銀世界の騎士 - III
エクタル高原レーダー基地。
大国メルトランテの北東部に広げる平原野に位置する軍施設である。
付近に大きな都市もないその場所は、口さがなく言ってしまえば辺境の地であった。最も近い国境線は北に位置するノブース共和国とのものだが、その国は事実上の属国。東には長年の戦争相手である独立都市アルタスが存在しているものの、現在は停戦期間中だった。
しかもレーダー基地と独立都市の間にはいくつかの軍事拠点が存在しており、そこを一っ飛びに敵が来ることはまず無い。
この基地は前線から外れた地なのである。
当然、そこに配属されている者達は必要限の仕事はしつつも、戦時中の緊張感とは縁遠い空気の中で生活していた。
そもそもエクタル高原レーダー基地機は名称に基地と付いてはいるが、この表記は正確ではない。
ここはあくまで対外索敵用のレーダーを設置した施設であり、決して軍事拠点などではないのだ。常備されている戦力も万能人型戦闘機が少数といったところであり、固定砲台などは一つもありはしない。
それは襲撃の可能性が極めて薄い立地条件に加えて、緊急連絡が行けば近隣の基地から十分とかからずに援軍が駆けつけてくるからである。この基地の本当の防備はそれであり、常備されている戦力はそのための時間稼ぎのためのものでしかない。
となれば必然。
そんな場所に防衛戦力として送り届けられた人員がいたとしても、大した事も無く暇を持て余すのは当たり前ともいえるわけで。
「……むう」
幾つもの長机が並んでいるこの場所は食堂である。
前線からは外れた辺境に存在する基地らしく、その規模も大したものではない。簡素な椅子と机が並んだその空間にいる人間達は疎らである。それは現在が本来の昼食時からは外れた時間帯だったためだった。
申し訳程度の仕事として外で見張りをしていた時間の都合上、一ノ瀬が食堂に来たのがこの時間になってしまったのである。
そんな彼は昼時がずれ込んでしまったことに文句を言うわけでもなく、自分の席に置かれたものを何故か不思議そうにまじまじと観察していた。
とろみの強い赤黄色のルウに、その横には焼き色の入ったパン。付け合わせにはサラダもある。
それは、どう見てもカレーであった。
「ううむ」
一ノ瀬は少し呻いた後に、パンを手に取った。そしてルウを掬うように付けた後に口に含む。
「……む」
一ノ瀬が知っているものよりも香辛料の風味が強い。少し鼻に抜けるような感じがあるのはハーブの一種だろうか。生憎と余り食べ物に関しての知識には疎い一ノ瀬には、それが何かまでは分からなかったが。
だが、カレーだ。
カレーに違いなかった。
「どこにいってもこの食い物は美味いよなあ……」
そう、しみじみと口にする一ノ瀬。
レストラン、専門店、海外。
これまでに色々な場所でカレーを食べたが、口に合わないことはあれども不味いと感じたものは殆ど無かった。そもそもが一から香辛料の配合などを仕様としない限りは、切った具と一緒に煮込めば完成する簡単な料理だ。火をちゃんと通していない、焦がさないなど、そもそもの調理を失敗しない限りは不味く作る方が余程難しいのかもしれない。
どうやら、そのルールはこの見知らぬ土地だか世界でも適用されたようである。
カレーすごい。
「……ユーマ、あなたはさっきから何をやっているのですか?」
対面の席に座るノエルが明らかに怪訝そうな表情で見やってきていた。
光沢のある栗色の髪を持つ、碧眼の女性。
彼女のその視線は言外に、一ノ瀬の落ち着きが無い様子を咎めていた。確かに少し行儀が悪かったかと反省しかけたが、そういうことでは無いかもしれないと思い直す。
まじまじとカレーを観察しながら食べる様子が珍しかったのか、人混みの少ない食堂内の視線が一ノ瀬に集中していたからである。そのどれもが何か珍獣を見るような目であった。これではノエルが苦言するのも仕方がない。
だが一ノ瀬としては、こちらの心情も汲んで欲しい。
