かつてあった日の事
私がまだ高校一年だった頃の話である。
高校一年生の、あれは二学期の終業式を目前に控えた頃だ。
人生で最も楽しかったといえる夏の残暑もとうに消え去ってしまい、私的にはできれば一年の半分は夏でいて欲しいのだけれども、残念ながら時計の針と地球の自転を止めることは一介の高校生の手にはあり余る案件だった。
もう年終わりも近いというのにきっちり五限目まで詰め込まれた授業をこなして、薄暗くなる空の下で帰宅の最中である。
私が吐く息は白く、気温は零度近くまで下降している。
温暖化が進んだ昨今では珍しくもない。珍しくもないが、温暖化なのに気温が下がるとは詐欺じゃないのかと私は密かに思っているのだが、残念ながら日本など一部の地域に限られた減少なので訴えても勝ち目は薄いだろう。
——なんで私がそんな意味もなければ意義もない馬鹿らしいことをつらつらと考えていたのかというと、端的に言えば浮かれているからだった。
冬の外気は間違いなく冷たいのだが、私はそこまで寒さを実感してはいなかった。その原因は私が革製の手袋をしているからでも、お父さんの故郷が個々よりも遙かに寒い地域であるからでも、お母さん手編みの赤いマフラーを首に巻いているからでもない。
寒い、というのは謂わば主観的な感覚によるものに過ぎない。
主観的ということは、つまりは思い込みだ。
目隠しした人に火の付いていない煙草を押しつけてやけどさせたという、あまりにも有名な実験結果があるように、人の身体の感覚というものは精神的な要因と密接に関係しており——つまるところ、外気以上に心が暖かくなるものさえ存在していれば、寒くないということもありえるのである。
つまり寒さを忘れるほどに私はその状況に浮かれていた。
「……」
首に巻いたマフラーをぐいっと口元まで引き上げて、表情を隠した。
そうしないと変に緩む口元を見られると思ったからだった。
そうしてから、私の三歩隣を歩く男子生徒の顔を横目に覗き見る。
中肉中背の、身長は私と同じくらい——というか、実は私のが数センチちょっと高かったりする。私が女子にしては背が高いというのもあるのだが、彼もそこまで身長が高いというわけでもない。同年代の平均身長よりも僅かに低く、顔立ちも際だって整っているわけでもない。
だがそんな人物がいま自分の隣を歩いているという事実に、隠せない充足感を覚えている。
「……どうした?」
だが、彼は意外と他者の気配には敏感だ。
学校の出席数を削るに削ったことによって生み出した時間を利用して、仮想空間の戦場に身を浸し続けているだけのことはある。
たかがゲーム、作られた虚構の世界とはいえ、その中で積み重ねた経験は確かに現実の彼の中に根付いているのではないかと思う。
私の視線に気がついた、隣を歩く彼——紫城稔が顔を横に向けてこちらを見やってきたので、思わず逃げるようにして私は前に首を反らした。
私は何でもない風を装う。
「この時期だともうこの時間でも暗いね」
「あー……まあ流石にな。年末だしなあ」
住宅街の街灯が付き始め、当たりから雨戸を閉める音が聞こえ始めたことに気がついて私が声を漏らすと、稔もぼんやりとした調子で口を開く。
そこからは気負いも緊張も見つけ出すことが出来ない。
その事実にどこか理不尽なものを感じながら、程なく日が沈みきって暗くなるであろう空を見上げて私は「あ」と声を漏らした。流石に冬は夜が近い。すでに幾つもの星が輝きを放ち始めていた、
「……稔って星座に詳しかったりする?」
「いや全然。なんで?」
「冬の星座、幾つか見つけたから」
「へえ?」
そんな私の言葉に少し興味を引かれたのか、稔も釣られるようにして上を見る。制服から伸びたその首筋に一瞬目を引かれてから、私は彼との距離を二歩にして瞬き始めた星々を指差していく。
「あれがオリオン座。近くに牡牛座。斜め下のと合わせて冬の大三角形……ちょっと変わり所で、隣にうさぎ座とか」
