白衣の住処
都市アルタスでの生活二日目。
早朝の一幕を終えたクルスは、シーモスの運転する車に運ばれて都内を移動していた。以前と同じく、助手席にはクルスが座り、セーラは後部座席に乗り込んでいる。あまり深くは考えていなかったが、この座席順はようするにクルスが何か行動を起こす可能性も考慮してセーラが後ろから見張っているということなのだろう。彼女は座席越しにいつでもクルスを背中から撃ちぬける状態というわけだ。監視役としてはどうにも緩いという印象があったが、備えるところは備えていたらしい。
クルスとしては現状をふいにしてまで、彼らの意にそぐわないことをするつもりはない。座席の意味に気がついてからはどうにも落ち着かない気分させられた。
車両の窓から見える街並みと、蒼い色を持つ空。
クルスの視界に映る空はどこまでも広く、高く、その色合いに一切の遜色はない。透過性とはいえ、これが半球状に都市を覆った高効率太陽光発電パネル越しに見えているものだとはとても想像出来ない話だ。
上空からその威容を確認していなければ、クルスとて信じられなかったに違いない。
現在クルス達が向かっているのは、病院である。
ただし民間経営ではなく、都市の予算で創立し運営されている都市立軍病院であった。軍病院は原則として兵士だけを収容するものだが、緊急の場合にのみ受け入れることが可能だという。
このまま順当に市民権を得た後は、クルスは軍属として生きていくことになる。その際には諸々の手続きをすることになるわけだが、その書類作成に必要な情報を調べるらしい。要は健康診断の様なことをさせられるらしいと、クルスは認識していた。
移動時間は一時間もかかっていないだろう。
移動した距離に反して時間が短かったのは、道中が空いていたためだ。独立都市アルタスではモノレールによる交通網が広く普及しているため、車の需要があまり無いのだという。
本当は軍病院への移動も都市内に張り巡らされたモノレールを使った方が早く到着するらしいのだが、現状市民権を持っていないクルスは市民の倍以上の乗車料を取られるということを昨日で学んでいたので、車での移動となった。
どうせ支払うのは自分ではないのにとシーモスは呆れた顔をしていたが、抑えられる出費は抑えた方がいいに決まっているというのが、クルスの認識だった。その殊勝な心がけもリビングの端に積み重なっている昨日買い込んできた数々の物品を目にしてしまえば台無しなのだが、それはともかく。
壁で覆われている都市アルタスはその範囲が限られているせいか、空間を上下に利用している。ざっと見ただけでも高層建築物が非常に多いのが見て取れるし、駐車場などは基本的に地下である。
軍病院もその例に漏れず、高い背丈と地下駐車場を持っていた。ただ地上にも駐車場は存在しており、そこは専ら急患用に使用されるらしい。
建物の中に入ると中は白。
清潔を通り越して冷たさすら感じさせるその内装は、都市郊外にある軍基地とよく似ていた。どちらが先かは知らないが、わざと模倣したのではないかと思わせられる。
ロビーには思った以上に人が多い。
薄い色をした入院服を着ている者もいれば、軍服を着ている者もいる。その殆どの者は包帯を巻いていたり等、外傷を負っていて、病気を理由に訪れている人間は少なそうであった。
そういえばと、思い当たる。
まだ日の浅いクルスにはまるで実感が無いが、この都市は現在隣国メルトランテと戦争中なのである。自分がこの場所に出現したあの夜も、国境防衛戦の真っ只中だったとか。それならば負傷兵が多いのも納得がいく。
当然といえば当然だが、予め連絡は行っていたのだろう。受付に行くと待たされることもなく、笑顔で奥へと通された。
ここで一旦、同行していたセーラとシーモスとは別行動になる。特に用のないシーモスは適当に待機しているそうだが、セーラは違うらしい。金髪の少女もまた看護婦の案内で別の場所へと案内されていった。
案内された部屋へと入ると、やはりそこも白い空間だった。
白いシーツを引かれた診察台に、作業用の机。部屋奥にある棚には大量のファイルが並んでいる。色々と物が置かれている印象だったが、さして広くはない。あるスペースを利用して上手く配置されているのだろう。
その整然とした部屋の主は、作業机に向かって何やら手を動かしていた。
女性。
