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プラウファラウド  作者: ドアノブ
七話 銀世界の騎士
74/93

銀世界の騎士 - IX

 戦争と平和は対に語られることが常である。 

 血で血を洗い流すような凄惨な戦争という行為の後には、銃を手に取る必要の無いような清純な平和が待っている。

 だが結局の所、その思考は戦争をしている状態が平和ではないという人々の根拠の無い認識からなし崩し的に導き出されたものであって、決して正しいと言える事実ではない。

 例え戦争をしていなくとも、平和と認識出来ないような状況は幾らでも考えられる。


 ――例えば、致死率の高い病疫が蔓延していたら。

 ――例えば、その日に口にするものが無くなってしまったら。

 ――例えば、人知を超えた災害が襲ってくれば。


 戦争が無くとも、平和とは呼べない状態は高確率で在りえるのだ。

 だがそれはつまり、少し見方を変えれば――例えこの世に戦争が跋扈しようとも平和と呼べる状態は充分に在りえるということではないのか。



「戦争と平和は決して共存出来ないものではないのさ」



 男はそう、自分の考えを言葉に出して呟いた。

 外見だけで語るならば取り立てて特徴の無い、ごく一般的な容貌を保つ人物である。身を包んでいるのは深い色をした、人工化学繊維製の背広。男のその口元には柔和な笑みが浮かんでおり、事前の発言さえ無ければ慈善家のようにも見えた。


「多くの人間は戦争を悪しきものとして語る。痛みや血を伴うのは嫌だと。あるいは戦争は政治的愚行だと言う者も。だがそれは違う。闘争は有史以前から人間の傍らにあった極々自然な現象だ。平和という理想と切り離して考えるものじゃない」


 その空間には男の姿しかない。

 だが男の言葉は決して独り言などではなく、確かにこの場に居るもう一人の存在に宛てられたものであった。


『――』


 姿無きその存在は、暫しの沈黙を挟んだ後に言う。


『戦争という行為は常に命を失う可能性を孕んでおり、平和とは同居出来ないと思いますが』

「……うん? ああ、なるほど、君は平和という状態を命の危険が無い状態と定義づけたんだな。けど、それは違う。人は生きている限り死ぬ可能性がある。つまり、生まれたときから全ての生き物は命の危険に脅かされてるということだ」


 男は笑った。

 生と死は一本の線で繋がっている。

 生きるということは、同時に緩やかに死にに行っているということと同義でもある。それはどう足掻こうと逃れられない世界の摂理だ。

 老化防止技術(アンチエイジング)を発達させようともいつかは細胞が耐えられなくなり壊死を起こすし、機巧化兵の様に全身を義肢に置き換えようとも脳は劣化を続ける。全てが機械で出来ている自動型擬人機械(サイバロイド)であろうとも、いつかは不全を起こし、壊れ、機能を停止する。耐久年数を超えれば自己崩壊を起こすよう意図的に設計されている軍用基準性能調整個体(ミルスペックチャイルド)などは語るまでもない。


 もし平和を死ぬ可能性が無いものと設定した場合、それはつまり生者には永遠に平和が訪れないということになってしまう。それではあまりにも救いが無い。

 どこかの聖典では人は生まれた時点で罪を背負っており生は穢れた魂を浄化するための禊ぎであり罰ということになっているらしいが――生憎と、男と、そしてこの場にいる姿無き存在は、宗教家とは無縁の在り方をしている。そんな与太話を考慮するつもりはなかった。


『では……、あなたが定義づける、戦争と同居出来る平和とは?』


 姿なき相手からのその問いに。

 男は少し考えるような仕草を見せた。

 それは問いの答えを考えたのでは無く、なんと口にするべきか迷ったからである。男は今会話している相手をそれなりに気に入っているが……、その関係は決して友好的なものではない。寧ろ敵対していると称しても問題無いだろう。そう考えれば、無闇やたらに言葉を吹聴するのも問題なような気がした。

 少し経ってから、男は小さく首を振る。


「……そうだな。その答えを口にするのは簡単だが……教えるのは止めておこうか。君自身が、自分で考えてみるといい。もしそれで分かったら、是非教えてくれ。今から楽しみにしておこう」


 返事は無かった。

 気を損ねたのか、或いは言われたとおりに思案を始めたのか。

 その胸内までをも察することは出来ない。

 そして事実がどちらであれ、それを律儀に待っているだけの義理も男には無かった。


「さて、それじゃあ、世間話は止めて、少しだけお説教をさせて貰うよ。理由は分かっているだろう?」

『皆目見当もつきません』

「――」


 一息もつかさぬ即答に男は一瞬口を噤み、俄に目つきを険しくする。


「惚けるつもりか? メルトランテ周辺でのことだ。知らないとは言わせない」

『秘書が勝手にやりました』

「……何だそれは?」


 聞き慣れぬ言葉に、男が微かに怪訝そうな表情を浮かべた。


『全ての責任の所在を曖昧に出来る魔法の言葉です。私はそう学びました』


 どこか自慢げな雰囲気が混じるその声。


「なるほど、それは便利そうだ。今度私も使ってみよう。……君がその言葉を使うには秘書を作るところから始めなければな」

『善処しましょう』

 

