前編
今回前後編です。細かい突込みは置いといて、御屠蘇気分で読んで頂戴。殿暴発、ダメよダメダメお色気剣術指南編。いつにもまして「変」
「おっ、けっこういけるなこの粥。で、左内、今回のお前の病は例の剣術試合が原因か?」
ここは美行藩、江戸藩邸。
特別にしつらえられた自室で青い顔をして坐っている端正な顔の青年には目もくれず、右京は両手で椀を抱えて膳に乗った粥を夢中ですすりこんだ。この粥は心優しい奥方様が寝込んでいる左内のために作らせたものであったのだが……。
つい先ほどまで横になっていたのか、左内の傍らにはまだ布団が敷いてある。
「ああ、ご明察だ」
相手が食べ終わったのを見計らって左内は口を開く。目の前には右京の小馬鹿にしたような曲線を描いて吊り上る眉毛と、大きい釣り目。禍を呼ぶその瞳とはあまりお近づきにはなりたくないが、人生には毒を持って毒を制さねばならぬこともある。
ひとつ溜息を吐くと、左内は意を決したように口を開いた。
「新年も明けたことだし、お互いの鍛錬のためと昨日曽根美濃藩から剣術試合の挑戦状が来たのだ」
彼は額に手を当てると、力なくため息をつく。
藩邸が隣の曽根美濃藩とは、もともと仲が悪い。当家の主君が妙に将軍の覚えが良いことに嫉妬して、隣家の当主は事あるごとに上げ足をとろうと難癖をつけてくるのである。今回も無様な負け方をすれば、情けない藩だと喧伝されることは目に見えている。
「藩主同士の試合まで打診されている。うちの殿に武芸などできるわけがないではないか。かといって、断ると何を言われるかわからないし」
頭を抱える彼、片杉左内は天晴藩江戸留守居家老である。留守居役とはそもそも江戸藩邸にあって、藩主の登城のおりの世話をしたり、情報収集をする重要な役目であった。しかし、この藩での留守居役最大の仕事は藩主の火遊びのもみ消し工作なのである。
なにせこの当主、天晴美行守吉元殿は、派手好きの上に快楽を前にしては見境のないお人柄。夜ごと江戸の美姫たちを虜にするその邪悪ともいえる少し垂れた茶色の目と、要らぬことには回転の速いその頭で後先考えずやりたい放題なのである。奔放な殿には味方も多いが、もちろん星の数ほどの敵も居る。
「参勤交代でこちらにこられる年は気が重いよ」
こう言ってため息をついていた前任者の急逝も、心労のためと噂されていた。左内は若干18歳で家老に就任した切れ者と江戸では評判であったが、当の本人にとっては押し付けられたという感が拭い切れない。
「私も国元でのんびり暮らしていたかった。おまけに……」
なぜか一緒に江戸にこいつがついてきてしまった。左内は傍らですました顔で粥に添えられていた水菓子を貪る右京を見て大きく溜息をつく。髷を結わずに髪を後ろでひとつに束ねている彼は表向き藩医となっているが、それは召し抱えのための口実。実は奇妙ではた迷惑なものばかりを作りだす発明家なのであった。
左内の幼馴染呉石右京は長崎で洋学を学んだ天才だが、その才を世のため人のためには使おうとせず怪しげな実験ばかりしてとうとう国元に居られなくなってしまったのである。そもそも出島でも、その常人には理解できない発明と行動で呉石ではなく英吉利の言葉を知る紅毛たちからクレイジー右京と呼ばれていたぐらいだ。
殿ばかりではなく、腐れ縁の右京まで押し付けられた左内は心の休まることが無い日々を送っている。
「藩主も藩主だが、うちの藩士も皆怠け者揃い。私が稽古をつけてやれればよかったのだが、金策で駆け回っているのをいいことに、皆武芸の鍛錬を怠っている。いま立ち合いをしてもろくな試合はできまい。試合は十日後、恥を忍んで断るかそれとも無様な試合をして笑いものになるか……」
武芸の腕は立つが、生来虚弱な左内は悩んでいるうちに倒れてしまったのである。
「簡単なことだ」
何かよい手があるのか。左内はわらにもすがる気持ちで右京ににじり寄った。
「不正な手口は使わず、皆の剣術が上達するうまい方法があるのか」
「好きこそ物の上手なれ、というではないか。本気で武芸に取り組みたくなる状況を作ってやればいいのだ」
「簡単に言うな、そんな手が思いつけば、とっくにやっている」
左内は頬を少し膨らませた。
「お前には無理さ」
にやり、と右京が笑う。
