赤目ちゃん
熱っぽかったその日は、視界に入るすべてのものの粒子が荒く、ボツボツに見えた。
壁の木目を見ているだけで、浮き出して見えるその模様が、何やらもぞもぞと動き回って、背中がむず痒くなった。
色調も悪く、セピア色との瀬戸際までずんと落ち込んでいて、やっと色の識別が出来る程度だ。
動きも、まるで昔の相撲中継の分解写真のように、カクカクと不自然なのだ。
この話は、善行5歳のみぎりの記憶として、認識されているのだが、その認識が、いつ頃確定されたのかは定かではない。
おそらく長い年月の中で、様々な合理化や忘却を繰り返し、思い違いや、夢の中の出来事や、或いは全く別の出来事と混然となり、今に至ったと思われる。
五里霧中の中の曖昧模糊といった案配で、まことに具合の悪い話なのだが──
本家の近所の飲み屋へ入る途中で、父は水蜜桃を買ってくれた。
よく完熟した皮を、母が長い指で綺麗に剥いてくれた。
善行は、飲み屋の縁台で、あぐらをかいて酒を飲む父に、抱かれていた。
縁台の端の方では、本家の近所の親父が、若い男と賭け将棋を打っている。
桃はつるつると滑りやすく、善行は、自分の小さな手で持っている危うさを、ひしひしと感じていた。
縁台の下は地面であり、つるりと落としてしまったら、取返しのつかない事になってしまう。
案の定、すぐ、そうなった。
悔しくはあったが、可能な限り、かぶり付いておいたのが、せめてもの救いだった。
それにしても、土の上の無惨な水蜜桃は、まだ半分以上が残っていた。
飲み屋では、ずっと黙って飲んでいた父と、やはり押し黙ったままの母は、何故だか善行には、いつもより優しかった。
桃の落下を叱らなかったばかりか、飲み屋を出た後で、当時は高かったバナナを一本、新たに買ってくれたのだ。
これも完熟していた。
親子は岬の『旅荘、千鳥館』へ入った。
出迎えた中居は、よく町で見かける若い女だ。
可哀相な女だった。
顔に負った酷い火傷の為に、頬が真っ赤に爛れていて、その上、片方の目がヒキツリの為に、アカンベエをした状態となっているのだ。
見る者は誰でも、自動的にショックを受けた筈だ。
町の人が、陰で『赤目ちゃん』と呼んでいるのを、善行は何度も聞いていた。
「いんや、赤目ちゃんもなあ。八戸さ行って、手術出来ない事もながんべが。も少し、マシになんべ」
「いや、わざとあのまんまでおるんだど」
「千鳥館の旦那さ、当てつけってが?」
「いんや、むしろ女将の方だべ」
「しかし、あったら顔じゃ、千鳥館もお化け屋敷みだぐ、なっど」
「そごだな……」
「辞めでもらう訳にもいがねしな」
「出来ね。そったら銭っこ、女将が出さね」
「女は恐えど」
「どっちもな」
「旦那、見ねな。逃げだが?」
「なんもよ。居だっけ」
善行は、本家で祖母に尋ねた事があった。
「ああ、ノブコ(赤目ちゃん)は、可哀相な娘でな──だから善行──よく勉強して──ピアノも頑張んなせ。パパちゃんとママちゃんの言う事、よく聞いてな」
これでは何も解らない。
だが、凄いドラマがあったに違いない。
その中居さんに案内されて、暗い玄関からもっと暗い廊下を通り、薄暗い座敷に入った。
赤目ちゃんが去った座敷の中で、四隅から影となり押し寄せてくる、ワラジ虫の大群を、ワンピースを着た母は、脚をぴんと伸ばして上半身だけを折り曲げ、箒とちり取りで、際限もなく取り続けていた。
「……きりがないわ……」
と母の声がする。
「……意地を張るからだ……」
と父の声。
「……善行、おばあちゃんちの方がよかった?……」
と母の声。
「……思いの他、良い部屋じゃないか……」
そんな意味の言葉を発している父の温かな背で、善行は生ぬるくなった茶色いバナナを握りしめながら、まどろみの誘惑と必死に戦っていた。
こんな状態で、バナナを落っことしてしまったら、甘いバナナを、ワラジ虫が、ワラジ虫の群れが……
結局、そのまま眠ってしまった。
潮騒が聞こえた。
ワラジ虫が押し寄せてくる音のようでもあった。