遭遇戦
深い宵闇の訪れ。
光源が一切無い空間というのは、周囲に本当の意味での闇をもたらすということを〈レジス〉は思い知らされた。
一体どれだけの時間が経ったのか。〈レジス〉が閉じていた瞼をゆっくりと開くと、周囲は闇に染まっていた。
黒一色。
痛くなるくらいの静寂と、何も見えない視覚が情報の一切を遮断する。
「ええ、と……」
いったいどういう状況だと、混濁する頭の中を整理する。
身動ぎしようとして、自分の身体がしっかりと固定されていることに気がついた。ぎしりと、ベルトの軋む音が暗い空間の中に僅かに漏れる。
そこで、〈レジス〉は自分が万能人型戦闘機の中にいるという事を思い出した。
「……そうだ、ラニからメッセージが届いて、特別任務で敵倒して……その後にノイズが聞こえてきて、墜落して……それから」
それから。
それからどうなった?
はっと、意識が覚醒する。
慌てて手を伸ばすと、ひんやりとした鉄の感触。そこには触り慣れた操縦パネルの感触があった。
その事実に僅かに安堵する。何も分からない状況で、自分の良く知るものがあるというのは心強さを与えてくれるものだ。
僅かに平静を取り戻した〈レジス〉はゆっくりと思案する。
操縦席内部にいるという事は、自分はまだ〈リュビームイ〉の中にいるということだ。
撃墜判定を貰っていたら強制的にロビーへと戻されるので、それはつまり自分はまだ撃墜されていないということになるのだが。
「……」
直前の光景を思い返してみて、そんなことがありえるのかという疑問が浮かぶ。
戦闘終了後の〈リュビームイ〉は満身創痍と言ってもいい体であった。そんな状態で高度五万付近から落下して助かるということなど、ありえるのだろうか。
いいやありえるはずがない。例え〈リュビームイ〉が五体満足であったとしても、生存は絶望的だ。
「なにが何だか……」
現状に大いに疑問を抱きつつも、ひとまず〈レジス〉は機体の再起動を実行させてみる。いつまでもこうして考えているわけにもいかない。
動くかどうかは甚だ疑問であったが、幸いにして愛機はしっかりと期待に応えてくれた。周囲のモニターに光が灯っていき、徐々に視界が開けていく。
機体の再起動を待つ間に〈レジス〉はふと現在の時刻を確認しようとして、おかしな事に気がついた。
表示が無い。
「ん? どういうことだ?」
その完成度の高さに現実そのものと勘違いしそうになることがあるが、この場所は人によって作られた仮想現実空間である。謂わば虚構の世界であり、実際には不可能なことも色々と融通を利かせて出来るようにしてある。
個人の設定にもよるが、現在時刻などは意識すれば視界の右端に表示されるようになっているはずだった。
今はそれが無い。
試しに何度か意識を散らして集中しなおしてと繰り返してみるが、一向に表示は現れない。
「……バグ?」
時間を確認することを諦めた〈レジス〉はつい溜息を吐く。
そうして吐き出す自分の吐息が白いことに気がついた。
それはつまり、現状周囲の気温が低いことを示しているということだが。
馬鹿なと、信じられない思いで中に霧散していくそれを見やる。
ゲーム〈プラウファラウド〉の世界において外気温度は戦闘に影響を与えるために要素として設定されているが、プレイヤーが居座るコックピット内部の温度は常に適正に保たれているはずである。息が白くなるほどの気温になることはありえない。
意識してみれば、随分と自分の身体が冷え込んでいることに気がついた。
現在の温度は体感で十度前後といったところか。
白い息を吐き出しながら、いったいどうなっていると、前髪をガシガシと弄りながら考える。
時刻表示と同じくこれもバグと考えるならば、外気温度がコックピット内にも適応されてしまっているということだろうか。
それにしても特別任務の戦場であった旧き大地の外気温度は氷点下であったはずなので、納得がいかないが。まあバグに理屈を求めてもしかたがないことなのかもしれない。
そう自身を無理矢理納得させようとした〈レジス〉は、機体が再起動したことにより周囲のモニターが全て蘇り、辺り一面の様子を見て驚愕することとなった。
「え――、な……、……はあっ!?」
機体の周囲に映るのは無数の大樹。
樹齢何百というような巨大な黒色の樹木が列を成して佇み。
木々には鬱蒼とした緑葉が多い茂り、天井を覆い尽くす屋根となって周囲を影の中へと封じ込んでいる。
そんな樹林の中に、〈リュビームイ〉は機体を寝かせていた。
