紳士協定破棄
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ベッドの上で仰向けになりながら、ぼんやりと両手に持った本を眺めていく。
つるつるとした触り心地の上質な印刷紙。
そこには色取り取りの写真が魅力的に掲載されている。名物からオススメの店、特産品、この都市の交易関係。様々な情報が読み手の心をがっちりと掴ませるよう、技巧を凝らせた紹介文。
購買者の期待に応えた、実に良く出来たガイド本である。
しかし表紙から裏表紙まで何度読み返してみても、そこにゴーストや非正規市民という単語は載っていない。
「はあ」
読んでいた本を枕の横に放ると、そのまま上げていた手を投げ出して大きく息を吐き出した。
釈然としない感情が胸の中に蟠っている。
その原因は分かりきっている。病院の診察後に遭遇したあの出来事だ。
薄汚れ、ボロボロの服を身に着けた年端もいかない少女。
そこにいるのに存在していない者達。
非正規市民――ゴースト。
掛け布団を巻き込みながら、ぐるりと身体を半回転させる。先程からクルスは自分でもはっきりと分かるくらい落ち着きがなかった。
自分が今感じているこの感情はなんだろうか。
同情、憐憫、怒り。
確かにどれも間違いではない。可哀想な境遇だと思ってしまっているし、そんな事態になっていることに対する宛のない憤りもある。
しかし今自分が感じている感情は、後ろめたさだった。
この都市で生活するための市民権を持たず、拠り所も無いゴースト達。
彼らと、クルスにそこまでの違いはない。
一歩何か違っていれば、クルスも彼らと同じような境遇になっていただろう。そうならなかったのは単純に運が良かったからだ。クルスの身柄を預かっている軍にとって、クルスが有意義な存在だと偶然認められたからに過ぎない。
そのことについてクルスが責任を感じるようなことは何もないはずだ。偶然だろうが幸運だろうが、それは掴み取った瞬間、その者のものとなる。
それに非正規市民にこうした感情を覚えるのも勝手な話でしかない。
日本で暮らしていた紫城稔の記憶の中にも、難民や浮浪児というものは存在していたし、そのことを知ってもいた。ただ日本という環境が整った国で暮らしていたから、直接目にする機会が無かったというだけの話である。
感情を持て余すといった感じだろうか。
こういう時、紫城稔だったならば『プラウファラウド』の世界に身を浸して全てを忘れ去るのだが、それが出来ない現在がもどかしい。
気がつけば、万能人型戦闘機に乗っていないのは今日で二日目だ。これだけ長い時間機体に触っていないのはどれくらいぶりだろうか。
学校から帰宅したらすぐに『プラウファラウド』を起動し、取得単位を計算してぎりぎりまで授業をサボって時間を捻出し、寝休みの日はそれこそ朝から晩まで仮想現実に潜り続けた。
定期的に行われるサーバーメンテナンス時間だけはどうしようもなかったものの、終了予定時刻の一時間前には告知ページに張り付いて早期終了をしていないかと確認し続けていたほどだ。
気を紛らわす方法もなく、それを解決する方法もなく。
再度身体を逆方向に転がしたクルスは、向かいのベッドに腰掛ける少女と目が合った。
セーラ=シーフィールド。
精緻な人形、或いは端麗に削り出された彫刻のように整った容姿を持つ少女。感情が無いというわけではないようだが、彼女がそれを表に出すことは滅多にないのだろう。少なくともクルスはセーラが笑ったり怒ったりするところを見たことは一度もない。
二段ベッドが二つ、計四つの寝床がある寝室。
だが現在その室内にはクルスとセーラしかいない。もう一人の同居人であるシーモスは晩飯を食べ終わった後、ふらりとどこかに出かけて行ってしまった。行き先は聞いていないが、どうもあの黒人軍人はクルスの監視任務を理由に、都市での休暇を目的としている節がある。それを考えると、あまりろくでもないところに行っていそうだ。
対して、目の前の少女は何処までも愚直である。
