ゴースト
夏が近い。
正午の時、屋根の上で仰向けに寝っ転がっていたタマルはその事実を実感していた。
頭上高く昇った白い太陽に暖められて、周囲からは熱気が立ち上っている。周囲に広がる緑溢れる山々からは、虫たちが騒音を発していた。
それらが全てが、これから本格的に訪れるであろう夏期の厳しさを知らせてきている。
「あっちいな……」
独立都市アルタス西方防衛基地所。
第十一格納庫。
基地司令直属の特殊部隊シンゴラレの為に用意されたそこの屋根の上で、彼女は裸足を投げ出して空を見上げていた。黒いシャツの袖をだらしなく外に出し、薄手のボトムパンツのジッパーは下まで降ろされている。
「くそ、なんでこんなに暑いんだ……暑い暑い……」
彼女はそう、呪詛のように暑いと言葉を繰り返す。
防壁と透過性の高効率光発電パネルで全体を覆い尽くし、都市内の温度や湿度、天候すらも人の手で調節するアルタスとは違い、都市の外に建設されているこの基地は自然の温度変化を直に受ける。夏は暑いし、冬は寒い。それが本来のあるべき姿なのかも知れないが、タマルにとっては忌々しいことでしかない。
そして何よりも、同部隊の同僚二人が自分を差し置いて都市内で暫くのバカンスをしているという事実が、彼女の心をささくれ立たせていた。
「理不尽だろ。なあ、そう思うだろ?」
そう彼女は近くにいる人物に問いかける。
先程からの呟きは何も独り言ではなく、その場にいるもう一人の人物に対してぼやいていた。
「あの不良おやじと無表情猫が都市に行ってて、私達が基地内待機って酷い仕打ちじゃないか?」
シンゴラレ隊は第一、第二の二つの隊で構成されている。
数日前の国境防衛線では第二部隊は国境の防衛戦力として戦闘に参加し、第一部隊はその戦線を大きく迂回して敵の補給地点を叩くことを目的とした強襲任務に従事していた。
作戦自体は成功していたが損耗は大きく、部隊内の再編を余儀なくさせられていた。その間、数を大きく減らした第一部隊は団体的な作戦行動をとることが出来ず、かといって通常の指揮系統に組み込まれていないため哨戒任務が回されてくるようなこともなく、結果こうして飼い殺し状態になっている。
そんな不満の詰まったタマルのぼやきに、
「そうですか? そうですかもしれないですねー」
と、その相手――エレナ=タルボットは呑気な声を漏らした。
明らかに気のない返事にタマルはむっと眉根を釣り上げると、がばっと上半身を起き上がらせた。
「なんだその返事は? お前はもう少し日頃から――……って、お前、その格好は何なんだよ……」
勢いよく開きかけたタマルの口は、話し相手の姿を見てすぐに呆れたものに変わってしまった。だがそれも仕方がないことだろう。
彼女が来ていたのは雪を思い起こさせるような、真っ白なノースリーブのワンピースを着ていたのである。スカートの裾には主張しすぎない程度にフリルがあしらわれており、彼女の少女趣味が垣間見えた。
「あれー? 似合ってないですか?」
タマルの渋面を見て取った彼女が、かくりと小首を傾げる。
可愛らしくもあり、同姓から見るとあざとい仕草でもあったが、本人がその事に気がついているかどうかは怪しい。エレナとは同部隊に所属してからの付き合いになるが、彼女は空気を読むという行為には徹底的に不向きだと言うことをタマルは知っている。どんな状況でも慌てずに行動出来るのは戦場に身を投げ出す兵士に向いている性格とも言えるかもしれないが、日常で付き合う分には面倒にしか思えない。
タマルはがしがしと後頭部を掻きながら、半眼を向ける。
「あーいや、似合ってはいるんだけど……」
もともと軍人とは思えない、それこそモデルと言われた方が納得出来るような容姿と体型を持つエレナである。すらりと整った均衡を保つ、女性としては理想的な身体を惜しげもなく晒している今の彼女の格好は、とても似合っていると言える。麦わら帽子でも被って浜辺に立っていれば完璧だったかも知れない。
「ここは一応軍事施設なんだよ」
どこの良家のお嬢様だという言いたくなるその姿は、戦闘員の詰め所であるこの施設においては浮いているとしか表現しようがなかった。
基地内待機を命じられているとはいえ、今の彼女たちは実質的には非番である。