戦闘領域:旧き大地は赤い荒野に鉄の残骸が墓標の如く立ち上る、世界の最果てという言葉を彷彿とさせる戦場である。
断じて、このような緑多い茂る自然豊かな場所ではない。
墜落からの生存、コックピット内部の温度低下、時間の非表示、挙げ句の果てには戦場の瞬間移動。
ここまで要素が積み重なると、これは『プラウファラウド』のバグというよりは自分のアカウント事態に致命的なエラーが発生しているのではないかと疑ってしまう。
その場合、運営に連絡して対処を待つことになるのだろうが。
「ちょっと待ってくれよ……。アカの作り直しとかなったら、冗談無しで泣くぞ、俺……」
最悪の事態を想像して暗鬱な気分になる。
身体が震えているのは、決して寒さのせいだけではないはずだ。
何千時間、何千の戦場を経験してきた〈レジス〉というアバターは、たんなるデータ情報などでは無い。現実世界に存在する紫城稔という人間にとって、〈レジス〉は己が半身にも等しい。
それが消える。
「やばい……、なんか死にたくなってきた……」
そうと決まったわけでもないのに、少し目頭が熱くなってくる。
流石にそれは情けなすぎると自分を叱咤して、機体の惨状を確認してみる。
そこには墜落する直前、右腕を失い、多くの装甲に損傷を負ったという無慈悲な現実があった。
まさに満身創痍。死に体とはこのことか。
どうせバグるなら機体も直ってたりしろよ、と思わずそんな事を思いながら溜息を吐き出して、再度気付く。
息が白くならない。
驚いて意識してみれば、寒さがない。コックピット内の温度がいつも通りにまで戻っていた。
一体何故だと、思わず考える。
何が原因なのか。
温度が上昇したのはいつからだ。
息が白いことに気がついてから、今の間に自分は何をしたか。
――機体の再起動。
まさか、という想像が脳裏を過ぎる。
通常であればコックピット内部の温度は一定を保たれ上昇しないというのは先述したとおりだが、それはわざわざプレイヤーの気分を害するような環境を作るべきではないという開発者の事情である。
だが設定上では一応、万能人型戦闘機には生命循環維持装置が標準で装備されており、それによって搭乗者に居心地の良い状況を生み出しているということになっている。
つまり。
今〈レジス〉が想像してしまったのは、機体を再起動させるまではその生命循環維持装置が停止していたために機体内の温度が低下したのではないか。
機体を再起動させたからこそ、生命循環維持装置も動き出したのではないかという発想だった。
「――いや、ありえないだろ」
何を考えてるんだと、苦笑する。
単なるバグに理屈を求める方がおかしいのだと、ついさっきも思ったばかりではないか。
この世界は虚構。どれだけ本物と見間違えようとも、結局の所数値に組み込まれた以上の現象は起こりえない。どれだけ架空の理由づけがされようとも、この世界に反映されることはないのだ。
いけないなと、思う。
予想外の連続にどうも思考が突拍子も無いことを思いついてしまうようだ。
〈レジス〉は小さく息を吐き出しながら、再起動を済ませた全身傷だらけの機体を起き上がらせた。
樹木の群に隠れていた巨体が音を立てて立ち上がり始める。
右腕を失い、全面の装甲板をひしゃげさせたその機体はまるで幽鬼のようだ。メシメシと、装甲板に引っかかった大樹の枝が嫌な音を立てながら折られていった。
突如として目覚めた鉄の巨人に、周囲の木々に止まっていたらしい野鳥が声を上げて一斉に飛び上がっていく。
機体を寝かせた状態からの起立行動は四肢への負担が大きいので不安だったが、
どうにかなりそうだ。画面上に映る数字はどれも酷いものだったが、今は我慢して貰うしかない。
出来うる限り労りながら、〈リュビームイ〉を大空へと飛翔させる。
勝手気儘に機体を操れないというのはストレスの溜まる行為だったが、ここまで機体を酷使させたのも自分なので自業自得である。
とりあえずの所、〈レジス〉は自分の出現地点に帰ることを目標とした。
ここがどの戦闘領域であれ、脱出地点に到着さえしてしまえばロビーには戻れるはずなのだ。
しかし、その考えは早くも崩れることとなる。
「……どこだよここ」
樹林の中から大空へと舞い上がった〈リュビームイ〉。
現在地点を把握するために周囲を見渡した〈レジス〉は呆然と呟いた。
周囲にあるのは緑茂る山々。
連なる山脈の合間を長く広い大河が動脈のように広がっている。
自然豊かな緑の大地。
