とある夏の日の一頁
戦闘描写無し
八月半ば。
紫城稔が家の外に出ると、湿気の含んだ空気が纏わりついてきた。
幾重にも重なる蝉の鳴き声を背後に置きながら、やっぱり出るんじゃなかったと思わず後悔する。
通っている高校が夏休みに突入してから約二週間。
重度のゲーマーである稔は長期休暇に突入すると同時に外出を極力控えて電子の世界に広がる戦場で生きてきたので、こうして現実で外に出るのは実に十日ぶりだったりする。
「……暑い。死ぬ」
外に出てからまだ五分と立っていないのに、既に額には汗が浮かび上がっていた。日本人の平均的な特徴である黒髪が早くも張り付き始める。
ちらりと振り返って、たった今出てきたばかりの自宅の門を見やる。
「帰ろうかな……」
そんな邪な考えが口からついて出る。
だって仕方が無いではないか。
そもそも今年は例年にも増して暑い、猛暑だとテレビでも繰り返し言っている。脱水症状で病院に搬送される人の数は増える一方。どこの病院も急患で忙しいという。
冷静に考えて、だ。
ここのところ引きこもりにも等しい生活を送ってきた自分がのこのこと街にでも繰り出したが最後、空から照りつける光と立ち上がる熱気にやられ、高確率で脱水症状になるに違いない。
そうなったら迷惑がかかるのは自分ではなく、周囲の人々だ。
病院の人だって仕事を増やされて迷惑だし、もし道路の真ん中で倒れたりしたら通行の妨げにもなる。それが原因で重要な取引に遅刻し、仕事をクビになり、一家が路頭に迷うような事態になってしまうかもしれない。
その時、ただの高校生である自分が責任をとれるのか! いやとれない!
だからこうして帰宅するのは家庭を支えるサラリーマンとその一家のことを思ってなのであって、決して面倒だとか暑いの嫌だとか、そういう利己的な理由ではないのである。むしろ道徳心に溢れる極めて人道的な判断と言えよう。
「……よし、自己便宜終了。そうと決まればさっさと部屋戻ってネットでも――」
そう何と無しに呟きながら逃げるように踵を返そうとした瞬間、それを邪魔するかのように腕に巻いた携帯端末が震えた。単純に二度震えるだけのそれはメールが届いたことを知らせる合図でもあった。
「……新着メール、開け」
何となく嫌な予感がしながら音声入力でメールを開く。
空中への投影型モニターに表示された内容を目にして、稔は思わず顔を顰めた。
『 From リュドミュラ
To 稔
件名 そろそろ約束の時間
十分以上遅刻したら Я вызову полицию 』
それは思ったよりも短い文ではあったが、
「……なんで最後ロシア語なんだよ。読めねーし。十分遅刻したら俺何されるんだ、こえーよ」
なんか物騒なこと書いてるんじゃないだろうな、と呻く。
リュドがロシア語を口にするときは大概感情の起伏が昂ぶった時だが、流石に文章にまで日本語とごっちゃにするような馬鹿な真似はしない。
これは稔がロシア語を読めないことを知っていて、わざと使っているのだ。
一瞬内容を自動翻訳にかけようかとも思ったが、やめておいた。
これで殺すだとか張り付けにするだとか書かれていたら、気が休まらなくなる。一見して冗談に思える言葉でも、リュドという人物が口にすると決して笑い事ではすまなくなるのである。
幸いにして、このまま今から移動すれば約束の時間の十分以上前には着くはずである。
「……はあ」
三十度を超す熱気の中。
稔は頭上で白く耀く太陽を忌々しげに一度睨みつけると、待ち合わせ場所に向かって足を歩かせ始めた。
Virtual Reality ―― VR技術とも呼ばれるそれは、電子空間上で仮想現実を作り出し、その情報を脳で取り込みあたかも現実の様に感じさせる技術である。
元々は軍用シミュレーターや医療技術に用いられていたものだったが、それが民間の遊具として活用されたのも今では大分昔の話である。
仮想空間、現実ではありえないファンタジーを実体験することの出来るVR技術を応用したゲームは爆発的な勢いで広まった。