訳の分からん状況に、見知らぬ土地。
戦争しているのが当たり前、近代兵器で武装したテロ集団が跋扈しているような世紀末世界。
そん中でひょいと顔を出してくる故郷の庶民料理である――残念ながらカレーライスでは無かったが。
ついそこに違和感を覚えてしまったとしても、仕方がないのではないだろうか。
まあ、それを口にしたところで目の前の女性から共感を得られるはずもないので、一ノ瀬は適当に誤魔化すしかないのだが。
「いやさ、どこに行ってもカレーって美味いよなって思ってさ」
「……はあ。美味しい、でしょうか?」
ノエルはルウを付けたパンを口に含んだ後に、首を傾げた。
「……私は正直あまり好きではありませんが。食料プラント製の食べ物はやはり本物と比べると食感も風味も見劣りしますし、味気ないです」
「……え? 何それ?」
「何って……知らなかったんですか? ここの基地で出されている食料品の殆どは食料プラントで作った紛い物ですよ?」
「……いや、そもそも食料プラントってなんぞ?」
聞き慣れない言葉に一ノ瀬が頭の上に疑問符を浮かべると、ノエルは呆気にとられたように目を瞬かせて。
その後に、まるで一児の母親が自分の子供は出来の良い才児だと思っていたら実はとんでもない大馬鹿だったことに気がついてしまったかの如く、眉間に指を当てて呻く。
「なんで知らないんですか……。食料プラントというのは……簡単に言えば、食料の模倣品を生み出す施設です。このカレーに使われている肉は動物性プラントを加工したものだし、付け合わせのサラダは培養しやすい海藻種を青菜の形に押し固めたものなんですよ……」
ノエルの言葉に一ノ瀬は暫し口を半開きにしたまま沈黙した後に、
「じゃあ……、このパンは?」
「同じです。植物性と動物性のプランクトンを一定の割合で配合して固めて、それっぽく味と風味を付けただけの代替品です……ほんとになんで知らないんですか」
頭を抱えそうになっているノエルを尻目に一ノ瀬はまたしても沈黙を保った後に、はあと感心の混じった溜息を吐き出した。
「すごいもんだなあ」
それが正直な感想である。
自分が口にしていたものが本物では無い紛い物などと、一ノ瀬は今こうしてノエルに言われるまで全く気がついていなかった。口に残る香辛料の風味は、どう考えてもカレーのそれである。
こんなものがあるなら食糧問題なんて一気に解決しそうだなーと、自分には全く関係ないかのように一ノ瀬が考えていると、ノエルが青筋を立てた。
「……ユーマ、分かってるんですか。ここでの任期を終えた後は、あなたはお嬢様の近衛となるんですよ! そんな常識知らずでは困ります! あなたの失敗はあなただけでなく、お嬢様の恥、ひいては会社の汚点になってしまうのですよ!」
「そう言われてもな……」
一ノ瀬は困った風に頬を搔く。
実感が無いというのが、実のところだ。
この世界で最も幅を利かせている軍事企業がトハルト・インダストリーであり、一族経営をしているそこの社長令嬢がとんでもない重要人物だと言うことは流石に一ノ瀬も分かる。……何となく程度だが。
しかしその超がつくVIPの環境に自分が組み込まれると言われても、なんだそれはと首を傾げたくなってしまう。
場違いというか、現実味が無いというか。
人違いじゃないだろうかと思わずにはいられない。
日本にいたときはただ極普通に、平凡に暮らしていただけである。特別なことなど何もない。街で指刺せば十中八九似たような人間に当たる、そんな人間である。
それをお偉いさんの護衛だ、お気に入りだと言われたところで、認識が伴うはずもない。
「いいですかユーマ、お嬢様はあなたを高く評価しているんです! ならばこそ、あなたはお嬢様の期待に応える義務があります! 知識は勿論、ここでの一挙手一投足がお嬢様の評価に繋がると心得てください!」
「んな無茶な……」
義務も何も、半ば成り行きに流されてる状態でここまで来ていて、護衛とかの自覚無しなんだが。
