頼れる大人
「――第四目標を達成。現在の消化率七十八。これまでの最速記録です」
「予定通りパターン3へ。イレギュラーブロック4を現出」
「コマンドセーラ、第二目標を破棄及びにルート変更を申請。対応数値9・35」
「申請却下。――ダミーコマンドA2を伝達」
「コマンドセーラ、演算プロセッサ起動、稼働率34。――ダミーコマンドA2を拒否。再度ルート変更を申請。対応数値7・99」
「――申請受諾。メンタルグラフに特記事項を確認」
北地区海上都市研究所。
三十年前に独立都市アルタスが隣国メルトランテとの戦争状態に陥った際、当時から関係の深かった海上都市レフィーラはいの一番に全面的な支援を約束した。
兵器の製造や加工、物資の援助、最新鋭の万能人型戦闘機の優先的配給、技術員の派遣に、軍用基準性能調整個体部隊の派遣。
手厚いそれらの援助の背景にはアルタスが実質的に海上都市の緩衝役になっていると事実や、当時はまだ建設途中であった真空トンネルの存在、そこから将来的に見込める資源の輸入コストの問題などがあったわけだが、アルタスからすれば大きな追い風であったことは間違いない。
海上都市の後援が無ければ現在のある種安定したといえるアルタスは存在していなかっただろう。
だが事実はともかく、表面上だけ見れば一方的にも近い援助をレフィーラが行うに際して、二都市の間ではいくつもの条約が締結されていた。
北地区海上都市研究所はその際に条件として盛り込まれた、アルタス内に建設された海上都市から派遣されて来ている研究員達の為に用意された研究施設である。
かつては当時最新鋭であった万能人型戦闘機〈フォルティ〉の独立都市には開示していない機密部分――ブラックボックスなどの整備なども受け持っていたが、現在は〈フォルティ〉の技術部はほぼ全面開示されてしまっている。
現在のこの研究所の専らの役割は、海上都市から独立都市アルタスへ派遣されている軍用基準性能調整個体の調整や経過観察となっていた。
軍用基準性能調整個体は海上都市の重要機密の一つであり、如何に海上都市と密な関係を持っているアルタスが相手といえども簡単に情報を渡すわけにはいかない。特にアルタスへ提供されている軍用基準性能調整個体はどれもが次世代シリーズへのアップデートを目的とした仕掛けをしてある特殊個体であり、謂わば軍用基準性能調整個体研究の最前線と言っても良いくらいである。簡単な検査やメンテナンスは他の場所にある軍病院で行うこともあるが、あくまでそれは簡易的な処置に過ぎない。
もっとも、研究の最前線と言っても、軍用基準性能調整個体の研究はしばらくの間停滞を見せていたのだが。
初期型の軍用基準性能調整個体達の一件以来、否応なしに慎重にならざる得なかったのである。その為アルタスの研究所に来ていた者達も変わらぬモルモットの観測にうんざりとしていて、ここは左遷のための離れ小島ではないかという慎みの無い悪態が職員の間から出始めたのもそう最近の話ではない。
そして、その鬱屈とした状況が変わったのは今から半年ほど前の話。
「現在の消化率八十九。記録更新中」
「コマンドセーラ、第一目標達成。迂回ルート選択」
「イレギュラーブロック排除。対応数値9・78+0・3」
「パターン5、追加目標提示。コマンドセーラ受託。続行――」
研究所内の一室。
無数の情報が列となって、淡い光を持つ立体映像モニターに映し出されていく。これは現在別室で行われている実験の観測内容がリアルタイムで更新され、映し出されているのだった。
内容は単純なものである。
命令に実直で応用性に乏しい軍用基準性能調整個体に対して事前に達成目標と綿密な行程を伝えておき、その後わざといくつもの想定外のケースを体験させて、その際にどのような反応をするのかシミュレーターで観測するのである。
やっていることは思考実験にも近いかもしれない。
感情を廃し、自己の確立を希薄にした弊害であると言えるだろう。
殆どの軍用基準性能調整個体は連続するイレギュラーケースに対して適切な対応を行うことが出来ずに、能力の高さに頼って強引に達成するか、或いは思考を硬直させてしまう。また、その際に個体が強いストレスを覚えていることが確認されている。
だが、今観測されているモニターの情報はそれらのものとはまるで一致していなかった。
「大したものだね」
映し出される情報を見ていた研究員の一人が感嘆にも似た声を漏らす。