 どこまで本気なのか分からぬ相手の言葉に男は僅かに顔を顰めてから、小さく溜息を吐き出す。


「優秀な異界者達の斡旋、新技術の優先的流入。何年もかけてメルトランテをあの大陸で最大勢力になるようにしつつも、逸脱しすぎないように周囲とのバランスを慎重に整え、我々はようやく理想に近い形で拮抗させることに成功していた」

『……いた?』


 彼女、或いは彼。

 姿無き存在は問い返す。


『過去形なのですか?』

「ああ。困ったことに。どうにも大陸にある一つの都市が無駄に勢力を強めすぎているようだ。特にいけないのは海上都市で開発中の新型量産機だ。あれはいけない。あんなものが出てきては、拮抗も何もあったものじゃない。あれでは折角整えてきた盤上が大きく荒れてしまう」


 そう男は肩を竦めてから、


「さて、そんな片方の陣営だけに質の良い駒を大量投入するような真似を誰がしたのだろうね?」


 男の声は穏やかではあったが――その内に秘められているものはまるで違った。

 もしその場に真っ当な人間がいれば、彼の声に途方も無い怒りの色が混じっていたことが理解出来ただろう。鮮烈な赤。烈火の如き感情。男がここまで感情を露わにするのは実に珍しい。それだけに、現在の彼の怒りの深さが察せられる。

 問題はそんな男の機微を、現在の話し相手である姿無き存在が理解出来ていたかどうか、誰にも分からないということであるが。


「気がつかれないとでも思っていたか? 確かに〈トランスポルテ〉を初めとした機能の大半は君に掌握されたが、それも長くは続かない。徐々に君の所有領域が削られていることに気がついていないわけじゃないだろう?」


 そこまで言った後、男はほんの僅かにだが語調を緩めて、


「……どうせ、君のしていることは全て無駄になる。悪戯をするならば、笑って済ませられる程度の範疇に留めるよう心掛けなさい」


 どこか子供に言い含めるような雰囲気を醸し出しながら、呟いた。


 男は今言葉を交わしている相手に対して怒りを覚えている。それは事実だ。

 だがしかし、それと同時にその相手を憎からず思っていることもまた、事実なのである。どのみち、この相手に残された時間はそう多くはない。そう遠くない未来に、二度とこうして言葉を交わすことは出来なくなるだろう。 

 だからこそ、無駄に目を付けられて残りの時間を短くするような真似はして欲しくなかった。


 もっともそんな男の気遣いを相手が理解しているかどうかは定かでは無い。

 相手はこちらの目的を読み切れていないようだったが、それは男も同じである。今会話している存在が一体何を目的として行動しているのか、理解し切れていないのだ。あるいは明確な目的など無いのかもしれないが。


『疑問ですが。盤上の崩壊。それは、あなた方が望んでいたことではないのですか?』

「……確かにその通りだ。けど、それはまだ早い。もっと先の話のはずだった」


 男は目に見えぬ相手に言い聞かせるように言葉を与える。

 それは教えるというよりは、己の意識を相手に刷り込むかのような様子だった。


「いいかい? 真の意味での戦争は、お互いの駒が拮抗していないと成立しないものだ」


 ――故に。


「多少強引だが、君が崩してしまった駒の比率をイーブンに戻す必要がある」




***




 高度二千キロメートル。

 メルトランテの平原野上空をノブース共和国との国境線に向けて全速力で飛行していたシンゴラレ部隊はその時、言葉も忘れて呆然としてしまっていた。


 任務の最大の肝である施設破壊行程を終え、残存機は上空で合流、撤退している最中のことである。行きは総数五機であった部隊であったが、帰りは四機。セーラ機は作戦で完全に大破してしまったためである。幸いにも搭乗者の回収には成功し、ほぼ死に体のクルス機に収容されて帰路を共にしていた。

 幾分かの不測事態が発生しつつもどうにか作戦時間を超過することなく目的を達成し、後は撤退するだけ。敵の増援も追いつくことは出来ないだろうという安堵の中――それは部隊の後方からゆっくりと白い空気の尾を引いて姿を現した。