そして華々しい世界初のVRゲーム機を出したのは他でもない、日本の企業であった。それは日本に限らず爆発的に売れ、それを後追いにするようにして複数の企業からVRゲーム機が発売される。
稔にとってはもう昔の話なので全く実感が湧かないが、専門雑誌などに言わせると、そこが日本のゲーム業界の最後の黄金期だったそうだ。
VR技術を応用したゲーム機は革新的だった。
最新技術を民間の敷居まで落とし込めるのは日本の十八番だとはいえ、現実にはありえない世界、あるいは行くことの出来ない場所、幻想的な生物、それらと仮想空間とはいえ実体験として触れられることはゲームをする人種に限らず、多くの人が夢見たことだ。
それを一早く実現し、多くの人に渡らせた功績は大きい。
だがその非現実的仮想空間を実現するには前提条件がある。
すなわち世界の構築。モデリングである。
風の流れを感じ、草木の匂いを味わい、現実にはありえない物質に触れる。
人間が満足する仮想現実を生み出すには相応の技術が必要だった。当時の日本の民間企業には、非現実を違和感なく再現したまるまる一つの仮想世界を生み出すだけの『力』が無かったのである。
ここでいう『力』とは技術的な話でもあり資金的な話でもあり時間的な話でもある。一概に言えるほど充実していなかった。強いて言うならば色々と足りていなかったのだろう。
当初こそ日本のVRゲームは順調に売り上げを伸ばしていったが、次第にその作り込みの甘さからユーザー達の間で文句が出始める。そして日本の開発にはそれに逐次答えていくだけの余力が無かった。
もともと当時から日本のゲームは箱庭と言われるほどの規模に落ち着いたものが多かったが、世界を丸々一つ生み出すVRゲームでそれが顕著になった形である。はっきりと言ってしまえば、日本の生み出すゲームとVR技術は相性が悪かった。
そしてついに海外製のVRゲームタイトルが発売されると、顧客は一気にそちらへ偏った。
当時の日本製映画とハリウッド映画を見比べても一目瞭然ではあったが、CGを用いた世界構築には明らかな技術格差が存在していた。そしてそれを視覚だけでなく五感で感じることの出来るVR世界においては、あまりにも明確な違いとなってしまったのである。
ハリウッドを比較に出すと費用の桁が違うからと語る人間は絶対に存在するが、それは向こうにはそれだけの資金を活かすだけの下地やノウハウが存在しているからこそである。仮に当時にハリウッドと同じだけの資金を日本の政策スタジオが渡されたとしても、同じレベルのCG技術が用いられなかったことは間違いない。
日本もその後いくつかのタイトルを販売したが、国内での売り上げはともかく海外では全く振るわずに次第に規模を縮小していくこととなる。VRゲームの開発費は既存のものとは比べものにならなかったため、国内の需要だけでは賄いきれなかったためだ。
かくして次第に日本のゲームタイトル発表は数を減らしていき、買収合併などを繰り返しながら企業も少なくなっていった。
もともとそのVRゲーム登場以前から日本のゲーム業界は徐々に斜陽を迎えつつあったらしいが、それにトドメを刺したのが他でもない日本が生み出したVRゲーム機の普及だというのだから皮肉というしかないだろう。
……なお数少ない例外として、海外のゲーマー達から〈Japanese HENTAI game〉と呼ばれるジャンルの作品群だけは熱狂的な支持を受け、今もなおVR技術表現規制法との際どい戦いを続けているが、まあ関係のない話である。
周囲に立ちこめる熱にうなされながらどうにか稔が約束の集合場所であるカフェテリアに到着すると、店内の一角に周囲から一際注目を集めている少女がいた。
非現実離れした月の光を溶かし込んだようなプラチナブロンドの髪に、一目で白人と分かる雪を連想させる白い肌。深みのある青目といい、何かと冷たさを感じさせる容姿を持つ少女だ。