狐のお面のような細い目をしたような男で、一見すると年齢が分からない。歳をとっているようにも見えるし、酷く若いようにも思える。柔和な雰囲気を持っていたが、それがかえって胡散臭く見えると彼の同僚はよく口にする。
「……正直な話、僕個人としては感情の発現が軍用基準性能調整個体の性能向上に繋がるとはあまり思っていなかったんだけどね」
「意見が変わったか?」
すぐ隣に立つ同僚のからかうような言葉に肩を竦める。
「そりゃ目の前で実際に見せられるとね。否定しようがない」
「目の前で起きてる事象を認められなくなったら研究者はお終いだそうだぞ。よかったな」
そう言う二人の研究者の前に映し出される情報は、現在試験を行っている軍用基準性能調整個体が実にスムーズに行程をこなして行っていることを意味していた。
意図的に発生させた幾つものイレギュラーケースに対しても、思考を停止すること無く対応して行っている。正直その解答そのものには荒が多いが、それは今気にするべきことではない。注目すべきは軍用基準性能調整個体が自発的に思考し、行程を自分で生み出して行っているという事実であった。
「……別にこれは目の前の現象に対する否定じゃなくて疑問なんだけどね。本当にあれは感情を確立しているのかな?」
「ああ。感情の発現は間違いない」
「だが僕は実験前に少しあれと話をしたが、表面上はいつも通りで無表情だったけど。感情があるっていうならもう少し何かあってもいいと思うんだけどね」
「それは、単純に彼女自身がそういう性質だったというだけだ。メンタルマップ上では確かに観測されている。本人がどこまで自覚しているかは疑問だがな」
「うーん……、分かり辛いのはテストモデルとしては問題だけど、まあ元が元だししょうがないのか」
初期型の軍用基準性能調整個体達は多種多様だったと言っていい。
人間と同じように極普通に感情があったのだから、個性が生まれるのは当然のことだ。明るい性格な者、沈みやすい性格な者、よく笑う者、よく泣く者――。
それらと同様に、セーラというあの個体は感情を表に出しにくい、そういう性質を持っているのだろう。
正直あれと意思疎通を交わすのは相当な労力が必要だなと考えつつ、
「そういえば」
ふと男は思い出した。
「あの個体、壊れた右腕はどうするんだ?」
「うむ、直すだけなら義腕か新しいのをくっつけるかすれば簡単なんだが。……正直、直したくないんだよな」
同僚は視線を目の前のモニターに固定したまま、
「あれが元通りになるとまた戦場に出される可能性がある。あれは貴重なサンプルだ。燃えて灰になっちまうのはもったいなさすぎる」
「……? なら、こちらで引き取ればいいんじゃ?」
「そうしたいのは山々だけど、形式上はあの個体はアルタスの対外機構軍に提供したってことになってるんだよ。扱いに対する制約は幾つもあるが、根本的な所有権は向こう側にあるわけだ。欲しいからって勝手に持っていくわけにもいかん」
「……適当に好条件をちらつかせれば食いついてくるのでは?」
「それがこの個体の扱いについては西方基地所指令のソピア中将に一任されているらしくてなあ。アルタス政府ならともかく、あの爺さん個人には借りも多くてあんまり強気でいられんらしい」
同僚の言葉に男は暫し唖然とする。
政府よりも軍の高官一人の方が厄介だというその状況は、どう考えてもおかしいだろう。
「……一体あのご老人は何をしたんだい」
「さあな。俺も詳しい内情までは知らんよ。――ただ、あくまで噂程度ではあるんだが……ほら近々アーマメント社で次期主力万能人型戦闘機の選考会があるって話が出ただろ?」
「ええ」
話に覚えがあったので、男は頷く。
畑は違えども軍用基準性能調整個体と万能人型戦闘機は無関係ではいられない関係だ。傑作機と名高い〈フォルティ〉の後継機は、海上都市にいない研究者達の間でも大きな噂になっていた。
「どうもあれ、もともとはそんな予定はなかったらしいんだが……。その中将が一枚噛んでるって話だ」
「それはご老人が贔屓の機体をごり押ししたってことかい? その場合、寧ろ貸しを作れたように思えるんだけど」
訳が分からないと首を傾げる男を見て、同僚も苦笑いを浮かべながら肩を竦めて見せた。
「だから俺も内情は知らんと言ってるだろ。あくまで噂だしな、噂。……ただまあ、火が無いところに煙はたたんとも言うし、身内で回ってきた情報だ。真ん中でなくとも端っこくらいは当たってると思ってるよ」
「はあ……」
本来ならば予定していなかったはずの選定会を開かせておきながら、それが借りになる?