十六のクルスから見れば年上だが、世間的な基準に照らし合わせればまだ若いだろう。見た目だけで推測するならば、二十半ば辺りだろうか。緩やかに波打つ髪は、金髪に近い明るい色をした赤毛。美しいよりは、可愛いという印象がある。身に包んだ白衣の下からでも分かるその豊かな胸が、艶然と自己主張をしていた。
その女性は部屋に入ってきたクルスに気がつくと手元の作業を止めて、くるりと椅子を回転させた。部屋の入口で立ち尽くすクルスと視線が合う。やや童顔な造りだが、目は少々切れ目気味でどこかアンバランスにも思える。
「座ったら?」
そう促されて、クルスは軽く会釈すると彼女の正面にある丸椅子に腰掛けた。改めて、彼女と向き合う。
相手は暫く興味深そうにクルスの顔といわず全身を観察するように眺めていたが、一頻りして満足したのか笑みを浮かべながら口を開いた。
「どうもこんにちは。私は今日あなたの診察を任されましたハザネ=ユーギリです。よろしくお願いします」
「ええと、はい。よろしく」
何と答えるべきか一瞬逡巡してから、無難にそう答えた。
失礼はなかったと思うのだが、彼女は僅かに眉根を寄せて不機嫌を現した。
「他人行儀だなあ。それに相手が名乗ったんだから、あなたも自己紹介をする」
彼女のその対応にクルスは困惑する。
もっと形式的なやり取りを想像していたのだが、ハザネの口振りはまるで近所に住む年上のお姉さんといった感じである。
「……クルス=フィアですけど。……あの質問していいですか?」
「ん、何? エッチなことじゃなきゃ教えてあげるよ」
悪戯っぽく笑う彼女に、軽い頭痛を覚える。
「それです。……ハザネ先生はいつもそんな感じなんですか?」
「そんな感じ?」
「その、フレンドリーというか、気さくというか、距離が近いというか、妙に馴れ馴れしいというか……」
「こらこらこら、後半本音出ちゃってるから」
思わず顔を出してしまったクルスの言葉を窘めながら、彼女は人差し指を頬に当てて視線を彷徨わせる。
「んー、別に相手によって態度を変えてるつもりはないけど……。まあ確かに、今は少し舞い上がってるかもね。……なんでだか分かる?」
「いや、知りませんけど……」
会ったばかりの人物が浮かれている理由なんて察しようがなかった。何か良いことでもあったんだろうかという、身の無い予測しか立てられない。
クルスが溜息交じりに言うと、ハザネの目に獰猛な光が宿った気がした。
「それはねー」
何故だろうか、すごい悪寒を感じる。威圧感とでもいうべきか。クルスにはだんだん目の前にいる女性が危険な猛獣か何かのように思えてきた。
ハザネはおもむろに身を乗り出させると、両手でクルスの腕をがしりと掴んできた。捕獲されたように感じるのはクルスの勘違いではないだろう。
「え、ちょ!?」
突然の事態にクルスが目を白黒させているにも関わらず、ハザネはだらしなく口元を緩めさせて、
「君みたいな若い男の子が来るなんてほんとんどないんだよねえ! ここって軍病院だからさ、くるのはむさ苦しい男共ばっかりでさ! あーもう、なんで軍病院なんかに入っちゃったんだろうか! 辞めようにも機密情報の保持目的云々で簡単には辞めれないし! 適当な民間機関に行けばよかったのに、五年前の自分の浅はかさを恨みたい! あそこで思い直してれば、今頃は若い男の子達の体を……うへへへ」
あ、これやばい人だわ。
すぐ近くに美人の顔があるというのに、まるでときめかなかった。
感じるのは早くどうにかしないと色々と危ないんじゃないだろうかという、危機感である。
「……あの、チェンジで」
「ここはそういうお店じゃないから、む、り」
凄く良い笑顔で言い切られて、クルスは渋面を浮かべるしかなかった。
「大丈夫大丈夫、これでも私もプロだから。ちゃんとやることはまじめにやるからさ。……ちょっと途中で手が滑るかも知れないけど」
「口元からよだれが垂れてて説得力皆無なうえに、最後の言葉が不穏すぎるんですけど!?」
「安心して、ちょっとだけだから!」
「何が!? ちょ、誰か!? チェンジで! 担当医の変更をお願いします!」
「安心して、この部屋は完全防音だから! 例えこの場で爆弾が爆発しても気付かれない!」
「何のために!? ここただの診察室ですよね!?」
「そうだよー、だから何も怖がらないでいいから! お姉さんに任せておいて!」
「診察! もちろん、診察の話ですよね!?」
「……」
「そこは肯定しろよ!?」
***
猛獣と化した美人な女医さんに身体を弄くり回されること、幾何か。実時間は不明だが、クルスには永遠にも感じられる時間が過ぎ去った。
「……はあ」
