第一話
「ありがとうございました」
背中に声を浴びながら、自動ドアを抜ける。元気な声に背中を押され、家路に着く。
残念なお兄様こと織田皇眞は身悶えする。
声も可愛いなんて、最高。萌える。萌え萌え〜ん♪
脳内で「いらっしゃいませ」の笑顔を再生する。歯並びを崩した八重歯がチャーミングなスマイルだった。
コンビニ店員の魅力溢れる笑顔に、オウマは思わず余計なモノを買いそうになった。
ふうー。危ねえ、危ねえ。危うくアイス買ったのに、からあげ棒頼みそうになったぜ。
引っ越しの開封も落ち着いたので、たまたま買い出しに来た二十四時間営業小売店。
そこであんな可愛い子に会えるとは、ツイている。会計時に思わず見とれ、もうちょっと見ていたいために、危うくレジ前のホットフードを頼みそうになったぐらいだ。買い出しの品がアイスでなければ、確実に買っていた。それぐらい、まだ見ていたかった。
自宅近くにコンビニに可愛い店員さんがいる。
それだけでオウマは、叫びたくなった。
この街が大好きじゃー!! ラブ、ラブ、愛してる。
この街に引っ越してきて一日も立たず、オウマはそう断言する。可愛い子がいるだけで、価値がある。可愛いは大正義、大勝利、最優先なのだ。
あまりに見とれ、名札チェックさえ忘れてしまった。まあ良い。文字データに意味はない。容姿データが重要だ。年齢は同じぐらいか、化粧っ気もなかった。カレンダーを思い出す。今日は何曜日の今は何時か。コンビニのアルバイトはシフト制だ。
時間は夜の十時を回っている。高校生はシフトではこの時間には入れない。労働基準法上十八歳未満の未成年は夜の九時以降は働けないはず。例外でよくあるパターンは、親がコンビニを経営しているその手伝いだ。親孝行娘なら、さらに萌える。明日から毎日この時間に通おう。この切っ掛け(チャンス)は逃さない。女神の前髪を掴む野心が萌える、いや燃え上がる。
何て良い街なんだ。引っ越してきて良かった。
上機嫌の勢いでアイスを取り出す。コンビニ袋のまま頭上に掲げる。包装を破り、付いた棒でソーダの塊を引き出す。袋の摩擦に削れた氷を額と首筋にかける。微少な冷たさが肌を跳ねる。
うひょ〜冷てえー!!
そのままアイスを一かじり。零度以下の温度に唇が麻痺し、頭が締め付けられる。キーンとした衝撃に顔をクシャクシャにしかめる。顔面の筋肉の収縮に、テンションが上がる。
女の子カワカワ、アイス美味美味、この街サイコーでーす。
ウキウキした足取りで家路を歩く。交差点を曲がり、高架下に入る。頭上を新幹線がシュゴーっと通り過ぎる。確かここから信号を二つほど越して左折だったような。引っ越したばかりの新居までは十五分ぐらいだったような気がする。コンビニを探して歩いていたので、正確な時間は覚えていない。感覚的には三十分はかからず、十分以内ではなかった。間を取って二十分ぐらいか。今日は天気の良い引っ越し日よりで、夜風もなく寒くない。アイスを食べながら歩いて丁度良いぐらいだ。
オウマは歩道を歩いている。その横の車道を車が通り過ぎる。先の信号前で、赤いテールランプが光り、車が歩道に寄る。街灯にスポーツカーのシルエットが浮かび上がり、赤く鈍く光る。停止した車の助手席のドアが開き、人影が飛び出して来た。
「もう、良い加減にしなさい!!」
怒りの声をぶつけるように、ドアを勢いよく閉める。怒気を発した女は、車に背中を向け歩き出す。
街灯一つない田舎の星空の夜道、そこでオウマの夜目は鍛えられている。薄暗がりなど物ともせず、こちらに向かってくるようにハイヒールを鳴らす女を、正確に捉える。
「ちょっと待てよ」
女を追って、今度は運転席から男が飛び出てくる。慌てたのか、急いだのか、車のエンジンはかけたまま、ドアも閉めず女を追ってくる。声の調子には女以上に怒気が籠もっていた。
慌てたのでも急いだのでもない。激情に頭に血が昇っているようだった。ツカツカ歩く女を、男は素早く捕まえる。その腕を掴む。
「待てよ」
「放しなさい」
「話は終わってねえよ」
女は振り向きざま、ビンタを放つ。それを男は易々と片手で受け止める。もう片方の手は女の腕を掴んだままだ。
「良いから大人しく付いて来いよ」
「放しなさい。自分で帰ります」
女と男が睨み合う。
目の前で女と男が痴話喧嘩を始める。オウマはアイスを一つかじり、女の後ろ姿を観察する。長いヒールの足下から、ウェーブの軽くかかった頭の天辺まで、通常以上の視力が女の背面を捉える。
肩胛骨下までの長い髪に、子宮上のくびれた腰回り(ウエスト)。ハイヒールなど必要ないくらいの長い脚。キュッと引き締まったお尻は、つんと上を向いている。パーティー帰りか、ボディラインを強調したぴっちりサイズのノースリーブドレスに、肩にストールを羽織っている。肩幅の小ささから胸の大きさは期待できないが、腰とお尻と脚は絶品だ。長い髪の緩やかな曲線も、女性特有の柔らかさを強調して、実に良い。
後ろ姿美人は確定。後背位は最高。それだけでオウマには十分だった。残ったアイスを一気にかじり、慌てて食べ尽くす。首に落ちたソーダの欠片を気にしている場合ではない。
揉め事に巻き込まれる危険性よりも、後ろ姿美人に関われる縁とゆかりを優先。アイスの棒を咥えながら、オウマは器用に喋った。
「やめなよ。彼女が嫌がっているじゃないか」
止めていた足を運ぶ。女と男に近づいていく。
声をかけられた事に、まず女がオウマに振り向き、男がオウマを視界に捉える。認識されたところで、距離を詰めながら、もう一度痴話喧嘩に割って入る。
「やめなよ。彼女が嫌がっているじゃないか」
どこからともなく漂う香りがオウマの鼻をつく。女の香水のようだ。鼻の穴を広げながらオウマは一人ごちる。
匂いも最高。こちらに驚いた顔も綺麗。美人さんじゃあ、ありがたや、ありがたや。
心の中で手を合わせる。
「あ(あに濁点)ー、てめえには関係ねえだろうが!!」
