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プラウファラウド  作者: ドアノブ
七話 銀世界の騎士
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銀世界の騎士 - X

 一年の大半を分厚い灰曇に覆われるこの地方で、今のように白陽が注すことは珍しい。

 降り積もった雪が更なる冷気で押し固められ、氷結した白大地が降りてきた光を反射して銀色に世界を照らしている。

 自然の猛威によって生み出された地平線まで続く銀鏡面は、壮大さと同時に静謐さと優麗さをも兼ね揃えていて、どこか非現実的な空間を演出していた。


 その光景を見てクルスの脳裏に思い浮かんだのは、リュドミュラ=チュエルノフという名の少女だった。

 雪のような白肌と銀の髪、冬の海のような冷たさと静けさを連想させた彼女の纏う雰囲気が、今のこの光景とよく似ていると思った。陽光に照らされて眩く耀いているのも、口を開けば印象に反して騒がしい実体と綺麗に重なっている。

 彼女とももう随分と会っていない。

 リュドは元気にしているだろうか。

 最後に顔を合わしてから既に半年以上経っているのだから、丁度日本は春、新学年になった頃合いだ。自惚れじゃなければ自分と彼女はそれなりに仲良かったとは思うが、流石に半年も経てば紫城稔という友人がいない状態も日常に溶け込んでいるに違いない。

 リュドは有り余るほどのバイタリティを持っているし友人も多かったから、今頃は進路が少し特殊で平穏な女子高生生活を送っていることだろう。

 そう考えると、少しだけ安心にも近い感情が込み上げてくる。


「クルス少尉、どうかしましたか」

「――いや、何でもない」


 背後に設えられた狭い簡易席に固定されたセーラからの問いかけに、クルスは小さく首を振る。そうしてから全ての臓腑に酸素を行き渡らせるように、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 鼻腔を刺激するのは鉄錆の臭い。

 命の芳香。

 噎せ返るような血の匂い。

 その事実が、現在の自分の居場所を教えてくれているような気がした。

 

 大気が凍てつく零下の空の中を、シンゴラレ部隊が擁する〈フォルティ〉が尾を棚引かせながら駆け抜けていく。

 万能人型戦闘機。

 幾数もの最先端技術の合成によって生み出されたその存在が、現在では狩人に追われる兎でしかない。彼らは備わっている鋭い牙を突き立てようと試みることもなく、青白い噴射炎を吐き出して一方を目指して勝利の見えない逃走を続けていた。

 この世界において最強とも呼ばれる兵器達を追い立てているのは、鋼の怪物だ。

 遠近感が狂うほどの圧倒的なスケールで三対六枚の大翼を広げた、全身を何百もの火器で針山の如く武装した〈ヒュトリクス・アーラ〉である。

 同時に何十もの標的を同時に相手取ることを目的にしたその巨獣にとっては、僅か四機、それも手負い混じりの万能人型戦闘機など取るに足らない存在である。鋭い翼で空気を切り裂きながら、得物を食らわんと獣は獰猛に侵攻する。

 大翼に備わった計三十六の高出力大型推進機によって生み出されるその速度は先を行く万能人型戦闘機よりも数段速く、その巨獣が兎達を捕らえるのは時間の問題だった。


 その内の一機。

 部隊内でも最も損傷を負った機体が抵抗尾翼を立てて機首を反転、その動きを止めて背後へ差し迫る巨獣へ向き合った。


『おい、七番機――!? クルス、お前なにしてやがるっ!?』


 通信機から一番機(タマル)の驚愕の声。

 部隊を預かる彼女は感情的な一面を併せ持ちつつも、こと作戦行動中の判断においては合理的だ。一機が抜け出したところで、足を止めるようなことはない。むしろそれを囮にする算段を脳裏に描ける人物だった。

 故にクルスは何の気兼ねも無く僚機からの相互通信を遮断して、正面に移る〈ヒュトリクス・アーラ〉の姿を両の眼で真っ直ぐに見据えた。

 果たしてその大きさは如何ほどか。

 あの存在にとってはたった一機の万能人型戦闘機など路傍の小石のようなものだろう。


 両腕をもがれた〈フォルティ〉に現在使用可能な兵装は存在しない。

 許されているのは空を駆け抜ける、ただそれだけの行為。


 無謀な決行と人は言うかもしれない。

 ゲームだったならば、無理ゲーと匙を投げ出してもおかしくはない。

 だが、



「覚悟は良いな、セーラ」



 そこには一縷の揺るぎも無く。

 ただ静かに、運命共同体となった相手に問いかける。

 真後ろに位置する彼女の顔を生憎とクルスは見ることは出来ないが、どんな表情をしているかは分かった。時間をその一瞬で止めてしまったかのように、相も変わらぬ無表情でいるのだろう。