一連の診察がようやく終わったと告げられて、クルスは深く溜息を吐いた。
着衣が乱れているのは決して年上の女性に襲われたからではない。身体検査の際に必要だから自分で脱いだのを、着直しただけだ。
不安になるのは検査を担当したハザネが息を乱しながら頬を上気させていることだが、詳細は語るまい。
強いて言うならば、クルスと変態女医の間でぎりぎりの勝負が繰り広げられていたとだけ記しておく。
それはともかく、ハザネ=ユーギリは変態ではあったが一応はプロだった。
簡単な問診から体重や身長測定などを、手際よく済ませていったように思う。そこは流石と褒めるべきなのかも知れないが、聴診器を当てる際にかなり際どい触れ方をしてきたり、ともすれば意味も無く肉体接触を行おうとしてくるのが恐ろしかった。その上口元は終始だらしなく歪んでいて、折角の整った顔立ちも台無しである。
診察の最中一時たりとも気を休める時は無く、病院というのはこうまで疲れるものだったかとクルスは内心で項垂れていた。
時間は一時間以上はかかっただろう。
軍へ入隊となると色々と調べておくことも多くなるらしく、結構な時間がかかるようだ。しかしそれも次で最後らしい。
「じゃあ、最後に血液を採取して情報を見てお終いね」
その言葉にクルスははあと曖昧に頷く。
血液採取はまだ分かるのだが、情報を見るとは一体どういうことだろうか。まさかこの世界ではそんな気軽に遺伝子チェックでも可能なのだろうか。
疑問は尽きないのだが、ハザネは自分の発言に疑問を持った様子はない。ということは、情報を見るというその行為はこの世界ではさして珍しいことでもないのだろう。
クルスは促されるままに腕を差し出した。
そこにクルスもよく知る形状の注射器が刺される。少しは痛みを覚悟していたが、意に反して全く感触は感じなかった。どうやら無痛注射器というものらしい。紫城稔の記憶にある日本にもそういえばそんなものがあったかなと、思い返す。
注射器の試験管のような部分には真っ赤な液体が並々と入っている。それは別に良いのだが、それをゆっくりと揺らして恍惚とした表情で眺めているハザネにはどん引きである。琴線に触れた相手のものなら何でもいいのだろうか。
暫くして我に返ったハザネは、その試験管を机の上に置いてあった機械にセットした。それが例の情報を見るための機器なのだろう。一体どういうものなのか気になったが、ハザネは早々に席を立ち上がった。
「じゃ、今日はこれでお終い」
「あー……」
どうやら自分は見せて貰えないらしい。或いは、結果が出るのに時間がかかるのか。興味を逸らされたクルスは声を漏らしたが、そんな反応を見てハザネが首を傾げた。
「お? どうかした、クルス君? もしかして私と別れるのが寂しい?」
「いや、それはないです」
クルスが即答するとハザネは泣きそうな表情を浮かべたが、自業自得にしか思えないのでクルスは同情も覚えなかった。
まあ情報とやらは気になったが、見れないのならば仕方が無い。クルスも退室しようと座っていた丸椅子から腰を上げた。
ピー、という電子音が聞こえてきたのは丁度その時だ。
「あら?」
ハザネが音に反応して眉根を上げた。
クルスも音の発信源を見やる。それは机の上に置かれた、先程クルスの血液がセットされた機械だ。
今も鳴り続ける音が何を意味するのかクルスは知らないが、それは何か異常を知らせているように聞こえる。
つかつかと機械に近寄るハザネを眺めながら、訊ねる。
「先生、どうしたんですか?」
「いやちょっと、ナノマシンとのデータリンクを失敗しちゃったみたいね。……ノーシグナル、反応無し……? そんなわけが……。あー、ごめん。クルス君、悪いんだけど、もう一度採血を……」
「ナノマシン?」
いとも当然のように出てきたその単語に、クルスは目を丸くした。
ナノマシン。
その言葉自体はクルスも知っている。
細菌や細胞よりも小さいサイズの自立稼働ロボットの総称であり、主に医療用の活躍を見込まれていた技術である。ただしそのサイズになると切削加工では作ることは出来ず、その敷居は非常に高い。紫城稔の記憶の中では、一世紀以上もその可能性を提唱、研究されていながら、実用の目処は全く立っていなかった非実現技術である。
もしかして、この世界ではナノマシンが実用化されているということだろうか。
呆然とするクルスだったが、ハザネには自分よりも年下の少年が何に驚いているのか分からないらしい。彼女にとってはナノマシン技術は自分が生まれる以前から存在する、あって当たり前のものだったからだ。逆に困惑したように訊ねてくる。