男がオウマに向かって凄む。怒気にオウマの顔肌がヒリつく。暴力的な風が顔面を打つ。
それでも、良い匂いに釣られたオウマの足取りは止まらない。女と男にどんどん近付いていく。
オウマに男の気が取られた隙に、女は捕まれた腕をふりほどく。そのままオウマの背中へと回る。
「助けてくれるの? ありがとう」
回った際に、女の小声が耳に届く。背中に、指先に触れられた感触を覚える。細く長い、白魚のような指先だ。その弾力に、オウマはこのまま盾に突き飛ばされても本望だ、と心底思った。
「邪魔すんな、どけよ」
言うなり、いや言い終えるより早く、男は顔面パンチを放ってきた。
うひょー、すげえ。
その男の躊躇のなさと思い切りの良さに、オウマは内心ワクワクしながら、その右ストレートをかい潜った。左ジャブでの隠し(ブラインド)も無しの、遠くからになる逆突き。動作も大きくなり、見切りやすい予備動作がテレフォン・アクション(予備動作または動作自体が大きすぎるため、相手に予知・予見されやすい動作のこと。相手からみれば電話の予告ベルのように先読みできるので、それを揶揄しテレフォンと呼ばれている)だ。搔い潜る(ダッキング)のは容易かった。
男のパンチの切れがオウマの頭頂の髪を二、三本ちぎり飛ばす。オウマは男の懐に飛び込んだ。攻撃するつもりはない。アイスを食ったばかりで、ぶっ飛ばす気にもなれない。そこまで憎くはなれない。なので顔面を相手に近づける。オウマと男の鼻先が触れそうになる。男性同士の顔面が超接近し、零距離に近づく。
男色の趣味のない男は、思わず顔を引いてしまう。上体ごと嫌悪感に仰け反らせる。
オウマは男の突き出た胸に左手で触れる。手のひらをべたりと密着させる。そこからは簡単だった。
男は距離を取ろうと動く。それに合わせてオウマも動く。二人の距離は変わらなかった。
なんだ、コイツは?
距離が取れない。スペースが空けられない。自分の間合いに入れない。前にも後ろに左にも右にも付いてくる。ならばフェイントだ。
左に行くと見せかけて右。右に行くと見せかけて後ろ。右の二段、前後ろ前、右見せかけ左右二段。すべて付いてくる。男の華麗とも言えるステップワークに、オウマは癒着したかのように付随する。
中国武術における武技の一つ、聴勁である。
相手に触れることで、そこから気配を察知し、先を取る。予知・予見系の武技である。
男の動きをまるで先取りしたかのようにオウマは動き、二人の距離を一定に保つ。
触れる距離は男の有効射程距離ではないようだった。フットワークのスピードを上げて、オウマを振り切ろうとする。
だが、振り切れない。自分の意志でも読み取っているのか、脳のシナプスの微弱な電流を受信でもしているのか、一向に引き離す気配が出て来なかった。
男は元々の気性からか、業を煮やした。足首の結びの甘い革靴ゆえか、自己ベスト以上の無理な速度でのスピードゆえか、機動中にバランスを崩してしまう。上体が傾き、背骨が崩れ、片足に体重が寄っている。オウマは触れていた手で男の胸をポンと軽く押した。それだけで、男は後ろに尻餅をついてしまう。
男は自分に何が起こっているのか、分からなかった。自分がアスファルトに座り込んで、アイスの棒?を加えた乱入者を見上げている。スリップダウンさせられた? 理解と同時、腸が煮えくり返る。M字開脚のような、尻タップのような無様な自分の姿。醜態に羞恥を飛び越え、怒りが突き抜ける。自分をこんな無様な目に遭わせたの誰だ?
そう、目の前のコイツだ。それだけで男には十分だった。コロす、コロす、コロす。
血走った目で立ち上がる。破壊衝動が男の能力を飛躍的に向上させる。全身に血が駆け巡る。
「こらソコ! 何やっとるか!!」
赤いランプが男とオウマと女の顔を打つ。停車中のスポーツカーの後方、車道の奥から赤いパトランプを回しながら、一台の車が近付いてくる。さっきの声は拡声器からの、かすれた声。警邏中のパトカーだった。
捕まる訳にはいかない、職務質問さえ許されない。
オウマに突進しようとしていた男は、それを諦める。オウマを睨みつけ、走る。
素早い動きで車へと到達。車の屋根を転がり向いの運転席へとたどり着く。もう一度だけ、車の左側面の窓から、オウマの顔を確認。その後、エンジンをかけたままの車を急発信させる。
信号は幸いにも青だった。マフラーからスポーツカー特有の唸る爆音をまき散らしながら、数秒で視界から消えていく。男は終始無言だった。捨て台詞など吐かない。ただオウマの顔を凝視し、その脳裏に焼き付けた。次に会ったときは、すり潰す。潰して捨てる。それだけをハンドルを握りながら、誓う。
「えー、そこの二人、止まってなさい」
パトカーは急加速しなかった。スポーツカーを追うのを残念したか、車を減速させながら、オウマと女に近付いてくる。
引っ越し初日から警察の厄介はマズい。アイツにすり潰される。
ここにきて初めて、オウマの顔が歪む。女を見る。
女は観念でもしたのか、腹でも座っているのか、警察にも慣れているのか、乱れた髪を手ぐしで直している。逃げるそぶりは無い。そもそもあのハイヒールの長さでは走れない。美脚観賞用の装飾靴でしかない。その判断は賢明だった。
だがオウマには逃げる必要があった。アイツにすり潰されて今度こそ、捨てられる。警察からの連絡を受け、身元引受人として警察署に迎えにくる姿がありありと想像できる。その後の惨劇もしかり。
逃げるしかない。この場は即時撤退だ。
決断するなり、オウマの動きは早かった。女の膝に手を入れ、持ち上げる。女の上体が横に流れるのを脇に手を入れ支える。
バランスを失った女は思わず、しがみつく。両手を回し、オウマの首をホールドする。強制お姫様だっこが一瞬で出来上がる。
「逃げるぞ」
女の返答を待たず、オウマは走り出す。左右を確認しながら、赤信号を無視する。幸い、車はいなかった。
