5★
名を紡いだことで、頭の中にあった難解なパズルの最後のピースがピタリとはまった気配がした。
けれど、爽快感は無い。達成感も、感動も。
失っていた記憶を取り戻したソレールは、ひどく傷ついていた。自分はそれだけの存在なのかと。
アニスは祖父の記憶は、夢で見て知ったと言った。紡織師から受け取ったなどと一言も言っていない。チャービルも同じく紡織師に依頼したなどとは言ってない。
だが間違いなく、アネモネは存在していた。
届けに来た初日にアニスに摘まみ出され、自分の家に匿った。数えきれないほど食事を共にしたし、同じベッドで寝たこともあった。
ティートに誑かされ、危険な目に遭った。傷を負い、自分は初めて彼女を怒鳴り付けた。
夢じゃない。幻でも無い。これは間違いなく現実に起こったこと。
けれども、誰も覚えていないということは─── にわかに信じられないが、アネモネが記憶を奪ったとしか考えられない。
なぜ事前に一言伝えてくれなかったのだろうか。
どうでも良い存在だと思われたのだろうか?
斬り捨てても構わないと思われたのだろうか?
記憶を失う日、アネモネは鍵を返そうとした。それを自分が押しとどめた。想いを伝えるつもりだったから。黙って帰らせる気など毛頭なかったから。
謂わばあれはアネモネに付けた枷のようなものだった。
けれど、気付けば自宅の鍵は騎士服のポケットに入っていた。……それが、答えなのだろうか。
「紡織師とは因果な商売なんですよ」
絵を掴んだまま、声なき声で呻くソレールに向かって、タンジーは静かに語り出す。
「仕事に関わった者全てから、記憶を消されてしまうんです。この人は消したくないとか、消そうとか、そんな都合よく選ぶことができないんです」
「……それは知らなかったです」
壁にもたれ掛かりながら、返事をするソレールにタンジーは軽く眉を上げた。
もう既に、タンジーは騎士が記憶を取り戻したことに気付いている。
そして、自分は紡織師から記憶を消される存在ではないことを隠す気は無いようだった。
「まぁ、知らなくて当然です。人の精神に触れることですから、むやみに伝えることは禁じられているそうです」
「…… 確かに、危険ではありますね」
「ええ。それに、この難儀な性質は、あの娘こを守るという意味合いもあるんですよ。世の中には悪い人も沢山います。使い方によっては、気に入らない人間の心を壊すこともできるでしょう。己の目的の為に暴力を振るうことに抵抗を覚えない者もいます。そして、紡織師は総じて優しいのです。もし大切な人を人質されてしまったら、紡織師は屈するしか」
「わかっていますっ。ですが…… 私は、私はっ」
荒ぶる口調でタンジーの言葉を遮ったソレールは、悔しそうに唇を噛み締めた。
そしてそっぽを向いた状態で呟く。「あなたが羨ましい」と。
無いものねだりをするなど大人気無くて、みっともない。駄々をこねる子供と一緒だ。
でも、アネモネの肖像画はまだあどけない姿だった。
つまりこの絵師は、自分より遥かに長い時間を記憶を消されることなく、アネモネと過ごしているのだ。血の繋がりなど無いのに。
目の前にいる絵師が、自分が心底惚れた少女にとって特別な存在であることを見せつけられたような気持ちになる。
ソレールは、タンジーが羨ましくて、羨ましくて仕方がなかった。