与えられた監視という任務を継続し続け、今もセーラはその真紅色の双眸でじっと、クルスを見やっている。ここでの生活が始まってからほぼ全ての時間、可能な限り彼女はクルスの傍らにいた。だが、そこには一切の不満や疲れの色はない。
命じられた司令を忠実にこなす機械のようでもある。
ふと、クルスは口を開いた。
「なあ」
その呼びかけにセーラは瞬きを一つした。
感情の色を一切見せることの無い、鉄壁の少女。そんな彼女からしたら、今の自分は一体どう映っているのだろうか。
「なんでしょうか」
「セーラは悩んだりしたときはどうする?」
その質問の意図が分かりかねたのか、セーラは少しの間ほんの僅かに視線を彷徨わせて、
「解決します」
そう端的に答えた。
それはもっともな答えだったが、クルスの求めるものではない。非正規市民の抱える問題など、個人がどうこう出来るものではない。
「解決出来ない場合は?」
その問いにセーラはまた僅かに間を開けて、口を開く。
「質問ですが、それは絶対に解決出来ないものなのですか」
「……そうだな。そう思ってもらっていい」
少し悩んだ末に頷いたクルスに、セーラは今度は時間を空けずに言葉を続けた。
「それならば次善を目指します。それも無理ならば更に次善です」
最善を求められないのならば、次善を目指す。
確かに彼女の言葉はもっともで、合理的とも言えた。だが今回の場合、それが当てはまるのだろうか。そもそも、クルスは自分がどうしたいのかもよくは分かっていない。何となく非正規市民達を知って生まれたこの持て余している感情を無くしたいだけなのだ。
未だ視線を彷徨わせて納得いかない風に思案するクルスを、セーラはそのガラスのような瞳で見つめ、言葉を続けた。
「それらも無理だというのならば、自分が満足するように行動すればいいのではないでしょうか」
「……え?」
付け加えられた少女の言葉にクルスは目を丸くした。
そんな呆然とするクルスの顔を真っ直ぐに見ながらセーラは言う。
「あなたが何に悩んでいるのか分かりません。しかしその事柄に解決策が見いだせないのなら、せめて自分が納得できる行動をとるべきかと」
自分の感情を見せることなく機械のように己の任務に従事してきた金髪の少女が、妥協の末とはいえ自分の意思を尊重するような意見を口にする。
それがクルスには驚きであった。
しかし何故だか、その言葉はすとんとクルスの胸の内に収まった。
「……そうか」
クルスにこの都市が抱えている問題を解決するような力は無い。
万能人型戦闘機の操縦技術においては自信があるが、その他の知識もアイデアもただの高校生に過ぎないのだ。
だがそれならそれでいい。
誰かに自己満足と言われても仕方が無い。
根本的には何の解決にもならず、責任を持つわけでも無い。
ただ自分が少しでも納得するために行動する。
「そうだよな」
そう呟いて、クルスは一言、答えを導き出してくれた少女に礼を言う。
「セーラ、ありがとうな」
その言葉に返事は無く、金髪赤目の少女はただじっと固まって、少年を眺めていた。
***
次の日、クルスは都市内で足を進めていた。その数歩後ろには、当たり前のように金髪の少女の姿がある。
だがしかし、もう一人の監視役の姿は無かった。
あろう事か、シーモスは朝帰りだったのである。彼自身は全く酔ってはいなかったが、身に着けた服からは強烈な酒の匂いが染みついていて、どのような類いの場所にいたかも推測がたつというものだ。
しかも出かける旨を伝えると、シーモスは二つ返事で了承し寝室へと姿を消していった。呆れてものも言えなかったが、最早何も言うまい。実直に職務を遂行するセーラを見ていると不憫で仕方がなかったが、彼女自身が文句を口にしない以上、クルスが何か言うのも筋違いだろう。
そうしてクルスとセーラは、二人で建物の並ぶ街並みを進む。
明確な目的地は無い。
場所的には、昨日の軍病院周辺である。