「……どれが?」
まるで分からないという風に目を細める稔の横顔に少し笑ってから、
「あれとあれとあれ」
「あー……うん、あれとあれとあれな。分かる分かる」
「絶対適当言ってるでしょ」
隠すつもりもない知ったかぶりを見せる稔。
まあそうなるであろうことは分かりきっていた。星座というのは、正直、一見で分かるようなものは殆ど無いと言って良いくらいに適当だ。見て、理解して、納得するには、それなりの知識と感性が必要になる。
今度は分かりやすいように、先程より丁寧に該当の星々を指差していく。
「あの青い光の大きい奴とその隣のを線で結んで、それを下のと合わせて……」
「下のって、あの赤いやつか?」
「あれは人工衛星ね」
人工衛星を星と見間違えるは、天体観察のあるあるの一つだ。
思い込みの激しい人だったりすると、新星を発見したとまで勘違いしてしまうこともあるらしい。
そんな雑談を交えながら、どうにか星座を形作るよう指差しで説明していくのだが……、
「いや、どう見ても兎には見えないだろ……」
だよね。
私もそう思う。
娯楽が少なかったというのは理解出来るのだが、それを考慮しても昔の人は想像力が逞しすぎやしないだろうか。兎なんかはまだ良い方で、二つの星を直線で繋いで子犬座とか、もう意味が分からないところである。ブロキオンという冬の大三角形を構成する星の一つを使ったにしては、あまりにも杜撰ではないだろうか。
似たようなことを稔も思っているのか、どうにも納得がいかないとばかりに首を捻っている。
「それにしても、リュドは随分と星座に詳しいのな」
「詳しくはないかな。暗記しただけだし」
リュド、と愛称で呼ばれて、少しだけ気分が高揚する。
これは夏休みの成果の一つだ。最初はぎこちなかったが、今では慣れたのか開き直ったのか、自然と口にする。してくれる。
いや、そもそも成果というならば、こうして当たり前のように放課後は肩を並べて帰ることが慣習化しているのを真っ先にあげるべきだろうか。
——私はもう一度マフラーを持ち上げて、口元を隠した。
「覚えておくと、いざっていうときに便利だよ」
「星座が役に立つ時ってどんな状況だ」
「遭難したときとかに座標を割り出せる!」
私がぐっと指を立ててそう言うと、稔の顔が道端で逆立ちする猫を見つけたような、そんな表情をした。
友人のよっちゃん曰く宇宙人を見つけた時の顔だそうで、彼は自分に理解出来ないものを見つけるとこの表情を作ることが多い。
そんな表情をなんで何度も目撃しているんだというお言葉もあるだろうが、それは彼のこの表情が私は嫌いじゃないので意図的に作ろうと話題を振っているからである。
「携帯端末にGPSが標準装備されてるご時世に、何がどう役に立つって?」
「状況は手持ち食料二日分、その他装備無し、現在地不明、友軍の救援無しからの帰還を想定で」
「諦めよう」
「早くない!?」
「即決即断は非常時の必須技能だぞ」
「一理ありそうなこと言ってるけど、それ、ただの自殺だからね?」
諦めも肝心という言葉もあるにはあるが、それも次に繋がることが前提ではないだろうか。
「そもそもどうしたらそんな状況になるんだよ……」
「……飛行機が墜落して自分以外生存者無しとか?」
「過酷過ぎだろ……。自分だけが奇跡的に生き残るってどんな確率だ」
言われればその通りなのだが、状況想定なんてそんなものだと思う。
「そもそもただの高校生がそんな状況を想定する必要が無いって突っ込むのは野暮なのか……まあ、あれだな。なら飛行機に乗らなければ万事解決だ」
「……私のお父さんの実家、ウラジオストクなんだけど?」
「そうなのか。うん……? ……うん?」
え、だから何なの? という反応をする稔に一瞬口元が引き攣ったが、数瞬後には私も思わず真顔になって、自分は何を言っているんだろうと冷静に振り返ってしまった。
「…………!」
そうしてから、一気に顔が熱くなった。