思わず溜息を吐こうとした一の瀬であったが、目前のノエルの険しい表情を見て引っ込める。まあ今更何を言っても無駄かと諦めて、話を逸らすように今の話題とは別に気になっていたことを口にした。
「……にしてもさ」
「なんです?」
露骨に話を逸らそうとする一ノ瀬の思惑には気がついたようだったが、その事を殊更に突っつくこともなくノエルは聞く姿勢に入った。妙に聞き分けが良いというか、礼儀正しいというか、何にせよ彼女のこの性格はこういう時にはありがたい。
「いやね、前から思ってたんだけどさ。なんか……、この基地の人達、妙によそよそしくない?」
一ノ瀬はそう言いながら周囲を見渡した。
ここに送られてからまだ十日程度だが、仕事以外でここの人達と会話した記憶が殆ど無い。幾度となくこちらから話しかけたこともあるのだが、誰もが一言二言言葉を交わした後は逃げるように立ち去ってしまうのだ。
現に今も。
自分達が座っている席周りだけはぽっかりと空白地帯が出来上がってしまっている。まるで爆弾でも落ちてきたかのようではないか。
「もしかして俺達、嫌われてるの?」
一ノ瀬の言葉にノエルは手に持っていたスプーンをトレイに置いて、少しだけ考える仕草を見せた後に、
「嫌い……、というよりは面倒がられているんでしょう。国軍ではなく、企業から派遣されてきた私達は謂わば他所のお客様ですからね。しかもお嬢様の近衛候補となれば単純な階級では扱えません。関わりたくないに決まっていますよ」
「あー」
なるほど、周囲からしてみればまさしく自分達は爆弾のような存在ということらしい。立場に胡座をかいて問題を起こす気は毛頭無いが、自分達と親しくも無い基地の人間からすれば分かるはずもない。彼らからすればどんな難癖を付けてくるかも分からない相手とは出来る限り距離を置きたくなるだろう。
――その心理は何となく分かるのだが、
「……ここに来てからは見張りしかしてないし、いいのかこんなんで」
いまいち釈然としない様子で呻く。
別に積極的に働き者になりたいとは言わないが、毎日こうしてノエルとセットで御飯と見張りの日々を繰り返して、二ヶ月後には「じゃあこれで実地経験終わりね」と放出されるのも何だか違う気がするのだが。
「いいんですよ。そもそもユーマがここに来た理由は近衛の採用条件を満たす為だけです。こんな辺境の場所に派遣先を設定したのも、万が一が無いようにというお嬢様のお心遣いなんですから」
なおも微妙な表情を浮かべる一ノ瀬に対してノエルは「それに」と付け加えて、
「ここの方々としても、私達のような余所者にうろうろされるよりは大人しくしていてくれた方が楽だと考えていると思いますよ。そもそもこんな辺境地では敵襲もありえませんし、余計な面倒を起こさない方がこの基地全体の為です」
「……そんなもんか」
まあ幾ら戦争の絶えない物騒な世界とはいえ、誰も彼もが常に気を張って緊張しているわけでもない。存外、前線から外れてしまえばそんなものなのかもしれなかった。
「まったく、ユーマは妙なところで生真面目ですね」
「お国柄なもんで」
肩を竦める一ノ瀬に対してノエルがふと苦笑をして見せた。
「いいじゃないですか。以前も言いましたけど、待っているだけで宝が手に入るのなら素直に待ちましょう。どうせお嬢様の近衛になればユーマは私の部下になるんですから、そのうち否応なしに忙しくなりますよ……だいたい、こんな安全地帯じゃ見張り以外にすることも特にないと思いますしね」
それは肩を力を抜くようにというノエルなりの気遣いだったのだろう。
だが最後に付け足された言葉に、ユーマはいまいち信用がなさそうに目を細めた。
「さっきから安全だとか、敵は来ないとか行ってるけど……、それ本当なんだろうな?」
「ユーマも心配性ですね。――いいですか? ここから一番国境線が近いノブース共和国は事実上この国の属国です。そこを除けばあとは西も東も他の軍施設に囲まれていますので、ここが襲われることは万にもありませんよ」