「こら、待ちなさい」
その声を背に浴びながら、路地へと入る。パトカーの追いかけてくる気配があった。路地から路地を抜ける。車一台が通れるか通れないかの狭いの路地を、選んで走る。相手がスーパーカブでなくて良かった。路地の逃走劇でアイツ等は無敵のハンターだ。逃げ切れない。今日の幸運に感謝する。
一体どれくらい走ったのだろうか、気が付けば小さな公園にいた。見上げると横に引っ越してきたマンションも見える。パトカーの気配も無い。
良かった。助かった。
安心すると、どっと疲れが出てきた。息も切れる。汗が噴き出しそうだ。
「もう大丈夫よ。安心して」
腕の中で女が囁く。降ろそうとした途端、女の制止が入る。
「待って。貴方、勇敢ね」
女は回した腕に力を入れ、顔を近づける。
「助けてくれて、ありがとう」
オウマの首筋に青く溶けたソーダの跡に、唇を触れる。
それだけでオウマの背筋に電流が走った。
女の瞳が怪しく濡れ始める。
「惚れちゃいそうだわ」
女はソーダ跡を唇の間から舌を出し、ぺろりと舐める。
それだけでオウマの背骨に雷撃が走った。
ソーダの炭酸と甘みと汗のしょっぱさと体温の生ぬるさが、女に肉感的喜びを与える。
女はオウマが加えていたアイスの棒を奪い取る。頬を近づけ、自分の頬をオウマにマーキングするように擦り付ける。ほおずりする。
それだけでオウマの全身全霊に神の雷が落ちた。
我知らず、お姫様だっこの形のまま、女をマンションに案内していた。
翌朝。
じゅー。
フライパンの上で、卵の白身が油に震える。白い身の名のとおり、透明度を失いながら、白く染まっていく。
なんで人は戦争なんかするのだろう? こんなにも世界は平穏で美しいと言うのに。
黄身がじわじわと焼けていく。その増していく黄色さえ、今のオウマには輝いて見えていた。
人類には戦う理由も、争う訳も全く無い。ただ生きてさえ、いればいいのに。
じゅー。
フライパンを握りながら、オウマは目玉焼きを見つめていた。
オウマの肩に不意に女の顔が乗ってくる。白魚だ。
「ダメよ、ダーメ。私、半熟が好きなの」
背中に弾力ある感触がボインと伝わってくる。後ろから回された手が、焜炉の火を止める。両面焼き(ターンオーバー)に裏返そうとフライ返しを持った手を、逆の手が包み込んで止める。細長い指が冷たくて気持ちいい。
ちゅ。
オウマの首筋に昨夜のように電流が走る。脊髄を通ったそれが、身体を強張らせる。後ろから抱きついたシャツ一枚の女が、唇で触れたのだ。
嬉しさにゾワゾワしながら、オウマは顔だけを振り返らせる。下半身がムクムクしてきた。世界平和など、どうでも良くなった。
自分に振り向いたオウマの唇に、女は目を細めた。瞳を濡らし薄く口角を上げた。
女は昨夜なりゆきで、オウマの部屋に泊まった。昨晩はお楽しみでしたな、かどうかは神のみぞ知る。
トランクス一丁にエプロン姿のオウマと、オウマのシャツをルーズにまとった女が見つめ合う。女も下はショーツ一枚だった。上はノーブラでないと眠れないとのことだった。
オウマが顔を寄せる。その唇を女は人差し指で押し止める。
「ダーメ、ダメよ。一度眠ったぐらいで、いい気にならないで」
言葉こそ拒絶だが、女はオウマの唇に触れた指先を自分のそれに重ねる。
その駆け引き、焦らしにオウマの背骨に雷撃が走る。
女の胸元もルーズで、身長差のあるオウマからは、その谷間はもちろんのこと、それ以上も覗けそうだ。
ごくりんこ。
思わず、生唾を飲み込んでしまう。女の素肌の輝きに目を釘付けにされてしまう。
「ダメよ、ダメダメ。一回同衾したからって、貴方もモノにはならないから」
オウマの全身全霊に神の雷が落ちる。そのガードを真正面から突き破りたくなってきた。
ムッハー、興奮してきた。もう我慢できない!!
体を向かせ、女の両肩を掴もうとした。
その時、背後から乱暴な声が届く。ダイニングルームに、どかどかと不躾な乱入者が土足で上がり込んで来る。
「ちょっと、お兄ちゃん。シャワー浴びるなら、温度設定戻しといてよ。四十七度って何よ。妹を蒸し殺す気!?」
ダイニングキッチンに、オウマの妹が乱暴に入ってくる。最強の妹こと織田優弥である。
ユウヤは頭を、わしわしバスタオルで拭きながら、二人の世界に乱入してきた。二人の世界と時間は唐突に終わった、突然失われた。
ガッデム。下半身のムクムクも肉親の登場にキレイに消え去っている。女もいつの間にか離れている。チャンスの前髪は手からこぼれ落ちた。あーあ。やる気しねえ。こんな世界滅びてしまえ。
女はユウヤに顔を向ける。
「あらら、妹さん? おはよう」
聞き覚えのない声に顔を上げたユウヤと、女の目が合う。
「あっ」
お察しタイム。パパッと髪をバスタオルでまとめあげ、ピンと背筋を伸ばして顎を引く。バスローブ代わりのタオル地のワンピースの裾を掴んで、しなを作る。
「ごきげんよう。お兄様のご学友の方ですか?」
ユウヤは得意の外面モードを発動させた。フライパンから卵焼きを皿に移しながら、兄は突っ込む。
「もう遅せえよ。手遅れだ、諦めな」
パンツ一丁にエプロン姿の兄は、オーブンからパンを取り出し、冷蔵庫のミルクを注ぐ。コーヒーメーカーはまだダンボールの中だ。女と妹に席を勧めた後、自分も席に着く。
「いただきます」パンツエプロンのオウマが手を合わせ、
「いただきます」ターバンタオル+タオル時ワンピースのユウヤが続いて手を合わせ、
「頂きます」ショーツシャツ一枚の女が、最後に手を合わせた。
朝食を始める。三人は噛んで、千切って、噛り付いて、切って、箸で割って、喉を鳴らして、一口含んで、飲んで栄養を摂る。黙々とエネルギーを蓄えていく。それぞれがそれぞれの思惑を内心に呟きながら。
この女、名前なんつったかな。エリカ? エリナ? エナ? 頭にエが付いてたのは確かなんだがな。うーん。思い出せねえ。そもそも聞いたかな。痛っ!!
