幽霊少女と幽霊男
サシャという少女がいる。
彼女はこの都市の市民権を持っていない非正規市民――いわゆるゴーストなどと呼ばれる存在であった。まだ赤ん坊の頃に母親とともにこの都市に辿り着き、以降は戸籍を持たない、書類上は存在しない存在として、この都市に住み着いている。
彼女の生活は楽ではない。
以前は母親が同じゴーストの大人を相手に身体を売って僅かな金銭を稼いでいたが、その母親も数年前にあっさりと死んだ。病気や事故ではなく、殺されたのだ。
犯人は昔母を買っていた男で、愛憎膨らんでといった感じだったようだ。唯一の肉親であった母を殺された当時は絶対に復讐してやるなどと誓ったものだが、それが果たされることはなかった。犯人の男はその三日後に正規市民に暴力を振るおうとして、あっさりと処刑された。
ゴーストは存在しない存在。
ゴーストがゴーストを殺しても都市守衛は一切捜査に乗り出すことはないが、市民が危険に会った時には実に迅速に行動してくれた。
その光景を目の当たりにした少女には、ざまあみろという男に対する思いと、何故母は助けてくれなかったのかという恨み、そして宛のない復讐心が燻ったまま残った。
ともあれ、サシャは一人で生きていくことになった。
その際に二つのルールを自分の中で決める。
一つは可能な限り正規市民に迷惑をかけないこと。
盗みなどを働けば絶対にばれる。最初は成功したとしても、絶対に長続きはしない。捕まれば最後、自分もあの憎たらしい男と同じ末路になる。
二つ目は、身体を売らないということ。
母親から継げたのが幸いと言うべきか、少女の顔立ちは決して悪くない。現在は栄養失調気味で不健康さが薄く出ているが、それを改善すればそこそこ見られるものになるだろう。幼い子供というのも、一定の需要があることは知っていた。
だが絶対に売らない。
母はそうして日々を凌いだ結果、命を落としたのだ。
サシャは死にたくなかった。だから禁を犯さないようにと、心に言い含めた。
場所を移動する際も出来る限り人目を忍んで、ゴミ漁りをするときも周囲を汚さない。お金を出されても身を差し出さない。不自由になるのは間違いないが、生きるためには必要なことだった。
その代わりの武器は、自分が子供だということだ。
やはり年幼い子供に甘くなる人間は多い。ゴーストには荒っぽい大人も大勢いるために決して油断は出来ないが、じっくりと人を選んで接すれば問題は無かった。おこぼれが貰えることも決して珍しくはない。
「――おっちゃん!」
目的の人物を見つけて、サシャは声を上げた。
独立都市アルタスの外縁部。
そこは正規市民達が住まう白い街並みをした居住区とは別世界である。同じ都市内に存在すると言われても、何も知らない人間は信じられないであろう。
旧時代然としたモルタル塗りの建物が並び、中には木造建築まで存在している。それも出来の良いものではなく、強い衝撃を与えてしまえば崩れそうな危うさを感じさせるものだ。
ゴースト達が住まうここは、アルタスの行政区分上は存在しないことになっている場所である。都心部の高層建築物群とは比べものにならない環境の悪さであったが、サシャにとっては慣れたものだ。
サシャの高い声に反応して、道を行く一人の男が振り返った。
大柄な中年の男ではあったが、何よりも目を引くのは彼の右腕である。そこにあるのは普通の腕ではなく、人工義肢であった。昔は着いていたであろう人工皮膚は既になくなり、鉄色がそのままに姿を晒している。
男の傍まで駆け寄ったサシャは、彼の右肩を見て、不思議そうに首を傾げた。
「おっちゃん、肩新しくした?」
サシャが疑問に思ったのは、音がしなかったことである。
長い間ちゃんと整備をしていなかったためか、この男の肩は何かと固いものが擦れるような音がしていたのである。それが今はしていなかったのだ。
不思議そうな表情を浮かべるサシャを見下ろして、男はふっと笑う。
「――ああ、最近腕の良い技師と知り合ってね。ついでに整備してもらったんだ」
サシャと会話するとき、この男は真っ直ぐに瞳を向けてくる。顔は大きくて怖いが、優しい目だなあとサシャは思っている。こういう目をした人間は、表面上はどうあれ本質的には優しい人間だと、直感で理解していた。
「ついでってことは、何か仕事見つけたの?」
「――そんなところだな。サシャこそどうしたんだ。前から思ってたけど、ここ暫く随分と元気が良いじゃないか」
「んー? そう?」
あまり自覚少女のなかったサシャは小首を傾げる。