「うーむ……」
教師が不安がる生徒を諭すような口調をするノエルを、一ノ瀬はつい胡散臭そうな視線で見返してしまった。
何故だろうか。
安心だ、安心だ、と言われるほど逆に不安になってくる人の心理というか。
スーパーなどででかでかと特売品の産地が書かれていると、逆に怪しく見えてしまうというか。
目の前の女性が事実を口にすればするほど、どんどんその信用が薄っぺらくなっていく気がするのだ。
別にノエルのことをどうこう思っているというわけでも無いのだが……、
「なんかなあ……すっげえフラグに聞こえるんだよなあ、それ」
一ノ瀬の呻くような言葉に、ノエルはきょとんと目を瞬かせて、首を傾げた。
「フラグって……なんです、それは?」
***
世界は静かに死んでいた。
空は分厚い雲の層に覆われ、灰色に塗り潰されている。鈍色に映る雪原は魂を吸い込むかのように虚ろだった。暴力的なまでの白によって、一色に塗り潰された雪原の光景。
その上を蒼躯の巨人が静かに音も無く滑っていく。
すぐ傍にいるというのに、まるで存在感が無い。搭載されたフロート機構によって機体を宙に浮かして移動していく〈フォルティ〉は、まるで実体の無い幽霊のようだった。
「器用なもんだな」
シーモスはつい感嘆の声を漏らす。
現在シンゴラレ部隊は予定通りにノブース共和国へと移動を終えて、作戦決行日に備えての機体の調整及び、機体訓練を熟している最中であった。
常にマイナスを維持する気温に備えて各部に対凍結処理を施された〈フォルティ〉は、その外見には殆ど変化は無い。流線型を帯びたフォルムに、頭部のバイザー型の複合感覚器が凶悪な面構えをしている。
雪上、というのはかなり特殊な条件下である。
戦場に身を置いて長いシーモスでも経験は数えるほどしか無い。しかもそれらは全て空の上での経験だ。痕跡を残さないように雪の上を這って進むというのは状況として稀少過ぎて、なかなか勝手が掴めない。
それは程度の差こそあれ他のメンバーも同様のようで、各々に苦戦しているようだった。
その中の唯一の例外が、部隊で一番の新参者であるクルス=フィアである。
ブリーフィングでは機体に慣れる必要があるなどと不安を口にしていたくせに、実際に来てみれば部隊の誰よりも慣れた様子で雪上での機体動作をして見せている。
存在感すら怪しく感じさせるその静音機動も大したものだったが、一番に驚くべきは機体が通っていた後の雪面に、殆どその痕跡が残っていないということだ。
機体を低空滑空させることが出来るフロート機構であるが、全長八メートルの人型兵器を支える力場を底面に発生させるということは、相応の圧力が機体の下方にも発生するということである。
どんなに主機出力を抑えて低速にしたとしても、普通は機体が過ぎ去った後には巨大なスキーでも通ったかのように二本の線のような跡が残るはずなのだ。
だというのに、それが無い。
「……いったいどんな手品使ってんだ?」
『――浮力を広く分散させてやれば良いんだよ。高度が落ちるから機体の走破性は落ちるけど、慣れると安定感も出てこれで結構都合が良い』
通信機から聞こえてくるクルスの声に、シーモスは怪訝そうな表情を作る。
「初めて聞くな。んなこと、仕様書に書いてあったか?」
『無い。単なる経験則』
簡潔なその言葉に、シーモスはただ肩を竦めた。
開発者が意図しなかった利用法や新しい使い方が現場で生み出されるというのは、珍しい話ではない。設計上で意図しなかった機能を発揮したり、逆に欠点が見つかったり。どれだけ仮想上の予測を重ねても、そういったものは生じる。
『この移動方が編み出されたときは酷かったな。姿を消しての隠密移動が大流行して、対策が生み出されるまでは戦場が隠密ゲリラだらけで訳が分からない状態になってた』
聞こえてくる声には、嫌な思い出を語るように苦い色が混じっていた。