北欧系の外国人。
それだけでも目立つのだが、加えて嘘のように容姿が整っているのが注目を集めている最大の要因だろう。
VRゲームに入れば美男美女のアバターは溢れかえっているためゲーマーである稔自身は決して美少女という存在を見慣れていないわけではないのだが、それが現実の世界で席に座って雑誌を読みながら飲み物を飲んでいるとなるとやはり違和感を覚えざるえない。
その美少女は周囲の視線に気がついているのかいないのか、気にした様子も見せずにのんびりとしている。
辿りついて早々、稔は憂鬱な気分に襲われる。
何を隠そうその北欧美少女、リュドミュラ=チェルノフこそが稔の待ち合わせの相手なのだったが、やたらと注目が集まっているあの一角に足を運ぶのは嫌だなあと正直に思った。何の拷問だろうか。
何か目立たない方法はないかなと暫し考えていると、リュドがまるで何かを感じ取ったかのようについっと手元の本から視線を上げた。
店の入口付近で止まっていた稔と視線がぴったりと合う。
リュドがそのまま視線を固定して、その美少女を密かに注視していた周囲の人々も釣られるようにして視線を動かして、稔を見やった。
「……」
何だか酷く居たたまれない気持ちになりながら、稔は観念してリュドの下へと向かう。周囲の人々からの視線を感じる。ひそひそ話程度は構わないが、露骨に舌打ちをする男の方々は止めていただきたい。特に横に女連れの人は一体何を考えているのだろうか。
針のむしろの隙間を歩いて渡ってきた気分になりながら、稔はどうにかリュドの正面の席に腰を下ろすと通りすがった店員に飲み物を注文する。
その店員も明らかに好奇心に溢れた目をしていたが、稔は極めて冷静に気が付かないふりをした。
そうして冷房の効いた店内で一息ついていると、正面に座わる北欧美少女が稔を見やって、そっと微笑む。
その幻想的な光景に、店内で様子を窺っていた者達が息を呑んだ。異邦人にしか持ち得ないミステリアスな魅力に、誰しもが目を奪われる。
雪のような冷たい空気を纏っていた少女がまるで春溶けしたかのような様子を辺りに見せつけながら、ふっくらとした桜色の唇を小さく開いた。
「久しぶりだね、稔」
周囲の想像に違わない、透き通った鈴音のような声。
稔は怪訝そうな表情を浮かべた。
「……は? いや、昨日もあったばっかだろ」
「あのね、それはゲームの中ででしょうが……」
呆れと怒りの混じった底冷えする視線を向けられて、そういえばそうだったと稔は納得する。VRゲームのプレイ時間が長かったせいか、正直そこら辺の境界が酷く曖昧になっていた。
TVニュースなどでよくやっている仮想現実無境界症候群と呼ばれるものの初期症状な気もしていたが、深くは考えないでおく。
「こうして直接会うのは二週間ぶりくらいでしょ」
「終業式に顔を合わせたきりだったか。正直ここのところ曜日感覚すら曖昧なんだけど、今日って水曜であってるよな?」
「だ、駄目人間……」
溜息を吐きながら諦めたかのように小さく首を振るリュド。
改めて言われなくともその自覚は薄々していたので、稔は話を進めた。
「まあ、それで何の用なんだ? 俺もう帰っていい?」
「来たばっかりでなんで帰ろうとしてるの!?」
「いやリュドの顔も見たし、あとは特にやること無いかなーって」
「ば、馬鹿なこと言ってないで少しは外に出てゆっくりしていきなさいよ! ……どうせ稔は夏休み中、家に引きこもってゲームばっかしてたんでしょ」
「その通りだな!」
「なんで胸張ってるの!?」
愕然とするリュドの姿に、周囲でこそこそとリュドを観察していた者達が驚いたように目を見張っていることに気がついて稔は密かにほくそ笑む。
その氷を思わせる容姿と一人でいるときの雰囲気から誤解されがちであるが、リュドミュラ=チェルノフという少女は口を開けば至って普通の女の子である。
……いや少し普通ではないかも知れない。