兄の隣に座る女を見て、妹は足が偶然当たった体で、テーブルの下で思いっきり、兄の脛を蹴り付けた。足指をキレイに折り曲げ、拳を作って打撃した。表情は柔やかなままで。
油断した。引っ越しで疲れて早くに寝たのが失敗だった。まさか引っ越し初日に女性を連れ込むとは夢にも思わなかった。自分のうかつさに腹が立つ。そう、こいつは残念なお兄様だ。その名に恥じない残念な奴なのだ。それをすっかり忘れていた。言い訳だが、引っ越しの理由はコイツなのだ。流石に懲りて自重していると思っていたが、それは勝手な思い込み、希望的観測だった。自分の思慮の無さに、柔らかな笑みのまま、奥歯をギリギリ噛みしめる。
なんなのよ、この女は。引越し当日からどうやったら新居に、連れ込めんのよ。着てるのも今日のためにアイロン当てたお兄ちゃんのシャツだし。どうして引っ越さなきゃならなくなったのか? 全然懲りてないじゃないの!!
妹の重い蹴りに、兄は表情で答える。長年暮らしてきた間柄だ。言葉にせずとも、表情だけで意心伝心が、この兄妹には可能だった。
あれは、そもそもお前の変質的信者が問題で。
お客様の前だ。妹は口元の笑みは絶やさないまま、蹴りと目の色で兄に言葉を返す。
ストーカーを撃退するのに、なんでそのお母さんと仲良くなってんのよ。はあ? ストーカーをワタシの義理の甥にしたい訳?
男女の仲なんて、たまたまだって。お前も大人になったら分かるよ。
年子のくせに何言ってんだか。五年生までは私の方が大きかったんだから。
悪いが今は、それから四年後だ。
ゲシ! ゲシ! ゲシ!
痛っ! 痛っ! 痛っ!
テーブルの下で、白鳥の水面下よろしく妹の蹴りが兄に炸裂している。
テーブルの上の優雅な世界の女は、パンを手で一口分ちぎり、口に入れる。
口の中に広がる柔らかさと、鼻に抜ける小麦の香りに、思わず言葉が漏れる。
「あらら、このパン美味しい。どこで売っているのかしら?」
顔に手を当て美味しさに震えるお客様に対し、兄は嬉しそうに答える。作ったのは自分ではないが、作った本人を知っているだけに、自分のことのように顔をほころばせた。
「仲の良かった友達のお母さんが、餞別にもたせてくれたモノだから非売品なんだ。余っているから、少し分けてあげようか?」
オウマの申し出に女は白魚の手をかざして、好意を辞退する。
「遠慮しておくわ。美味しいけど、そんな大切なパンなら貴方が食べるべきよ」
兄と女が見つめ合う。二人の爽やかな温かい空間を横目に、妹はコーヒーを飲んでいた。
仲の良かった友達のお母さん? 正しくは、仲の良かった友達であるお母さんが正解ね。日本語って言いえて妙。
三人は朝食を食べ終える。一番先に食べ終えたのは以外にも女だった。手を合わせ、命に感謝する。
「ごちそうさま。美味しかったわ」
白く細い指先が、ガラス瓶に立て入れされていたナプキンを一枚挟んで取る。
口を吹いた後、キレイに畳んで皿に置いて立ち上がる。
「そろそろ行くわね。楽しかったわ。ありがとう」
遅れて食べ終わったオウマが、女の皿に手を伸ばし、合わせて立ち上がる。
「オレもだよ」
女はそこであることに気付く。軽く笑って指摘する。
「ジャムが付いてるわ。子どもみたいね」
自分の皿も持ったオウマの両手は塞がっている。女が指を伸ばす。
オウマの口元についたジャムを、女は指先でなぞり取る。女は兄を見ずに、妹をチラリと見て、それを口に咥える。
貴方のお兄様は私が奪った。
女同士の敵対心が垣間見える。
あえてユウヤはそれを無視した。気付かないフリをした。コーヒーの残りを一気にあおる。
女はダイニングから廊下へと消える。おそらく着替えにオウマの自室に戻ったのだろう。
果たして昨夜オウマの自室で何が起こったのだろうか? 引っ越しの開封やら、最低限の生活必需品の買い出しやら、明日の入学式の準備やら何やらで、疲れて早めに眠ってしまったのが悪かったのか? いや違う。すべて兄貴が悪い。
オウマは三人分の食器を片づけ、洗い物をしている。今までは交代制だったが、引っ越しする羽目になった罰として向こう半年間は、炊事、洗濯、掃除などの家事はオウマの担当となっていた。
パンツ一枚にエプロン姿で、鼻歌交じりに洗い物をする兄をどうしてやろうか? その機嫌の良さが怒りの火に油を注ぐ。
気が付いたら蹴っていた。背後からユウヤの上段回し蹴り(ハイ・キック)がオウマを襲う。左足が弧を描いて、オウマの左側頭部へと襲いかかる。
オウマはお皿をすすぎながら、左肩をひょいと上げる。空気を切り裂く鋭い蹴りを、目視無し(ノールック)で肩をすくめて、そこの筋肉で防御する。
バイ〜ン。
ゴムのような弾力のある筋肉が、鋭いハイキックを難なく跳ね返す。オウマは、何事も無かったかのように、すすいだお皿を水切り籠に収めていく。
双龍脚。
跳ね返された反動を利用して、逆のハイキックにつなげる。左右の二連続上段回し蹴り。二匹の龍がほぼ同時に襲いかかる瞬発系の蹴技だ。
「ピイロロローン、ピイロロローン、ピイロロピロピロピロリロリン。ピイロロローン、ピイロロローン、ピイロロピロピロピロリロリン。洗濯が終わりました。洗濯が終わりました」
遠くから電子音と電子音声が聞こえてくる。バスルームの洗濯機の終了音だ。
オウマは二匹目の龍をしゃかんで交わす。皿洗いは終わった。次は洗濯干しだ。そのままバスルームへと向かう。
ユウヤはその背中に横突き蹴り(サイド・キック)を放とうとする。それをオウマは背中を向けたまま言葉で制する。
「おいおい、ユウヤ。風呂上がりで足を大股に広げるなよ。はしたねえし、具が見えてんぞ」