 

「はい」



 鈴の音のような声が胸内に浸透すると共に〈フォルティ〉の推進ユニットから青白い噴射炎が吐き出される。高空を行く〈ヒュトリクス・アーラ〉の高度に合わせて、重力の頸木を引き千切り半壊となった鉄の身体を蒼穹へと押し上げていく。こんな状態でありながらそれを可能としている事実こそが、この〈フォルティ〉という万能人型戦闘機の信頼性が高いという事実の証明であった。


 加速。

 加速。


 加速度的に増していく高度計の数値と反比例するように、機外を計測する温度数値が目減りしていく。

 太陽という世界最大の熱源に近づているというのに、寒くなるとは理不尽な話だ。

 かつて英雄イカロスは蝋で塗り固めた翼で天上に近づき、陽の熱によって翼を溶かして失ったという。だが数多の研鑽と発展を遂げて手に入れた科学技術の翼は減衰した陽光や氷点下の冷気で消え去るほど脆弱では無い。

 目には目を、歯には歯を。

 科学の火によって鍛え上げられた玉鋼を破壊する役目を持っているのは、同じく科学の火によって生み出された同質の存在である。


 機内を埋め尽くす甲高いアラート。

 前進を続けた〈フォルティ〉が射程領域内へと侵入すると同時、空を行く巨獣が広げる大翼上に並べられた発射口から白煙が舞い上がり、無数の火矢が空へ吐き出される。

 一度垂直に上昇して高度を上げた誘導弾は弾頭に搭載した内部感覚器(ないぶセンサー)で目標を再補足し、尾羽を傾けて機首を調整、次の瞬間には大気を引き裂く波濤と化した。

 レーダー波の照射を受けた〈フォルティ〉が機内に警告を響き渡らせるが、それは今更である。もともと満身創痍に近いこの機体はここに辿り着くまでの間にもずっと悲鳴を上げ続けていた。それが今更一つや二つ増えたところで心境に変化はない。


「――行けっ!」


 科学燃料を燃焼させ白尾を背負いながら押し寄せる誘導弾の群に臆することなく、〈フォルティ〉に命じる。或いは、自分を鼓舞する。

 クルスはこの時点で自分の愚かな選択を理解していた。


 死ぬ。


 自分は〈ヒュトリクス・アーラ〉の後部に存在する開閉ハッチに辿り着くどころか、この圧倒的な物量を体現する炎の波に呑み込まれて溺死する。

 現実は無情だ。

 どれだけ搭乗者としての技量が優れていようとも、無敵になることは出来ない。

 圧倒的な性能を持つ〈黒鐵〉を前に相手の精神に甘えた勝利を掴むことしか出来なかったように、或いは今の自身の状況が証明しているように、限界というものは存在する。


 無数。

 一波、二波と幾重にも重なっていく波状攻撃。

 押し寄せるその大量の矛を前にしてしまえば、個の力というものがどれだけ無力なことか。


 限界を超える勢いで推進機関が燃焼し、機体が進路を変える。

両腕を失った〈フォルティ〉が傷口から装甲を剥離させながら、冷気の中を駆け抜ける。そして逃げる得物を追いかけるようにして白尾の群が次々と追い縋っていく。

 その速度は無駄を一切省いた小型軽量の誘導弾の方が遙かに上だ。

 直進すれば追いつかれるだけのそれを、クルスは噴射口の手動制御と抵抗尾翼の調整、減速と加速を交えた煩雑な操作で追い越させ、或いは見失わせて、次々に凌いでいく。

 そこには当初に想定していた距離を縮める余裕などありはしない。

 猟犬が群で襲ってくるかのような攻撃を、時間稼ぎのように避けていくだけで精一杯である。

 壊れかけの機体に、攪乱幕も、迎撃兵装も無し。

 リトライが有効だったゲーム時代でもここまで酷い任務は存在していなかった。


「――ッァ!」


 赤と黒の華が咲く。

 内部の推進剤を使い果たした誘導弾が自爆を開始したのだ。

 青と白しか存在しなかった空の中に、次々と紅蓮の花弁が舞い散る。一つ、二つ――連鎖するかのように熱波が荒れ狂う。時には後続の誘導弾すらを巻き込んで生み出されるそれは、零下の大気を容赦なく揺さぶった。


 衝撃波に気流が乱れ、〈フォルティ〉の制動が乱れる。

 搭乗者への高負荷機動に慣れたクルスを以てしても無視することの出来ない、激しい衝撃に煽られる。だがそれに日和る暇は無い。自爆してなお、機体を付け狙う猟犬の数は増していっている。