「クルス君どうかしたの?」
「え? あー、いえ、何でもないです」
「そう? なら、申し訳ないんだけど、もう一度血液を……」
「あの、そのことなんですけど」
ハザネの言葉を遮るようにクルスは言葉を重ねた。言葉を途中で止めたハザネは怪訝そうに見やってくる。
クルスは迷った。
何を言うべきか。
紫城稔の記憶通りならば、自分の体にはナノマシンなど存在していないのだ。開発もされていないものがあるわけがないのだから当然だ。
しかし。
この紫城稔の記憶は、自分が生み出した虚構ではなかったのだろうか。それならば、ナノマシンが自分の体に組み込まれていてもおかしくはないはずだ。だが、現にクルスの血液からナノマシンは検出されることはなかった。
これは矛盾ではないだろうか。
そう考えてから、落ち着けと自分に言い聞かせる。
結論はまだ早い。
「あの、聞きたいんですけど、ナノマシンって市民全員が注入しているものなんですか?」
「え?」
何故今そんなことを聞いてくるのかと、ハザネは不思議そうな表情を浮かべたが、一応は答えてくれた。
「……全員ってことはないけど。余裕がある人は当然使用するでしょうけど、未だに注入費は高額だし。そうね……、割合的には五人に一人ってところかしら」
想像してたよりも遙かに少ないその言葉に、クルスは安堵する。
それならば自分がナノマシンを体内に持っていなくとも、なんらおかしいことはない。
「多分俺、ナノマシンなんか入れてませんよ」
その言葉に目を丸くしたのはハザネであった。
「ちょ、ちょっと待って。ありえないでしょうそれは!」
「え?」
とんでもないことを聞いたかのように声を上げる彼女の反応に、クルスは困惑する。
「いやでも、さっきハザネ先生は五人に一人くらいの割合だって言ってたでしょう。それなら俺がそうじゃなくても」
「それは普通に生活を送る一般市民の話です! あなた万能人型戦闘機の搭乗者なんでしょ!? だったらナノマシンを入れてなきゃどうやってあの高負荷のGに耐えるの!?」
「え?」
その言葉はクルスにとっては全く予想外のものだった。
確かに、万能人型戦闘機の機動には多大な負荷が身体に与えられる。特に目まぐるしく位置を入れ替える空対空格闘戦はそれが特に顕著であり、実際それが『プラウファラウド』における軽量機の敷居を引き上げる要因になっていたのは確かだ。
だが不可能と断言されるほどのものでもない。
「そんな大袈裟な……。確かに辛くはありますけど、不可能って程では……」
そう多少言い訳がましくクルスが言うと、ハザネは赤毛を揺らしながら大きく首を振った。
「万能人型戦闘機が高速移動速度で旋回した時に一体何Gかかるか知ってる? 12Gよ。ナノマシンの血流補助無しに耐えられるものじゃないわ」
訓練を積んだ生身の人間が耐G装備無しに意識を保っていられるのは大体7G前後である。それを考えると12Gというのが如何にでたらめな数字か分かる。
そう言われてしまってはクルスとしても閉口するしかない。
現在のクルスが持っている知識はほぼ全て、紫城稔という日本という国で暮らしていた高校生のものである。万能人型戦闘機に関することも『プラウファラウド』というゲーム内のことに過ぎない。
つまりは所詮は確証のない記憶、それに基づく知識が間違っていたということなのだろうか。
しかしクルスは既に半壊した〈リュビームイ〉で三機の万能人型戦闘機を相手に空中戦を経験している。
機体事情もありそこまで激しい戦闘機動はとることはなかったが、それでも愛機の驚異的な加速は確かに重力と遠心力による重圧を感じさせてはいた。
しかしそれも紫城稔の記憶にある負担とそう大差は無かったはずである。
これは一体どういうことだろうか。
一方、ハザネは、目の前の少年の様子から、少なくとも自分で嘘を言っているつもりはないのだろうと判断した。だがそれを信じるかどうかは別の話である。
パイロットスーツくらいは装着していたんだろうが、生身で万能人型戦闘機の負荷を耐え抜いているなどとはとても許容出来ない。
「――とりあえず、もう一度採血をして確かめてみよう。計測器も別のものを用意するから。単なる機械失敗ということもありえるしね」
そんな可能性は殆どありえない。
自分の言葉を妙に寒々しく感じながらも、ハザネはそう言葉に出して無痛注射器を取り出した。