体感的には、真夏の太陽に照らされたときよりもなお熱い。
いやいや、何考えてるんだ私は。最近自分が浮かれていて暴走気味なのは自覚していたけれど、まさか自然と今のようなことを口にするとまでは流石に思もってもみなかった。
相手がこちらの意図を察してくれなかったのは、幸いなのか何なのか。
怪訝そうな表情を浮かべている稔の顔を複雑な心持ちで見やりながら、なんでもないと、首を振って誤魔化して早足に前に進む。
稔も特に追求することなく歩き始めた。もしかしたら、追求するほど興味が湧かなかっただけかもしれない。稔は興味のないことには無頓着なところがある。
それから歩き出して、暫く経ってのことだ。
学校と自宅の丁度半分程まで足を進めたころになって、上空の雲行きが少しおかしくなってきていた。
先程までは冬の星座が明かりを灯していたというのに、いつの間にか灰色の雲が空を覆い始めていた。冷えた空気が風に乗って肌を撫で始める。そう思ったのもの束の間、ちらちらと白い綿毛が空から落ち始めた。
「雪かあ……」
「どおりで寒いわけだ」
つい私が立ち止まって上を見やると、隣を歩く稔も釣られるようにして首を上げた。その表情は少しわくわくしているようでもあり、どこか億劫そうにも見えた。推測するに半々といったところだろうか。
同じ目線の高さの彼の顔を見ながら、来年には抜かれてしまうだろうかとそんなことを考えた。
そうして彼の顔を少し下の目線から覗き上げる想像を脳内でしてみると、近づきつつある来年が来るのも、そう悪くないように思えてくる。
「ねえ、二十四日に何か予定はある?」
気がつけば、私は自然とその言葉を口にしていた。
しんしんと揺れ落ちる雪の子が触れては溶けて消えていく。
はっと我に返ったがもう遅い。外からは分からぬように全力で平静を装いながら——肋骨の内側では心臓が爆発しそうになっていた——私が訊ねると、彼は本当に何の気負いもなく、端的に、首を上に上げたままこちらに視線すら寄越さずに、
「そりゃプラウファラウドに決まってるだろ」
「……」
その背中を蹴っ飛ばしてやろうかと思った私は、決して悪くないはずである。
辛うじてその脳内に描いた凶行を実行に移さなかったのは、彼のその答えを私が予め予想してたからでもあった。加えて、光明がまだ残っていることも理解していたからでもある。
「そんなことは分かってまーすー! でも零時から夕方までメンテでしょ」
クリスマスというのはもともとは聖人様の誕生日という宗教的な意味合いの強いものなわけだが、大衆的には集まって騒ぐためのイベントである。
それはゲーム業界に於いても変わらず、大抵のオンラインゲームではクリスマスイベントというものが行われ、それは機油と銃弾に溢れた『プラウファラウド』も例外ではないらしい。
あんな殺伐とした世界観で何をするんだと思わなくもないが、運営がやると言っている以上は何かやるのだろう。まさかケーキを食べたりサンタがやってくるわけでもないだろうが。あのゲームでトナカイに乗ったサンタが現れでもすれば、未確認飛行物体としてAMMの標的にされるに違いない。
それはそれで少し面白そうな気もしたが、白髭を蓄えたおじいさんを人型の巨大兵器で追いかけ回す図は、冷静に考えると猟奇的である。
——まあ、それはともかくとして、今重要なのは稔が目当てにしている『プラウファラウド』は夕方まではメンテナンスで誰もログインすることが出来ないということだ。
当然、彼はそれまでの時間、暇になるわけである。
私が思わず誰何でもするように見やると、稔は少しだけ怯んだように後退る。
「いや、まあ、ほら、早めに終わる可能性もあるし」
「何時間待つつもり!? 不健康すぎでしょうが!」
あんまりな返答に、私は思わず叱りつけてしまっていた。
だがそれも仕方がないことじゃなかろうか。
確かに、可能性で言えば、稔の期待も零ではない。