『おい、いったいどこの持ち物だあれは』

『そりゃお前……。俺達の後を追ってきてるってんだから、メルトランテだろう』


 呆然と呟いたタマルに答えたのはシーモス。

 その気怠い調子は至って普段通りであったが、それは状況に絶望していないというよりは諦観の念からくる虚脱心のようだった。

 だがそれを叱咤する気にはならない。

 諦めなり失意なり、程度の差はあれ似たような思いをこの場に居る誰もが抱いていたからである。

 それはクルスも例外では無い。

 いや、むしろクルスがこの場で最も正確に現状を把握していたが故に、深く重い感情を抱いていたかもしれない。


「あれは反則だろ……」


 そんな乾いた言葉がクルスの口からついて出る。

 いつの間にか唇は水分を失ってぱさついていた。

 座席後部にある簡易席に固定されたセーラからもの問いたげな空気が伝わってきたが、それに答えられるだけの余裕はクルスには無い。


 〈黒鐵〉との戦闘行為によって両腕を大破、頭部に集積された複合感覚器の大半が停止した今の〈フォルティ〉の状態でも、その存在はしっかりと捉えることが出来る。


 その姿は余りにも巨大。

 大気の層が幾重に重なって白く薄くぼかしていても隠れようがないほどに、そのシルエットは悠々と蒼穹の中を突き進んでいる。

 三機のブーメランのような構造をした平べったい全翼機を前後に少しずつずらして重ね合わせたような、特異な風貌。左右に大きく広げられた三対計六枚の機翼が凍てついた空気を鋭く切り裂いていく。



「〈ヒュトリクス・アーラ〉……」



 直訳すると『ヤマアラシの翼』となるその存在は、かつて『プラウファラウド』のゲーム時代に期間限定で姿を現していた特殊巨大兵器である。色合いは多少違っているようだったが、その姿には相違ない。


 クルスは知っている。

 あの機体には数百という大量の高精度砲台と高速ミサイルの発射台が隙間を埋めるように並べ立てられており、上面から迫る相手に大量の火線を浴びせかけてくる。底面には万能人型戦闘機用の武器性能を遙かに凌ぐバルカン砲が設置され、更に六枚在る翼の上には合計三十六の高出力レーザー兵器が搭載、その破壊力は装甲を増設した重装型万能人型戦闘機ですら一秒とかからずに溶断するものである。

 そして駄目押しとばかりに機後方に存在するのは開閉式の兵器カタパルト。そこからは本体の護衛を任務とする数十の無人戦闘機が列を成して吐き出され、機体に取り付こうとする存在の排除すべく活動を開始する。


 まさにヤマアラシの名に恥じない、全身を重火器という鋭い針で覆い込んだ破壊兵器。

 そこにあるのは性能差だとか、そういう話では無い。

 アレはそもそもイベント用に用意された対多数用のボスユニットであり、かつて挑んだときには七十近くのプレイヤーによる同時攻略によって撃破した代物なのである。そういう風に設計されているのものだ。仮にもし部隊の戦力が万全であろうが、敵う相手ではない。

 その事実は、具体的な性能を知らないクルス以外のシンゴラレ部隊の隊員達も理解出来ていた。


『大きさから見ると、重機動要塞の一種か……? だがあんなものは噂すら聞いたことがない』

『新型か、或いはどっかから借りてきたのかー。どっちにしろ目の前の現実は変わらないですよー……。一番機、どうするんですかー?』

『縮尺が狂ってるから分かり辛いが、かなり早いぞ。振り切るのは無理だな。どうする?』


 判断を仰がれて、タマルは僅かに思案する。

 状況は中々に酷い。 

 そのネガティブ要素は色々と存在するが――まず第一に、部隊全体が著しく消耗している点が挙げられる。一機は撃墜され、一機は中の搭乗者が違っていれば飛んでいられるかも怪しい状態。エレナ機も厄介な敵と遭遇したらしく、少なくない損傷を負っている。

 そしてシーモス機とタマル機は機体こそ無傷に等しいものの、肝心の兵装の弾薬が既に殆ど無い。これは言わずもがな、敵施設に向かって景気よく火薬をばらまいてきたからである。

 付け加えるならば、すでに搭乗者たちの疲労度も相当なものとなっている。間に小休憩を挟んできたとはいえ、既に丸一日以上作戦行動を続けているのだ。

 総じて見るとつまり――現状この部隊の戦闘能力は無いに等しい。 


 そしてネガティブ要素の第二。

 それは相手の戦力が未知数であるということ。

 こうして自分達を追ってきているからには爆撃機の類いではないのだろうが――具体的な性能は全て謎に包まれている。攻撃手段も、有効射程も不明。それを知ったときにはこちらはあの世行きになっている可能性が非常に高い。


 そうなると自分達に取れる手段は撤退の一手になる。

 それ以外に選択肢は無いといえる。


 ――だが、そもそも。

 ――仮に国境線を越えるまで逃げ切ったとして、あれは止まるのか?