その指摘にユウヤは蹴りを引っ込める。下着をつけていないことを忘れていた。素早くワンピースの裾を押さえるも、恥ずかしさに顔が真っ赤に染まっていく。
「お兄、見たの?」
頬を赤く染めながら、潤んだ瞳でオウマを見上げる。目に涙が浮かぶ。
オウマは顔だけを振り向かせ、手をヒラヒラさせながら答える。
「うん、見た見た。小学校三年生まではバッチシ見てた。お前も俺の、見てたろ?」
ユウヤは思い出し、さらに顔の赤さを増していく。その言葉通り、兄妹は小学校三年生までは一緒にお風呂に入っていた。性の差異を知らなかった頃だ。お互いの股間の違いが不思議で、お互いに観察したことがある。よく分からないまま、お医者さんゴッコをしたこともある。
思春期の妹に、その過去話は少々恥ずかしかった。性の差異を意識しすぎてしまう年頃なのだ。
羞恥に沈黙してしまった妹に、兄は助け船を出す。
「お前も早く用意しねえと遅刻すんぞ。俺は洗濯物を干すから、悪いがそこの皿片しといてくれねえか? 頼むよ、なっ。この通り」
オウマは体を振り向かせ、両手を合わせて頭を下げる。口角の上がった口元には白い歯とえくぼが浮かべ、片目は閉じられ、片目は上目遣いでユウヤを捉えている。
ユウヤはこの兄の甘えた笑顔が大好きだった。パグ犬の首の皺皺感のように、クシャクシャなまでに顔を歪めた顔が大好物だった。胸がキュンキュンしてしまう。
「そ、そこまで言うなら、べ、別にいいけど。ホ、ホントは兄貴の仕事なんだからね」
高まった胸の鼓動を抑える妹に、兄はとどめを刺す。
「良かったあ、ありがとう。ユウヤ愛してるぜ」
兄は拳を握った勝利姿勢を取り、破顔する。
その屈託のない、無邪気な笑みに、ユウヤの胸はバクバクしてしまう。
「それじゃ頼んだぜ」
兄はそう言うなり、廊下へと消えていった。廊下とダイニングの間の扉が閉まる。
ユウヤ愛してるぜ、愛してるぜ、愛してるぜ。
愛の告白が、脳内で繰り返し再生される。人目がなくなったところで、妹は遠慮なく身悶える。両手を熱くなった頬に当て、身体を左右に揺らして捩る。
どうしましょう? どうしましょう? どうしましょう? そんな、まだ、心の準備が。
目も口も嬉しそうだ。性に敏感なお年頃は、それ以上を想像し、耳まで真っ赤に染めてしまう。
やーん、やーん、やーん。あんなことや、こんなことや、あんなこと。ダメだよ、兄貴。私達まだ高校生なんだよ。デュヘヘヘヘヘヘ。
涎を垂らす自分に気付いたユウヤは、ワンピースの胸元でそれを拭う。そうだ、妄想に浸っている時間は無い。早く用意しないと。
まずは食器の片づけだ。カウンターキッチンの上に重ねられた食器が目に入る。今使って洗った食器に追い出された、昨日洗って水切り籠に置いていた皿達だ。オウマがカウンターキッチンに重ねて置いていたのである。
食器棚は、カウンターキッチンの先の壁際に接地してある。乾拭きされたそれを、素早く片付けていく。
ふと兄の使ったマグカップが目に入る。
昨日買い出しで二人で選んだお揃いの品だ。白い陶器に、草花の装飾が入っている。自分のは大きさも丁度で可愛く、兄のは自分のより二周りも大きいのでゴツゴツしたフォルムが可愛い。
サイズは兄が直ぐに気に入った。北欧からの輸入物らしく、値段もそれなりなので、そこからが楽しかった。
デザインが多かったので、こっちはここの絵柄が小さすぎ、こっちは色が薄すぎるなど、二人であーだこーだ言いながら選んだ品だ。
兄は色々言っていたが、最終的には私に決めさせてくれた。
(もう何でもいい。疲れた。早く帰りたい)
会計の時に、少し離れて私は小物を見ていた。店員さんが兄に小声で、
「可愛い彼女さんですね。お幸せに」
と囁いていた。兄の背中は、はにかんだ表情を見せていた。
(違げーし、妹だし。早く帰りたいので、ここは曖昧な表情でやり過ごす。会話は膨らまさない。でも、この店員さん、八重歯が可愛いなあ)
兄のマグカップを最後に手に取る。他の食器は片付け終わっている。前後左右と手で弄ぶ。自分の思い付きに、ユウヤは慌てて否定する。
ダメよ、いけないわ。そんなこと。変態的じゃないの。
マグカップの淵に喉を慣らす。生唾をゴクリと飲み込んでしまう。この乾きは触れることでしか満たされそうになかった。
でも、ちょっとだけ。店員さんもお幸せにって言ってくれたし、兄も否定しなかったし。そう、スキンシップ。スキンシップよ、これは。決して変態的な行為じゃないわ。
兄のマグカップを妹は口に近付けていく。兄は両手利きなのか、その日の気分次第で左右どちらの手でコップを握るのか決める。今日は左手だった。マグカップを左に向ける。
兄の唇が触れたところ。
妹にはそこが輝いて見えた。ゆっくりゆっくりと自分の唇に近付けていく。
いけない行為をしているような。兄と妹ゆえの背徳感。その後ろめたさが、怖いもの見たさで背中を押す。カップの淵が間近に迫る。あと少し。
「おっ、帰るのか?」
ドア向こうから兄の声が聞こえてくる。ユウヤは慌ててマグカップを食器棚に納める。何事もなかったかのように、素早く食器棚から離れ、テーブルに思わず座っていた。
恥ずかしさによる奇行だった。ちょこんと椅子に腰掛けた妹の耳に、話し声が聞こえてくる。
「楽しかったわ、ありがとう」
ちゅ。
「ダーメ。車がもう来てるの」
「玄関まで送っていくよ」
「うふふ、その格好で」
靴を履く音。
「じゃあね、バイバイ」
「ああ」
「連絡先を聞かないのね。私、そういう一度寝た女とは寝ない男、好きよ」
ちゅ。
バタン。扉が閉まる音。