しかし、オンラインゲームのメンテナンスというものは基本的に延長するものであって、短縮するということは滅多にあることではない。
ましてや『プラウファラウド』は世界初の自己学習型AIが管理するVRゲームということで何かと問題が多く、メンテナンス遅刻の常習犯だ。
結果が出ていないからゼロじゃないよというだけで、実質的には予定より早くメンテナンスが明けるなどという期待は持つだけ無駄のようなものだ。
寧ろ、予定通りに終われば御の字というレベルである。
だというのに、この紫城稔という同い年の男子高校生はその薄い蛍火のような可能性にかけてクリスマスに自宅に引き籠もっているのだという。
これを不健康と言わずしてなんというのか。
「あーもう……」
話しているうちに、だんだんとなんだか馬鹿らしくなってきた。
もう程なくして今年は終わる。瞬きする間に終わるであろう冬休みと三学期を終えてしまえば、私の高校一年生活は終わりをつげる。
そう。あっという間だ。こんなところで足踏みをしていたら、なにもしないままあっという間に時が過ぎ去ってしまう。
もともと、私はじっと待ち構えている主義でもない。
「じゃあ二十四日、十二時に駅前東口! 時間厳守っ!」
「え?」
口元まで届いていたマフラーを顎まで下ろす。
吐き出された息が白く空へと立ち上っていく。今、私の口元がどんな表情をしているかは自分には分からない。それを見ることが出来たのは、その場にいた一人だけだ。
あの日、私は紫城稔という男を動かすには受け身ではいけないと学んだのだ。
何せ、クリスマスに異性の同級生から誘われて、始まるかも分からないゲームを優先する人物だ。受け身でいたら日が暮れる所の話ではない。
「来なかったら………、……Отправить в ад……」
「え、何!? 今、なんて言った!? 恐いんだけど!?」
「ふふっ……」
あの時の狼狽した稔の表情を思い出して、つい笑いを漏らしてしまった。
——まあ結局、あの日目にしていた星の配置も含めて、星座なんてものを覚えていてもあまり意味はなかったんだけど。
なにせ私が遭難した場所から見た夜空にはそもそも見知った星座なんて一つも無かったのだから。精々暫く呆然とした後に、ああここは地球じゃないんだなと、そんな馬鹿馬鹿しい結論を呑み込むのに少しばかり役立ったくらいだ。
いつの間にか、あれから随分と時間が経過していた。
あの日、高校二年はどのような生活になるかと考えはしたが、今現在のような状況になるとは少しも考えてはいなかった。
それはそうだろう。
日本という島国で呑気な学生をやっていた人間が、僅か一年も経たずに直接間接問わず百人以上を殺す経験を持つことになるなどと、どうやって想像しろというのか。
——ここのところ、じりじりと胸を焼くような焦燥感がついて消えることがない。夜に悪夢を見ることも多くなった。
内容は覚えていない。
だが全身に冷ややかな汗が張り付いていて、柄も知れぬ不快感が全身に染み渡っている。
変な話だ。気候も、温度も、湿度も、その全てを人が過ごしやすいように完全管理された海上都市の中にいながら、あの冬の日よりも、今の方が遙かに寒さというものを実感している。
いや、最早それは痛みと言っても差し支えはない範疇だった。
その結果睡眠が浅くなり、不意に目が覚めると、再度寝ることも億劫になって、こうしてつい考え事をするようになる。
この世界と元いた場所の時間関係がどうなっているかは知らないが、よっちーはどうしているだろうとか、両親は心配しているだろうかとか、仮に戻っても学校は留年か退学になっているのだろうかとか色々と思うことはあるのだが、結局の所私にとってそれらは殆ど些事に過ぎなくて、私がいま本当に望んでいるのは——、
「はぁ……稔に会いたい……会いたいなあ」
私の心の奥底から湧き出てきた言葉はそのまま、響くことすらなく海上都市の空気の中へと溶けて消えていく。