何か変わっている事はない。別にいつも通りお腹も空いているし、お金も殆どない。いつも通りの状態だ。
しかし男は白い歯を見せて笑う。
「なんだ気がついてないのか? てっきり何か良いことでもあったんじゃないかと思ってたんだけどな」
何かあったかなあとサシャは考えてみて、少し前に知り合ったばかりの人物の顔が思い浮かんだ。
「あ、そうだ。友達が出来たよ」
「ほう」
男がちょっと意外そうに声を漏らす。
「クルスっていうの。年は結構離れてるけど、一緒に御飯食べたし友達」
「なるほどなるほど。それは友達だな」
にっと犬歯を見せて笑うサシャに倣うようにして、男もまた笑みを浮かべた。子犬ぽいサシャと比べると、彼のそれは熊といった感じであった。
そうしてからふと、子供に教えるようにゆっくりとした口調で言う。
「……そうだな、サシャ。友達は大事にするんだぞ」
あまり見せたことのない男の様子にサシャはきょとんした後に、こくりと頷いた。そうすると男は満足げに笑って、不意に視線をどこかへとずらした。
釣られて見てみるも、そこには何か特別なものがあるわけではない。寂れて薄汚れたゴースト達の住処があるだけだ。
多分、どっか別の場所を見てるんだろうなとサシャは感づいた。
ここではなくて、どこか別の、もっと遠くを見ている、そんな、寂しそうな目だ。なんとなくこのままだとこの身体の大きな男は泣いちゃうかもと思わせられる。
サシャも時々一人で寝るときに、母のことを思い出して涙が溢れてくることがあるので、大人でもきっとそういうことがあるんだろうなと納得していた。
この男はこの場所に来る前まで、どこかの国で兵隊をやっていたと言っていた。それがどうしてこんな場所でゴーストをしているのかまではサシャは知らないが、きっと色々とあったんだろうなということぐらいは察せられる。
やっぱり、友達がいたんだろうか。
そう思ってから、サシャは自分の友達のことを思い返してみる。
黒髪茶目の珍しい少年だった。人種も珍しいが、それ以上にゴーストである自分に目をつけて弁当を持ってくるという、わけの分からない人物でもある。ホント変な奴だったなと思う。
あそこまで直接的な好意を与えられたのが初めてだったいうこともある。正規市民には迷惑をかけまいと思っていたのに、極自然とクルスを前にして代価として犯罪行為を行おうとしてしまっていた。
まあお弁当も貰っちゃったし、しょうがないかなと。
もしあそこでクルスに人殺しを頼まれていたらどうしていただろうか。
……。
していたような気もするし、怖じ気づいて逃げ出していたような気もする。要するに分からなかった。ただ結果として、クルスは何も要求しなかった。正規市民がゴーストに何か施す場合は何かさせるためだというのが当たり前なのに、思えば思うほどに変な友達だ。
でもお弁当は美味しかった。
あの時味わった品々が脳裏を過ぎり、少女の小さな口の中に唾液が溢れ始めて、
「あ」
ぐぅ、とお腹が鳴った。
男も気付いたようで苦笑しながら、懐から箱を取り出した。
「……ほら、食え」
「ありがとう!」
貰ったのはチョコレートだった。
常に腹を空かしているゴーストの少女に遠慮など存在しない。あるのは警戒心くらいのものだが、相手がこの男ならばそれもない。
勢いよく包装紙を破って、容赦なく頬張った。数ヶ月に一度あるかどうかのご馳走である。自然と顔がほころぶ。
そんな幼い少女を微笑みながら眺めていた男は、ふと思いついたようにポケットから鍵を取り出した。小さな銀色をしたそれを、サシャの汚れたスカートのポケットに突っ込む。
「んー? なにこれ?」
口を動かすことは止めないまま、サシャが訊ねる。
その端に着いた溶けたチョコレートを拭ってやりながら、男は言う。
「俺の家の場所は知ってるな? 好きに使って良いぞ。食料もあるもんは食べてしまえ」
「……おっちゃん、どっか行っちゃうのか?」
「少しの間だけな。すぐに帰ってくるから、あんま汚すなよ」
少しだけ不安げな表情を浮かべるサシャの頭を義手ではない方の腕でゆっくりと撫でてやると、サシャはむず痒そうに首を振った。
「おっちゃん、撫でるのへただな。クルスのほうが上手い」
「――それは悪かったな」
少女の容赦ない駄目出しに男は苦笑し、じゃあなといって去って行った。
その背中をサシャはじっと見送る。
その背中はどこか死んでしまった母の背中と重なって、多分もう会うことはないんだろうなあと、サシャは理解した。
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