らせられてしまった。
客の見慣れない服装には、遠くから見たときに模様だと思った刺繍が全て文字だと言うことに気が付いた。全体にびっしりと書き込まれているそれは、近くで見るととても美しく全く意味がわからなくても見飽きない感じだった。
「ライラ様、ソウェイル様の了解も頂いて来ました。すぐにでも出発して頂きます」
そういわれて母の顔からは血の気がひき、見る見る青くなってきた。しかしまだアオーンには何のことだかさっぱり解らない。言葉を挟む間もなく、クリスの話は続いた。
「出発はなるだけ早いほうが良い。昨夜ソウェイル様にお会いして話し合いましたが、同意していただけました。本来ならば宮廷魔導所にて出立の儀式も執り行うべきですが、事は急を要しています。すぐにでも旅立ちの支度をしてください」
いつも微笑んでいる母の顔が、苦痛に歪んでいる。言葉も無く黙って座ったままだ。膝の上で両手を固く握りしめて、指の関節が白くなりかけている。
「母さん、一体どうしたって言うんだよ。解るように説明してよ」
どうして良いかわかっていないのは、アオーンが一番だっただろう。こんな母の姿を見るのは初めてだったし、何よりも冷静に話をすすめるクリスという男に我慢の限界が来ていた。
どれだけ時間がたっただろう。窓から差し込んでいた朝日は、すっかり長閑な昼の暖かさを含んで庭の花達に降り注いでいる。
のろのろとライラが立ち上がった。全身の力を振り絞るようにして。
「解ったわ。すぐに準備をするので、お茶でも飲んで待ってて」
やっといつもの母の口調に戻っていたので、アオーンはほっとした。しかし反面、母が何の準備をするのかもまだ聞かされていない。どこに旅立つのか、何のために、そして帰ってこない父を置いて。
いっそのことクリスに聞いてみようかとも思ったが、何よりクリスが嫌いになっていたのでやめにした。初対面の人にこれだけ悪い印象を与えられたのは初めてだ。アオーンは母の代わりに、お茶を入れようと台所に向かった。
「なんであんな奴の接待しなきゃなんだよ・・・」
独り言のつもりが、どうやら口をついて出ていたらしい。
「コーヒーはあるか?」
喉から心臓が飛び出してくるかと思うほど驚いたアオーンは、もう少しでやかんをひっくり返すところだった。しかし、客の要望にこたえないのは絶対にしてはいけないことと教えられていたので、返事もしないで希望通りの飲み物を出してやることにした。
この家のコーヒーは父だけのものだった。毎朝、父の好みに合った炒り方、そして挽きたてを飲むことで一日が始まっていた。そんな父も長い間帰宅していない。
きっと今ごろ美味しいコーヒーを飲みたくてイライラしているんじゃないかな。そんなことを考えていると、なんだか嫌々入れているのが申し訳ないような気がしてきたのだった。
「少し濃い目で入れてくれ」
一度ならず二度までも!絶対にあそこからこっちを覗いているに違いない。そう思ったアオーンは素早く振り返ったが、台所の扉は閉ざされたままだ。
「一体あいつ、何者なんだ??」
アオーンは、森の中の一軒家で育ったので、元来素直な性格である。それが災いして、またしても客の要望どおりにしてしまった。
「お待たせしました」
口ではそう言ったものの、心の中は違っていた。
「なんでお前なんかに!と言いたげだな。嫌われたものだ。」
あまりのことに、アオーンは立ちすくんでしまった。この男、クリスと呼ばれている異国から訪ずれた客は、まるで心の声が聞こえるようだ。
「それは違うぞ。お前の顔にそう書いてあるだけだ」
そういうと、差し出されたコーヒーに口をつけた。多分、嫌々ではあるけれども、美味しいはずだ。毎日、父の為に心をこめて準備しているコーヒーだから。
「そんなにアオーンをからかわないでちょうだいね」
準備をすると言って席をはずした母が、声をかけながら戻ってきた。どうしたことか、母までが客と同じ服装をしている。
「かあさん・・・一体・・・何?それ??」
いよいよアオーンには事態が飲み込めなくて、目を白黒させるばかり。母の衣装は今まで一度たりとも見たことが無いものだったが、とてもよく似合っていた。昨日まで袖を通していたように、どこも違和感無く、何よりも実際にはクリスよりも立派に見えた。