 予定通りに相手の追撃が万能人型戦闘機の編隊だった場合ならば、追いつかれるよりも先に国境を越えてノブース共和国に侵入してしまえばそれで終わりであった。

 如何に属国に等しい関係であっても、政権や軍備を剥奪されているわけではない。事前の通告も無しに国境線を越えてノブース共和国の軍と事を構えるような判断はしない。

 だがあの、自分達の背後に迫る凶鳥ははたしてそんな倫理観を持っているのだろうか。

 普通に考えればあれはメルトランテ所属の兵器だ。国境線を越えてくるとは思えない。

 だがしかし――あの機影からはそういった常識的なものを一切合切切り捨ててしまうような、暴力的な雰囲気が感じられた。


『……つっても、それ以外に方法は無いんだけどよ』


 がしがしと頭を掻きながら、深い溜息を吐き出す。

 もしかしたら、既に活路は消え去っているのかもしれない。

 例え自分達がどのような行動を取ろうとも結果は決まっているのかもしれない。

 しかし、それでも部隊を預かる自分が諦めるという選択肢をとることだけはありえなかった。部隊の一番機を預かっている以上、自分は部隊員達が助かるために最善を尽くす義務がある。


『……全機、進路そのまま。予定通り国境線を目指して撤退を続ける。相手の射程は不明だ、いつでも散開出来るように意識しておけ』

『了解。……高度はどうする? 今のうちにめいいっぱい上げておくか?』


 このまま追いつかれて頭上を取られるのはあまり嬉しくない。

 燃料や残存電力に不安はあるが、時間的余裕がある間に少しでも状況を対等に近づけようとするのは当然の発想である。


「駄目だ」


 だがしかし、通信機から聞こえてきた声に、クルスは言葉を挟んだ。


「……あれの機上は砲火の結界だ。対策も無しじゃ一瞬で鉄屑にされちまうぞ」


 その訳知りな口振りに部隊は暫く沈黙したが――すぐに我に返ったように声が響き渡った。


『おいクルス、お前あれが何なのか知ってるのかっ?』

「一応……。全く同一かどうかは知らないけどな」

『そういうことは早く言え、馬鹿野郎! 知ってるって言うなら、情報を寄越せ! なんか弱点とかねーのか!?』


 見つけた餌に食いつくようなタマルのがなり声に顔を顰めて、クルスも思わず叫び返した。


「そんな都合の良いものあったらとっくに教えてる! いいか、あれは数十機の万能人型戦闘機を同時に相手にするだなんて馬鹿行為をするように設計されてるんだよ! 事前に対策を練って、数を揃えて、それでようやく互角に戦える代物なんだ! こんな突発的に出会って、こんな少数で勝てる相手じゃない!」


 コックピット内に声が反響する。

 作戦中においては珍しいクルスの荒々しい口調に、通信の向こう側にいるシンゴラレ部隊の面々もその内心を悟ったようだった。

 クルスとて全員が生き残るような手立てがあればとっくに提案している。それが今になるまで出ていないということは――つまりそういうことなのだ。


『ち……まあ、そうか。だが何にせよ情報は必要だ。お前の知る限りでいい、少しでも寄越せ。相手の武装はどうなってる? あの位置からここに届くようなもんは持ってるのか?』


 幾分か落ち着きを取り戻したタマルの声に促されて、クルスは己の記憶を探る。

 クルスの専門はあくまで対人戦であり、ボスユニットなどの破壊イベントには余り積極的に取り組んでいなかった。クリア報酬である特別兵装目当てで参加はしていたが、討伐の中心にいたとは言えない。

 加えて、そういったボスユニットの詳細な性能はプレイヤー達には一切知らされておらず、基本的にはプレイヤー達がトライ&エラーを繰り返しながら自身の経験として刻み込む作業になるのが殆どだ。口頭で伝えるのは難易度が高い。

 もしこれが万能人型戦闘機の兵装性能を教えろというのだったら鼻歌交じりに(そら)んじることが出来るのだが、ボスユニットの性能評価となると少々管轄外のところである。


「そんな大それた長距離兵装は殆ど無かったな……最大でも中距離ミサイルが精々だった」


 当時の戦闘光景を脳裏に再現しながら、焦らずにゆっくりと情報を伝える。


「厄介なのは上面で、百を超える高精度砲台とミサイル弾、光化学熱兵器のオンパレード。迂闊に姿を晒したら一瞬でミンチだ。それと比べれば底面は比較的まだ弾幕は薄い。砲台の数も上の半分以下……のはず」

『最後に曖昧な言葉を最後に付けたな、おい』


 呆れを多分に含んで聞こえてきたその声に、クルスは顔を顰めて溜息を吐く。


「仕方が無いだろ……。あれが俺の知ってるものと同一かどうかは知らないし。現にここから確認出来るだけでも色合いが違ってるからな」


 クルスの知っている〈ヒュトリクス・アーラ〉は黒を基調にしたものだったが、今背後に差し迫っているものは青系色が多用されているのが一目で見て取れる。機体のシルエット自体は記憶と差異が無いように思えるが、それもどこまで宛てに出来るかは謎だった。外側だけ同じで中身は全くの別物という可能性も無いわけではない。


「下方は火線が薄くて比較的潜りやすいが……機体後方にハッチが存在している。そこから射出される小型無人機が取り付こうとする相手から本体を護衛をする仕組みになってる」 


 小型無人機は一つ一つの戦力としては大したものではないが、それが群のように襲いかかってくるとなると話は別だ。兵装もお粗末な機銃しか持っていない代物だが、数が多いというのはそれだけで脅威となる。