グギギギギ。奥歯が唸る。コロす。コロす。コロす。
「ユウヤ、洗濯物干すのも手伝ってくれ」
見送りを終えたオウマが、洗濯籠を両手で持ちながら、ダイニングルームに入ってくる。
ユウヤは椅子から立ち上がるなり、対面のベランダへと続く窓をロープ代わりに跳ね返って助走をつける。
「お兄ちゃんの、バカー!!」
宙を飛んだ妹の高高度の両足突き飛ばし蹴り(ドロップ・キック)が、ミサイルよろしく兄の胸元に炸裂する。
ドッゴーン、ゴロゴロゴロゴロゴロ、ドン、キュー。
兄は派手に吹き飛び、廊下を転がって、玄関の扉へとブチ当たる。背中と後頭部を強かに打ち付け、そのまま崩れ落ちる。
妹はその場に残った洗濯籠を手に取る。ベランダへと向かい、洗濯物干しを開始する。
お兄ちゃんの、バカ馬鹿ばか。
兄のトランクスをパンパンと伸ばして、干し台の棒に引っかけていく。
何のかんので手伝ってしまう、兄思いの妹であった。
国都立第壱学園。
首都建設と同時に設立された、創立百二十五年を迎える学校法人。その目的は、首府を永続的に発展、発達させる優秀な人材の育成にある。
学部は幼稚舎、初等部、中等部、高等部、大学、大学院、社会人向けの政治・経済塾が存在し、子どもから大人までの全期間を網羅した一貫教育機関である。
また所在地は、首都湾の人工島に置かれ、総敷地面積は縦二十粁、横三十キロメートルの六百万平方メートルを有しており、首都ドーム約一万三千個分となっている。生徒数も高等部だけで一万人近くに迫る、国内最大の巨大教育機関でもある。
さらには、首都一部上場企業のCEO(チーフ・エクゼクティブ・オフィサー(最高経営責任者))輩出数順位表、官僚・政治家の上級公僕輩出数ランキングにおいて、長年二冠を達成している、超名門教育期間でもある。
もっと蛇足なまでに付け加えれば、遠方映像音声放送や雑誌などの大衆伝達媒体に、出身者やその名前自体も頻出される、超有名教育期間でもある。
そんな広大な学園の、数ある学部の一つの高等部敷地内の、数ある中庭の一つの、数ある横長椅子形状腰掛け(ベンチ)の一つに、オウマは腰をかけていた。
手には学校案内の冊子を握っている。手遊びに丸めている。
「お兄様。私が、ご挨拶の後に入学手続きなどを済ませておきます。そこのベンチでお待ち下さいませ」
そう言って妹は去っていった。何でも入学試験の成績が最高位だったため、入学式で入学生代表挨拶を任されたらしい。その事前打ち合わせ、予行演習のため、妹の付き添いで兄も早めに、ここ第壱学園に足を踏み入れていた。
手にパンフレットだけが残っているのは、入学試験合格証明書と共に送られてきた書類一式から案内書以外を、妹が抜き取っていったからだ。
オウマは、丸めていたパンフを横に放り投げる。ベンチの背もたれに身体を預ける。両腕、両肩を背もたれの上に乗せ、首を後方に傾ける。空を見上げる。
今日は四月八日、月曜日。天気は降水確率ゼロパーセントの晴天だ。中庭には春の風が吹き、残った桜を舞い散らせている。絶好の入学式典日和と言えよう。
本日は、オウマとユウヤの入学式だ。兄妹ともに高等部一年生になる。
二人は年子である。
だが、兄のオウマが四月二日の最遅生まれで、妹のユウヤが一年遅れの四月一日の最早生まれなので、学年が一緒となっているのだ。
中庭に設置された時計を見る。式典まで後二時間もある。
青い芝生、生い茂る木々、舗装されたレンガ道。樹木の上には遠くに校舎群が見える。
広々した空間に、自然物の木の緑と土の赤が描かれ、それを下地に人工物の建物の白が点在している。のんびりするには極上の空間だ。朝の新鮮な空気と、小鳥の囀り(さえず)りに力が勝手に抜けていく。副交感神経優位の、休息には良い心拍が身体を包み込む。
だが、オウマには少々退屈だった。
人影が少ない、少なすぎる。ここに来るまで、二、三人しか、それも遠くにしか人影を見ていない。観察対象の分母が小さすぎる。見回す限り、今この中庭にいるのは、オウマ一人だった。
衆人の中に一人でいるのは孤独を感じるが、自然の中に一人でいても孤独は感じない。
そんな文豪の言葉もあるが、オウマは、そうは思わなかった。
自然は人など愛していない。正確には、特別になど愛してはいない。
自然に聞いたことは無いので、オウマは勝手に、そう思っている。
とにかく、オウマには人がいないのは退屈だった。そもそもオウマは、孤独自体を感じる繊細な神経を持ち合わせていなかった。
ひ〜まだ、暇だ、ヒマヒマだ。誰もいなくて暇麻痺だ。ふぁ〜ふぁ。
オウマは喉チンコをさらけ出す。大きな欠伸と共に、大きく伸びをする。春の陽気にベンチも温かい。気を抜けば眠ってしまいそうだ。
昨夜は目が覚めて眠れなかった。
睡眠不足も追い打ちをかける。時間潰しに回想を始める。
どうして、こうなったのか?
一季節前を思い出す。
あれは、ここから北方の寒い地域での出来事だった。
すべてはユウヤの外面のせいだった。
ユウヤは、良き理解者、良き相談役、良き人格者の、良き良き良き(ドラドラドラ)の人当たり三倍満として尊敬されていた。校内、近隣他校にも女子の熱烈支持団体が存在。お昼の、お供は親衛隊が順番を決めている。ちなみに一昼食当たり十二人の構成だ。
オウマからして見れば、良きの三連続など、何の解決策も生まない八方美人でしかない。本人の話に同調し、話させることで整理させ、本人に解決させているだけだ。自分は何もしていない、具体的な解決策を明示していない。ただ、そばにいて話を聞いてやるだけだ。
んっ、待てよ。あれ? 解決策を提案、押し付けるより、実は良い事ではないか?