唖然としているアオーンの脇で、立ち上がったクリスはすぐに肩膝を折り左手を胸にあてて、慇懃に頭を下げている。
「宮廷魔導士長による任命をお願いします。召喚士長クリス同行魔道士として参りました。」
「解りました。」
一言そう答えると、ライラは先に立って表に出て行ってしまった。続いてクリスも立ち上がり母の後につき従う。二人の行動に引きずられるようにして、アオーンも庭に出た。
表には母が丹精こめて育てた花が、今を盛りに咲いている。色とりどりの花に囲まれた庭で、異国の見慣れない衣装を見にまとった母は、まるで別人のようだった。何となく突っ立っていると
「アオーン、こっちに来て。そう、クリスの隣に立ってね。うん、そんな感じでいいわよ」
母の声に促されて、言われたとおりにしているとどこからとも無く風が吹き始めた。温かく包み込むような感覚に襲われ、頭の中が真っ白になってくる。
目を閉じてしばらく考えていたライラは、前に立ったアオーン達に向けて両脇に垂らしていた腕を少し上げて手のひらを向けた。次第に強くなってくる風に慣れてきてやっと、母の左手が輝いているのに気がついた。見る見る光は強くなっていき、それは形を現した。
杖だった。
アオーンの背丈ほどもあろうかという長い杖。それも母の左手から光に包まれて出現してきたのだ。手にした杖をしっかりと握り締めて、ライラは一息ついている。
「さあ、始めましょう」
「始めるって何を!母さん、何をするんだよ」
アオーンの声は母には届かないのか、にっこり笑うだけで返事をしてくれない。実際アオーンには言葉が出ていなかった。母の言葉も、頭の中に響いているだけで、実際の声ではなかったのだ。
「これより出立の儀式をいたします。本来ならば祭殿にて行うべきですが、この地も浄化されているので問題ないでしょう。宮廷召喚士長、クリスを同行魔導士として任命いたします。」
ライラは長い杖を、まるで重さが無いように持ち上げ、クリスの頭の上で振っている。
「保護のルーンにより祝福します。良き旅を」
そう言うと、今度はアオーンの方に向き直った。
「ソウェイルの息子アオーンを試練の旅に送り出し、太陽の戦士として任命します」
優しい母の声がアオーンの心に木霊した。今まで何のことか解らずに居たが、ここに来てようやく自分の置かれている状況が少し見えてきた。旅に出るのはアオーンだったのだ。あまりの急な展開に思わず涙がこぼれそうになって、それを見られたくなくて俯いてしまった。そのアオーンの頭の上で、ライラは同じように杖を振っている。
「戦いのルーンにより祝福します。よき旅を」
アオーンは、本格的に涙が流れてきた。しかし、母の言葉はまだ続いている。
「太陽の戦士には孤独が付きまといます。しかし諦めてはいけません。ルーンの庇護により必ずや正しい道を、自らの意志で切り開くことが出来るでしょう。さあ、オーディンの剣を鎮めるため魔導士と共にアザラの山に登り、全てを見届けてくるのですよ。」
そういい終わると、今度は太陽の方に向いて光の杖を差し出した。
「安らぎのルーンを奉げます。戦士の旅が実りあるものになるように」
突然、突風が吹きライラの肩に掛かったマントが翻った。そのとき今までマントで隠れていた背中に大きな模様が見えた。それは『太陽』の意味を持つルーンだった。
白いマントは大きく翻りながら、ライラの背中で踊っているように見えた。突風はやがて光の渦になり、足元の大地を揺らしている。そして、少しずつライラの体が地面から浮き上がっている。
「あ、母さん!」
アオーンは声をあげたが、実際には何もしゃべることが出来ない。体もびくとも動かない。
どうすることもなくただ母の後姿を見ているしかなかったのだ。だんだんと浮き上がってきたライラは、手にもった杖をひとたび大きく振ると、そのまま光の中に消えていってしまった。
「母さん・・・・」
アオーンは涙がこぼれるのを抑えることが出来なかった。なす術も無く母が目の前から消えてしまったのだから。自分が手を伸ばせばこんなことにはならなかったのに・・・そう思うと不在の父にも申し訳ない気持ちだった。ただ、さっきまでライラの居た場所を見つめるだけだった。