いまいち要領が掴めなかったが、同僚の言うとおり所詮は噂だろう。もしかしたら複数の要素が混ざってしまっているかも知れないし、気にするだけ無駄か。
そうなると次に思ってしまうのは、現在の面倒な状況にしてしまった原因である過去人に対する不満である。
「全く、何で提供なんて形にしてしまったんだ。どうせなら派遣ぐらいにしておけば良かったのに」
「それは当時の連中に言ってやってくれ。三十年前ならまだ生きてる奴らもいるだろ」
そんな話を二人の研究者がしていること暫し。
その間も両者の視線は表示される立体モニターから一度たりとも離されてなかった。実験の過程も既に終盤、映し出される情報はどれもが終わりが近いことを告げていた。
「――消化率百。全行程の終了を確認。これまでで最速記録です」
「コマンドセーラ、実験終了。演算プロセッサ平均稼働率42・1」
そして、そう時間も経たないうちに実験を観測していた研究員達が実験の終了を宣言した。
張り詰めていた空気が弛緩して、もたらされた結果に研究員達が色めき立つ。
その心境は狐目の男にも良く分かった。こうして次期発展用の軍用基準性能調整個体が明確な成果を数値として見せたのは、これが初めてなのである。
海上都市ですら手に入れていない情報を世界で一番最初にこの場に居る自分達が入手したのだから、研究者として心が浮かぬはずが無い。それも長い停滞を挟んでのことだから、尚更だろう。
男は上機嫌になりながら観測員達に声をかける。
「どうだ、結果は? すごいものだろう」
「はい。対応率、目標達成速度、応用性、取捨選択効率。どれもが他の試験個体の数値を圧倒的に上回っています。――ですが、ちょっとこれは……」
しかし観測を行っていた研究員の一人が僅かに戸惑ったような表情をして見せ、その予想外の反応に怪訝に思う。何か問題があったのだろうか。
その思いは隣で話を聞いていた同僚も同じだったらしく、僅かに眉根を寄せて訊ねた。
「何か問題があったのか?」
その質問に観測員は一瞬だけ逡巡したようだったが、
「……感情の振れ幅が理想数値を若干ですが上回ってます。加えて、安定もしていません。今後もこのペースで上昇していくとなると――正直、この個体は……初期型の軍用基準性能調整個体達に近い存在の可能性があります」
「初期型……」
観測員の口から出てきたその名称に、男も同僚も顔を顰めた。
軍用基準性能調整個体の最初期に作られた個体達。
感情を廃し、より兵士としての純度を高めた、現在採用されている軍用基準性能調整個体と違い、普通の人間達のように振る舞っていた軍用基準性能調整個体。
基本的な素体能力はともかくとして、戦場に求められる臨機応変さや環境に対する柔軟さは現在の軍用基準性能調整個体とは比べものにならなかった存在である。
だがそんな初期型軍用基準性能調整個体をまとめて処分させる要因が、かつて起こった。
それが――、
「感情の制御不能か」
小さく呟かれた言葉は思いのほか室内に響いた。
「現状で問題にするほどの数値なのか?」
「今のところは許容範疇ですが、メンタルグラフは未だ不安定です。今後も揺れていくことを考えると……」
その言葉の先は口にされなくとも分かった。
観測員は未来を予測して、その際に起こりえる事態を想定して戦いているのだろう。
特にセーラと命名された今回の個体は、少し前に参加したアルタス軍の作戦の最中において、現状では説明不能な数値と現象を起こしている。
そういった不可解な事例が、かつての初期型軍用基準性能調整個体を思い浮かばさせるのだろう。
男と同僚はお互いに黙って暫し思案したが、示し合わせたようなタイミングで肩を竦めた。そして小さく息を吐き出す。
「……セーラ=シーフィールドのこれまでのメンタルマップは初期から纏めてデータを作成。今後の経過も逃すなよ」
「それは分かりましたけど……どうするんですか。このまま発展していったら……」
「何寝ぼけたことを言っているんですか?」
男は呆れたように言う。
「もしこの個体がこちらの想定外の観測結果を出すのだとしたら、研究者としては興味を覚えはすれ、怖がるとことではないでしょう」
「全くだな」