うん、いや、たとえ解決しなくても、本人の自浄作用に任せる。手助けはしない。ある意味、残酷とも言える選択だ。
だが、うーん。甘やかさないから、そっちの方が良いのか? ユウヤ見直したぜ。
閑話休題。
問題の根本原因は人当たりの外面でなく、文字通りの見た目の外面のせいだった。
神の造形、悪魔にでも魂を売ったのか、何か大切なものが欠けているとの帳尻合わせでしか、有り得ないと評される端麗な容姿。
美少女偶像のような美貌と、美女被写体のような体型。矛盾とも言える相反する二つを併せ持つ、危うさと、それを飼い慣らせる強さ、と言うか頼もしさ。
街を歩けば、誰もが振り返り、芸能の勧誘が列を成し、新人発掘の競技会には、おこぼれ目当てに他薦されてしまう。
服を買えば、店の名が入った紙袋を持って街を数時間の散策契約で、料金は無料となり、喫茶に行っては客寄せ(広告塔)パンダとして必ず最前方盛り土席に案内され、長居させるために料金は奉仕される。
ただ、そこにいるだけで場が華やぎ、その存在に憧れを抱かせる女神のごとき透明感。当然、神のいる場、所有物に人は強い憧憬を抱く。
捧げた供物が、女神の輝きに照らされ、その物自体の価値をも高めてしまう。
存在自体が、既に比類無き広告塔である。
ユウヤを知る宣伝業界の経営戦略本部長は、そう唾を飛ばした。
そんな超絶美形な女主人公が、ユウヤであり、オウマの妹であった。
その超常的な神がかった造形に、人々は高嶺の花どころか、太陽花と称し、距離を保ってしまう。
おいそれと近寄せない高貴な雰囲気と言うか、その美しさに萎縮してしまい、近付けないのが一般民間人の選択だった。近すぎると、その眩しさに目も身体も灼かれ飲み込まれてしまう。恐れ多さにも、観賞を楽しむにも、遠巻きの距離が一番だった。
近寄りたいけど、近付けない。けれど、言葉と態度は超気さく。
その二者択一同不利益が、ユウヤの人気を、さらに高めた。
ユウヤの前に出てしまうと、大宇宙が与え賜うた神秘の輝きに、人は見つめてしまうか、言葉に詰まるか、心を奪われてしまうかの、いずれかだ。告白なんて、とんでもない。勇気を振り絞って、ユウヤの下駄箱に恋文を忍ばせるのが、全員の限界だった。男子三割、女子七割の恋文が、毎日パンパンに下駄箱を詰まらせていた。
そんな女神お姉様の生活に、今回引っ越しする羽目になる事件が起こった。四ヶ月前の冬の話だ。
そう、あれは深夜から早朝に雪が降り続けた、底冷えした日のこと。朝から胸騒ぎはあった。
いつも同じ場所に仕舞っていた鍵が、なぜか無く、出かける間際で探す羽目になった。
有るには有ったが何故か、靴箱と壁の隙間に落ち込んでいた。見つけるのと取るのに時間がかかり、学校を遅刻した日だ。通学に使うバスも雪に遅れていたので、大多数の生徒が遅刻してはいたが。
その日の食事当番はユウヤだった。
兄妹は両親と家族四人暮らし。ただ両親は仕事に忙しいのか、よく帰って来ない日が幼少から多く、オウマとユウヤは、ほとんど二人暮らしだった。そのため、いつの間にか二人で家事を分担する生活規則が身に付いていた。
その日も両親から帰れないとの連絡が昼にあった。いつものことだ。
両親は転勤族なのか、長くても三年は同じ場所にいない。子供の頃から転校は多かった。そのためにユウヤが身につけたスキルが外面だったとしたら、それは悲しい、お話だ。
友達との、お別れ会の帰りに、ユウヤは、よく泣いていた。
「お、おにいちゃんが。い、いるから。だ、だいじょう、ぶ」
そう涙を堪えるも、
「はなれたくないよう、もっと、あそびたいよう」
という本音に、ポロポロ、ポロポロ、大粒の涙をこぼしていた。
オウマは、大人気ユウヤの抱き合わせ(バーター)とは言え、お別れ会の贈り物は豪華だったので、
「さいしんのプラモ、げっちゅー。イェーイ!!」
と、はしゃぐのを抑えるのが、しんどかった。組み立て式模型の箱を背に回し、空いた片手で妹の頭を、よく撫でてやったものだ。
その日の食事当番は、前回はオウマだったので、今回はユウヤの番となっていた。
三年生の冬なので、部活動も引退。進学先の高校の推薦入学試験に兄妹二人とも合格済みだった。北方の学校には、中学二年生の秋に転校していた。そのため、とりあえず高校は地元で進学することになっていた。部活動も、運動神経、統率力、同調・共感力に秀でたユウヤは、助っ人扱いで引っ張り蛸、引く手数多だったのは言うまでもない。
オウマは帰宅部だったので、いつものように放課後は悪友と性愛談義に盛り上がる。その日の主題は、アイドルと結婚するなら誰? で二時間家族層食堂に居座った後、帰宅。
ユウヤは明日に、引退した部活動の追い出し試合を控えていたので、軽く練習後、帰宅。
のはずだった。
だが、オウマが帰宅しても、ユウヤは予定の六時になっても帰って来なかった。両親に連絡用に一台ずつ持たされた多機能携帯電話にも、連絡が一つもなかった。
友達とでも立ち話して、遅れているのだろう。たまにある。
そうオウマは気にしなかった。居間の長椅子に横になり、アイドル雑誌をめくって、次の結婚相手を探していた。
ユウヤは六時半を過ぎても帰って来ず、連絡も無かった。
オウマは胸騒ぎ、ウソ。
胸がムカムカしてきた。オウマは食事は定刻通りに食べたい気性だった。時計を見る。
六時から作れば余裕だったが、今から作ったのでは定刻の七時は危うい。
そう思っただけで、お腹の虫がギュルギュル鳴った。
なんやねん、こんちくしょう。どないしてくれんねん!
怒りの衝動にリビングにあった、カビパラの綿座布団を乱暴に掴んで投げつける。床に跳ね返った、それに足刀を数発落とす。
オラオラオラ!!