良い記憶では無いのだろう。複合感覚器に引っかからないように各出力系を低下させ、その上で痕跡を残さない移動方法が存在してしまえば、残るは光学的な確認――視覚に頼った発見しか存在しない。それすらも機体の迷彩塗装や周囲に色合いを合わせた電磁布によって誤魔化すことが出来てしまうのだ。
戦う二つの勢力があったとして、そのどちらもが神出鬼没なゲリラ戦術を行ったならばそれは確かに混沌模様となるだろう。
シーモスはその光景を想像して顰めっ面を浮かべてから、耳元の通信機を軽く叩く。
「今回の作戦の参考なりそうだから聞くが、その対策というのはどんなものだったんだ?」
『……そんなスマートなもんじゃないぞ。事前に高感圧式の感覚器地雷をばらまいておくとか、後は敵を確認して無くてもとりあえず爆撃を仕掛けるとか。後は……哨戒用の自立式兵器か』
これは数を用意しないとあんまり効果無かったけど、とクルスは言葉尻に付け足して、
『軍事施設って言っても、今回の目標はレーダー基地施設なんだろ? だったら敵陣からミサイルが雨あられと降ってくるような心配はないだろ』
「まあそうだな」
頷く。
クルスの言うとおり、目標が戦闘用の施設じゃ無いというのは幸いだ。
多少の防衛戦力ぐらいは用意されているだろうが、事実上の属国付近にある情報基地である。要塞のようにハリネズミのような火砲に晒される可能性は無い。
「……にしても、詳しいな。お前さん、出身は雪国なのか?」
『全然。ただ戦場として経験したことがあるだけ。……それよりも雪面が柔らかいのが思ったよりも厄介かもしれないぞ。これだと接地したときに足が沈み込んでろくに跳躍出来ない』
「ふむ。となると、垂直離陸は厳しいか……」
告げられたネガティブな要素にシーモスは深い皺を刻んだ。
脚部の跳躍力を活かした垂直離陸は万能人型戦闘機の特徴の一つだ。場所を問わずに潜伏、離陸して制空権を掌握出来るのがこの兵器の恐ろしいところである。
今回のような実質的に航空制限のある状況においては関係ないと要素だと思ってしまうかもしれないが――実際はそんなことは無い。
確かに順調に作戦が進行出来た場合は然して気になる要素ではない。問題は、隠密行動が幸を成さずに敵哨戒機に発見された場合だった。
もしそうなった場合、垂直離陸を封じられた部隊は上空の敵から一方的に的にされることになってしまう。
「……こりゃあ、ますますギャンブル要素が強くなってきたな」
見つかるつもりなど無いし、そうならないように最善は尽くす。だが、それでもなお確実とならないのが、現実の戦場というものである。机上論をどれだけ重ねたとしても、実戦で上手くいかない、想定外の事態が起こるなど、そんな例は幾らでもあった。
ましてや今回は二十四時間以上の行軍がある。
敵地での長時間移動は神経を大きく磨り減らす。そうして集中力が削ぎ落とされると、普段はしないようなミスが出始める。そうして発生した些細な失敗で死ぬこともあるのだ。
シーモスはやれやれと、音には出さずに溜息を吐いた。
通常の指揮系統から外れたシンゴラレ部隊は普段やることが少ないのはいいのだが、いざ実際にその時が来ると難題が飛び出てくるのが厄介なところである。
『と――』
クルスが何かに気がついたように言葉を止める。
そうして行っていた静音機動を止めて、足下の雪を弾き飛ばしながらくるりと機体を旋回させた。機体が通り過ぎても綺麗な均等を保っていたことが嘘だったように、積もっていた雪が粉のように舞う。
「どうした?」
『一旦機体を戻すようにお達し。うちの機付き整備員は待たせるとおっかないんだよ』
うんざりとした様子ではあるが、そこには鬱陶しさのようなものは感じられない。慣れているのだろう。
シーモスが〈フォルティ〉を収容するためにこの国の軍から貸し出されている整備格納庫へ光学感覚器を向けると、そこの搬入口で防寒用のコートを纏った人影が大きく手を振り回している姿が映った。
