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「……離せ、小娘」
「ねぇ、受け取ってあげてよ……お願い」
アニスはアネモネに胸倉をつかまれたまま、弱々しい声を上げる。
対してアネモネも、アニスに負けず劣らずの声量だ。
でも、手を離すことはしない。預かっているもう一つの心が、アネモネを引き留めているのだ。
アニスがこんな性根が腐った男になったのは、それなりの理由がある。
─── 今を去ること数十年前。
アニスの祖父チャービルはこの国の第四王女を妻に娶った。もちろん合法的かつ円満に。そして幸せな家庭を築くはずだった。
けれど、状況が少々変わってしまったのだ。
時期国王となるはずだった第一王子が突然死去したのだ。
表向きは病死ということになっているが、暗殺だったという噂は今でも消えていない。
そして第一王子の代わりに、今の国王となったのが第二王子で、彼の母親は側室だった。
ざっくばらんに言ってしまえば、本妻の子供を側室の子供が殺して、王座をもぎ取ったということになる。しつこいけれど、これはあくまで噂。
ただチャービルとしては、聞き流すことができない噂であった。
なにせ自分の妻の母親は第一王子と同じだったから。
しかも既に他の王女は他国に嫁ぎ、国内にいる直系の王族は自分の妻だけときたものだ。
アニスの祖父は妻の身の危険と、これから産まれて来る子供の未来を案じた。そしてこの夫婦は話し合った挙句、一計を案じたのだ。
放蕩夫とアバズレ妻を演じて、生まれてくる子供が誰の子供かわからないようにしようと。
どこからツッコミを入れて良いのかわからない型破りかつ、奇想天外な計画だったけれど、ずば抜けたエキセントリックさが甲を成し、生まれてきた子供─── アニスの父親は五体満足のまま、成人することができた。
ちなみにアニスの父は成人した際に、自分の両親がずっと世間の目を欺くために演技をしていたのを知った。言葉としてではなく、先代紡織師の術を用いて。
口で言ったところで、『本当は浮気しとったんとちゃうん?』と思ってしまうところだが、こういうときに直接心の届けることができる紡織師の術は絶大な力を発揮する。
結果、良好とは言えなかった親子関係を修復することができたのだ。
そしてアニスの父は、理解ある妻を迎え新たな家庭を築いた。
今尚、王族の間で実力主義派と、純血主義派が対立していることを知っているアニスの父は、チャービルと同じ道を歩むことにしたのだ。
社交界では、伝説の放蕩夫とアバズレ妻の再来など揶揄されても、アニスの両親はそれを演じ続けた。
それからしばらくして、アニスが生まれてもずっとずっと演じていた。
幼いアニスにとったら、演技とはいえ不仲な両親を見るのは、さぞ辛いことだっただろう。
でも、そう遠くない未来、真実を伝えられる日が来る。
アニスの両親はそう信じて疑わなかった。同じ屋敷に住まうチャービルも同じように思っていた。
けれど真実を伝えようと思っていた矢先、アニスの両親は死んでしまった。
とても不自然な事故で。
何も知らないアニスは、両親の葬儀の席で因果応報と暗く笑ったそうだ。
それからアニスは、家督を継ぐため忙しい日々を送り、領地と王都の行き来を繰り返し、数年が経過した。
その頃には完璧に性格が歪んでしまっていたのだろう。
もちろんチャービルはアニスの両親に代わり真実を伝えようとした。
でも、アニスはそれを拒んだ。ずっとずっと。
終いには顔を合わすことさえしなくなってしまった。
あろうことか、諦めることなくアニスと話をしようとするチャービルを、自身が治める領地へと追放したのだ。
隠居と言う名の島流しを受けてしまい、困り果てたチャービルは、紡織師の力を借りることにした。
『どうか死んでしまった両親と、拒まれ続けている自分の代わりに、アニスに真実を伝えてください』と。
「お願いです。……お願いします。どうかお爺さんの願いを受け取ってあげてください」
アネモネはアニスから手を離して、深く頭を下げた。
でもいくら待ってもアニスは何も言わない。そっと顔を上げても、彼の表情は動かない。
虚無感が爪先から這い上がってくる。
受け取れば、全部がわかる。きっと関係が修復できる。
アニスも、チャービルも、死んでしまったアニスの両親も間違いなく今より幸せになれる。
それがわかっているアネモネはとても歯がゆかった。
そして自分だけが知っていることが悔しくて。辛くて。
とうとう、紡織師としてあるまじき行動── 口頭で伝えるという最悪な手段に出てしまった。
「聞いて、お願いっ。あなたが思っているのと、真実は違うんですよ。本当は───……んぐっ」
「黙れ!」
そこまで言った途端、アニスの手で口を塞がれてしまった。