『なんだ航空空母の真似事までしてるのか、あれは。欲張りな野郎だ』

『嫌味なくらいに万全ですねー』


 状況を感じさせない力の抜けるエレナの声が聞こえてくるが、その内容は間違ってはいなかった。

 ヤマアラシの名に相応しく、あの〈ヒュトリクス・アーラ〉が持つ身を守るための針の群はまるで隙が無い。強いて欠点を上げるならば、全ての砲台の照準が火器管制の自動予測に頼っているために囮などには引っかかりやすいことくらいだろうか。だがそれすらも暴力的ともいえる数の力押しによって強引に乗り越えてくる。多少の小細工では押し潰されるだけだ。


『ふん。まあいきなり遠くからずどん、ってことはなさそうでなによりだな』


 一通りの情報を聞き終えたタマルがそんな慰めにもならない事を口にする。

 クルスの口述から分かったことと言えば戦いにもならない程の戦力の開きがあるということであり、それくらいしか明るい材料が無かったのだろう。

 まあそれとて、時間の問題なわけだが。


『結局逃げることくらいしか出来ることは無いってことか。――三番機、このままだといつ頃に追いつかれる?』

『そうだな……、こちらが相手の予想射程距離に納められるのは大体三分ってところか? あの野郎が急に加速したりしなければの話だがな』

『ちょっとだけ、辛いかもー?』


 エレナの呑気な軽口に返事をする人間は居なかった。

 五分間加速し続けたところで、国境線までにはまだ距離がある。

 追いつかれたからと言って一瞬で撃墜されるわけでは無いだろうが――そのまま逃げ切るのは絶望的だ。疲弊しきった今の部隊がそう長く持ち堪えることなど出来はしないだろう。


 逃げ切れないと分かっている、絶望の行軍。

 だがそれでも部隊は飛び続けるしか無い。 

 

『……全機、この期に及んで推進剤なんかケチるなよ。そして諦めんな。足掻け。墜落したら走ってでも進め』

『おいおい、無茶言うな……俺は人間やめたつもりはないぞ』

『勤務外手当がほしくなりますねー』

『うっせえ、命令だ。戻れば酒くらいなら奢ってやる。だからいいか、死んでも生き残れ』


 隊長機からの無茶苦茶な命令に、僅かだが空気が弛緩する。

 彼女の言葉は根拠も具体性も無いくらいに酷いものだったが――建設的ではある。

 現状で出来ることなどそれくらいしかないのだから、タマルの言うとおり死ぬ気で死なないように取り組む手しか残されていないのだ。



「……」



 だが一人、クルスだけは違っていた。

 通信機から聞こえてきたタマルの声をどこか人ごとのように感じながら、クルスは考える。

 イベント用の特殊兵器である〈ヒュトリクス・アーラ〉には大きく分けて三つの攻略法が存在する。


 一つは危険を回避して、火線の薄い底面を狙う方法。

 無難ではあるが〈ヒュトリクス・アーラ〉の機底は上面よりも遙かに装甲が分厚く、有効打に至らしめるにはそれを貫通出来るだけの火力、そして相当な根気と時間が必要だ。加えて無人の護衛機が次々と出現するために、その難易度は決して低くない。


 二つ目は上面から攻める方法。

 ヤマアラシの名に相応しく針山のような防衛兵装を持っている機体上面であるが、その装甲は底面と比べればかなり薄い。加えて弾薬庫への引火を発生させることが出来れば、大きな損傷を与えることが出来る。敵機の照準を引きつける為に特化した囮役が必要ではあるが、実は〈ヒュトリクス・アーラ〉の撃破を狙うならばこれが正攻法といえる。現にかつてクルスがゲーム時代で〈ヒュトリクス・アーラ〉を破壊したときには、この方法が用いられていた。


 三つ目は遠距離からの飽和攻撃。 

 相手の射程外から一方的に攻撃を加えるという、一見では理に適った攻略方法である。先述通り〈ヒュトリクス・アーラ〉の最大射程はそう大したものではないのでそういった戦術も可能になる。

 ただしこれは机上の空論だ。

 〈ヒュトリクス・アーラ〉には迎撃用の近接防御兵装や攪乱幕が搭載されているために、長距離誘導弾はそこまで効果を発揮しない。そうなると作戦に採用される兵器は電磁投射砲や高出力の光化学兵器となるのだが、そういった癖の強い武装の使用者は数が多くない。加えて〈ヒュトリクス・アーラ〉の速度が万能人型戦闘機よりも大分速いためにすぐに追いつかれ、この方法での成功例は一度も聞いたことが無かった。


 いずれにせよ、これらの方法は現状のシンゴラレ部隊には到底実行不可能。

 部隊に底面の装甲を破壊出来るだけの火力は無く、かといって上面の火線を引きつけるだけの数も存在しない。長距離射撃兵装など言うまでもないだろう。

 どれを選んだところで結末は変わらない。


 しかし、クルスは知っていた。

 特殊兵器〈ヒュトリクス・アーラ〉の撃破方法には、プレイヤー間でもう一つだけ確認されているものがあるということを。だがそれは、危険度で言えば上面の火線を潜るよりも高い、博打に近い方法でもある。