任務外の時には私服の着用は認められているし、公序良俗に反さない限りは上官達もあまり口うるさくは言わない。そんなところで締め付けたところで、兵の間で無駄に不満が溜まるだけだからである。
しかし、今の彼女の格好はどうだろうか。
別に極端に露出が多いわけでもなく、奇抜な服を着ているわけでもない。それでも基地内で白いワンピースというのは、生半可な服装よりも余程目を引く。
だがその事実を説明したところで、エレナは大して気にはしないだろう。
その場の空気や暗黙の了解というものを察するのが下手な彼女は説明されたところで、そうですか。なら、規則を守っているのならば大丈夫ですねー、と朗らかに笑うところまでタマルには予想出来た。
唯一の抵抗としてぼやく。
「そんなんだから私らの隊は色物扱いされんだよ……」
基地司令直属の特殊部隊シンゴラレ。
通常の指揮系統には組み込まれていないこの部隊は、軍内ではかなり浮いている。専用のカスタム機を運用していたり、基地内に関係者以外立ち入り禁止の区画を持っていたりというのも理由の一つではあるが、最大の理由はその構成員達の特殊性であろう。
一般常識とはかけ離れているような行動をとる彼らは、奇人変人の集まりとして知られてもいる。
「そうですかねー。でもそれ、タマルも人のこと言えないですよねー?」
「あ?」
妙に間延びしたエレナの言葉に、タマルはこめかみに青筋を走らせた。
「……私が、一体いつ、何処で、そんな人に噂されるような行動をとったんだっていうんだ?」
まるで逆鱗に触れられたかのように。
棘のある詰問口調で言葉を発するタマルに動じることもなく、エレナは指を下唇に当ててうーんと首を傾げた。
「でもタマル、言うと怒りますよねー?」
「内容によるな」
既に口元を痙攣させているタマルの様子を眺めながら、
「ではつかぬ事をお尋ねしますが、タマルは今年でおいくつですかー?」
「……二十七」
まだ二十六ではあるが、あと半年ほどで口に出した年齢になる。若干婚期を逃し気味な気はしているが、今のところタマルがそれを気にしたことはない。
タマルの返事を聞いたエレナは一つ頷いて、のほほーんとした口調で言った。
「そうですねー。二十七歳です。二十七って言ったらもうおばさんに足を突っ込んでる思うんですけどー」
そう言って、エレナは話し相手の全身をゆっくりと見やって、
「――流石にその身長はまずいかとー」
容赦なくその神経を逆撫でした。
ゆらりと陰湿な空気を纏った幽鬼の如く立ち上がるタマルを見て、エレナは少しだけ距離をとる。
こうして彼女が立つ姿を見ると分かるが、小さい。
身長は何センチだろうか。正確な値は絶対に教えてくれないので知らないが、小学生と言っても通用するのは間違いない。
タマル=イオラーゼという軍人は優れた万能人型戦闘機の操縦技術を持つ搭乗者であるが、その低すぎる身長から周囲からは奇異の目で見られる非業を背負っているのである。
何せその身長は同部隊のセーラ=シーフィールド(十四才)よりも低いのである。同じ部隊に子供にしか見えない人物が二人もいれば、それは噂されるに決まっている。
シンゴラレ隊を意味する言葉は数多く存在するが、その中で『小学校』などと言われているのは間違いなく、彼女ともう一人が原因だった。
立ち上がったタマルが剣呑な雰囲気を発していることにも気がつかずに、エレナは言葉を続ける。
「そりゃ噂もされますよー。私だって、初めてタマルと会った時はなんで子供がいるんだろうって思いましたもん。しかもやたらと偉そうだから、そういうお年頃なのかなーって……、あのータマル? なんでそんな顔してこっちに近寄ってくるんですかー? なんで助走つけてるんですー? そんな勢いよく走ったら危ないで」
エレンがゆっくりとした口調で言葉を最後まで言い切るより先に、タマルの身軽な身体が浮かび上がり、
「――身体的なことは仕方が無いだろうが!」
次の瞬間には綺麗なドロップキックが突き刺さった。
***
病院を出ると、すでに空は茜色に染まりかけていた。
それを見てうげと、顔を顰めるクルスの三歩後ろを、無表情のセーラがついてきている。
予定よりも随分と時間がかかったなと、クルスは空を見上げながら思う。
本来であれば昼過ぎには全ての診察を終えるはずだったのだが、最後のナノマシンがらみで予定が狂った。