この笑いは曲者だ。良いことになったためしが無い。だが、もうこの禍々しい笑顔に頼るしかないのだ。前金を懐に入れ意気揚々と去っていく右京の背中を眺めながら、左内はいつにも増して大きなため息をついた。
「皆のもの、先日通達を出したように、曽根美濃藩との試合は8日後に迫っている。今日は特別に武芸の修練をいたす」
藩邸にある道場に呼び集められた藩士達は、ざわめきながら濁った目で左内のほうを見つめている。
「ええっ、指南は御家老様直々ですか。太刀打ちできずに我々が大怪我をするのがオチですよ」
「この寒いのに無理をすると、我ら風邪をひき申す。おとそ気分をもう少し味わいましょうぞ」
方々から不満の声があがる。
そろいもそろってこの怠け者ども。
左内は憤然とその切れ長の目を吊り上げた。
もともと怠惰な国柄の中でのんびりと育った面々とはいえ、腐っても武士。もう少し気概というものを見せて欲しいところだ。右京は自信満々であったが、果たしてあんなもので彼らをやる気にできるのだろうか。不安を払うように顔を上げると、左内は皆をにらみつけた。
「と言っても、私が皆の稽古をつけるわけではない」
左内が手をたたくと、右京とともに、白の胴着に淡い桃色の袴、頭に白い鉢巻をしめた若い娘が入って来た。細い手足に柳腰、しかしそれとは不釣合いに豊満すぎる胸のふくらみが襟元をおし広げ、隙間からはこぼれんばかりの白い胸と谷間が覗いている。ぱっちりとした瞳に、長い睫毛。ほんのりと紅い頬が滑らかな白い肌を際立せ、あどけない顔つきに半開きの口がまたなんともなまめかしい。
ざわざわ、と藩士達がどよめいた。
「紹介しよう。お前達の剣術の指南、お江戸2号殿だ」
左内の声に合わせて、2号は深々とお辞儀をした。
「片杉様、いくら我々が弱いからと言ってこれは侮辱。女子に負けるほどではござらん」
皆を代表して猫野熊衛門が竹刀をもって立ち上がった。熊衛門というだけあって、毛むくじゃらで人並みはずれたな大きな身体をしている。この熊公、藩士の中では武芸はまだましな部類であった。
「そうか、天晴れ熊衛門」
右京はにやりと笑った。
「実はこの娘は、私の作ったからくりなのだ。だが、我が技術の粋を集めて着物の下の凹凸まで実際の女性と同じような構造になっている」
右京は皆をぐるりと見渡した。
国元を離れやもめ暮らしを余儀なくされている藩士達の視線はお江戸2号に釘付けである。
「そして、お前らが1本取るごとに……」
右京の次の言葉を待つ人々は、思わず息を止める。
「この娘は一枚ずつ着物を脱いでいくのだ」
うおおおお、っ。道場が揺らぐほどの歓声を上がった。ただ一人、左内は道場の隅で頭を抱える。
「そ、それで、も、もし、脱ぐものがなくなれば」
興奮した熊衛門が叫ぶ。
「それはお前達が実際に試みてみればよかろう。ひとつ言っておく、私の技術の粋を凝らして細部まで詳細に再現してあるとな」
煽る右京の言葉に、どんよりとしていた藩士達の目が、急にかっと見開かれた。稽古場の冷気を一瞬にして吹き飛ばすほど、むんむんとした熱気が一群から立ち上る。
「なあに、裸を見たとて、たかがからくりだ。ご内儀に遠慮もいらん。まあ、この秘密特訓のことを他言する阿呆はおらぬと思うが」
右京は楽しくてたまらないといった微笑みを浮かべ娘の背中を押した。
「さあ、お色気剣術指南お江戸2号、お前の腕を見せてやれ」
2号は頬を染め、恥ずかしそうにうなずいた。切れ長の目がちらりと熊衛門のほうを見る。
「うっ」
モロに好みらしい。生唾を飲み込んだ後、熊衛門は礼をするとそそくさと竹刀を構えた。
「手加減は、いたさん。いざ……」
どさっ。
最後まで言わさぬうちに娘の腕が一閃し、熊衛門の巨体が音を立てて崩れ落ちた。
「1本。2号殿の勝ち」
しこたま脳天を打ち抜かれ、白目をむいて倒れている熊衛門を見下ろして左内は冷たく宣言した。
「次はわしじゃあ」
見ると竹刀を抱えて次々と藩士たちが列を作っている。ぎらぎらとした目は、なんだか剣術が求める境地とは別物の気がするが……。左内は一抹の不安を抱えながら次の試合を見守った。
「いざっ」竹刀で足を払われて頭からひっくり返る。
「覚悟じゃ」胴を払われ、道場の隅に吹っ飛ぶ。
皆、ばたばたとあっけなくやられていく。
ったく、どいつもこいつもふがいない。左内が首をふった時、欲望の塊と化した藩士たちから大きな歓声が上がった。見ると藩士の一人、細葉竹之進が何とか1本をかすめ取ったらしい。