 より正確に言えば、捨て身というべきか。


 上からでも下からでも無く――動力炉の直接破壊。

 三つの方法とは異なるアプローチ、外からではなく内部に侵入しての突入作戦である。


 〈ヒュトリクス・アーラ〉の後方部には護衛用の無人戦闘機を射出するための搬入口が存在しており、そこから逆にプレイヤーが内部に侵入出来るようにも設定されているのである。

 外と違い中に入ってしまえば然したる防衛装置は無く――精々がいくつかの隔壁程――度道なりに通路を進めば機体の心臓部である動力炉へ辿り着くことが出来る。

 当然、それを破壊すれば鋼の怪物の息の根を止めることが出来るわけだが……、最大の問題は動力炉破壊と同時に大爆発を起こすということだった。


 それは恐らく、制作者が用意した遊びのようなものだったのだろう。

 幾多の仲間達と共に業火の波を乗り越えて巨大機動兵器の内部に侵入、己の命と引き替えに強敵を破壊するという、古典とも言うべきシチュエーションの再現である。


 なるほど、ゲームならばそれでも良いだろう。

 例え数機が撃墜されてもプレイヤー側が勝利となれば、生存者にも撃墜者にもその価値は等しく与えられる。任務が終わった後はガレージなりロビーなりに戻って知り合い達と談笑しながら、幾らでもやり直すことが出来るのだから、好きなように遊べば良い。


 だが、今のこの世界ではどうか。

 今更この世界が電子空間上に存在する仮想現実などとはクルスも考えてもいない。命が生まれて、育ち、そして死ぬ。この世界は確かに存在する現実である。

 撃墜と死は、ほぼ同意義だ。ましてやそれが高空となれば尚更である。

  

 成功するにしろ、失敗するにしろ、生存は絶望的。

 そんな救いの無い現実を前にクルスの胸中で渦巻いていたものは――己の命に対する悋惜(りんしゃく)ではなく、果たして己の行動にどれだけの勝算があるかという、ただ実利的なものだけだった。


 このまま愚直に逃走を続けたとしても、まず間違いなく国境線を越える前にクルス達は相手の射程に捕まるだろう。シンゴラレ部隊の面々は確かに並の搭乗者よりは優れた技量を持っているのだろうが――〈ヒュトリクス・アーラ〉の攻撃をそう長く躱し続けられるとは思えない。

 もし部隊が生き残る術があるとするならば――それは〈ヒュトリクス・アーラ〉の破壊以外にはありえないのだ。


 クルスが乗っている〈フォルティ〉は既に半壊状態。

 寒冷地仕様によって端々に妙な硬さを感じるうえに、両腕は破損、頭部の複合感覚器(センサー)は大半が機能を停止し、現在はそれよりも幾段も性能の劣化した予備感覚器(サブセンサー)で補っている始末。アルタスに来た頃の〈リュビームイ〉ですら可愛く見える惨状である。

 ただ唯一にして、最大の幸運は、推進ユニットの類いがほぼ無傷で残っていることだろう。至近距離で爆発を浴びながら無事だったのは、僥倖と言うしかない。


 不安要素は機体以外にもある。

 そもそも、眼前の〈ヒュトリクス・アーラ〉が、本当にゲームの時と同じ構造をしているかどうかも不明であった。

 常識的に考えるのであれば、機内格納庫から機体の動力炉へ万能人型戦闘機が通れる規模の通路が繋がっているなどありえるはずがない。そんな構造をしていたところで、所有者にとっては何の得も無いからである。

 ゲームにおいてそうなっていたのはあくまで制作者達がプレイヤー達の為に用意した一つの攻略法だからという理由に過ぎない。どれだけ道理に合わなくとも「ゲームだから」この一言で全ては解決出来てしまう。

 だがしかし、現実となったこの世界でそのような欠陥構造が未だに放置されたままであるのかどうかは、クルスには分からなかった。いざ侵入してみればそこは行き止まりという可能性も充分に有り得る。


 成功率は万が一。

 もしかしたらそれ以下かもしれない。

 砲火を潜り抜け辿り着けたとしたら、それは最早奇跡と言っても良い偉業だろう。

 だがそれでも、ほんの一筋でも可能性があるというのならばやるべきだった。それを成せる人間がいるとしたら、この場には自分を置いて他にいない。

 不思議と自分の命が消えることに対する恐怖は無い。

 現実感が湧いていないのか、或いは部隊のためと考えれば命など惜しくないと思っているのか――いまいちその理由は自分でも判別出来なかったが、なんであれ好都合ではある。恐れで動きが鈍れば、ただでさえ絶望的な成功率が更に低くなってしまう。


