逆手のモナリザ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
魔女を倒して、めでたしめでたし……かあ。お約束ではあるけど、無難な終わらせ方だね。
――子供向けなんだから、シンプルで分かりやすいハッピーエンドの方がいい?
いや、いうことはいちいちごもっとも。どうもここんところ目が肥えてきちゃって、予定調和な話の展開に、敏感になってきちゃった。
うらやましいねえ、子供時代。これからやること、なすことのほとんどが初めてばかり。そこで刷り込まれたことは、あとあとの人生にも大きな影響を与えるだろう。それでいて、二度目では絶対に同じ体験はできないときている。
童話の中でもさ、こんな強烈な体験をしちゃった子供が、まともな人生を送ることができるのかなあ? 僕はよく、「めでたしめでたし」を見ると、頭に疑問符がついてしまう。たぶん、このあとにもしんどいことが待ち受けるんだろうなあ……とね。
で、その子供時代しかできない体験って、僕たちが思っているより、ずっとたくさんあるらしい。最近、お父さんから聞いた話なんだけどさ、耳に入れてみない?
つぶらやくんは、「ムラサキカガミ」の話は知っているかい?
20歳を迎えるまでに、ムラサキカガミという言葉を覚えていると、不幸が降りかかってくる……っていうあれだ。
実際、僕はなんともなかった派なんだけど、これっていわゆる、占いとかで用いられる誘導じみた話に思えるんだよねえ。何か不幸なことがあれば「ムラサキカガミを覚えているせいだ」と、責任を押し付ける。そうして精神を落ち着かせる一助にする。
ツイていることに対して、「神様の思し召し」といったりするけど、それの不幸バージョンとでも呼べばいいかな。本当に心身を害しかねないストレスに関する、はけ口として、ムラサキカガミは使えるような気がするんだ。
これらのタブー系、子供には特によく効くからなあ。
そして、お父さんが子供のころにあったタブーのひとつに、「逆手のモナリザ」というのがある。
つぶらやくんは、モナリザの絵を思い浮かべてさ。どちらの手が、どちらの手をつかんでいるか、ぱっと思い出せるかい?
そう、左腕を右手がつかんでいる姿勢だね。ところが、このモナリザがときどき、手を組みかえているものが、目に入ることがあるらしいんだ。
これは20歳を迎える前に、子供だけに出くわすおそれのある現象なのだという。
この逆手のモナリザ、なにもモナリザの絵を見なければ、出くわすことがないとも限らないものなんだ。
めくっていく本や新聞記事から、ふとした拍子で目に映る町中のポスターまで。出会うときは本当に不意打ちで、そのモナリザは現れる。それを見つけてしまうと、よくないことが起こるのだとか……。
お父さんははじめ、まゆつばものだと思っていた。当時は口裂け女のうわさが広まっていたけれど、お父さんはいまだ会ったことがない。そんなものを恐れるのは、ばかばかしいと。
逆手のモナリザも、同じような手合いだと思っていた。ところが、クラスメートのひとりが「逆手のモナリザを見た!」とクラス内で騒いだことにより、にわかにみんなの中に、おののきの気配が漂い出してきたんだ。
件のクラスメートが見たのは、バス広告だという。バス停で待っているとき、ふと顔をあげて見た、バス側面に掲載された長い広告の絵が、モナリザの絵になっていたというんだ。
そう、本来の姿とは異なる、右手を左手で掴む、逆手のモナリザの格好さ。クラスメートが目をぱちくりさせて、広告を見直したときにはもう、その絵は元のものと思われる、温泉旅館のものに置き換わっていたというんだ。
たちまち逆手のモナリザの話は、クラス中を席巻した。
図書館の本はおろか、教科書や各種張り紙をまともに見られなくなる生徒が続出し、なかば授業にならないと、先生たちも頭を抱えてしまうことが多々あったとか。
登下校中も、うつむきながら歩く子供の姿が見受けられるようになった。みんな、思わぬタイミングで逆手のモナリザを見てしまうことを、恐れていたんだ。
お父さんも表向きは無関心を装いながらも、内心では警戒を続けている。挿絵がある本でも、できる限り文章を読むようにし、張り紙はもちろん、窓や水たまりに写る景色さえも、目に留めないよう細心の注意を払う。
周囲の熱に浮かされたこともあるのだろうけど、万が一にでも同じような目に遭うのは、ごめんだったからだ。
当の逆手のモナリザを見た子は、特に具合が悪いとか、目に見える不調はなかった。
だが、奇妙なことをお父さんたちにしばしば話す。目をつむると、強い光を見た時のような残像が、必ずといっていいほど入ってくるようになった。まぶたを閉じてから、意識がある間は全く薄れないそれは、時間とともに形を変えていく。
あの、逆手のモナリザをかたどったかのような姿へと、ね。
それから3カ月ほどして。
お父さんは何人かの友達と一緒に、美術室隣の図書室で、件のクラスメートを待っていた。放課後に遊ぶ予定だったが、彼だけ美術の課題が終わっておらず、その仕上げに追われていたからだ。
一時間以内に仕上げられなければ、今日は件のクラスメート抜きで遊ぶ。その取り決めで、お父さんたちは待機していた。
誰も本へ手を伸ばさない。逆手のモナリザを警戒しているのは明らかだったらしい。
それから20分ほどして。
美術室から叫び声が聞こえたかと思うと、乱暴にドアを開け放ち、足音を立てる者があった。
一番廊下側のお父さんが振り返ったところ、美術室を飛び出して廊下を駆けていったのは、あのクラスメートだ。両目を手で押さえ、その指の間からは赤いものがにじんでいたように見えた。
友達はすぐに彼の後を追ったが、お父さんだけはおそるおそる美術室へ入ってみる。
一番廊下側の席に、完成間近の彼の木版画と彫刻刀数本が置かれていた。だが、その横にはこぶし大の、真新しい血だまりができている。
ぶるりと肩を震わせ、ひょいと顔をあげてお父さんは息を呑んだ。
向かいの美術室の壁。もともとは白かったそこに、びっしゃりと赤いものが貼りついていたんだ。その赤色が成す輪郭は、どこかモナリザを思わせる造形だったとか。
クラスメートは、ほどなく転校してしまう。
美術室の壁も、急きょ張替えがされて、元のような姿に戻った。でも、あの血痕を見てしまったうえで、彼の話を知っているものは「逆手のモナリザが、目から飛び出したんだ」としきりにウワサするようになったとか。