「参りました」
頬をほんのりと染めか細い声で2号がつぶやくと、襷の結び目を細い指で握った。次の瞬間はらりと足元に落ちる白い襷。ごくっ。若い竹之進の頬が見る間に紅潮し、のど仏が大きく動くのが見える。
うおおおおおっ。まるで鬼の首を取ったかのような藩士たちの大騒ぎである。
「な、情けない」左内は額に手を当てて呟いた。
「いざ、お相手お願いいたしまする」2号は可愛らしい声で叫ぶと竹刀を構えた。
襷だけかよっ。不満の声もあがるが、竹之進の成功で次はわれもという熱気がいや増している。
次の立ちあいで、竹之進は道場の壁を突き破って消えて行った。
彼の成功を最後として誰一人、彼女から1本を奪えない。
「本当に勝てるのか。右京殿」
熊衛門が血走った目で右京に詰め寄った。
「わざと人間離れした設定にしているのではあるまいな」
「そりゃ、少しは強くしているが……」
右京は助けを求めるように左内のほうを向いた。
「わかった、私がお手合わせいたそう」
左内は静かに竹刀を手に取った。
達人の出現に、ざわめいていた道場内が邪な期待で静まり返る。
お江戸2号に左内の鋭い視線が向けられた。
対峙しながら二人はゆっくりとにじり寄る。静かな道場の中、目だった動きは無く小刻みに揺れるお互いの竹刀が当たって、時折コン、コンと音が響くのみ。それはまるで波動を出して隙を探りあう、心理戦の様相。
お江戸2号も今回の相手の力量がわかっているのだろう、簡単に打ち掛かろうとはしない。
それどころか、一筋の汗の粒が胸元にすうっと垂れ、滑らかな曲線を描いて流れ落ちてゆく。
「御家老様、がんばれーーっ」
まるで合唱のような声援。これほどまでの心の結集は今まで見たことが無い、藩士たちの恥も外聞も無い、はちきれんばかりの期待を背に感じながら左内は慎重に相手の隙を窺った。
左内の竹刀の先が緩急をつけて円弧を描き出す。その先端がわずかな時間止まった時、左内の隙を感知した2号の竹刀が動いた
しかし、左内の竹刀はそれを見越していたかのように滑らかな動きで少女の右小手を叩きのめす。
カラン。
道場に転がる竹刀。
眉間に皺を寄せて、右ひじを押さえながらうずくまるお江戸2号。
「す、すまぬ、やりすぎた」
慌てて駆け寄った左内は2号の肘に手をやる。
大丈夫とばかり立ち上がった2号は、そのままうっとりと左内の胸に頬を寄せた。
「参りました、見事な一撃に我が心も撃ち抜かれました。これは2本に値する美技」
言葉とともに、なぜか自動的に襷の紐が解ける。
「やったあああ、さすが御家老様あああっ。もう1本! もう1本!」
歓声とともにするりと袴が足元に落ちた。胴着の下からすべすべの艶めかしい足が覗いている。
「い、いやん。は、恥ずかしいっ」
胴着を引っ張って前かがみになった瞬間、襟の間から左内の視界に白い胸の頂点がちらり……。
その日の修練は鼻血を出して左内が倒れたため、一旦終了となった。
障子を揺るがすほどの激しい打ち合いの音が、道場の方から響いてくる。
「まあ、動機は不純だが、結果的には良い方向と言える」
藩主の奥方から送られた病気平癒のための紫の紐を頭に巻いた左内が、血色の戻った顔で微笑む。毎食滋味あふれる料理を差し向けられる奥方様の気遣いのおかげか、彼の身体の調子は格段に良くなってきていた。
「そろそろ殿のところにも稽古に出向かねばならぬな」
曽根美濃藩との試合はついに4日後に迫っている。殿は練習嫌いの怠け者のため剣術はお好きではないが、勘は悪くない。藩士の頑張りを見せ、少し稽古を頑張ってもらえばすぐに上達すると左内はふんでいる。だらだら毎日やるよりも、集中して3日もやれば、隣の蚊トンボのような藩主ぐらいすぐ勝てるようになるだろう。
「ところで、なぜ2号なのだ?」
左内はかねてから思っていた疑問を、傍らで菓子をむさぼっている右京に尋ねた。
「1号を先に作っていたのだが、ちょっと要求された回路の設置に手間取ってな、2号の方が先にできてしまったんだ」
「は?」
左内が口に運びかけた湯呑を止める。
「だ、誰にっ」
「決まっているだろう。噂を聞き付けた殿にだ」
「何を要求されたんだ……」
「色魔回路」
湯呑を放り投げて、左内は殿の居室に駆けだした。