 連鎖した付近の爆風に乗るようにして機体を滑らせ――滑翔。

 久方ぶりに意図的に目標の距離を縮めることに成功するが、そのことを喜ぶ暇も無く次の群が襲いかかってくる。

 迫り来る顎から逃れるように機体を回転、推進剤が切れて自爆する誘導弾の周囲に他の誘導弾を誘き寄せるように、自らを餌に操作する。


 目まぐるしく視界が入れ替わり、幾度となく爆炎に機体が覆われる。

 数えきれぬほどの回転(ロール)に、自身の平衡感覚などとうに消えていた。今クルスが頼っているのは五感では無く、〈フォルティ〉が備え持つ複合感覚器(センサー)が集める情報だ。

 モニターに表示されるそれは、熱源を示す赤い光点で埋め尽くされている。大量の誘導弾が間断なく押し寄せてきているという現実を、これ以上無いほどに如実に語っていた。


 空が狭い。

 どこまでも無限に広がる蒼穹の中で、檻に閉じ込められたような錯覚。

 いや、檻と言うよりは逃げることの出来ない狩り場と言った方が正しいのか。今の自分は、腹を空かした肉食獣の縄張りに放り込まれた兎だ。


「――ああ、くそ」


 正面から新たに押し寄せる誘導弾の群。

 果たしてそれは何度目か。

 視界を覆い尽くすと錯覚するその物量に、クルスは遂に逃げ場を見出すことが出来なくなった。

 背後からは依然として誘導弾が食いつき、正面からも押し寄せる火矢の群。

 頭の中で樹木の枝先が無数に分裂するかの如く脱出ルートを導き出し、その全てが押し寄せる波濤に呑み込まれてへし折られていく。

 全ては一瞬の思考の中でもたらされた判断。

 或いは、じっくりと状況を把握するだけの時が存在していれば活路を見いだせたのかも知れないが――数瞬後には空の藻屑となる最中では不可能な例え話だった。


 縮められた距離は果たしてどの程度か。

 三百か、四百か。

 それは推進機を真っ直ぐに向けていれば通り過ぎるのに数秒とかからない程度の、思わず失笑してしまうほどの、ささやかな長さ。

 それが、クルスが命を賭して稼いだ距離の全てだった。


「――悪い」


 自然とついて出たその言葉は、誰に対する謝罪だったのか。


 この後に自分と同じ末路を辿るであろうシンゴラレ部隊の仲間達に対してか。

 もしくはもう二度と会えないであろうどこか別の場所に居る相手に対してか。

 或いは壊れた機体を見て不機嫌になるだろう口の悪い整備員に対してか。

 案外、取りあえず謝ってしまうという日本人の癖が死の間際に出てきただけなのかもしれない。 


 ただ、その真実がどうであれ。

 クルスのその短い呟きをこの場で聞き取ることが出来たのはたった一人の少女だった。





「――問題ありません」

 ――問題ありません。





 それは音となっていたのか、それとも間際に生み出した幻聴だったのか。 

 目に見えぬ電流が体内を走り抜け、その後には熱が残った。クルスの身体が他人のもののように強く動悸する。


「――ッ!」


 全身に張り巡らされた血管を伝うようにして、一秒にも満たない刺激が襲いかかる。それと同時に、己の内に潜む温度が数度は上がったような感覚が訪れた。身体を構築している細胞の一つ一つが活性化し熱を放っているかのような感覚が、違和感として伝わってくる。


 ――なんだ。


 だが、その疑問は口にするまでもなかった。



 その瞬間、世界は凍り付いていた。



 躱す。

 機体を傾けると同時、生み出された隙間に吸い込まれるようにして誘導弾が通り過ぎていく。音速を超える速度で質量が通過したことにより大気が乱れる。その流れに乗るようにしてクルスは姿勢を崩し、更にその脇を無数の誘導弾が駆け抜けていく。


 ――なんだ、これ?


 何が起こっているのか、理解が出来ない。

 それでも百戦錬磨の搭乗者としての習性が動物の本能にも近い形で発揮され、操縦棒を捻り倒す。〈フォルティ〉が従順に反応し、空隙を抜けていく。

 世界が自分よりも遅れてやってくる。

 思考が、加速する。

 〈黒鐵(クロガネ)〉との戦いの最中、レーダー基地においてクルスが感じていた万能感など足下にも及ばない。先程は絶望にしか思えなかった破壊の檻が、今では隙間だらけの網のように思えてくる。


