様式美
扉を開けるなり充満していたらしいアルコールの匂いが鼻をついた。
あまり嗅ぎ慣れないその匂いに顔を顰めて、次にテーブルの上に積み重ねられた缶の山を目をして、溜息を吐き出す。
紫城稔も引きこもり寸前の駄目人間であったが、視界に映る黒人のおっさんもまた別種の駄目人間だ。
今まで飲んだ量では飽き足らず、今もなお新しい缶に口をつけているシーモスをクルスはうんざりと睨みつけた。
「おい、おっさん」
「……ん? おおう、お帰り。結構遅かったな」
意外なことに、彼の受け答えはしっかりとしていた。
目の焦点は合っているし、顔が上気しているような様子もない。彼の姿態度は平時のそれである。これだけの量を摂取していたら、普通は酔いつぶれていてもおかしくはない。
「……あんた、ザルなのか?」
「はあ? 搭乗者が酒で酔うわけないだろう」
クルスの呆れた反応に対して、シーモスはさも当然のように言う。
そんな馬鹿なと、クルスは首を振った。
高速で三次元的な機動を行う万能人型戦闘機は確かに搭乗者の三半規管を大きく揺らし、乗り物酔いのような症状を与えることがある。『プラウファラウド』の時代においてもVR酔いという現象が存在し、ゲームのログアウトと同時に酷い嘔吐感に襲われるという事例は存在した。プレイヤーの中にはゲームを起動する前に横にバケツを置いておくような者までいたらしい。
対して酒酔いは、アルコールに含まれる成分が脳や血液に作用して現れる症状である。
一口に酔いとはいっても、その原理は全く違う。万能人型戦闘機の搭乗者だからといって酒に酔わない理由にはならない。
やっぱりこのおっさん酔っ払っているんじゃなかろうか、と思っていると、仕返しというわけでもないだろうが、今度はシーモスが呆れたようなじとっとした視線を寄越してきた。
「それで、お前のその大荷物は何なんだ?」
「うぐ」
痛いところを突かれたクルスは口元を引き攣らせる。
シーモスの疑問ももっともだ。下見ついでに買い物に行かせたと思ったら、両手に大きな紙袋をぶら下げて返ってきたのである。中からはこの都市の有名店の土産物からよく分からないペナントが姿を溢れさせていて、背中には『一刀入魂』の文字が刻まれた用途不明の木刀。
シーモスはぽりぽりと頬を搔く。
「まあ、確かに観光がてらとはいったがなあ……」
その視線には何と言うべきか反応に困ったような色がある。その対応が逆にクルスを居たたまれない気持ちにさせた。
「いや、俺が悪いわけじゃない。そうじゃないんだ……。悪いのは全部あの魔性の本であって……」
「なあにをわけの分からないことをぶつぶつと。まあいいんじゃねえの、楽しんできたなら。どうせ俺らの金じゃないしな」
あっけらかんと言われたその言葉に、クルスはそういえばと気になっていたことを思い出した。両手の荷物を適当なところに置くと、懐から一枚のカードを取り出す。
「聞きたかったんだけど、これ何なんだ?」
黒地に金字。
いかにもな雰囲気を持つマネーカード。
今日の買い出し―― 断じて観光ではない ――では支払いにずっと使っていたものだが、これを出したときの店員の反応が妙によそよそしかったのである。中には急に頭を下げ出す者までいて、クルスとしては対応に困るしかなかった。
「……ああ、それな」
シーモスはそれを一瞥して、僅かに視線を彷徨わせた。
すぐに答えが返ってこないことに疑問を抱く。もしや何か後ろ暗いものなのだろうかと、邪推してしまう。何せ黒に、金である。
あからさまにも思えるその装飾にはクルスも大丈夫なのかという気持ちを抱いていた。
「まあそれは、あれだ。好きに使えって偉い人から言われてるから大丈夫だ」
訝しげな表情をするクルスを煙に巻くように、シーモスは視線を逸らしながら言った。
実際、間違ってはいないのである。
あの電子マネーカードは大企業の重鎮や政府の運営者のみに厳密な審査を経て発行される、使用限度額無制限の代物である。あれを使えばどんなものでも買えてしまう、普通の人生では目にすることの出来ない一品だ。
そんな代物をシーモスが何故持っていたのかというと、ソピア中将に事前に渡されていたからである。好きに使えという軽い言葉と共に渡されたそれをシーモスは震える手で受け取り、その扱いを決めかねたシーモスは長い逡巡の末にクルス本人に渡してしまうという暴挙に出たのだ。
好きに使え、の言葉の前には必要ならば、という注釈がつくとは思うのだが、シーモスは気が付かないふりをした。
「偉い人、ねえ……」
