7
腕輪が形を変える直前、アネモネはソレールの唇を塞ごうと思った─── 自分の唇で。
でも、背伸びをして彼の頬に手を添えようととした瞬間、己の手首に腕輪がはめられているのに気付いた。
それは、幸せだった時間が閉幕した合図であった。
「えっと……君は……」
あれほど好きだと訴えていた茶褐色の瞳は、不審者を見る目に変わっていた。
記憶が消えたソレールは、見知らぬ小娘が屋敷に侵入したことを警戒しているようだった。
いや露骨に胡散臭い目を向けている。警護団に連れていかれるのは時間の問題だった。
「ごめんなさい。お庭があまりに綺麗で……」
アネモネは眉を下げ、頭も下げた。
頭上から呆れた息が降ってくる。
「そうか。だが、ここは邸宅、他人が住む家だ。勝手に入って貰っては困る。今日は見逃してあげるから、お家に帰りなさい」
「はい。親切な騎士様、ありがとうございます」
もう一度頭を下げたアネモネはソレールのポケットに、そっと彼の自宅の鍵を入れた。
アネモネはソレールに背を向け、ブルファ邸の外に出た。
人混みに紛れて、街道を歩く。
肉串を売っている屋台に目を向けたら、店主と目が合った。
すっかり顔なじみになってしまった店主は、昨日までだったら手を挙げて『食っていきな!』と声を掛けてくれた。
けれど今は、アネモネをただの通行人と認識して、すぐに目を逸らすと忙しそうに肉を焼き始めてしまった。
アネモネはまた、街道を進む。
どこをどう歩いたのかわからない。ただ気付けば、いつぞやの空き地のベンチに腰かけていた。
どれだけ待っても、ソレールは迎えに来てくれない。
そうわかっていても、アネモネは動くことができなかった。
好きだった。大好きだった。
名を呼んでくれる、低く優しい声が。
頭を撫でてくれる、大きな手が。
抱き着いた時に香る、甘い香りが。
隣に居てドキドキして、これは恋だと思った。
でももう二度と彼の隣に立つことができないと知った時、自分が思っていた以上に彼の事を好きだったことを知ってしまった。
自分は失恋したのだ。
改めてそれに気付いた途端、痛く、苦しく、惨めで寂しい思いが、アネモネの心の中に溢れてくる。
「……し、師匠ぅ」
アネモネはくしゃりと顔を歪めて、空を見上げて呟いた。まるで迷子になった子供が母親を求めるように。
自分の感情が上手くコントロールできない。ちょっとでも気を抜けば、声を上げて泣き始めてしまいそうだ。
アネモネは堅く目をつぶった。しばらくの間秋風に、自身の髪を遊ばせる。
「師匠」
再びアネモネは、空を見上げて呟く。
口調は芯があるもので、浮かぶ表情は一つの仕事をやり遂げた紡織師のそれ。
「師匠、私は無事、お仕事を終えました」
勢い良く立ち上がったと同時に、空にいる師匠に報告を終えたアネモネは、しっかりとした足取りで帰路についた。