ともかく、冷静沈着とはほど遠い印象の少女であることは間違いない。どちらかというと姦しいに属するだろう。
「それで、何の本を読んでたんだ?」
返事が返ってくるよりも先に、稔は机の脇に置かれていた雑誌をひょいと取り上げる。そしてその中身を見て呆れた。
「自衛隊F-X選定特集って……。ほんとお前も好きだね全く。もう少しそれっぽいものはないのか」
「いいでしょ別にー」
そう言ってリュドは口を尖らす。
そんな仕草ですら魅力的に映るのだから、美人は得だなと思った。
F-X ―― 次期主力戦闘機
要するにF-Xとは自衛隊の次の主力戦闘機の仮称である。
現在の自衛隊の主力戦闘機の一角はF-35ライトニングⅠⅠが担っていたが、既に配備から六十年近くが経過している。前任のF-15J戦闘機と同様、幾度となく近代改修は繰り返してきたが旧式化は否めず、近年日本政府は次世代の戦闘機選定に入っていた。
無駄にシビアなロボットゲームに傾倒している稔としても興味が無いわけではなかったが、華の女子高生が夏休みにわざわざカフェで読むようなものだろうか。
「稔だって好きでしょこういうの?」
「まあ否定はしない。といっても、これ選定なんて言ってるけど殆ど意味ないだろ。噛ませ犬ってレベルじゃないぞ」
「やっぱりそう思う?」
「そりゃな。米開発機はまだともかく、欧州機とか絶対にありえないだろ」
F-X選定になると当然東西に渡って候補機種が集められるわけだが、日本の自衛隊で欧州開発の戦闘機が選定されたことは一度も無い。
かつての選定では米機と違い技術の完全解放まで条件に提示されていたというのに採用されていないのだから、昔と違い国産力も実証されてしまった現在の日本での採用は絶望的と判断して良いだろう。
稔個人としては欧州機の曲線を取り入れつつも洗練された造詣は好きなので、もし選定されたら面白いなとは思ってしまうが。
「となると、やっぱり国産機になるよね」
疑問、と言うよりはそのことを強く望んでいるようなリュドの言葉に呆れつつも賛同する。
「ま、順当に考えてそうじゃないか? F-3のこともあるしな。結局あれも日米共同開発になっちゃったけど、中身はF-2時ほど酷いものじゃなかったって話だし」
「F-3は本当に残念。絶対に国産機にすべきだったと思うんだけどなあ」
「何を偉そうに。俺達が生まれる前の話だろ」
F-2戦闘機は始め国産を謳われながら様々な事情から日米共同開発となった戦闘機なのだが、その際に米日の両国間で決められた条約があまりにも不平等であり、今でもその手の好き者達の間ではよく話題に上がったりする。
その内容をすごく分かりやすくいうと『こっち(米)は技術公開しないけどそっち(日)が開発した最新技術は頂戴ね』という感じである。
先述通り稔達が生まれる前の昔話に過ぎないが、この話を聞いたときはどこのヤクザだと戦慄したものである。
それに比べればF-2の実質的な後任機となったF-3は、またもや日米共同開発とはなりはしたものの、それなりにお互いを尊重した関係にはなっていたと言われている。
実際完成したF-3戦闘機は当時の第五世代戦闘機の中でも取り分け高性能だと評判であったのだが、それでも未だに純国産に拘る人間は多い。
その気持ちは稔もわからないでもないが……。
「やっぱり今度こそ純国産戦闘機を開発するべき! 技術の日本を今こそ!」
目の前で気勢を上げる少女ほど熱望しているかと言われれば、それは絶対に否である。
そもそも見た目どう考えても北欧出身にしか見えないリュドが、熱心に純日本国産戦闘機を望んでいる姿はどう見てもおかしい光景であった。
「うーん……」
「ん、なに?」
「いや、お前が純国産機とか言ってると激しく違和感が……。パクファとかフランカーとか言い始めそうで」
「言わないし! むしろ零とか烈風って叫ぶし!」
「大丈夫か? 国産開発機になったら、多分トイレはつかないぞ?」