「な……、もし初期型と同じ事態に陥ったらただじゃすまないんですよ!?」
唖然とするその観測員の様子に男は溜息を吐く。
本当にこの相手は分かっていない。
この場に居る者達が全員志を同じにしているとは思ってはいなかったが、それでもこんな身近にここまでなっていない人物がいるとは思っていなかった。
「君は、少し自覚が足りないんじゃないかな? ……僕達は今、最強の兵士を作っている、その過程にいるんですよ? 人殺しの道具を作っているんです。鍛冶屋は火を怖がりませんし、動物園の飼育者は動物を怖がりません。軍用基準性能調整個体の研究者が軍用基準性能調整個体を怖がってなにが出来るんですか、全く」
なぜそんな差些細なことに恐れを抱くのか。
「それにこの場で感情の制御不能が起こったとしても、大して被害は出ませんよ。あれは数が揃ってこそ脅威になる事象ですからね」
仮に今この場でセーラという実験個体がかつての初期型達と同じ状態に陥っても、大した問題は起きない。精々自分達が死んでしまうくらいのことだろう。
そんな訪れるかも分からない命の危険など心配せずに、今は目の前にある成果を噛みしめて余韻に浸っていればいいというのに。本当にこれが自分と同じ研究者なのだろうか。
何故か驚いたような表情を見せる観測員に男が目を瞬かせると、隣にいた同僚がくっと口の端を釣り上げて言った。
「ま、こいつの言うことは極端だが、そういうこった。お前さん、その様子だと海上都市での勤務を経験したことないな? 向こうに行けばこいつよりぶっ飛んでる奴なんてそれこそ山ほどいるぞ?」
そう呆然とする観測員を慰めるように肩を軽く叩いて、
「それでも納得いかないなら、他人事だと思っとけ。どうせこの実験個体は海上都市に移送される。そういう心配は本国の連中がするさ。俺達はそいつらのためにこれからせっせと資料作成だ」
その言葉に反応したのは声をかけられた観測員では無く、横で話を聞いていた狐目の男だった。暗に常識が無いと言われていたような気がしたが、それは興味の範疇にはない。今男の胸に去来しているのは、ガラスケース越しに玩具を見せられている子供の心境だった。
「……はあ。折角手元に貴重なサンプルがあるのに。ずるいなあ。もっとじっくりと、僕も弄りたかった」
心の底から残念そうに嘆く男の反応に、同僚は笑った。
「なあに、どうせ本国の奴らは奴らで俺達が情報送ってくるのを首を長くして待ってるに違いないんだ。精々ヤキモキさせてやろうじゃないか」
***
都市立軍病院。
都市の予算によって創立、運営されている、原則として兵士のみを収容する医療施設であり、かつてはクルスもこの場所で軍への編入必要な身体検査や、ナノマシンの注入を行った場所でもある。
ノブース共和国の任務によって機体全破という目に遭ったのが数日前、命からがらクルスは帰還するが、その後に酷い身体の不調に見舞われる。その数日後にはづにか回復したものの、同時に体内に注入された血流補助用のナノマシンの殆どが崩壊していることが判明。
大怪我を負ったセーラの後を追いかける形で他の部隊員達よりも優先的に都市へ帰還させられたクルスは、あれよあれよという間にこうして軍病院へと強制的に送られることになったわけなのだが。
「君ねぇ、何したの一体?」
そこは診察室だった。
独立都市ではよく見られる、人間味を感じさせない白い空間。それは建築に用いられている素材そのものが自浄作用を備えているかららしいのだが、もはや清潔を通り越して冷たさすら感じ冴える色合いに思える。
中にあるものは極々普通だ。
薄いシーツを引かれた診察台と作業用の机。奥の棚にはファイルが大量に並べられているのだが、限られた空間を上手く利用しているので雑多な印象は感じられない。
この空間の主は丸椅子に座っていた。
「クルス君みたいな若い子の身体を見れるのは確かに役得なんだけどね」
今、クルスの目の前に一人の女性がいる。
歳は二十半ば辺り。金髪に近い明るい色をした赤毛を肩裏まで伸ばしており、身に包んだ白衣を盛り上げるその豊かな胸が艶然と自己主張をしている。
ハザネ=ユーギリ。
この軍病院に勤務する医師で、クルスが彼女と会うのはこれで三度目である。