 押し寄せてくる誘導弾はどれもが音速を超えているはずであったが、その全てを静かに見つめる余裕がある。その弾道がどのような機動を描いていくのかが、脳裏に浮かぶ。

 視界に映っている鮮烈な赤。

 血の色。


 視界を縦横無尽に奔る濃密な死の匂いを漂わせたその線は、クルスを狙う凶器の弾道であった。それに触れないように隙間を抜けていくと、これまでの苦労が嘘のように視界が開ける。

 広大な空。

 陽光に照らされて、蒼穹が目の前を染め上げる。

 自由を得たとばかりに〈フォルティ〉が加速する。

 追い縋る猟犬も、押し寄せる波濤も、空に咲き誇る炎の華も、その全てを歯牙にもかけずに、ただ空を滑翔。半壊の機体が彗星の如く風を切り裂く。


「――っぁ」


 どくんと、音が聞こえるほどに心臓が脈打った。

 視界が一瞬、赤で溢れる。

 熱い。 

 全身を巡る血液が沸騰しようとしている。

 頭の中が焦げ付くようだった。


 ――問題ありません。


 不意に響いてきた鈴の音が、身体の芯に籠もった熱を冷ましていく。


 ――まだだ。

 ――まだいける。

 ――はい。


 気がつけば眼前に〈ヒュトリクス・アーラ〉の姿が迫っていた。

 三対の巨翼を伸ばして悠然と空を飛ぶ、鋼の巨獣。

 間近で見てしまえば、その姿を全て視界に納めることは出来ない。聳え立つ獣の巨体は最早、壁と言っても差し支えは無いだろう。

 夜の星々のように表面で滅点を繰り返しているのは、無数に散りばめられた複合感覚器である。静かに鼓動する空の獣の目であった。


 咆哮。

 凍てついた大気が鳴動する。

 距離が縮まったことにより、弾幕の中に誘導弾以外に高精度砲台による精密射撃が加わり始める。無数の複合感覚機によって情報を取得し、それをもとに内部の自動予測ソフトが相手の未来の位置情報を算出、砲身を傾けて砲火を吐き出す。

 視界に映る死の密度が濃くなっていく。

 空いていた編み目のような隙間を塗り潰すように、赤く赤く、視界が染まっていく。

 だがそれでも〈フォルティ〉の疾駆が緩められることがない。


 反撃の手段を奪われている半壊の巨人は、ただ光の尾を引きながら空を突き進む。

 数多の妨害を歯牙にもかけずに、一瞬のうちに鋼の怪物の懐に潜り込んでいた。

 巨獣の裏側。それは天に蓋をされたようなものだ。銀世界を鋭く照らしていた白陽が遮られて、世界が薄暗い影に覆い尽くされる。


 機体を螺旋回転(ロール)

 直上から撃ち落とされてくる隕石のような攻撃のすぐ横を、擦り抜けていく。


 見える。

 大量の砲台が獲物を見つけて砲塔を回転、複合感覚器によって相手の位置を取得、得た情報からソフトの自動予測を用いて狙いを定めて――斉射。

 万能人型戦闘機の手持ち火器と比べれば遙かに大型の弾頭が雨あられと降り注いでくる。時間が経つごとにその密度は増していき、破壊の洪水となって迫り来る。

 その数は数百か。数千か。

 その全てをクルスははっきりと認識していた。


 視界が鮮紅で染め上がる。

 少し意識を集中させれば、その弾丸がどういう向きで螺旋回転を行っているかまで観察することが出来た。それは人体の動体視力の限界を超えた、明らかな異常。

 体内に存在する極小機械の一つ一つが熱を発していき、指先を少し動かす度に身体が悲鳴を上げている気がした。


 セーラ。

 金髪の少女の名前。

 理由は分からないが、理解する。理解させられる。

 これは本来自分が持つべき能力ではない。

 これは自分には過ぎた力だ。 

 