結局あの後、ナノマシン確認のための再検査、再々検査と行われたが、ついぞクルスの身体からナノマシンが検出されることはなかった。
ノーシグナル。反応無し。
ナノマシンの血流補助を無しに万能人型戦闘機に搭乗していたというクルスに軍医のハザネ=ユーギリは大いに頭を抱え、その後追加の検査をするように命じたのだった。
いまいちクルスにはナノマシンというものが万能人型戦闘機とどう関わってくるのかが分からなかったのだが、説明を聞くに万能人型戦闘機で旋回機動をとった際にかかる身体的負担を和らげることが出来るらしい。
高速で動く機体に乗っていると搭乗者はそれに合わせて身体が振り回されることになるのだが、その時に最も負担がかかるのは筋肉や骨格ではなく、全身を駆け巡る血流である。
人間という生き物は1Gの状態で上から下に負荷を受けながら進化してきた生物であるので、当然上下左右にその何倍ものGを受けて平気なようには出来ていない。
高G環境では心臓よりも上にある脳に血液が供給出来なくなり、完全に視野を失ってしまう。所謂ブラックアウトと呼ばれる症状で、さらには脳虚血による失神に繋がる恐れもある。当然操縦中に気を失えばその後に待っているのは墜落という無慈悲な結果であり、それがどれだけ危険な症状か察せられるというものだ。
万能人型戦闘機の搭乗者に注入されるナノマシンは、高G環境でもその血流を正常に機能するように補助する役割があるらしい。
紫城稔の記憶にある現実ではナノマシンなど存在していなく、戦闘機のパイロットは耐Gスーツで高G環境に対抗していたが、この世界では一歩進んだ段階にあるようだ。
既に耐G用のナノマシンが開発されて長いらしく、クルスが体内にナノマシンを入れていないことをハザネは信じられないようだった。そしてそうと分かるや否や、ナノマシンを注入することを決定して、その前段階として様々な検査を受けることになったのである。
それがこの時間までクルスが病院に閉じ込められていた理由だ。
「なんか疲れたな……」
あの身の危険を感じさせる女医もそうだが、検査のために色々な部屋をたらい回しにされたのも地味に辛かった。
ナノマシンと言っても注入すれば自動で適応するような便利なものではなく、事前に持ち主の情報を入力する必要があるらしい。そこらへん、ナノマシンを漠然と万能に思っていたクルスの知識とはずれがあった。
当然、機体の背中から吹き出て蝶の羽を咲かせることもないらしい。少し残念な話だ。
「それで、あのおっさんは?」
「現在は地下の駐車スペースにいるようです。煙草を吸い終えたら回収に行くと言っていました」
「酒に加えて煙草までするのかよ、あの駄目おやじ……」
携帯端末を使ってシーモスと連絡を取っていたセーラから話を聞いて、クルスはげんなりとする。一応は任務中だというのに、酒と煙草。絵に描いたような駄目人間ではないだろうか。これで賭け事が加われば役満である。
迎えが来るまで手持ちぶさたになったクルスは、ふと気になったことをセーラに訊ねる。
「そういえば、セーラもどっかに案内されてたよな? 何してたんだ?」
そう。セーラもまたクルスとは違う場所へ案内されているのを、クルスは見ている。任務に従事している以上どこか具合が悪いというわけでもないだろうとは思ったが、気になったので訊ねてみた。
声をかけられた金髪の少女は少しの間、何か考えるように僅かに視線を動かした後に口を開く。
「検査です」
端的に、一言。
それだけでは説明が足りないとクルスの表情から読み取ったのか、セーラは言葉を足した。
「私の身体は定期的に処置が必要なので、その為の事前準備として検査をしました」
「……処置? どこか具合でも悪いのか?」
驚いたように目を丸くするクルスをその赤い双眸で見やりながら、セーラはゆっくりと首を振る。
「私は正常です。正常に、そう出来ています」
それで今度こそ、彼女の説明は終わったらしかった。
クルスには未だ理解出来ていないが、眼前の少女がそれ以上何か言う気配はない。
クルスはどうにも釈然としない気持ちで頬を搔きながら、まあいいかと納得する。正常だと言っているのだから、少なくとも身体が悪いとかではないのだろう。心配するような事態ではなさそうだ。