口元も動いているところから、もしかしたらクルスの方には声もセットで届いているのかもしれない。何を言っているかは分からないが不機嫌そうな顔をしていることは分かった。
あれは確かにおっかなそうだと苦笑しながら、シーモスもクルス機に続くようにして機体の進路を格納庫へと向ける。意外そうなクルスの声が通信機から聞こえてくる。
『おっさんも戻すのか?』
「ああ。下手な練習を続けるよりも、お前さんの機体計測値を参考にしたほうが色々と早そうだ」
***
「うおおお……寒い……」
万能人型戦闘機の中から降りたクルスは、舷梯を伝って機の足下に辿りつくなりそう呟いて肩を震わせた。
格納庫内は暖房が効いているとはいえ、機体の調整を行っている今ではその搬入口は大きく開け放たれたままである。暖めた空気などあっという間に流れ出て行ってしまい、格納庫内は非常に空気が冷たくなっていた。
その寒さといったら、クルスは思わず機体内に踵を返しそうになったほどだ。
万能人型戦闘機のコックピットは生命循環維持装置によって中の空気環境は適切に整えられている。空間が狭く閉鎖的で圧迫感がありとても住み心地が良いとは言えないが、それでもこの寒さよりはマシだと思ってしまった。
「生まれたての子鹿か」
「わぷ」
クルスの視界が塞がれる。
頭から何かを被せられたのだ。それを掴ん見てみると、分厚い生地をした耐寒用のコートであった。正面を見やると、クルスの機付きの整備員であるミサがいつも通りの不機嫌そうな表情をして立っていた。
「そんな調子で大丈夫か。本番はもっと辛いだろ」
「作戦中は外に出る予定なんてねーよ」
クルスも負けじと睨み返した。
しかしフードが被さっているので、彼女の外見的特徴である馬の尻尾のように垂らされた長髪は確認することは出来なかった。
「実戦に想定外は付きものだぞクルス」
「だから人の名前は言葉尻にくっつけるなっての」
いちいち語尾に人の名前をくっつけてミサに、クルスは辟易とする。
かつては馬鹿だの阿呆だの赤ピーマンだのとりあえず悪口を言われていたことを考えれば、随分とその関係はマシになったように思える。だがこの整備士の場合、クルスという単語を便利な罵倒として用いている気配があるので素直に喜べない。
今回の場合だと、短慮とかマヌケといった意味合いだろうか。
まあ、正直慣れたと言えば慣れてしまったのだが。
「それで機体の感触はどうなんだ報告しろ。作業が滞る」
「へいへい」
吐く息を白くさせながらクルスは渡された耐寒コートを着込みつつ、
「……やっぱ重いんだよな。なんか反応に違和感を感じるし。もう少し、機体の挙動周りはどうにかならないのか?」
「それは凍結対策をした分の代償だ、諦めろ。……そっちよりも、機体の安定性は? 操縦に問題は生じてるか?」
「ん、あー……」
幾つもの装甲板を削って耐久性と引き替えに過度な軽量化を施されているクルスの〈フォルティ〉であるが、現在その尾尻には特徴的であった長い抵抗尾翼が付いていない。これは通常の仕様を逸脱した加速度を持つクルス機の機体安定及び機動制動を補うための装備だったのだが、地上で無茶な機動をとった場合に下手をすれば地面に擦りかねない為に今回は外されてしまったのである。
万が一移動中に引きずっていこうものならば、雪上にはくっきりとその跡が残されることになってしまう。それは余りにもまぬけであった。一応、一般的な機動をとる分には何の問題も無いようには作ってあるのだが――、クルスが割と頻繁に無茶のある機体姿勢をとることをミサは知っているのだ。
クルスは先程まで行っていた機体感触を思い出して、
「まあ扱いづらいけど、どうにかなる範囲だな」
「ふむ、そうか……」
クルスの返答を聞いて何事か考え込む仕草を見せるミサに、クルスは首を傾げる。
「なんか問題でもあったのか?」
「お前、降雪地帯の出身なのか?」
「……違うけど」
シーモスからも似たようなことを聞かれたなと思いつつ答える。
雪上での戦いなどそこで暮らす者でもなければ、そうそう経験するものでもない。