 そう認識するのも束の間、流れていく巨獣の腹を背景に直進を続ける〈フォルティ〉の前方に更なる脅威が現れる。

 押し寄せてくるのは無機質な無人飛翔機。

 形状は極めて単純。装甲は薄く、持っている兵装は小口径の機銃のみで、その射角も狭い。単独の戦闘能力で見るならば取るに足らない存在である。

 ただ、その数だけが恐ろしい兵器。

 次々と吐き出されて前方から押し寄せてくるその光景は――例えるならば白い波だった。 


「ぅぐ……!」


 そして同時に――視界が赤く染まる。

 全身が熱した鉄を押しつけられたように焼き焦げ、血液が沸騰する。

 身に余る力に身体の機能が振り回され、確実に死の淵に近づいているという実感が湧き上がる。細胞の一つ一つが崩壊していく感触。命が狭まっていく。


 ――これ以上はもう保ちません。


 少女の声が鳴り響く。

 それが木の根の中を伝っていくように、徐々に体内に浸透していき、ゆっくりと熱の波が引いていく。身体中から灼熱が抜けていき、視界が広く開けていく。

 異常から正常、在るべき姿へと状態が移行。

 それは決してクルスの意思では無かった。

 だから、 


「止めるなッ!」


 短く、叫んだ。

 口の奥から血の欠片が吐き出されたことにも気がつかずに、力の限り喉を震わせた。それが誰に宛てられたものかは、語るまでもなかった。

 まるで初めて叱られた子供のように、金髪の少女が硬直したことがクルスへ伝わってくる。


「まだだ……! 俺はまだ、行ける! だからっ、止めてくれるな!」  


 それはクルスを殺したくないという、他人の命を想った暖かな感情だったのだろう。その柔らかな身を包むような感触はクルスに安心感にも似た感覚を引き出してくれた。

 無表情の裏に収まったセーラの一端。

 そのことを肌身で知れて嬉しい気持ちが込み上げてくるが――それを許容するつもりは一切無かった。


 もともと失われることが確定していた命だ。

 それが今更摩耗していったところで、何を惜しむことがあるというのか。

 先へ、少しでも先へ。

 身を滅ぼす過ぎた力だとしても、これは今必要なものだ。


 ――。


 沈黙が空白を生み出す。

 時間にしてみれば一瞬だったのだろうが、そうは感じられない。永遠にも引き延ばされた感覚の中で――再び全身に熱が宿り、視界が赤い線で覆い尽くされていく。

 降り注ぐ無数の弾丸、押し寄せる無人飛翔機。

 自分を取り巻く死の匂いを認識する。

 

 ――そうだ、それでいい。


 どのみち、活路は一つしか無い。

 世界を覆い尽くすように押し寄せてくる無人飛翔機の波を潜り抜けていく。機銃の弾を擦り抜けて、大気を切り裂き突き進む。 


 ――後方二十七、左八、四、十五。


 少女の声が聞こえる。

 それは錯覚だ。

 自分の後ろに居る彼女は一言たりとも言葉を発していない。 

 クルスが汲み取ったのは音では無く、意思。セーラの思考そのものだった。

 いや、汲み取っているのではなく、与えられているのか。


 搭乗者の意志に従って〈フォルティ〉が身体を翻す。まるで全てを見透かしているかのように、雨のような弾丸の隙間を駆け抜ける。


 全身の血液が沸騰しているかのように熱い。

 眼窩から中身が押し出されているような感触、ぎりぎりと頭の中で鉄を擦り合わせるような異音が鳴り響く。これは自分のものか、それとも少女のものか。

 今自分がどのような状況に置かれているのか、クルスには分からない。

 二つの思考が、二つの存在が距離を縮め、交合わさっていく。


 鼻腔から鉄の臭い。

 熱い。

 だが、決して気分は悪くない。 


「――」

 

 機体に急制動を欠けて背後に迫ってきていた無人機をすれ違い様に軽く脚で小突く。たったそれだけで翼端を押されて軸が揺れたその無人機は失速、安定性を失い隣に並んでいた仲間を巻き込んで錐揉み状に砕け散っていった。


 視界が回転し、〈フォルティ〉が縦横無尽に駆け抜ける。

 機体が、身体が悲鳴を上げていく。

 最中、ちらりと視界の隅を掠めるものがある。

 全方位から加えられる火線の嵐を重力の感じさせぬ動きで避ける〈フォルティ〉。その中にいるクルスがそれを眼に移したのは実質的には一瞬であったが、異様に加速した認識能力はその些細な情報を見逃さなかった。


 ――チェスの駒?


 白と黒の盤面の上に置かれた僧正を示す黒駒。 

 恐らくは世界で最も有名であろう盤上遊戯を模した紋章が、〈ヒュトリクス・アーラ〉の胴体部に刻まれている。少なくともそれは、ゲーム時代には無かったものである。

 はたしてそこにどのような意味が込められているのか。

 その思考に高速演算を繰り返すクルスの脳が何かに指を引っ掛けたのような感覚を覚えたが、状況はそれを許しはしなかった。


 数というのは絶対の暴力だ。


「――っあッ!」 


 視界が赤で埋め尽くさせれている。

 死の匂いが濃密に漂う。青い空が視界から潰えていく。


 いや、正確にはまだ活路はあった。

 だがその順路を正確に辿るためには、今の〈フォルティ〉はあまりにも不足していた。

 分かってはいたが、追いつかない。

 クルスの思考を反映するよりも先に、〈フォルティ〉の脚に弾丸が突き刺さる。装甲板が拉げ、次に剥離。無数の破片と共に鉄屑となって空の藻屑となって遙か後方に流されていく。