「知ってるよ! いらないよ! っていうか、それデマだから!」
運ばれてきた炭酸飲料を飲みながら、それでと訊ねる。
「で、本当になんでこんな暑い日に俺は呼ばれたんだ? まさか戦闘機談義を咲かせたかったわけじゃないだろ?」
わざわざ直接会う約束を取り付けてきたのだから、何かしらの用事でもあるのだろう。その具体的な内容までは思いつかなかったが、稔はそう思い込んでいた。
しかし、リュドは不思議そうに首を傾げた。
「え? 特別な用事は無いけど?」
「……帰る」
「ちょっと、なんで!?」
「うるさい! それじゃ一体何のために俺は熱にうなされながらここまで歩いてきたっていうんだ!?」
「そんな大袈裟な……。砂漠を横断したわけでもないんだから」
「半引きこもり生活を舐めるな。道中、俺は幾度となく死を覚悟したぞ」
「だからなんで偉そうなわけ!? ……それに、こういう時でもなきゃ稔は外に出てこないでしょ」
それはその通りだった。
普段であれば例えリュドからの呼び出しであろうとも外に出たりはしない。夏休み中、半ば引きこもりに近い生活を送っていた稔がこうして現在外出している理由は、稔がどハマりしているVRゲーム『プラウファラウド』がサーバーメンテナンスで今日の夜までログイン不可となっているからである。
『プラウファラウド』はいくつかの勢力に分かれて自分で作り上げた人型戦闘機で戦う、ロボットアクションゲームである。ここ昨今の日本ゲームにしては珍しく、海外で一定評価を得ている希有なソフトだった。
逆にその妥協を知らない操作の難しさから、国内では微妙な評価をいただいていたりもする。
昨日、二対二の対戦で見事に他勢力のトッププレイヤーを撃破した稔は所属勢力のランキングを一位に踊り出させると同時に、自身が所属する勢力内のランキングトップに単独で躍り出ることに成功した。
問題はそこで有頂天になり、その勢いのままつい一緒にいたリュドから持ちかけられた直接会う約束もすんなりと承諾してしまったことだろう。
今にして思えば冷静さを欠いていたと思う。それがなければこんな暑い中を歩くこともなかったというのに。
「どうせやることもないんだから別にいいでしょ。ランキング一位祝いに何か奢るくらいしてあげるわよ。なんならこれからどこか遊びにでもどこか遠出する?」
「えー、どこかってどこだよ」
正直こんな暑い中を移動したくないというのが、引きこもり根性の染みついた稔りの本音である。出来る限りこの冷房の効いた店内から歩きたくない。
逆に行き先を問いかけられたリュドは暫く視線を彷徨わせた後に、頬を僅かに上気させ勇気を振り絞るように緊張した声を漏らした。
「えーと……、た、例えば、う、海とかっ?」
「昨日一緒に行ってたばっかじゃんか」
「だからそれゲームの話だってば!?」
砂浜一つ無い大海の上。
現実には存在しない戦闘兵器に搭乗して銃やらミサイルやら、色気の欠片も見当たらない紅蓮の華を蒼空に咲かせる光景。
あれを一緒に海に行ったとは到底認められないリュドの乙女心である。
あからさまに乗り気ではない稔に、リュドは健気にも攻勢を仕掛ける。
「……ほ、ほら海だよ? 別に他意は無いけど、わ、私の水着も見られるよ? ……別に他意は無いけど」
そうリュドに上目遣いに言われてしまっては、稔も暫し沈黙せざるえない。
目の前にいるリュドミュラ=チェルノフという北欧系の少女は掛け値無しの美少女である。そんな彼女の水着と言われて何も思わないほど、稔も仏の境地には達してはいない。
白い砂浜の中、目の前の美しい肢体が日の光に晒される光景が脳裏に浮かぶ。
彼女の身体は完璧だ。上から下にかけて理想的な曲線美を描き、雪の肌は太陽の日差しを浴びて白く耀く。彼女はあまり大胆に肌を晒すことは好まない性格だから、着るのはワンピースタイプだろうか。ライムグリーンの水着の下に納められた胸は決して大きくはないが、その美しい形と張りを見事に保っていた。彼女が動く度に稔の視線は――