何やら誤魔化すようなシーモスの態度に、クルスは詮索するのを止めた。
そう言われて思い当たる人物をクルスは一人しか知らない。そもそも現状知り合いといえるほどの人物が少なすぎるのだが。
「それよりもつまみになるものは何か無いのか?」
「それなら饅頭とかあるけど……って、一応これから晩飯作るつもりだったんだけど?」
「あー俺は今回はいらん。それにそれらを早めに片付けないといかんだろう」
そういって物の詰まった袋を指差す。買ったものは様々だが、中には日持ちしないものも当然あった。
「……それもそうか。セーラはどうする……って、必要なさそうだな」
一体いつの間に。
金髪の少女は一人で勝手に袋を漁り、中から食べ物の類いを取り出すと片っ端から温め直していた。実はお腹をすかしていたのだろうか。
晩飯を作るつもりだったクルスとしては少し釈然としない気分でもあったが、今回は完全に自業自得である。文句を言える立場でもない。
クルスは買ってきた材料を備え付けの冷蔵庫に仕舞い込んでいきながら、手を伸ばす。
「セーラ、豚饅くれ」
「……どうぞ」
言葉と共に渡されてきたのは中華饅。
手を止めてクルスが不満げに見やると、丁度少女が小さな口を開いて豚饅に囓りつくところだった。
「……お前、案外食い意地張ってるのな」
呆れ混じりの半眼の視線を向けられたセーラは、暫くクルスの顔を見やった後にそっと目を逸らした。
一夜が過ぎた。
目を開けるとそこには白い天井が映っていた。
既視感とでもいうべきか。紫城稔の記憶が今のこの状況とよく似た状況を知っている。半ば古典ともいえる一世を風靡した作品。だとすれば、これから彼が口にする言葉、それは半ば義務でもある。
「知らない、天井だ……」
殆どふざけ半分に呟いた言葉ではあったが、胸中にある心情は果たしてどうだろうか。
自分がこの状況になってから確実に二十四時間は経過した。もしここが『プラウファラウド』の中だったならば、強制的にログアウトさせられていることになる。それが成されていないということは――、
「……はあ」
この世界で生きるという、覚悟。
その意思を固めておいて良かったと思う。
もし紫城稔や〈レジス〉の形に固執し、この世界を認めずに今の状況になっていたら、きっともっと取り乱していただろう。今こうして事実を目の当たりにしても、溜息を吐く程度で済んでいるのは間違いなく、自分がクルス=フィアとして存在することを認めているからであった。とはいえ、腹の中に重たいものを感じるのは確かなのだが。
ここがゲームではないとすると、残る可能性はあまり考えたくはないが――
「……俺は戦場で頭がイッちゃったどこかの兵士ってことなのかね」
恐慌状態に陥ったり、眼前の事実を受け入れられなかったとき、記憶に障害を持つという事例は珍しくない。記憶喪失、記憶の捏造。それは様々な形で現れる。
戦場で恐慌状態に陥った自分がどこかで平和に暮らす高校生の記憶を生み出したと考えれば、辻褄は合うのだろうか。
その場合、じゃあ自分は本当は何処の誰なんだという疑問が残るわけだが、それはまあ、いい。クルス=フィアとして存在している以上、面倒をしてまで過去を探すつもりはなかった。
もう一つ、他にこの状況を説明する方法として、異世界転移説があるのだが、流石にそれはクルスも受け入れ難かった。証明する手立てが何もない上に、発想自体が荒唐無稽過ぎる。
それならばまだ記憶障害を起こしているという方が断然納得がいった。
まあいつまでもそんなことを考えていても仕方がない。
クルスは布団の隙間から這い出た。
寝室に二つある二段ベッド。そのうちの片方の下段が、クルスの寝場所だった。上にはシーモスが割り当てられ、隣の二段ベッドの下段はセーラの場所だ。
すぐ隣で年が近く、それも人形みたく整った少女が寝ているというのは何ともクルスを落ち着かせない気持ちにさせたが―― しかも彼女の寝間着は下着であった ――、布団に入ってしまえば案外気にならないものらしく、あっさりと寝付いた。
隣のベッドを見やるとすでにセーラの姿はなかった。すでに起床しているらしい。シーモスは確認しなくともすぐにいることが分かった。大型弾頭ミサイルが地上に炸裂したときに発生する地響きに似たいびきが聞こえてきていたからだ。
妙に寝汗をかいていることに気がつき、シャワーを浴びたいなと考えながら寝室を後にする。
