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「ぴーちくぱーちく、うるさいっ。ガチョウか、お前は」
「ん゛ん゛っ」
酷い言い様だ。アネモネに対しても、ガチョウに対しても。
当然のごとくアネモネは、アニスを睨む。
けれど、次の瞬間、馬車の扉が開いたと思ったら、視界がぐるりと回った。2拍置いて、全身に強い衝撃が走った。
アニスが、アネモネを馬車から突き飛ばしたのだ。
「二度と俺の前に姿を現すなっ」
無様に地面に叩きつけられたアネモネに対し、アニスはそんな酷い言葉を吐き捨てる。
「なっ、ちょっと!───……あ」
ガバリと起き上がって、再び馬車に飛び乗ろうとした。
けれど、不運にも御者は既に戻っており、アニスを乗せた馬車は馬の嘶いななききと共に走り出してしまった。
「くそったれ」
アネモネは淑女が生涯決して口にしないであろう、汚い言葉を呟いた。
最低だ。なんていう奴だ。こんなことなら、料金をもっとぼれば良かった。
そんな不届きなことを思ってしまうほと、アネモネは憤慨していた。最初に屋敷の玄関からつまみ出された時より、もっと憤慨していた。
しゃがみ込んだまま、去っていく馬車を険しい視線で睨み付ける。車輪が外れろと呪いをかける。
だが、馬車は無情にも小さくなって、街のざわめきの中に消えてしまった。
アニスはある程度女性慣れしていた。
馬車に乱入してきても、アネモネと気づかない間は、紳士に接していた。
性格は抜きにして、あの家柄と容姿だ。きっと女性には不自由していないに違いない。でも、自分だったらあんな奴と結婚するなんて死んでも嫌だ。
アニスのお爺さんは好好爺とまではいかないけれど、アネモネに優しかった。
遠いところ、来てくれてありがとうと頭を下げてくれた。帰りに馬車も用意してくれたし、ナッツが入った焼きたての、しかも日持ちのするお菓子まで持たせてくれた。
複雑な事情があったにせよ、どうしてあの遺伝子を受け継がなかったのだろうか。神様は本当に意地が悪い。
そんなふうに手のひらにくっついた土を払い落しながら悪態を心の中で吐く。
ちくりと痛みを感じて手のひらを広げたら、擦り傷が出来て血が滲んでいた。それを目にした途端遅れて痛みがやってくる。
ただふと視線を感じて顔を上げれば、通行人が足を止め、アネモネを遠巻きに見ていた。
「……は、ははっ。ど、どうも」
とりあえず誤魔化し笑いをしてみた。
次いでさっさと立ち上がって、この場から去ろうと思った。でも足腰が笑っているため、なかなか立つことができない。
有り難いことにアネモネが動くことができなくても、イベントが終わればギャラリーは一人二人と勝手に去っていく。
あっという間に日常に戻りつつある光景を見て、アネモネはこのまま顔を伏せたまま、時をやり過ごそうと思った。
けれども、まだ少しだけいるギャラリーをかき分けて、一人の少女がアネモネに颯爽と駆け寄ってきた。
「ちょっとあなた大丈夫?!」
「……あ」
慌ててアネモネは立ち上がろうとしたが、それを阻むように少女がしゃがみ込んでしまった。
見たところ自分より1つか2つ年下の貴族令嬢のようだ。夏の季節にふさわしいパフスリーブ袖の涼しげなドレスが良く似合っていて可愛らしい。
格上相手を見下ろすのも何だか失礼なような気がして、アネモネはそんなことを考えながら同じ態勢でもじもじとしていた。でも、
「......っ?!」
アネモネは己の瞳を限界まで開いて息を呑んだ。
気付くのが遅くなってしまったけれど、目の前の少女は見知った存在だった。
「......エルダー」
震える唇で無意識に紡がれた言葉は、幸いにも声が掠れすぎていて少女の元には届かなかった。
アネモネは再びその名が口から飛び出さないよう、両手で口元を覆う。
この人の名を絶対に呼んではいけない。
そして今すぐここを去らなくてはならない。
なぜなら、今目の前にいる少女は、かつてアネモネの義理の妹と呼ばれた人だったから。