「……おぉ」
ぐらりと、稔の心の中の天秤が傾いた。
行ってもいいんじゃないだろうか。そうだ、こんな晴れた日に引きこもっているなんて不健全極まりない。夏の晴れた日に海に行く。どこもおかしくない、青春の一幕だ。やましい事なんてなにも……、
――いやしかし待て。
仮にそんな場面になったとして。
目の前に宝石の如く耀く美少女がいて、はたして稔は普段通りにいられるだろうか。……無理だ。間違いなく自分はきょどるのが目に見えている。
しかも今気がついたが、海は大量に人がいる。そんなところに行けばリュドは間違いなく注目を集め、同時に、一緒にいる自分も目立つだろう。そんな大衆の監視の中、狼狽する自分。間違いなく馬鹿にされる。赤っ恥だ。
一気に天秤が逆方向へ傾いた。
海よりも深い思考の末、目の前にいるリュドの青い瞳を眺めながら稔は言う。
「……行かない。べつに興味ないし」
「…………………………Трус」
「おい、今なんて言ったお前? 意味は分からないが絶対に罵倒しただろ? したよね?」
「別にー」
不満そうにリュドは溜息を吐く。
まあリュドとしても、あまり期待していたわけではない。それに勢いで海に行くなどと口にしたが、何の準備もしていなかった。
もし稔が首肯していたら全てを放り出して全力で行動を開始していただろうが、それはおいておくとして。
「……何にしても、少しは健康的に過ごしなよ。絶対に運動不足になるよ? ほらなんなら、私と一緒に稔も朝一緒に走る?」
「止めろ、死ぬ」
冗談抜きにそう思って、稔は即答した。
このリュドミュラ=チェルノフという少女は毎朝十キロのランニングを義務づけている超がつくほどの健康優良児である。現実で稔が肩を並べられるような相手ではない。
「身体は資本。兵隊の基本だからね」
そういって雪のように白い肌を持ち上げて力こぶを作ってみせる。日焼け対策は万全なのか、黒くなったような跡はまるで無い。
「兵隊って……、高校生だろ」
「未来は兵隊ですから」
そういって自信ありげに笑うリュド。
高校一年生の身でありながらリュドはすでに卒業後の進路を決めていた。
そう、彼女は自衛隊入隊希望なのである。その理由は戦闘機パイロットになりたいからという、ある意味で非常に分かりやすい理由だ。
高校卒業後は航空自衛隊に航空学生として入隊するつもりだと、以前話に聞いていた。
自衛隊への入隊は日本国籍を持つ者に限られているが、リュドはこの外見ながらも両親共に日本国籍を持つ日本人なので何の問題も無い。
戦闘機乗りなんて狭いと表現するのも生温い厳しき門を通る必要があるため、なりたいと思ってなれるものでもないが、それでもまだ将来なんて微塵も考えていない稔には、時々この銀髪の少女が眩しく映る。
「だから是非、F-Xは純国産機になって欲しいなー。なんたって将来私が乗る機体なんだから」
……動悸はどうであれ、であるが。
「お前、取らぬ狸の皮算用って知ってるか?」
「誤解しないで欲しいんだけど。私の場合は綿密な将来プランって言って欲しいわ」
ものは言いようだなと内心で思う。
リュドが本当に戦闘機パイロットになれるかどうかは知らないが、仮にリュドがそうなった場合、確かに現在選定中のF-Xに搭乗する将来の可能性は十分に存在した。
「だけど、そんな狭き門を狙う人間が対戦ゲームなんかに時間をかけてていいのかね」
「う。それを言われると少し痛いけど……」
稔ほどではないが、リュドもまた『プラウファラウド』の世界においてはランキング上位に名を連ねるプレイヤーである。
対戦においては初心者救済の余地がほぼ存在しない世界で、最前線に立ち続けるには相応の時間を費やす必要があるのは当然のことだ。
もともと稔が知り合ったばかりのときのリュドは精々勢力内でも上位百にランキングする程度だったが、稔と同じチームに所属して頻繁に組むようになってからはゲームプレイ時間も飛躍的に増加していた。今ではリュドも三十位内にまでランキングを上げている。
