高速思考
高度二万七千メートル。
空を漂う雲よりも更に高高度、外気温度マイナス七十度の極寒の世界。
宇宙への足下といえるその領域を誰の目に触れられることもなく、周囲の光景に溶け込むようにして一匹の巨大なマンタが悠々と泳いでいた。
否、それは生き物ではなかった。
様々な特殊処理を施された特殊合金製の外装で全身を覆い込んだ、あらゆる分野の最新科学技術を組み合わせて生み出された、人工の翼である。
のっぺりとした胴体の真ん中からはまるで生き物のように一本の尻尾が伸びていて、それが見る者に海の底を泳ぐマンタの姿を連想させる。通常の航空機とは違い垂直尾翼も水平尾翼も有しておらず、それは徹底してステルス性能を追求した形状であった。
機体表面から突起物を無くしたレーダー反射断面積(RCS)を下げる機体形状をもちろんのこと、搭載兵器は全て内蔵式、機体表面には電波吸収塗装を施し、内部部品の多くも電波反射の少ない非金属素材が用いられている。
加えて、機体底面に施された光化学迷彩によって周囲の光景に紛れ込み、視認確認をも困難にする徹底のしようである。
もし超高高度を飛ぶマンタを更に上から見下ろす者がいれば、胴体と一体となった右翼の右端に記されている紋様に気がついただろう。
白と黒を交互に敷き詰めた遊戯盤と、その上に置かれた戦馬を模す騎士の黒駒。
提示されているその駒は、それを刻まれた兵器が製造組織にとってどの程度の価値を持っているかを意味している。駒の下には、この世界で独自のルールを掲げて力を行使する企業の名が刻み込まれていた。
傭兵派遣企業セミネール製多目的航空機 ―― スノードロップ
他の組織よりも一歩も二歩も先を行く高度な技術力を保有する特殊企業が生み出した、全幅七十メートルを持つ、胴体と翼が一体となった多目的全翼機の姿であった。
積載重量二十二トンを誇るスノードロップには現在、空対地誘導弾も無差別爆撃するための爆弾も搭載されてはいない。
マンタの腹の中には、たった一つの荷物だけが孕まれている。そのたった一つの荷物を戦場へと送り届けるためだけに、独立都市アルタスと海上都市レフィーラの高空防衛網を人知れず飛んでいるのである。
この極寒の世界よりも遙か下、幾重にも重なる薄い雲を抜けた先。
太陽の光を反射して宝石のように耀く海面に点在する、白い杭にも見える海上中継の直上を目指して――。
一匹のマンタは空を泳ぎ続けていた。
***
軍用基準性能調整個体。
クローニング技術を中心として戦うためだけに生み出された彼ら彼女たちは、与えられた命令を達成する為ならば躊躇うことはない。あらゆる状況下でも十全の機能を発揮するよう、そういう風に出来ている。
生物学上で見れば間違いなく人間に分類されはするが ―― その本質は生き物よりも兵器に近い。
感情抑制を行わず過度な能力を持って生み出された初期の軍用基準性能調整個体の失敗を踏まえて生み出された中期以降の彼ら彼女らは、極端に感情の起伏が薄く、また自我にも乏しい。それが結果としてその存在を『兵士』ではなく『兵器』に近いものにしていた。
その整った容姿も、美しさよりも幼さが強調された顔立ちも、敵と対面した際に相手の戦闘意欲を削ぐ可能性があるという理由に過ぎない。
徹頭徹尾、戦場という環境下で働く為だけに生み出された存在。人道というものを弁えた人格者が耳にすれば顔を顰めたに違いなかったが、実際その有用性は否定出来ないものだった。
「……あ? ……子供?」
頭に赤いバンダナを巻いた男が、幻でも見たかのようにきょとんとした声を漏らす。背丈こそ高いものの、非正規市民であるためか体つきは健康的とは言えず、うっすらと頬骨が透けて見えている。脇に抱えた短機関銃は未だ構えられることはなく、目の前に現れた妖精のような少女を標的として捉えて良いのかどうか、逡巡しているようだった。
細い身体の線を浮き彫りにする万能人型戦闘機用のパイロットスーツが、それに拍車をかけていたのかも知れない。だが見るものが見ればそれがただの幼い少女のものではなく、獣のようなしなやかさを持った、余計な筋肉を一切持たない鍛え上げられたものだと分かったはずだ。
無知は悪であり、時として取り返しのつかない最悪の結果を招くことになる。
男がそれを学んだのは、ほんの数秒後であった。
「いったいなん――べっ――?」
血飛沫と共に、呆けていたその顔が吹き飛んだ。
セーラが何の躊躇も無く、その手に持った十ミリの大口径弾頭を眉間に撃ち込んだためだ。衝撃波を発生させないための亜音速低速弾に破壊力を求めるためには、相応の質量――つまりは大口径が必要になる。
本来であればそのような大口径を強化外装も無しに幼い少女が――それも片手で狙い撃つことなど出来るはずもなく、その反動で肩が外れていてもおかしくない衝撃が発生する。