そう考えながら、クルスはまだ迎えは来ないのかと思いながら適当に視線を彷徨わせて、
「……?」
車道を挟んだ向かいの歩道にあるものを見つけて、思わず凝視した。
そこにいたのは子供だ。
十六であるクルスも子供といえる年齢ではあるが、それよりも遙かに幼い。見た目換算するならば十歳前後だろうか。薄褐色の肌と黒い髪を持つ、低学年と思わしき少女である。
ここは都市内だ。別に小さな子供がいるのはおかしな事ではないだろう。それでもクルスが気になったのはその子供の様相だった。
遠目で見ても薄汚れていることが分かり、服の裾はボロボロに擦れきっている。腰辺りまで長く伸びた黒髪はそういう髪型というよりは、一切の手入れがされていないで無造作に伸びているという感じだ。それを証明するように、少女の黒髪は艶やかさとは無縁の質をしている。
それは異様だった。
独自の交通網が発達し、外を丸ごと透過パネルで覆い込んでいる、クルスの感覚では近未来にも感じられるこの都市で。
まるで近代的な生活とは無縁の様相をした幼い少女。
その少女はきょろきょろと視線を彷徨わせていて、ふと車道を挟んで向かいの歩道に立つクルスと視線が合った。
それは長い時間ではなかった。
数秒間の後に、クルスが身体を動かすよりも早く幼い少女は身を翻して駆け出すと、建物の隙間へと姿を消していった。
「……あれは」
呆然と、クルスは言葉を漏らす。
「あれは、何だ?」
それは意味のない呟きでしかなかった。自分が目にしたことに対して思わず口からついて出ただけだ。
しかし傍らの少女はそうは受け取らず、自分への質問だと解釈したらしい。抑揚のない平坦な声がクルスの耳に届いた。
「今のはゴーストです」
「ゴースト……?」
この都市に来てから初めて聞く言葉に、クルスが首を傾げる。
「ゴースト。非正規市民。アルタスの市民権を持っていない者達のことを、総じてそう呼称します」
非正規市民。
公認されていない市民ということか。
「彼らの殆どは何らかの理由で住む場所を失い、土地を追われてきた難民です。市民権がありませんので都市に住むことも認められず、郊外に無断で住み着いている者達です」
難民、と口の中で呟く。
それは自分にとってはあまり馴染みの無い言葉だった。
記憶にある日本という国は世情的には不安定な部分もあったが、飢えや難民というものとは基本的に無縁な国であった。それゆえに知識としてそれを知っていても、実感が伴わない。
「……彼らをこの都市ではどう扱ってるんだ?」
難民であるとはいえ、この都市近辺に住み着いている者達だ。手厚く保護をしろとまでは思わないが、何かしらの対処はしているはずである。
しかしそのその質問に対する、セーラ答えは想像とは遙かに違ったものだった。
「何も」
「……? どういうことだ?」
「何もしていません。彼らは市民権を持っておらず、都市に住む権利もありません。彼らはこの都市には存在していないのです」
「そんな」
市民権がなければ働くことも出来ず、賃金も得られず、そうすれば食料を得ることも出来ない。
それで一体どうやって生きていくというのか。
「アルタスは無条件の移民受け入れを行っていません」
それは当然でもある。
山々に囲まれ、さらには全周囲を覆った面積の限られた都市。無条件に人口を増やしていては何れ都市の容量を超過してしまうし、異なる土地から来た者達を受け入れると無数の問題が発生する。
戦況を優位に進めているとはいえ、現在隣国と戦争中のアルタスにそれだけの問題を抱え込む余裕も理由も一切無い。
確かにそこに存在しているのに、存在しない者達。
故にゴースト。
そしてその定義に照らし合わせるならば、
「――つまり俺も今はゴーストってことか」
市民権を持っていないというのがそうだというのならば、現状のクルスもあてはまることになる。
その言葉にセーラは少しだけ考える素振りを見せたが、
「どうでしょうか。確かにあなたは現在市民権を持ってはいませんが、軍がその身元を保証しています。そんなあなたと、未来がない彼らを同一視するのは難しいでしょう」
彼女のその言葉はいつも通りに平坦で。
それが今のクルスには、凍り付いた金属のように底冷えする寒さを感じさせた。