自分でも少しやり過ぎているという自覚はあったのか逃げるように視線を彷徨わせていたが、少しして開き直ったように真っ正面からその青い瞳で稔を見返す。
「べ、別に全く無駄になるわけじゃないし。戦闘機パイロットになる前のいい練習になるわよ」
「いやならないだろ……」
確かに『プラウファラウド』の万能人型戦闘機の操作は極めて複雑なことで有名だが、流石に現実の兵器と比べてはいけないだろう。
しかし何やら自信のある様子でリュドは首を振った。
「そうでもないみたいよ? 前に〈ライトニング〉の人と話したことがあるけど、似てるところは結構あるし、操作の難易度はむしろ『プラウファラウド』の方が高いって笑ってたくらいだから」
「あー……」
根拠はそれか。
リュドのその言葉に稔は思わず納得してしまった。
チーム名 〈ライトニング〉
それは恐らく『プラウファラウド』内の中でも最も知名度の高いチームの名前である。
それは彼らが所属する勢力内で不動のランキング一位となっているチームだという事もあるが、それ以上に特出すべき事がある。
チーム『ライトニング』に所属するプレイヤーは全員、現役の自衛隊所属の戦闘機乗りなのである。
もちろんそれは自称であり何か公的な発表がされたわけではないのだが、今やそれを疑うものは殆どいない。
事の初めは動画投稿サイトに『プラウファラウド』の対戦動画が上げられたことだった。
タイトルは『馬鹿なライトニング乗り達がガチでゲーム世界に挑む』である。そしてその動画に映っていたのは、当時『プラウファラウド』内で最強と言われていたチームをほぼ一方的に蹂躙するチーム『ライトニング』面々の勇士であった。
プレイヤーとしての個々の能力では互角か、寧ろ劣っている気配すらあった『ライトニング』メンバーが立ち回りと連携で確実に相手を追い詰めていく様を見せられれば、それはまさにプロの所業と頷くしかない。
その後も非定期に上げられていく上げられていく彼らの動画は『プラウファラウド』内の戦術に大きな影響を与え、現在も初心者参考動画としてもオススメされているほどである。
稔も彼らとは何度か対戦したこととがあるが、一対一や二対二の少人数戦闘ならともかく数の増えた集団戦となるとまるで勝てる気がしなかった。
ゲームプレイヤーとしての個人の腕前では勝っている自信はあるのだが、それを振るえぬまま良いように撃墜されてしまうのである。
二対二で互角程度に戦えるというのも稔と同時出撃回数が一番多いリュドを相方に置いた場合に限るのに対し、『ライトニング』はチーム内の誰との組み合わせでも実力を発揮しているのだから恐れ入るしかない。
「けど『ライトニング』と会話出来たなんて珍しいな。あそこはあんまり外部とは関わり持たないだろ」
色々と追求されるのが面倒なのか、プレイ動画とかを公開しているわりには中の人達は殆ど露出をしないことでも有名だ。
「うーん、ほら。私が言うのも何だけど、一対一以外であの人達と渡り合えるプレイヤーってかなり限られてるじゃん? だから覚えられてたみたいで、少し前に一人で遊んでるときに戦場で遭遇して、その時にメッセージが飛んできたんだよね」
「……それは喜んで良いのか?」
「いいんじゃない? ウイングバッジ持ってる人達に覚えられるなんて最高じゃん」
にへらと、リュドは笑う。
ちなみに送られてきたメッセージの内容には『今日は恋人はいないのか?』という一文が含まれていて、それで有頂天になってそのまま山に墜落して死んだのは目の前にいる少年には絶対に教えられないリュドの秘密である。
「そんなに嬉しいもんかね」
「……えへへー」
当時(に貰ったメッセージの内容)を思い出してだらしなく笑みを浮かべる銀髪美少女を見て稔は呆れる。
よもや目の前の少女が全く別の要因でその表情を浮かべているとは思いもよらないのだった。
次話であらすじ分終了です。