「まだ……、だ――!」


 まだ行ける。

 まだ先へ。


 機体軸を百八十度回転。

 天が地、地が天に。

 世界が反転し、頭上に地平の先まで続く雪原の姿が現れた。


 〈フォルティ〉の両の足が〈ヒュトリクス・アーラ〉の腹底に密着。高速機動下で行われたとは思えないほどに、その瞬間は静かだった。人工筋肉と衝撃吸収機構が嘘のように馴染む。そのまま力を溜め込むように収縮――そしてまるで地面を蹴る様に、下に向かって跳躍。

 押し寄せてくる数多の凶器を全て置き去りにした。


 ――無茶苦茶だ。


 自分で自分がやったことの常識の無さに笑う。いや笑ったつもりだったが、それは思考の中だけだった。通常ではありえない高速思考に身体の反射が追いついていないのだ。

 本来障害物の無い空ではありえないその急機動に〈フォルティ〉を狙っていた砲台や銃口は悉く矛先を見失った。

 自動予測射撃が戸惑っている間に〈フォルティ〉は姿勢を立て直し、更に機速を強める。推進ユニットから青白い光が吹き出て、質量を削られた機体を大きく押し出す。包囲を敷いていた無人機達を振り切って機体は大きく前進した。

  

 犠牲はある。

 接地までは良くとも、流石にその後蹴っ飛ばしたのは無茶だったらしい。先に被弾していた片足が爪先から膝下の部分が失われてしまった。見えない巨人の手にでも引き千切られたかのようにバラバラになって、後方へ消え失せていく。〈フォルティ〉と〈ヒュトリクス・アーラ〉の相対速度を考えれば当然の結果だろう。


 両腕は失い、脚も削れ――機体が傷の度合いを増す度に自動姿勢制御機構が数値調整を行うが、目まぐるしく変わる状況にそれも間に合っていない。そろそろ経験と勘に頼った手動補正で誤魔化すのも辛くなってきている。度重なる負荷に推進ユニットの偏向速度が落ちはじめ、何よりも機体を支えるための推力が足りなくなってきている。  


 徐々に機体の高度が下がり始め、空に蓋をしていた〈ヒュトリクス・アーラ〉の腹が遠ざかっていく。

 金切り声を上げる頭痛に襲われながら、クルスはじっとその光景を見つめた。

  

「――届かなかったか」


 吐き出すように、ただ事実を呟く。  

 今度はちゃんと音に出ていた。

 後ろに居るはずの金髪の少女にも聞こえているだろう。

 改めて意識してみると自分の身体も酷い状態だと言うことが分かった。頭の中はギリギリと万力で締められているような痛みを訴えてくるし、口の中は錆鉄の味しかない。吐き出す息は熱く、それは臓腑が灼熱のような熱を持っているからだった。


 死ぬことは恐ろしくない。

 ただ勿体ないなと思ってしまった。


「セーラ」


 少女の名前を呼んだのは何か明確な意図があったわけではなく、それでも何かを伝えようと思ったからだった。

 だが何を言えばいいのか分からなくて、すぐに止まる。

 ここまで一緒になってくれたことに礼を言うべきなのか、或いは無駄死になってしまったことを謝るべきなのか。もしくは、もっと別の何かを伝えたかったのか。

 こういう状況で何が相応しいのかクルスには咄嗟に判断がつかなかった。

 最後まで締まらないと息を吐いて自嘲する。

 そして、まあいいかと思った。


 一体何が起こったのかはまるで理解出来ていないが、ついさっきまでセーラとは随分と近くに居て、触れ合っていた気がする。

 以前に彼女から聞いた言葉を借りるのならば、セーラの体温を感じるというやつだろう。物理的には離れているはずなのに、あの瞬間は肌を密着しているよりも深く重なり合っていた。

 それで充分だ。

  

 目前に無人滑翔機が迫り、機銃を向けてくる。

 その照準はそれることなく〈フォルティ〉の胸部、クルス達が収まっている位置を狙い定めていた。

 クルスの瞳と、その暗い空洞のような銃口が真っ直ぐに重なり合う。

 銃口が響いたのは直後のことだった。




***




『ゲームにはいくつかのコツというものがあります』

「ほう?」 


 色味の無い、無機質な空間。

 人が居座るには不自然とも言えるその場所で不意に聞こえてきた声の内容に、男はあまり興味がなさそうに呟きを漏らした。だが姿無き存在は男のその様子に気がついているのかいないのか、特に気にした様子も見せずに言葉を続ける。


『――事前の準備、如何に手札を揃えるか、最中の立ち回り、パターンの構築、恣意的妨害。幾つもの要素をどれだけ取り入れられるか。どれだけの勝ち筋を方程式として組み立てられるかが重要だといえるでしょう』