探し人の姿を求めて人通りが少なそうなビルとビルの隙間などを意図的に通り抜けていく。こうして探索してみて思うのは、この都市は意外と死角になる場所が多いということだ。高層建築がそびえ立つ場所と場所の隙間、そういうところに時々ぽっかりと、忘れ去られたかのように空間が出来上がっている。そういう場所は空き地であったり、見たことのない何かの残骸のようなものが放置されていたりという感じではあるが。
ガイド本に頼っていては絶対に知ることはなかったであろうこの都市の一面だ。
クルスが目的の相手を見つけたのは一時間ほど彷徨いた後のことだった。
長く伸びきったぼさぼさの黒い髪。
細く華奢な手足。
近くで見て分かったが、彼女の着ている服は元々は白に近い色だったのだろう。布地の殆どが薄汚れていて元の色が分かり辛いが、そこ箇所にその痕跡が見て取れた。
その少女はビルの曲がり角を曲がったところにいた。向こうも丁度その曲がり角に差し掛かったところらしい。
褐色の肌を持つ幼い少女は驚きに双眸を丸く見開いている。
それも数瞬。
いつぞやのように、彼女は身体を翻し、脱兎の如く駆け出そうとした。だがそれを大人しく見送るわけにはいかない。この少女と会うためにクルスは今日あてもなく建物の隙間を歩いていたのだ。
「待て!」
咄嗟に伸ばしたクルスの手が、少女の手首を掴んだ。
そして驚く。
手の平に最初に伝わってきたのは、脆くて細い、その感触だった。肉付きは薄く骨が浮き出ているようで、力を込めればすぐにでも折れそうな頼りなさである。
腕を掴まれた少女が振り解こうと腕を振り回す。
「いやだ、離してよ!」
だが相手は身体も出来上がっていない幼い身。それもお世辞にも健康体とはいえない状態だ。年上の男の手を引きはがすほどの力は発揮出来なかった。
「落ち着け! 別にとって喰おうってわけじゃ」
「いやああああ、変態! ロリコン!」
「違うっての!?」
人目の無いビルの隙間だというのが救いだっただろうか。
誰かがこの場所に訪れる気配は無い。もし人目につき都市守衛でも呼ばれた日には、面倒事は免れなかっただろう。
助けの見込めない状況に危機感を煽られたのか、幼い少女の抵抗が一層激しくなる。腕を振り回し身体を回し、足を伸ばす。その暴れ回る様はまるで台風のようだ。
クルスが必死に制止を呼びかける。
「ちょっと、お前、少しぐらい人の話を……いて、ちょ、痛い痛い痛いっ、蹴るな馬鹿!」
少女の足が脛に当たってクルスが思わず悲鳴を上げる。
そんな様子をセーラは三歩引いた位置から眺めている。
口には出さなかったが、人攫いの現場のようだなと思っていた。実際、非正規市民を狙った犯罪行為は一定数以上は存在する。その現場と今の状況にそう大差は無いのではないだろうか。
「落ち着け、危害を加えるつもりはないんだって!」
「今加えてるじゃん!」
「それはお前が逃げようとするからだろうが!」
「やっぱり捕まえるつもりなんでしょ! ロリコン!」
「違え! お前みたいな子供に興味は無いわい!」
「身体が目当てじゃない……?」
少女は少しだけ動きを緩めて思案顔を浮かべた後に、はっと顔を上げた。
「じゃあ子供の目をくりぬいてペンダントにするつもりね!?」
「怖えよ! 誰がそんな気持ち悪いことするか!」
「じゃあなによ!? 金目のものなんて私何も持ってないよ!」
「だーかーらー!」
いい加減埒が明かないと、クルスは声を張り上げた。
「俺はただお前と飯を食いに来たの!」
そんな発言が人気の無いこの場所に木霊する。
その言葉に驚いたのは腕を掴まれている少女だけでは無く、後方で控えていたセーラもであった。
義務的にクルスの後をつけていたセーラだったが、彼が一体何を目的としているかまでは知りはしなかった。金髪の少女の双眸は珍しく、僅かにだが見開かれている。
たがしかし、幸か不幸か背後に立つそんな彼女の変化に気がつく者はこの場にはいなかった。
褐色肌の幼い少女は暴れ回していた必死の抵抗を止めて、恐る恐るといった感じでクルスを見やる。
その赤褐色の瞳を細めながら――
「お兄さん、それってナンパ? ……てことは、やっぱりロリコ……」
「違うっ!」
クルスの声が周囲に響き渡った。