リビングに入ると、やはりそこにも少女の姿はない。寝室とリビングを除けば、後はトイレがバスルーム、それと外出した可能性くらいか。だがこれまでの彼女の様子を考えるに、監視の役割を放って彼女がどこかにいく可能性は薄い。
ということは――、
そのことに思い当たって、バスルームへ続くドアノブに手をかけていたクルスは寸前でどうにか手を止めていた。
「……あぶねえー」
冷や汗を拭いながら一息つく。
お風呂場で美少女とばったりなど、一体何処のラブコメだと自嘲する。
扉の向こうから水の流れる音はしていなかったが、一応、強めに二回ほどノックしてみる。
「はい」
予想通り、向こう側から短い返事が聞こえてきた。
セーフ、と内心で手を開きながらクルスも口を開く。
「あーいや、いるならいいんだ。別に用があったわけじゃないから」
「クルスですか。私はもう終わったので、ご自由にどうぞ」
「……ん、そうか? じゃあ」
セーラが出た後に使わせてもらおうかな。
そうクルスが言葉を続けようとするよりも早く、がちゃりと音を立てて目の前の扉が開いた。
「――」
目を逸らす暇もない。
陶磁器のように白い肌の全身がクルスの視界に納められる。自己主張の少ない小ぶりな胸も、腰から臀部に続くしなやかなラインも、へそから足の爪先にかけての細い肢体も、その全てが余すところなく晒される。
綺麗だった。
だがそれだけではない。
その体躯は引き締まっているのが一見して分かる。しかし、余計な筋肉はなく、地を駆ける獣のような、しなやかさが、ただ彼女がその場に立っているだけでも分かる。
紫城稔は、クルス=フィアは、これまでの人生で女性の裸を目の当たりにするような経験をしたことがなかった。まるで固定されているかのように、クルスの視線は目の前から剥がれなくなる。
陸に上がって酸素を求める魚の如く口を開け閉めするクルスをセーラは僅かに不思議そうに見やって、
「なにをしているのですか?」
自分の肢体を隠す様子もなく訊ねてきた。
現状を何の疑問にも感じていない少女の言葉で、クルスはようやく時を取り戻した。一歩、足を後ろに下げて叫ぶ。
「お、お前、なんでそんなかかかかっかか、ここ、かっこかっこでで!」
「……カッコウ? 鳥がどうかしましたか?」
「違う! 格好! 服装! お前、服は!?」
一体何故自分の目の前にいる人物は取り乱しているのか。全く分からないという様子のセーラはいつものようにじっと相手の顔を見やった後に、すっと部屋の一角を指差した。そこにはセーラが基地を出発する際に持ってきていた小さな鞄がある。
「着替えならあの中に」
「なんで置きっ放しなんだよ! 脱衣所があるんだから持ってけよ! ――というか、俺ノックしたよね!? 扉の前に俺がいるって分かってたでしょ、あなた!? なんで出てきたの!?」
「何か問題でもありましたか?」
「ありましたよ! 現在進行形でッ、ナウでッ、今俺の眼前に問題が直立してますけど!?」
叫び声を上げるクルスをいつも通りの鉄皮面でセーラは眺める。
ちなみに今こうしている間も彼女はその裸体をクルスの前に晒しているわけだが、その事について何か思う様子は一切見せていない。体を隠す様子もなくクルスを見つめている。
「よくわかりませんが」
少しの時間の後、裸の少女はほんの僅かに首を傾げて、
「何か迷惑をかけましたか私は?」
「迷惑じゃないですけどっ! むしろありがとうございました! って感じだけど、そうじゃなくってな!?」
完全に冷静さを失ったクルスが裸のセーラの前で頭を抱えた。
確かに自分は警戒していたはずなのに、一体どうしてこうなった。でも綺麗でしたね、これであと三年は戦える、ごちそうさま。という取り留めのない思考が次から次へと脳裏に流されていき、
「ふあああ。――なんだなんだ、朝からうるせえなあ」
寝室からシャツと短パンを身に着けた男が姿を現したのはそんな時だった。
クルスの動揺を脇に置き、場違いにも思える力のない声がリビングに響き渡る。
「いくら隣室に人がいないって言っても、同居人にも気ぐらい遣って欲しいんだけれどな――……」
初めは寝ぼけなまこだった彼も、自分の視界に映ってきた光景には驚いたようだった。目を丸くしてクルスとセーラを見やる。
「――ふむ」
シーモスは後頭部をがしがしと掻いた後に、明らかに嘘と分かるわざとらしい欠伸を漏らして、
「まあ、おっちゃんはもう一眠りするから。ほどほどにな」
「違うッ!」
踵を返そうとする男にクルスは叫び声を叩きつけた。
この作品をお気に入りしてくれた方々が百名以上いるようで。
ありがとうございます。