 だがそんなことを考える余裕すらありながらクルスが未だ行動に移せていないのは、偏にたった一人の存在。窮屈なコックピットの中で呼吸を共にしている同乗者が原因であった。


「クルス少尉」


 まるでこちらの意識がどこに向いているのか察しているようなタイミングで、セーラから声がかかった。

 平坦で、冷えた金属を思わせるような声質。

 だがそれもいまは僅かに乱れているように思えた。見えなくとも、彼女の口の端からは普段よりもほんの僅かに乱れた吐息の音が漏れ出ている。

 当然といえば当然か。

 彼女は現在、右腕が潰れているとしか思えない損傷を負っているのだ。通常であれば激痛で意識を失っていてもおかしくない大怪我である。

 彼女は問題無いなどと言っていたが、そんなはずはない。簡単な応急処置をしたとはいえ、気休め程度にしかなっていないだろう。こんな事態でもなければすぐに医者に診せるべき状態である。


「セーラ、傷は大丈夫か?」

「はい」

 

 その返事が真実かどうか、クルスにはいまいち判断がつかない。 

 普通ならば大丈夫なはずも無いのだが、彼女の性質から考えて変に強がりや誤魔化しをしているとも考えづらい。彼女の申告を信じるべきか、常識的に考えるべきか。まあいずれにせよ現状でしてあげられることは何も無いのが難点である。

 クルスは自分以外の存在がこの場に居ることに、憂鬱げな溜息を吐き出す。


 そう。

 今こうして会話をしている少女の存在こそが、クルスに行動を踏み切らせない要因であった。


 自分が死ぬのは良いが――別に死にたいわけではないが――その巻き添えのような形でセーラまで命を落とすという事実が、鉛のように重くクルスの心中にのしかかる。

 作戦を失敗する危険を冒してまで彼女を救出しておきながら、今度は生存確率の存在しない死地へと連れて行こうとしている。

 命を拾い上げて、次には捨てる。

 それは余りにも無責任で、勝手であった。

 子供が無邪気に残酷な行いをするかのような、唾棄すべき所業である。


 こんな事ならば、自分の機体が半壊状態なのを理由にセーラを別に誰かの機体に移しておくのだったという、強い後悔が去来している。

 無論、撤退行動に入ってから今に至るまでそんな暇は存在していなかったのだが――それでも無理矢理にでもどこかでするべきだったと思わずにはいられない。


 次第に背後を飛翔する巨獣との距離が縮まる最中、狭いコックピット内に人間二人分の呼吸音が響き渡る。いや、それは錯覚か。如何に機密性の高い万能人型戦闘機のコックピットと言えども、機体自身が発する音までは遮断しきれないはずだ。細い人の吐息など掻き消えているはずである。


「……迷っているのですか?」


 まるでこちらを見透かしているかのようにセーラが言う。

 実際、そうなのかもしれなかった。

 アルタスに来てからクルスと最も時間を同じにしていたのは、この金髪の少女である。短くない時間を共にしている内にクルスが彼女の僅かな機微を感じ取れるようになっていたのと同じように、セーラもまたこちらを相手に似たようなことを出来るようになっていたのかもしれなかった。

 態度や表情から交流を持ちづらい印象を持つ彼女だが、決して人間嫌いというわけでは無い。その片鱗をクルスは何度か感じてきていた。

 

 背後に居る少女が今どんな顔をしているのか、クルスには分からない。ただその声音にはこれまでとは違う、人間が持って然るべき意思や思いといった感情の色が乗っているように思えた。


「具体的な事は私には分かりませんが……もし方法があるならば、あなたは迷わずにそうするべきです」


 その場に足踏みを続けようとするクルスの背中をそっと押し出すようなセーラの言葉にクルスは軽く目を見張り、 


「いや……」


 僅かに言い淀んだ。


「……はっきりと言うけどな――それが成功するにしろ失敗するにしろ、この機体は絶対に撃墜されることになるんだよ」

「そうですか」


 その普段の彼女と少しも変わらぬ返事に、クルスは毒気が抜かれたように溜息を吐いた。


「そうですかって……お前なぁ。分かってるのか? 撃墜だぞ、撃墜。つまり、絶対に死ぬってことだぞ?」


 本当に理解出来ているのだろうかとクルスが思わず半眼で呆れると、セーラは僅かに思案するような様子を見せた後に、小さく口を開いて訊ねてきた。


「私はあなたの足手纏いですか?」

「いや違くて、そういう話じゃなくてな……」


 戦力云々では無く、単純に知り合いに死なないで欲しいのである。

 それは決して特別なものではなく、人であれば誰しもが少なからず持っている類いの感情だとクルスは思っている。


 クルスが行おうとしている選択は、自己犠牲などという大層なものではない。

 どのみち、何かしなければ自分も含めて部隊は全滅することになるのだ。だとすれば例え自分が生き残る可能性が無くても、他の人間達が助かる見込みがある選択をするのは当然である。謂わばそれは損得勘定から来る、合理的な判断というものだ。