一度目は都市に来たばかりの時。
二度目は海上都市ホールギスで死ぬような目にあったあとの検査入院で。
そして今。
年齢の割には童顔に思えるこの医師は若い男の身体をどうにかしたいという恐ろしい願望を持っているらしいのだが、言葉の内容に反して今はそういう雰囲気を一切感じさせずに、どこか呆れたような色を見え隠れさせていた。
対面に位置するクルスは困ったように頬を搔く。
「いや、何をと言われても……」
「そりゃさ、初めて会った時も体内に対G用のナノマシンを入れずに万能人型戦闘機を操縦したとか言ってて驚かせてくれたけどさあ」
答えに窮したクルスを無視して、過ぎ去ったかつての記憶を振り返るようにハザネは語る。
「けど、ナノマシン開発以前は物理的に血管を締め上げて血流の偏りを抑えるなんていう原始的な対G処置をしていた時代もあったわけだし、もしかしたらそういうこともあるのかなってあの後に一応は思い直してたわけなのよ、私は」
でもね、とそこで一度言葉を止めて、
「……注入した体内のナノマシンがほぼ全損って、クルス君は一体何をしたの!? そんなの聞いたことも無いんだけど!?」
「いや、原因なんか俺にはさっぱりで……というか、近い近い近い! なんで顔を寄せてくるんですか!?」
顔を近づけてがしりとクルスの肩を掴み、がくがくと揺すってくるハザネに悲鳴を上げる。密かにその手が気持ち悪い動きを見せていたが、幸か不幸かクルスは気がつかなかった。
接近してくる女医をどうにか引き離しつつ、どうどうと手をかざして落ち着かせる。完全に野生動物の扱いである。
そもそも、体内のナノマシンの事情などクルスが知るわけがないのだ。極小機械がそんな惨状になっていたなど、検査を担当した医者から言われて初めて知ったのである。その理由などクルスが分かるわけがない。
「――それで、体調不良に襲われたって資料は一応届いてるけど……実際の所どうだったの?」
一先ずの落ち着きを取り戻したハザネが丸椅子に座って訊ねてくる。その佇まいは仕事の出来る女性と言った風情で、先程の醜態の影も無い。
ずっとこうならばまともなのにと思いつつも当時の状態を思い出して、クルスはつい顔を顰めた。
「どうって……最悪でしたよ」
そう、最悪だ。
まさにその一言に尽きる。
「……頭の中はギリギリと軋むような音がするし、鼻血と吐き気は止まらないし、致死性の伝染病にでもかかったんじゃないかと思いました。よくあの状況で機体を動かして帰還出来たなって、自分を褒めてやりたいくらいに」
あれは何かの拷問だったのだろうか。
思わずそう思ってしまう程に、クルスは弱っていた。実際余程酷かったらしく、シーモスの談によれば、片腕を失うという重傷を負っていたセーラよりもクルスの方がよっぽど死にそうな顔をしていたらしい。驚くべきことにあの口の悪い整備員も機体が壊れたことに対しては何も言わずにすぐに救命班を呼びつけたとか。
らしいとか曖昧な表現なのは、当時の記憶をクルスが殆ど覚えていないからである。あの時はただ本当にあらゆる不調が一斉に襲いかかってきたとしか思えないような苦痛に晒されて、そのことしか覚えがなかった。
それでいて数日後には波が引いたかのようにあっさりと全てが消え去ってしまい、診断してみてもナノマシンが全て崩壊したこと以外は一切の異常なし。
身体的には至って健康体だと言われて、狐にでも化かされた心境である
「ふむ」
話を聞いたハザネは胸を上に乗せるようにして腕を組んで、何か考え込むように首を僅かに傾ける。
今言ったことはすでにノブース共和国にいたときにも説明済みであり、目新しいことは何も無い。資料を貰っていると言っていたし、目の前の女医も知っている情報でしかなかっただろう。
黙り込んだハザネから視線を動かして、クルスは机の上を見やった。
そこにあるのは、以前も目にしたナノマシン解析用の識別機械。白い空間の中で浮かび上がる黒色のボディ。そこにセットされている試験管には真っ赤な液体が入っていて、それは真新しいクルスのものである。
エラー。
データリンク失敗。
先程まであの機械はそんな内容を告げるために、ピーという平坦な電子音を鳴らしていた。クルスがそれを耳にしたのはこれで二回目であった。
