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追いかけるか、このまま見送るか。
アネモネが決めかねていれば、馬車は静かに停車した。次いで、ガラッと窓が開く。
「あら、あなた……この前の?」
窓から顔を覗かせた義理の妹ことエルダーは、パチパチと何度も瞬きを繰り返している。
覚悟を決めて、アネモネは背筋を伸ばして馬車へと近づいた。
「お久しぶりです。覚えておいででしょうか?先日、馬車から突き飛ばされてお嬢様に介抱していただいたものです。あの時は、本当にありがとうございました。わたくしのような者が直接お礼を言うのは不躾かと承知しておりますが───」
「ちょっと待って」
一気に言って、勢いよく頭を下げて終わりにしようと思っていたのに、遮られてしまった。
ただ突然現れた平民に対して蔑んでいるわけでも、不快に思っているわけでもない。
その証拠にすぐに馬車の扉が開く。慌てて降りた御者席から御者は、エルダーの為に踏み台を用意する。
ひらりとブルーグレーのドレスの裾を靡かせながら降り立ったエルダーは、アネモネを見つめ、困ったように眉を下げた。
「わざわざ……良かったのに」
「いえ、立場を弁えずにお屋敷まで来てしまい申し訳ありません」
「とんでもないわ。逢いに来てくれてありがとう。また会えて嬉しい」
にこっと笑ったエルダーは、やっぱり吊り目ではない。
愛されることに何の疑問も持たない幸せな道をただずっと歩いてきた令嬢だった。
「お借りしていたハンカチです。先日はありがとうございました」
ミルラの手を借りてきちんとアイロンを当てたハンカチを、アネモネは差し出した。
「まぁ、ありがとう。これ、気に入ってたの」
ぱっと笑顔になったエルダーに、アネモネはもう一度「ありがとうございました」と言って頭を下げた。
「では、私はこれで失礼します」
「うん、じゃあ気を付けて帰って……あっ、そうだ。ちょっと待ってて」
何か閃いたように小さく手を鳴らしたエルダーは、すぐに馬車に戻る。
御者が手際よく扉を開けたのに気付き、笑みを浮かべて礼を口にしている。
ただ、エルダーは馬車に乗り込むことはなかった。踏み台に両足を置いたまま、なにかゴソゴソしている。
現在アネモネは慈悲でここに居させてもらえる立場だ。露骨に訝しむこともできず、無表情のままじっと待つ。
待つこと数十秒。義理の妹は、小さな包みを手にしてアネモネの所に戻ってきた。
「これ、あげる」
「へ?!」
礼節を弁えなければならないと言い聞かせても、さすがに素っ頓狂な声を上げてしまうのは致し方なかった。
奪うことしかしなかった義理の妹が、施しを与えようとしているのだから。
「今からお父様の職場に行くの。クッキーを焼いたから、食べてもらおうと思って。これ、あなたにおすそわけ。あまり美味しくはないかもしれないけど、良かったら食べて。私の手作りなの」
エルダーは傷一つ無い白魚のような手に乗せた包みを、アネモネに押し付けた。
「……ありがとうございます。いただきます」
「うん。でも本当に味は期待しないでね」
顔をあげたアネモネに映るエルダーは、もうすでに気持ちは父親の元にいるようだった。
たったこれだけで、エルダーと父親の関係がとても良好なものだとわかった。
「道中お気を付けて」
「ふふっ、ありがとう。あなたも気を付けて帰ってね」
ひらりとアネモネに手を振ったエルダーは、振り返ることなく馬車へと戻った。
再び軽快に車輪を回し、次第に小さくなっていく馬車を見つめる。
「さようなら」
今は身分の差に関係なく意図的に人を傷つける者に対して、怒りを覚える心根の優しい義理の妹に別れを告げた。
次いで身体を反転させ、同じ言葉を紡ぐ。
「……さようなら」
アネモネは生まれ故郷とも呼べる屋敷に深く頭を下げ、もう一人の自分に別れを告げた。