感情を吐き出したところで、冷静になる。
やべー、これユウヤが気に入っていたクッションだった。
ぺしゃんこに潰されたクッションを慌てて、元に戻す。横からパンパン叩き、整形する。意味もなく膨らませる心像で息を吹きかけ、痛いの痛いの飛んで行けーと呪文まで唱える。
クッションが、それなりに元通りになる。隠蔽のため、他のクッションに交えて置く。額の汗を手の甲で拭う。テーブルに置いていた水を一杯飲む。
待つのは苦手だ。連絡が無いので、当てにできない。そんなことより、七時に食事だ。
気持ちを切り替える。幸いにも昨日買い物に出かけたので、食材は冷蔵庫に詰まっている。今日は寒い。鍋だ。鍋に決まりだ。
寒いときに温かいものは、何でも美味い。
出汁も即席食品的な角出汁がある。食材を切って煮るだけだ。お米は冷凍していたのが残っていたはず。
決断するなり、オウマの行動は素早かった。台所へと向かい、前掛け(エプロン)を身につける。
ピロリロ、ピーン♪
焜炉下の器具棚から鍋を取り出し、水を張り、火をかける。冷蔵庫から出汁のキューブを取り出し、鍋に放り込む。
ピロリロ、ピーン♪
合わせて取り出していた食材を、包丁で切っていく。いや包丁は時間がかかる。肉も野菜も茸も豆腐も、素手で千切って、鍋に放り込む。ヌルヌルした手を洗い、エプロンで拭く。
ピロリロ、ピーン♪
ラップに包まれた冷凍ご飯を冷凍庫から取り出し、電磁波加熱調理機に放り込む。解凍ボタン良し。
鍋が煮えるまでの間に、食器を用意する。いつものクセで二人分の専用器と、お箸を用意しそうになるが、やめた。これは罰だ。食材は二人分用意してしまったが、一人で食ってやる。当番を破った罰だ。晩飯抜きの、お仕置きだ。
程なくして鍋も、ご飯も出来上がる。
食卓に鍋敷きを置き、その上に鍋を乗せる。猫ちゃん鍋掴みを脱ぎ捨て、ご飯を、お茶碗に装う。飲み物はテーブルに、常温の麦茶が常設してある。席に着く。時計を見る。時刻は一八五八。間に合った。YES! YES! YES!!
「いっただきまーす」
箸を持ち両手を合わせる。命を頂きます、この瞬間がオウマは大好きだった。他の存在を糧に生きる。実に肉体的な精神から解放された、自由で開放的な空間だった。
ピロリロ、ピーン♪
そこに無粋な横槍が入る。さっきから鳴っていた、ユウヤ専用の着信音だった。短いので、電話でもなく電子手紙でもなく、最前表示形式の電子短文に違いない。
何だよ、うっせーなあ。てめえの分なんかねえぞ。
オウマは顔をしかめ、箸を置く。面倒そうに、テーブルのスマートフォンに手を伸ばす。液晶表示装置に映し出された文字を見る。
瞬間、オウマの目の前が真っ黒に染まる。
拉致なう(^_^)
震える指先でポップアップを押し放し、次のメッセージを読む。
相手は吉田春吉。その、お屋敷に監禁なう(*^▽^*)
吉田春吉。その名前には聞き覚えがあった。
確か同じ中学の一年生男子だったはず。お家の、ご職業が代々興業を営んでおり、口の悪い噂では広域暴力団指定されているとか、されていないとか。そんな反社会集団に、妹が拉致監禁されている。
左手が唸る。手の甲に紋章が浮かび上がり、黒い霧を吐き出す。心が真っ黒に染まる。
力が欲しいか?
どこから、ともなく声が聞こえる。
妹を助ける力が、今直ぐ欲しい。オウマは迷わず答える。
声がオウマを導く。
宜しい。ならば破壊だ。破壊せよ。破壊を繰り返せ。破壊の実績に、さらなる力を宿せ。
真っ黒な衝動に、心が埋め尽くされる。素手で熱いままの鍋を掴む。熱が皮膚を焦がすが関係ない。暴れるには燃料が必要だ。
頭上に持ち上げた鍋の中身を、口を大きく広げて一気に流し込む。熱々の出汁が喉を灼く。時間がない。食材も一切噛まず、一気に飲み干す。高熱のこもった豆腐が胃袋を煮え立たせる。
手と喉と胃袋の激痛は、良い気付けだった。攻撃衝動が目覚める。紋章が浮かび上がった手の甲で、口元を拭う。唇も舌も少し火傷したのか、ヒリヒリと痛む。軽い痛みが今は心地良い。その刺激に、自分の中の何かが目覚めるのを感じる。血走った目が、笑いを零す。
確か吉田の、お屋敷は高台地区にあったはず。数年前に球団を、この地に誘致した功績か、利権かで建てられたもので、球団屋敷と呼ばれている御殿だ。そこは高級住宅街の山の手に有り、ここからは徒歩では二時間以上かかる。自転車でも三十分以上だ。時間が惜しい。
ゲーエープー。
食材と共に飲み込んでいた空気を排泄する。
妹に指一本でも触れてみろ。未来永劫、末代まで八つ裂きにしてやる。二度と笑顔を浮かべられない、生き地獄を、無限に味合わせてやる!!
オウマは躊躇わず、玄関で鍵を手に取る。裸足のまま自宅を飛び出し、地下駐車場へと走った。
警察は? 却下。事後処理の専門家だ。掛け合っている間に初動が遅れ、被害は防げない。
両親は? 却下。こちらから連絡が取れた試しが無い。ユウヤが高熱を出した時も電話は、つながらなかった。縋る思いで、留守番電話に伝言を残した。直ぐに両親の手配で医者が派遣されてきたのが、有り難くも、さらに腹立たしかった。折り返し(コールバック)さえ無かったからだ。
ただの中学生の自分に何ができるのか?
オウマは必死で考え、即座に決断した。これしかない。覚悟を決める。
お屋敷までは、ここから一直線だ。後は踏み込む勇気さえ有れば良い。
ユウヤ。
その中を呟くだけで、何かが宿る。力が出て来る。
目指すは登り坂の山頂。制動装置を放し、気持ちを高ぶらせるため歯車変更。動力歯車分断に入れていたギアを駆動へ。変換棒を強く入れる。