「まあ、そっちの原因は大体予測付くのよね」
ハザネが不意に呟いた。
その世間話を振るような口調に、クルスはそれが自分の体調不良について言っているのだと気がつくのに時間がかかった。
「え?」
少し間を置いて、クルスはぽかんとする。
それを見てハザネは視線を合わせて小さく笑った。
「クルス君を襲った体調不良は、ナノマシンが過負荷を起こして全身で熱暴走を起こしたことによる弊害ね」
「熱暴走……?」
クルスの中で焼夷弾が直撃した万能人型戦闘機の姿が思い浮かぶ。
冷却機構が稼働するもまるで追いつかずに機体機能全体が低下し、不時着。複合装甲を溶かしながら、沈んでいく。
「そうよ。クルス君の中のナノマシンのどれもこれもが機能を司る中枢機関が原因不明の過負荷に耐えられずに崩壊しちゃってるの。多目的の実験機ならともかく、血流補助や健康調整程度の機能しか持たない対Gナノマシンじゃあ有り得ない現象なんだから」
問題は何でそんな現象が起こってしまったかということ。
ハザネはそう最後に付け加えて、クルスの顔を覗き込んだ。
一見するとこちらの表情を窺っているように思えたが、よく見ればその口の端は僅かに緩んでいる。単純に邪な感情に従って行っているだけのようだった。
「あう」
無意識に視界の隅から伸ばされてきた手をはたき落としながら、考える。
熱暴走。
心当たりが無いと言えば嘘になる。
思い浮かぶのは前回の任務、巨大飛行兵器〈ヒュトリクス・アーラ〉に挑む際に起こった現象だ。あの時はただ全身が沸騰したように熱いとしか思えなかったが、もしかしてあれば体内のナノマシンが何らかの変調をきたしていたのではないだろうか。
「その様子だとなにかあったわけね?」
クルスの思案顔から何かを察知したハザネが、表情を改めて見やってくる。
これで少しずつこちらに気付かれないように椅子を動かしてこなければ、こんな表情も出来るのだと素直に感心していたかもしれない。
「なんで近づいてくるんですか」
「んー? 細かいこと気にしてるとモテないよクルス君。男は甲斐性だからね。さあ、安心して身をお姉さんに委ねなさい! ちょっと手が滑るだけで、優しくしてあげるからさ!」
「意味が分からねえよ!」
クルスが半眼で目の前の女医を睨みつけると、うへへという擬音が似合う締まりの無い笑みが返ってきた。こんな人間をこの職業に採用した人物には一言もの申してやりたいと心の底から思いながら、溜息を吐く。ほんとにチェンジとか出来ないもんだろうか。
身を守るように距離を離していくクルスに口を尖らせてから、ハザネは気を取り直したように訊ねてくる。
「それでなにがあったの?」
何事も無かったように急に真面目になられるのもずるい。
向こうが意識を切り替えているのに自分が引きずるわけにもいかず、問われた質問に答えるしかなくなってしまう。
「何がと言われても……」
何かあったかと聞かれれば確かにあったわけだったが。
だがあの時何が起こったのかは、クルスは全く理解していない。
世界が停滞し、その中で自分だけが動けるような全能感。
集中力が極限まで増したときのような感覚にも似ていたが、それとも違う。思考が加速したというべきか、世界が遅れていくと表現すべきか。
機体と一体になったような感覚を覚えたことは幾度もあれど、弾丸の螺旋運動まで目視出来るような状態になったのはあれが初めてである。それどころかあの時は自分を死へと誘う気配というものすらを明確に感じ取ることが出来ていた。
あの瞬間、明らかに自分の思考は遙か別の高見へと昇っていたのだ。
だが、その正体が何だったのかは分からない。
恐らくあの時に何かをしたというのであれば、それはクルスではなく同乗していた少女の方なのではないだろうか。
「……」
ちらりと、ハザネの顔を窺う。
世界が停滞するほどに遅滞しているように感じ、弾道が赤い線として見えて、挙げ句に同乗していた少女と意識が重なる。
その内容はどう考えてもオカルトの類い。銃弾や誘導弾が飛来する戦場の中に紛れて語るには、余りにも滑稽なものだ。
正直、当事者である自分でも何かを勘違いしているのではないかと思ってしまっている。