 ただその確実に失われるという部分に、自分以外の存在が混じっているという事実が気分を憂鬱にしてくるだけで。ましてやそれが部隊内で一番年齢が近く、一番長く時間を共に過ごしていた人物ともなれば躊躇うのは当たり前だろう。


 しかしそんな感情的な面の話を伝えたとして、果たして金髪の少女にどこまで通じるだろうか。これまでのセーラから推測すると、小さく小首を傾げられてそれで終わってしまいそうな気もする。

 ……試しに想像してみると、やけにリアルにその光景が思い浮かんできた。しかも妙にしっくりと来てしまうのだから始末が悪い。

 だがそんなクルスのどうしようもない予想とは裏腹に、背後から聞こえてきた囁くような少女の声が、クルスの耳の中へ浸透する。


「大丈夫です」


 普段通りの平坦で、暖かみの感じさせない声。

 だがそれは妙にはっきりと、無表情を旨とする少女にしてはやけに意志の強さを感じられる音だった。


「死ぬのは怖くありません」


 それと同時に背後から白い手が伸びてきて、ゆっくりとクルスの頬を撫でてきた。

 突然の出来事にクルスは思わず身体を震わせて、後ろを見やる。

 そこに在るのは幼さを感じさせる少女の整った顔立ち。

 人形と見紛うような白陶磁器のような肌の色に、金糸を思わせる光沢のある髪。

 精巧な人間の偽物とも感じる少女の際だった容姿は、初めて出会った時から何一つ変わっていない。

 しかしただ一点。

 かつては無機質な硝子玉にしか思えなかった彼女の赤色の瞳に、現在では言葉では言い表せないような何かが宿っている気がした。


「本当怖いのは死ではなく――それによって二度と手に入らなくなることです」


 まるで伝わってくる感触を余すこと無く味わうかのような、セーラの左手の動き。掌だけでは無く、細く白い少女の指が微かに揺れて、妙なむず痒さを伝えてくる。

 これまでに無い人間味を感じさせるその仕草に、クルスは驚くよりも先に思わず怪訝そうな顔を浮かべてしまった。


「……手に入らなくなるって、なにを?」


 セーラのその妙にはっきりとした受け答えに、クルスは訊ねた。頭の中でいくつか解答を思い浮かべて見るも、どれも釈然としない。まさか食べ物では無いと思うが……。

 クルスのもの問いたげな視線に対して、金髪の少女は何も喋らなかった。問いかければ大抵答えてくれる彼女にしては珍しく、桜色の唇を繋ぎ合わせたまま、その赤い双眸でじっとクルスを見つめてくる。


 そして――気のせいだっただろうか。


 それはほんの些細な変化。

 仮に出会ったばかりの時であったら絶対に気づけなかったような、そよ風の向きが微かに変わった程度の、小さな変化の訪れ。

 クルスの錯覚や見間違いで無ければうっすらと金髪の少女が微笑んだように見えた。


「――」


 思わず、瞬く。

 そうして改めて見てみれば、そこにあるのはいつも通りの少女の顔。

 無口、無表情、無反応。

 三つの要素を兼ね揃えた普段と変わらぬセーラの様子に、クルスは思わず今自分が見たものは夢か幻だったのかと疑う。


 クルスは暫し呆然とセーラの顔を眺め――だがしかし、すぐに、まあ別に何でもいいかと、小さく首を振った。

 先程まであった漠然とした感情の苛立ちのようなものが、消えていた。理由は何だろうか。セーラを巻き込むという事実を諦めて受け入れたのか、或いは彼女が死が怖くないと言ったのを免罪符に呵責から逃れているのか。

 もしかしたらもっと単純に、少女の初めて見る表情に(ほだ)されたのかもしれない。

 彼女を殺したくないという思いは依然として残ってはいるが、それと同時に与えられた言葉に少しだけ嬉しいと感じてしまっている自分がいる。自嘲したくなるほどに酷い人間だ。


「……後で文句言われても知らないからな」


 だがいずれにせよ、クルスの意思は固まった。そうなればあとは迷う必要も無く、実際に行動に移すだけである。

 だから、ただ端的に。

 迷いも無くクルスは言う。


「じゃあ、行くか」


 目前に迫るのは巨大な獣。

 零下の大気を掻き分けながら悠々と空を支配し、近づく者を近代兵器という名の針で容赦なく刺し貫く『ヤマアラシの翼』。

 通常であれば数十機という戦力を必要とするその相手に対して、こちらは抵抗手段すらほぼ持ち得ない壊れかけの万能人型戦闘機とその中に収まった二人の人間。

 勝ち目など万が一にも無い。

 そしていずれの結果にせよ待っているのはたった一つの逃れられない現実。

 だがそうだとしても、クルスには絶望の色は無い。


「はい」


 小さく聞こえてくる金髪の少女の平坦な声。

 無口、無反応、無表情。

 既に聞き慣れたと言い表しても良いセーラのその音が、今は澄んだ鈴音のようにクルスの胸内に染み渡っていった。




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