『プラウファラウド』の世界に生きるトッププレイヤーとして何千と戦場を渡り歩いてきた〈レジス〉は、ゲームに実装されている二百五十七の戦闘領域その全てを把握しきっている。
どの場所で奇襲をかけるか、どの位置ならば探索網に引っかかりにくいか、どの進路が最短で辿り着けるか。
対人戦に活用出来る要素は全て網羅している。
そのはずだ。
だがしかし。
「……知らない。俺はこんな戦場知らないぞ……」
見たことのない風景。
見たことのない場所。
思わず巨人の動きを停止させて周囲を見渡す。
〈レジス〉は自分が今どこにいるのか本気で分からなくなっていた。
***
セーラ=シーフィールド
彼女は独立都市アルタスの対外防衛機構軍に所属する万能人型戦闘機乗りである。
その出生と、十四歳という異例の若さで戦場に出る彼女に奇異の視線を向ける者は軍内でも多かったが、彼女自身がそれを気にしたことはなかった。
周りの評価に自分の在り方を左右されるつもりなどない。
成すべき事を成す。
彼女にとってはただそれだけがあった。
無数の巨人が飛び交う戦場。
幾多もの搭乗者たちが命を散らしていく死と狂気に満ちた空。
彼女の駆る蒼躯の万能人型戦闘機〈フォルティ〉がその手に持った狙撃用の長銃を構えた。
二つかけて呼吸を整えて、その真紅の双眸で目標を捉える。
発射。
音速を遙かに超えた速度で放たれた一発の弾丸は、衝撃を発生させながら一直線に敵機体の中心部を射貫いた。
爆発は起きない。
ただ狙い澄ませた精密射撃は一撃で敵搭乗者の身体を挽肉へと変えた。
物言わぬ鉄塊となって地表に叩きつけられるそれには一切の目をくれず、次の目標へと銃口を向け、再び発射。撃墜。
また一機、鉄の骸となって大地へ落下していく。
正確にて緻密。
恐れず、慌てず、惑わず、兵士という存在の在り方を如実に体現する。
戦場の後方から機械のように、己に定められた役割をこなしていく。
それが彼女に与えられた役割であり、存在意義でもある。
『敵部隊が撤退を開始した。セーラ、ここはもういい』
その通信はセーラが九発目の弾丸で、九機目の敵を撃墜したときに聞こえてきた。
声の持ち主はグレアム=ヴィストロという彼女の部隊の指揮官である。
三十代後半の、厳つい顔つきを持った偉丈夫である。額から右頬に大きな切り傷を持っていて、その姿から〈切り裂き(ジャック)〉などとも呼ばれていたりもする。
その威容から無意味に恐れられていたりもするが、セーラにとってはそこそこ有能な上官であるという認識だった。
『シーモスと合流してD-254へ迎え』
「……? そこには何も無いはずですが?」
『敵の奇襲部隊のようだ。数は少ないが後方の補給地に被害が出ると面倒だ。全て撃墜しろ』
「了解」
特に反論する理由も無い。
兵という存在の在り方を体現する彼女にとって、上官の命令とは何よりも重視されるべきものだ。殺せと命じられれば殺し、死ねといわれれば死ぬ。
自分の命に固執するつもりはない。有意義には使って欲しいくらいには考えるが、その程度の意味しか持たない。
『んじゃ、行きますかね。猫ちゃんよ』
そう軽い調子で通信を入れてきたのは同じ部隊所属のシーモスだった。
誰にでも人懐っこい笑みを浮かべることの出来る、陽気な黒人系の男である。搭乗者としての彼個人の技量には特筆するべき点は無いが、他人との距離を上手く調節するのが上手い。彼のような人間関係の潤滑油となるような存在が、部隊内でも良い影響を及ぼすことはセーラも認めていた。
セーラの僚機に指定されたシーモスはいつの間にか合流していたらしい。セーラの操る青い色の機体〈フォルティ〉と全く同色同型の万能人型戦闘機が隣に並んでいる。
「了解、行きましょう。……それとシーモス中尉、私は猫ではありません」
そう言い残して。
セーラの操る〈フォルティ〉が構えていた長銃をいったん下ろし、目的地へ向けて滑空を開始させた。どんどん加速していくその背中に、シーモスが慌てる。
『ちょ、ちょ、冗談だっての!』
そうして彼もまた自らの乗機を操って、その後を追いかけさせた。
青い光をたなびかせながら、灰色の曇り空の戦場を引き裂くようにして駆け抜ける二機の巨人。
その搭乗者達はこの後重要な出会いを果たすことになる。
それが誰にとって幸運で、誰にとって不幸なことだったのか。
それを知るものはまだいない。
* **
警告が画面上に表示された。
驚異値を示すその数字が真紅に染まっている。
捕捉されている。