だが軍用基準性能調整個体である彼女は、その華奢な身体の内側の多くをより強靱な人工物へと置き換えている。人間が自然に持つ筋肉よりも遙かに強靱且つ柔軟な人工筋繊維は、幼い少女の身体に見合わぬ身体能力を与えていた。
数秒前まで動いていた男の首の断面から、夥しい量の赤黒い液体が流れ出る。少女の細く白い足が、その死体を平然と乗り越えていく。
「なんだ――!?」
騒ぎの音を聞きつけた相手の一味が、通路の先から姿を現した。事前に記憶している施設の見取り図によれば、そのすぐ先は目的となっている管制室である。
武装をした者達の装備はまちまちである。
短機関銃は全員その手に持っていたが、歩兵として重要となる強化外装を装備している人間は然程多くない。それは人員全員に行き渡るだけの量が融通されなかったということもあるが、それを装備していたものの多くが下層から侵攻してくる万能人型戦闘機の決死迎撃に向かい、歯牙にもかけられずに排除されていたからであった。
武装勢力の一団はまず最初に通路を歩く幼く整った造詣をした金髪の少女を見て目を見張り、そのすぐ後に背後に転がる仲間の死体に気がついて叫び声を上げた。
「敵だ! 畜生、ここまで来やがった!」
「撃て! 撃て! 殺せ!」
男達の怒号に混じって、銃声が鳴り響く。
まともな戦闘訓練も行っていないであろう者達の射撃はお世辞にも正確とはいえなかったが、場所は一本道の通路である。間に盾となる遮蔽物らしいものは一切無く、銃弾の雨に晒された少女は血塗れとなるはずであった。
「――思考加速、開始」
その場で相手をよく観察するだけの冷静さを持ったものがいたならば、彼女の硝子玉をはめ込んだような無機質な赤い瞳に、仄かな光が灯ったことに気がついただろう。それは軍用基準性能調整個体がその能力を全力開放した際に発生する、独特の眼光だ。
幼い少女の身体が疾駆する。
正面から差し迫る無数の弾丸。
彼女の持つ消音性能を重視した亜音速の自動拳銃と違い、男達の吐き出す弾丸は優に音速を超えている。本来ならば至近距離で捉えることの出来るものではない。
だがその不可能を可能にするのが、セーラの頭中に埋め込まている、彼女の脳と密接にリンクしている超高速思考を可能とする演算プロセッサであった。
一秒二秒と、彼女の時間感覚が何倍にも引き延ばされる。
世界が遅い。
今セーラの瞳には、自分の身に突き刺さろうとする全ての弾丸の軌跡が全て視界に映っている。
衝撃波を生み出しながら螺旋運動をする銃弾。
目を見開いている通路の奥にいる男達の様子。
その銃口の向き。
全てをつぶさに観察してなお、彼女には次を考える余裕がある。
「なあ!? なにが――」
銃撃を行った男の一人が、目の前で何が起こったのか理解出来ずに悲鳴を上げる。男の目には無数の弾丸が、少女をすり抜けたように見えたのだ。
勿論、正確には違う。
セーラは通常の何倍にも加速した意識で全ての弾丸を見定め、強靱な人工筋肉が生み出す驚異的な身体能力によって、銃弾の隙間に身体を滑り込ませたのだ。
通常の思考回路であれば音速を超える弾丸の雨を盾となる遮蔽物も無しに避けることなど不可能であったが――演算プロセッサを用いた高速思考の中では直線を描く弾丸の単純な軌道は容易に予測出来てしまう。結果――必要最低限の僅かな動きで弾丸を回避したセーラを、普通の思考速度しか持たない男は弾丸がすり抜けたと勘違いしたのである。
無論、場所はさして広くない通路である。
如何にセーラが驚異的な身体能力と、時間感覚を大幅に引き延ばした思考加速を持つとはいっても、雨のように降り注ぐ弾丸を前にしては物理的に回避不可能なものも存在している。
そういったものは間違いなく彼女の身体を掠めているのだが、それら全てが少女の身体を貫通することはなかった。
万能人型戦闘機の対G対策を体内のナノマシンによって行っているこの世界では、搭乗者の装備するパイロットスーツは対Gには重きを置いていない。代わりに重視されたのは、外部からの耐衝撃性能である。
万能人型戦闘機のパイロットスーツには表面と裏地の間に特殊な液状物質が注入されている。これは普段は液体なのだが、外部から衝撃を与えられると瞬間的に硬化する特性を持っており、単純に鉄板を着込むよりも遙かに優れた耐衝撃性能を実現しているのである。
無論着弾時に訪れる全ての衝撃を消せるわけはなく、相応の衝撃が少女の華奢な身体を襲ってはいるのだが、その全てを彼女の持つ強靱な人工筋肉が力尽くで支えきっていた。
激しく鳴り響く銃声の中において、それらと比べると遙かに大人しい、物が掠れるような、乾いた射出音が響く。
セーラの持つ自動拳銃から亜音速弾が発射される度に男達の頭蓋が吹き飛んでいき、飛び散った新鮮な血液が周囲の壁面に不規則な染みをつけていった。