にも関わらず、クルスがまだ馴らし期間の初期で随分と熟れた動きを見せるものだから、ミサやシーモスはそんな間違った想像をしてしまったのだろう。
暫く、ミサはいつも以上に眉根を寄せて思案していたが、程なくして何事か結論を出したのか軽く手を打ってクルスを見やった。
「午後に整備員達のミーティングがある。お前も出席しろ」
「どういう流れだよ!? いくら何でも脈絡が無さすぎだろ!」
クルスが意味を分からないとばかりに思わず悲鳴を上げると、ミサは少しだけ面倒そうな表情をした。
前々から思っていたが、この整備員は機付きにするにはあまりにもコミュニケーション能力に欠陥があるのではないだろうか。腕が良いのは確かなのだが、難点が多すぎる。無愛想、言葉足らず、口が悪いの三点セットだ。普通に考えて付き合いづらい。集団の中に放り込んだら真っ先に孤立するタイプである。
そう考えてから、こんなんだからこの部隊に配置されたのかと思い当たった。シンゴラレ部隊で変人なのは何も搭乗者だけではない。
――と、そこでじろりと、ミサが半眼で睨みつけてくる。
「なにを考えてるかは分からないけど、その不愉快な視線を向けてくるのを止めろアンポンタン」
「気にするな。……それよりも、俺に何をやらせようって?」
妙なところで勘が良いな内心で感心しつつクルスは話の説明を促す。
ミサはまだ暫く睨みつけるように見ていたが、面倒だったのか諦めたのか、僅かに顰め顔を作った後に口を開いた。
「機体の調整の話だ。本当はアーマメント社から送られてきてるマニュアルと、ここの軍から提供されたデータを基本に調整を整えていくつもりだったんだが……、正直、お前の操縦履歴とデータの数値を参照した方がよっぽど有意義そうだ」
「ふうん」
その話にクルスはあまり感心がなさそうに相づちを打った。
クルスが行っている万能人型戦闘機の操縦技術は全て『プラウファラウド』時代に上位プレイヤーとして得たものだ。今回のような雪上でのノウハウも例外ではない。
幾千と戦闘経験を重ね、技術を研磨し、経験を重ね、手を届かせた領域。
そこに至るまでには相当な時間と努力、或いは苦労があったのだが、一度手にしてしまうとそれは最早当たり前のものとなってしまう。
出来て当然、知っているのが普通。
クルスにとってはその程度のものであり、それを今更に変に持ち上げられても対して感慨は無い。精々、軍や企業が自分よりも劣ったデータしか持っていなくて大丈夫なの? と思ってしまう程度だ。
だがしかし、その後に続けられた言葉にクルスは耳を疑った。
「数字で再現出来ても、私は感覚的なところまでは上手く説明出来ん。お前はそれを搭乗者の視点から補う形で解説しろ」
「はあ!? 俺が人に説明出来るとでも思ってるのかよ!?」
「威張るなアホタレ」
呆れたように溜息を吐くミサだったが、クルスは構わずその姿を恨みがましく睨みつける。
シンゴラレ部隊に来る前のクルスはゲーム以外は特に目立つことのない高校生であり、複数人を相手取って説明する等という作業はしたことが無い。機体弄りに関しても経験則からくる感覚的なものが強く、ちゃんと言葉に出来る自信は無かった。
大体にして、機体に関してクルスが提出する下手くそな報告書に目を通して駄目出しをしてくるのは、当のミサである。小学生の作文とは彼女の弁。クルスが説明下手だということに察しが付いていないはずがない。
――ちなみに相変わらず全く機体の整備には関係なさそうな項目のアンケートもやらされていて、次第にその内容が踏み込んだ物になってきているのだが、それはともかくとして。
「情けない顔するなアンポンタン。お前は私がする質問に答えるだけで良い。一応言って置くが、拒否権は無いぞ。部隊全体に関わるものだからな」
逃げ場が無いと言うことを否応なしに教えられる。
同時にクルスの情けない呻き声が、冷え冷えとした倉庫内に響き渡ることになった。