そう気がついたときには、〈レジス〉は機体を傾けさせていた。
満身創痍の〈リュビームイ〉は機体各所で悲鳴を上げながら、それでも健気に搭乗者の命令に応えた。
ブースターの偏向ノズルを傾けさせ、回転半径の狭い小反転を行う。
そのすぐ脇を低速の榴弾砲が駆け抜けていった。
目標を見失った榴弾はその勢いを失速させるとそのまま大地に激突し、覆い茂った大樹諸共大地を抉り取っていく。
感覚器に反応が三つ。
それが全て万能人型戦闘機だということを知って、〈レジス〉はわけが分からないと頭を抱えたくなった。
「どういうことだ、既に戦場として公開されてるのか!?」
見知らぬ地、見知らぬ光景。
ゲーム内の全ての戦闘領域を知っているはずの〈レジス〉が、全く知識に無い場所にいる。
その現実を〈レジス〉はバグによりデータ上に存在しているだけでプレイヤーには未公開の戦闘領域に入り込んだのだと納得させていた。
それならばバグとしか思えない度重なる不具合とも関連づけられるし、何よりも一番理解がしやすい。
しかしそこで現れたのが、三機の万能人型戦闘機である。
仮に〈レジス〉の推測が正しいのならば、この場には〈レジス〉以外のプレイヤーの姿は存在していてはいけないはずなのである。何せ、ここはプレイヤーには未解放のエリアのはずだったのだから。
「どういうことだ……。一般公開されてる新エリア? いやアップデート告知にはそんなものは一切無かったはず。今日まで新しい戦場の話なんで誰も話題に出してなかったし、そもそも俺が見逃してるはずがない……」
しばらくの思考の後。
ぎろりと、〈レジス〉は恨みがましい視線を攻撃の仕掛けてきた三機へ向けた。
それは八つ当たりである。
特別任務などというゲーマーの本能を刺激する甘い誘いに乗った結果、予期出来ぬバグの連続。さらには一般公開されてるらしい自分の知らない戦闘領域。
考えるのが面倒になったと言われれば、全く否定は出来ない。
今はともかく、この胸の内に溜まる黒い蟠りを解消したかった。
「……上等だ」
戦場。
無数のプレイヤー達が己の愛機に乗って、実力を比べ合う決闘状。
空を飛翔し、大地を駆け、銃弾を放ち、誘導弾で敵を焼き殺す。
何千という戦闘回数とそれに比例したプレイ時間は伊達ではない。ひたすらにがむしゃらに強さを追い求めて、〈レジス〉は勢力内ランキング一位という立場をもぎ取った。
見知らぬ戦場。
壊れかけた愛機。
それが。
「――――たったそれだけのことがっ、何のハンデになるって、っの!」
吠えた。
主人に呼応するように〈リュビームイ〉が加速する。
見るからに装甲は欠損し、右腕部は全壊。
端から見れば飛べているのも不思議なほどの巨人。それが急加速してくるその異様さに、相対する三機は確実に目を見張った。
動揺が見て取れる。
三機の万能人型戦闘機は肩に担いだ榴弾砲で迎撃を行うが、その全ては死に体の〈リュビームイ〉を捉えることが出来ない。
馬鹿にするなと思う。
破壊力が高い反面、榴弾砲はその弾速が圧倒的に足りない。当てるためには相応の工夫が必要な兵装である。それを正面から並べて撃つだけなど、呆れを通り越して侮蔑にすら思えてくる。
加速する。
装甲が無くなり、右腕部が無くなり、武装は内蔵式の超振動ナイフのみ。
貧相というのも生温い酷い惨状ではあるが、それは極限まで軽量化されていることを意味する。質量という一点にのみ目を向けるならば、〈リュビームイ〉は間違いなく過去最軽量となっていた。
最も現実はそんな単純ではない。
軽くなったとは言っても、その安定性は最悪だ。
右腕のみを失っている〈リュビームイ〉の重量比重は今、大きく偏っている。ましてや現在の〈リュビームイ〉は、自動姿勢制御機構すらも失われていた。
その状態でブースターの推力を最大まで上げるなど常識ではありえない。そんなことをすれば高度を保てれば良い方で、普通であれば墜落必至。
だが今この瞬間。
一直線に駆け抜ける〈リュビームイ〉は、三匹の獲物に爪牙を突き立てる隻腕の猛獣となった。
それは偏に〈レジス〉の技量。
日頃から全てのシステムアシストを切り、実現不可能とまで言われていた軽量機の高速軌道を再現するまでに至った操縦技術。
数少ない軽量機乗りとして上位に名を連ねる者の矜持。
軽量型万能人型戦闘機〈リュビームイ〉
その最高速度を持ってして
次の瞬間。
左腕から迫り出た超振動ナイフが敵の喉元を食いちぎった。
七千字程度に納めることを目指す感じで