「――いや」
「――ギッ!?」
口から言葉を言い切ることもなく死が蔓延る。
そうして。
彼女が十一発あった弾倉を全て撃ち尽くすよりも早く、嵐のように鳴り響いていた銃撃の音は止んでいた。
生存者はいない。
逃げようと背を向けた相手から優先して狙ったため、この場にいた相手の全ての遺体がそこにあった。床に転がっている死体達には一様にして顔が存在しない。少女が放った弾丸は全てが相手の眉間に撃ち込まれて、その頭部を頭蓋ごと吹き飛ばしたためだった。
機械的な動作で手に持った自動小銃の弾倉を入れ替える。
そのまま積み重なる死体を乗り越えて行く少女には、何の感慨も無い。
人の死に慣れる慣れない以前に、彼女はそんなことを感じるように生み出されてはいなかった。彼女の目的は当初の目的通り、管制室の制圧ただ一点である。
幾多屍を積み重ね濃密な死を纏いながら、少女は足を進めて通路の奥、管制室へと足を踏み入れる。
そこはさして広くない空間だった。
もともと自動化が進んでいた施設だけに、大人数を迎え入れることは想定していなかったのだろう。設備も簡素なもので、部屋の中央に大型の全方位モニターと施設制御用の端末が幾つかあるだけ。
がらりとした、寂しさを感じさせるその空間にはたった一人の男がいた。
大柄の中年の男で、右の肩から先が鉄の義肢と挿げ替わっている。その手に握られた自動拳銃と強化外装を纏っていることを考えれば、それがどういった相手だかは明白であった。
「その赤色の目……、軍用基準性能調整個体か」
男は侵入してきたセーラを視界に納めて、僅かに目を細める。
それは過去に失った何かを思い出したような、ここではない、どこか遠くの光景を見ているようだった。
セーラは躊躇いなく引き金を引いた。
掠れた音と共に亜音速の弾丸が男の眉間目掛けて飛翔する。
狙いから寸分違わずに発射されたその弾丸は、だがしかし、男の頭部を砕くことはなくその背後の無機質な白い壁に弾痕を刻みつけるに終わった。
セーラが珍しく、驚いたようにほんの僅かに目を見開く。
ただ躱すだけならば、強化外装を纏った男にも可能だったかもしれない。だがしかし、必要最低限、ほんの僅かに身体を動かし銃弾の脇をすり抜けるような回避行動は、その弾丸を正確に把握していなければ出来る芸当ではない。
セーラの反応を見て、義腕の男――マーベリックが薄く笑う。
「高速思考を出来るのが軍用基準性能調整個体だけだとでも思っていたか?」
答えは否である。
演算プロセッサを利用した高速思考の汎用化は、レフィーラを初めとして広く研究されている。
だがそれは未だ未完成の、発展途上技術である。
通常の何倍もの演算思考を行う高速思考は使用者への脳への負担が大きく、それと同時に演算プロセッサ自身の冷却機能にも問題を抱えている。
様々な強化処置を施し、注入されているナノマシンも演算プロセッサの補助機能を搭載した特殊型である軍用基準性能調整個体のセーラですら、高速思考を正常に行っているには制限時間が存在する。
恐らくは装備している強化外装に演算プロセッサを搭載して高速思考を行っているのだろうが――、
「……保って十分が限界でしょうか」
多めに見積もってもその程度だろう。
見透かしたような金髪の少女のその呟きに、男がくっと口の端から笑いを漏らす。
「流石は戦うために作られた存在。推測も正確だな。提供者からは七分以上行えば命の保証はしない、九分以上で確実に死ぬだそうだ」
ままならないものだな、と男は自嘲するように呟き、銃口を持ち上げる。狙う先は無論、己と敵対する幼い少女の身体である。
「――同胞は死に、恐らくは爆破装置も次期に解除されることだろう。最早この戦いに我々が望めるものは何も無くなった。この世は事も無し。各都市にとって我々は無かったものとして扱われ、その存在を覚えているものは誰も居なくなる。――何の傷跡も残せぬ者達の末路としては妥当なのかもしないが、それを大人しく享受するわけにもいかん。それではゴーストと呼ばれる我々の扱いはいつまでたっても変わることはない」
男は語るが、セーラには死を決定づけられている相手が何を望んでいるのか分からない。
いや、そもそも理解するつもりなど無い。
彼女にとって目の前の男は、設定された目的を阻む障害物でしか無かった。故に、彼女が取る行動は決まりきっている。
もとより戦うためだけに生み出された少女はそれしか知らないのだから。
その赤色の双眸で、相手を見定める。
「語る口無しか。……命を賭けて戦う相手にしては、随分と味気ないものだな」
男もまた、その濁った瞳で幼い少女を見やった。
お互いの視線が交じり合ったのはほんの一瞬。
次の瞬間、一秒を何倍にも引き延ばしたナノセカンドでの高速思考を可能とする者達の戦闘が始まった。
うわセーラつよい