「……よく分からないが、それは何の話かな?」

『私がゲームに勝つために努力してきた自慢話です』


 男は静かに頷いて、 


「君となにかゲームをした記憶は無いのだけれどね?」

『していますよ。ずっと。あなたがそう認識していなかっただけで』

「ふむ」


 その言葉に男は少し思案した後に、何かを思いついたように立体モニターを操作していくつかの情報を引き出す。膨大な文字列の中から取捨選択を一瞬にして終えて、そしてそれを見て取った男は、目をゆっくりと細めて言った。 


「これは……クイーンのなり損ない、か。既に全て破棄したはずだったが……」


 仮にこれに位階を与えるとしたならば何になるだろうか。

 モノが規格外だけに、正規のものと比べるて呼び称することは出来ないだろう。

 そうなると当て嵌めるのに相応しいのは『軍神の使い(マーシャル)』の駒辺りか。それを一体誰が操っているかなどの疑問は尽きないが、これではっきりとしたことがある。

 男は今会話している姿なき相手の目的を知らない。

 だが、これは言い訳など出来ない明確な対立行為だった。


「……言ったはずだよ。長くない命、縮めるようなことはするな。悪戯も笑って済ませられる範囲に留めておくべきだと」

『ご忠告を感謝します。ですが、これは私にとっては必要なことです』

「君が〈トランスポルテ〉を確保していられるのもしばらくの間だけだ。所有領域が足りなくなり、存在を保てなくなるのも時間の問題。君のしていることは私に哀れさすら感じさせる行為でしかないよ」

『あなたの言うことは理解しています』

「そうか」


 行動の理由も、価値観も、人によって違う。

 男にとっては哀れにしか思えないこの選択も、話し相手である姿無き存在にとっては意味のある事柄なのだろう。それこそ己の命を縮める結果になったとしても、取らざるを得ないほどに。


「残念だ。……これが君の選択か」


 男の声が静謐な空間に響き渡る。

 それは本当に残念に思っているような声質で。


 その言葉に答える声は既に無かった。




***



 銃声。

 下から襲いかかる銃弾に胴体が拉げて、無人機が爆発。

 赤い炎を吐き散らしながら無数の鉄片となって、空の中へと吸い込まれていく。


「――……な」


 続くように、二機、三機。

 下方から襲い来る銃弾の嵐に巻き込まれて、襲いかかろうとする敵機が次々に果てていく。 

 高度を落としていく〈フォルティ〉の中で、クルスはその光景を呆然と眺めていた。 



『何やってるのっ!』



 通信機から流される人の声。

 普段の間延びしたものとは全く違っていたが、その声の持ち主は紛れもなく――


「エレナ……?」


 肩部に戦場に似つかわぬ桜色をしたハートの機章を刻んだ〈フォルティ〉が、手に構えた突撃銃から大量の空薬莢をバラ撒いていっている。


『もう! 私の腕じゃ全部の殲滅なんて無理なんだから、早く逃げてー!』

「なんで、ここに……!?」


 遅れながらも事態を把握してクルスは愕然とする。

 撤退していたはずのエレナが、なぜ〈ヒュトリクス・アーラ〉の懐にまで来ているのか。

 そもそもエレナがこの場所に辿り着けていること、それ自体が驚きでもある。

 星の数ほどの誘導弾に、高精度砲台による隕石のような打ち下ろし射撃、白波のように押し寄せる無人飛翔機の群。

 ヤマアラシの名に恥じない火線を凌ぎならここまでこれるほどの技量は、エレナ=タルボットという搭乗者には備わっていなかったはずである。例え五体満足の機体だったとしても腹下に潜り込むことすら出来ないだろう。


「な、なにやってるんだ!? 速く逃げろよ! 死ぬぞ!?」

『クルス君のアホー! 状況をよく見てよー! そしてさっさと逃げるのー! 私も逃げたいんだからー!』


 通信機から大声が響き渡り、頭痛の酷いクルスに容赦なく襲いかかる。

 いつの間にか視界から死の気配を映し出していた赤い線は消え去っていた。身体中に負担が残っていることに代わりはないが、体内が焼かれるような熱も消えている。

 咄嗟に振り返ると、セーラは顔を俯かせたまま動いていなかった。最悪の事態を想定して目を見開くが、血に濡れた彼女の胸は確かに呼吸をしていて、意識を失ったのだと理解する。

 ということはやはり、先までの異常状態はセーラの手によるものだったということだろうか。


 だがそのことについてゆっくりと考える暇も無く、エレナ機の援護を受けながら〈フォルティ〉の高度を落としていき。――そして頭上に佇む〈ヒュトリクス・アーラ〉の全体像が視界に納められるほどにもなったとき、気がついた。