そんな疑わしい内容を、誰か他人に伝えるというのはどうなのだろうか。
内科の次に心療科に連れて行かれるのは遠慮したいところであった。
「クルス君、そんなに大人を信用出来ないのかな」
「え?」
唐突に切り出されたハザネの言葉に、クルスは目を丸くする。
「信用……ですか?」
「そ。君と私は付き合いが深いとは言えないけど、なぁんか妙に君は秘密主義みたいなところがある気がするんだよねえ」
そういうことなのだろうか。
単純に自分が体験したことは胡散臭すぎて、他人に伝えたところで信じて貰えないだろうという常識的な判断だと思っているのだが。
「そりゃね、私は生まれも育ちも独立都市の、別に凄い過去も何にも持ってない平凡な人間ですよ。今の職業にだってお金持ちになれるかなあとか、仕事にかこつけて若い男の子の身体を鑑賞したり触ったり出来るかなあっていう理由で選んだ、一般人ですとも」
「いや最後のはおかしいだろ」
身の危険を感じさせるハザネから僅かに後退りつつ、突っ込む。
ハザネは特に何か感じた様子も無くクルスの顔を眺めながら、
「けどね、それでも私も一応は大人なわけよ」
妙にまじめぶって言われた言葉にクルスは暫く言葉を詰まらせた後に、自分の髪をくしゃりと弄りながら視線を逸らす。
「一応ってつけるあたりに、ハザネ先生の客観的な自己認識が出来ているようで安心します」
「こらこら、そうやって茶化すんじゃない」
完全に見透かされているような態度に、クルスは憮然とする。
その態度が子供っぽいという自覚があって、さらに嫌な気分になった。
そんなところまで目の前の女医は察しているのかのような様子で小さく笑って、その後に小さく肩を竦める。
「搭乗者だか何だか知らないけど、君はまだ子供なんだからね。もう少し大人を信用して、頼りなさい」
「……」
信用、していないのだろうか。
そう言われても、あまりぴんとは来なかった。
クルスはこれまでに自分が別の世界から来た人間であるというような話をしたことは一度も無い。それはどう考えても信じられない話で、真面目な顔をして語ったところで頭の心配をされるのがオチだと考えていたからだ。部隊の人間から幾度かこれまでの経歴を聞かれたことはあったが、傭兵をしていたと適当に誤魔化してしまっている。シンゴラレ部隊はああいうところなので、そう言ってしまえば深く突っ込まれることもなかった。
試しに、クルスは自分の周囲に居る大人達を思い浮かべてみる。
真っ先に思ったのは同じ部隊の同僚達であるが――シーモス、タマル、エレナと順々に想像して、頼りに出来ねえと口の中で音にならないように呟いた。
彼らのろくでも無さは長くない付き合いの中でクルスも学んでいる。頼りたい大人とは正直思えない。
次に思い浮かべたのはグレアム。
一応はシンゴラレ部隊の隊長の立場にいる人物であるが――正直グレアムについてはよく知らないという感想である。ブリーフィング時には進行役などを務めているのだから恐らくは作戦の立案などに関わっているのだろうが、現場で肩を並べたことは一度も無い。性格に関しても実直な軍人という印象くらいのものだ。
ならばソピア中将はどうか。
西方基地所の最高司令官にしてシンゴラレ部隊の創設者。
一応はクルスに今の立場を与えてくれた人物ということになるが――ならば頼れる相手かと聞かれれば首を横に振るしかない。
結局の所、あれはお互いの損得で結ばれた関係なのだ。
あの人間は利害で判断して、容赦なく切り捨てていきそうな雰囲気を持っている。
クルスは居場所を用意され、むこうはクルス=フィアという搭乗者と、そして何よりも〈リュビームイ〉という技術の塊を手に入れられる。いや、本命はあくまで〈リュビームイ〉であり、クルスはおまけのようなものだろう。
利害で結びついた関係はそれなりに頼りになるのかも知れないが――だが、個人で宛にするには怖い相手であった。
そして最後に目の前にいるハザネを見やって。
「…………はぁ」
「ちょっと、クルス君? なんで人の顔を見て失望したように溜息つくのかしら」
むっと目つきを釣り上げるハザネに、クルスはふるふるとただ無言で首を振って見せた。