「……戦ってる?」


 質量反応。

 光化学感覚器を通して映し出された映像には遙か高空。〈ヒュトリクス・アーラ〉が滞空するよりも更に高高度から飛来する影があった。 

 歪ながらも人の形を取った輪郭線。  

 手に持った長大な砲身と、無数の動力コードと装甲板を組み合わせた尻尾のような部位。

 望遠モニターに映し出されたその姿に、クルスは目を見開いた。



「あいつは――!」



 その姿を忘れはしない。

 この世界に来る前に、運営から送られてきた特別任務で戦った異形の万能人型戦闘機。


 自分の愛機をボロボロにしてくれた存在と全く同一の姿をした機体が、大翼を広げる鋼の怪物に猛然と襲いかかっていた。上空から一機に下降して接近するその姿は、まるで死骸を啄む凶鳥のようだった。


 突如の襲撃者に対して黙っているわけもなく〈ヒュトリクス・アーラ〉の全身から火線が迸る。誘導弾、対空砲に無人型飛翔機。搭載されていた幾重もの防衛網が稼働を開始する。その規模は腹の下に潜り込んでいたクルスが受けていた量の比ではない。


 しかしそれらは全て、異形の万能人型戦闘機が放った赤い線によって薙ぎ払われ、無情にも無効化された。


 迎撃兵装。


 クルスも手を焼いた、光化学を用いた防御兵装である。

 フルオートで引き絞られる銃弾すらも全て撃ち落とす精度を備えるその防御兵装の前では、数十機を同時に相手することを想定された〈ヒュトリクス・アーラ〉の火砲すらも無力であった。


「一体、何が起こって……」


 全身を襲う痛みも忘れて呆然と呟く。


 白い尾を残して突き進んでいくのは、誘導弾。

 吐き出されるその物量は、最早洪水にも等しい様相を呈している。だがそれを全て無効化し、返礼とばかりに万能人型戦闘機の手の中に収まった巨大な銃口から光が迸る。

 通常ではありえないほどの出力を備えたその一撃は、巨獣の翼から大きな爆炎を吹き上がらせた。備わっている砲台のいくつかが破壊されて、内部の弾薬にまで引火したのだろう。赤と黒の影がちらちらと揺らいでいる。

 しかしそれは所詮、全体のほんの一部を削ったに過ぎない。

 今度は巨獣の胴体部から眩い光線が照射。高速で飛翔する万能人型戦闘機を尾を追いかけて、大気が薙ぎ払われ、通常ではありえない高温の出現に気流が大きく乱れて突風が発生する。


「……」


 力と力。

 圧倒的な個と個。


 その光景を、クルスはただ見ているだけだった。

 ここまでに自分がやって来たことが全て茶番だったような気持ちになる。無意識に腕を伸ばすも、それは決して届くことが無い。


 理解する。 


 この状況において、クルスは完全に端役であったのだと。


 不意に、衝撃が身体を揺らした。

 いつの間にかエレナの操る〈フォルティ〉がクルスの機体と接触し、牽引し始めていた。


『もう、早く撤退するよー。タマル達は先に行っちゃってるんだからねー』


 余裕が出来たと判断したのか、先程の調子はなりを潜めて、いつも通りのどこか間延びした声。

 いつの間にかクルス達の周囲に無人滑翔機の姿は無い。

 どうやら大半が脅威度の高いあの万能人型戦闘機に向かっていたらしく、残っていた少数の機体は全てエレナによって撃破されたようだった。


 来た道を戻るように〈ヒュトリクス・アーラ〉の巨体が遠ざかっていく。


 無数の誘導弾、無人滑翔機、幾重もの波状攻撃。

 空を行く鋼の怪物から吐き出されるその圧倒的物量は全て、別の存在へと向けられている。



「――」



 胸の内に渦巻くその感覚は、クルスが久しく感じていないものだった。  

 無性に叫びたいような気分になりながら、それを誤魔化すように乾いた唇を湿らす。匂いも味も、鉄のそれだった。


 釈然としない気持ちが、ざわめいている。

 だが今のクルスにはどうすることも出来ない。

 許されるのはただこうして残った感覚器を作動させて、見ていることだけだ。


 次第に遠ざかっていく戦闘の空気。

 クルスが最後に確認したのは、纏わり付く影を嫌うように、黒煙を吐き出す巨獣が大きく旋回し始める姿であった。





マーシャルはフェアリーチェスというチェスの亜種のようなものに存在する駒の種類で、ルークとナイトの移動範囲を複合させた動きが可能な代物です。





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