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逸脱! 歴史ミステリー!  作者: 小春日和
織田信長はどんな天下を作りたかったの?
9/24

信長の信じたものは何?

 桶狭間での勝利によって一躍名を広めた織田信長。彼の名声は『あの今川義元に勝った』という称賛だけではありませんでした。それまでは、下克上と言えども、代々続いた大勢力の戦国大名が結局は日本の中枢を牛耳っていました。今川氏の他にもたびたび出てくる『武田信玄』は源氏の流れを汲む名家です。上杉氏は、当時は完全に歴史の裏に隠れてしまっていますが、藤原氏の系譜ですね。だからなんとなく貴族っぽい、かな。そういう大大名の一人を一介の地方大名である織田が打ち負かした。戦国の覇者を目指す小勢力たちにとって、これほど士気の上がるエールもなかったでしょう。織田信長の人気が一気に燃え上がったのはこんな時代背景もありました。

 けれど知名度が上がれば上がるほど『出る杭は打たれる』もの。五年後、京都の将軍家を襲った暗殺事件の余波を受け、信長は近畿や近江の中規模勢力と敵対する羽目になっていきます。有名なところでは近江(滋賀)の浅井長政との確執ですかねえ。信長は若くして武将としての才を見せていた長政を個人的に気に入り、味方に取り込もうとしました。だから戦国一の美女とまで謳われた自分の妹のお市の方を嫁がせたのね。長政は誠実かつ義理堅い性格だったと言われます。お市との夫婦仲がよくなれば信長を裏切ることはしまい、という算段があったのでしょう。ところが長政は、この人柄のために、逆に近隣の同盟国が信長と敵対してしまったのを見過ごせず、市がいるにもかかわらず信長と刃を交わしてしまうのです。その行為を造反と受け取った信長の長政に対する報復は苛烈でした。自害というせめてものプライドを保って死んだ長政の首を刎ね、金箔をまぶし、酒の肴にして盛大な宴を開いた、と信長公記には記されています。


 この信長の激烈な性格。これは特に裏切りを図った相手に向けられました。

 前回の最後に書いた『家康の妻と愛息を死に追いやった』という行為。その理由について『桶狭間での家康の行動に不信を覚えたからではないか』と推測したのは、彼のこの性質のためでした。そして浅井長政への仕打ち。さらに信長には明智光秀より先に謀反を企てた家臣がいました。荒木村重あらきむらしげ。信長自身が気に入って臣下に取り入れた村重は、ある戦で突然敵方に寝返ります。もともとそういう行動をしがちの人だったのね。信長はこれに激怒して、遁走を続ける村重自身を捕獲する前に、彼の妻子、女房(お手伝いさん)たち一二二人をまず見せしめに殺します。それから家臣の家族三六人も京都市中を大八車で引き回した末に首を刎ねました。

 これらの容赦のない報復は、現代でも『戦国一残酷なのは信玄か信長か』という悪評を呼んでいます。


 さて。ではここで本題。

 ここからは信長の理解しがたい特徴をご紹介します。これが今回のミステリーの目玉になります。

 織田信長という武将は『寺』に対して非常に攻撃的な行動を起こす人間でした。事例として二つ上げておきますね。

 事例、一。信長は、浅井長政と敵味方に決別したあと、浅井の勢力を匿った京都の比叡山延暦寺の僧侶を小僧さんに至るまで殺戮し尽くしました。その数はなんと数千にも上ったそう。

 事例、二。こちらは荒木村重のほうですが、なんと本人ではなく村重の家臣が逃げ込んだという理由で、高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)の僧侶を数百人も殺しているのです。

 前にも書きましたが、お坊さんというのはこの時代武器を持って戦っていました。だから信長にとってお寺は『侵略対象』と映って遠慮しなかったのかもしれません。ただ、他の戦国武将が寺院に手を出さなかったのにはそれなりの理由があります。それは祟りでした。比叡山延暦寺などは京都に近いために天皇家や将軍家と結びついてやりたい放題だったのね。けれどそれを諌めることはできなかったんです。うかつな忠告をすれば「神仏の祟りが下ろうぞ」と逆に脅されてしまうからです。武将は基本的に信心深いですから。

 それなのに信長は意にも介さず、……いえ、むしろ寺を憎んでいたのではないかと思わせるほどの執念深さと残忍さで、きっかけを作っては小さな地方寺院でさえも潰して回りました。信長の襲撃を恐れて「うちは宗派まで変えて信長様に決して逆らわないことを誓います」と約束した寺が焼き討ちされた痕跡を、現代でもいくつも見つけることができますよ(例『渡岸寺どうがんじ』)。

 そんな信長の姿を揶揄したのが『第六天魔王』。仏教上の存在で『欲望を司る魔物の頂点に君臨する王』という意味です。


 祟りさえ恐れずに仏教勢力を壊滅して回った信長。では彼には信心という魂の拠り所は必要がなかったのでしょうか? もっと簡単に言うなら、神仏を敵に回して怖くなかったのでしょうか?

 いまの私たちは祟りを恐れるという感覚をあまり持ちません。けれど……こういう例を出すことには抵抗があるのですが、例えば自分が人を殺めてしまった場合、その相手の怨念が我が身に報復するのではないかって想像、したりしますよね。それは人間である限り当然の感情だと思われます。私たちの中に『罪悪感』という観念が内包されている限り、私たちは罪の意識から逃れることはできないのですから。

 人の命を奪うことが当たり前だった乱世を生きた信長。その彼が信仰という支えを持たずにいられたとは、私には思えないのです。信長が裏切り者に対して苛烈な処置をしたのは、ある意味『見せしめ』でした。「こうなりたくなかったら俺を裏切るな」というメッセージです。つまり信長は人を残酷に殺すことが好きだったわけではない。そういう人間が罪悪感を軽減する宗教に頼らずに殺戮を重ねていったというのは、不思議というより不可能なことではないかとさえ感じられるのです。


 それなら信長はなぜ救いになるはずの仏を敵に回したの? ということですが。

 実は日本には仏教に抑えつけられた宗教が他にあったのです。

 信長はその宗教に傾倒していたのではないでしょうか。


 ここで少しでも織田信長という人物を知ってみえる方は、

「ああ、あの宗教ね」

と思い当たるのではないかな。はい。信長は、当時はまだまだ珍しかったキリスト教の布教活動を支えていました。


 キリスト教が日本に入ってきたのは一五四九年。スペイン(ポルトガル説もあり)の宣教師フランシスコザビエルが伝導しました。ザビエルはカトリック教会の会員だった人で、インドやマラッカを経由して日本に入りました。あんまり有名な逸話じゃないんですけど、ザビエルを日本に導いたのはマラッカに在住していた日本人だったらしいです。名前は弥次郎やじろうさん。日本人で始めてキリスト教の洗礼を受けた人ですね。この弥次郎が鹿児島出身だったことから、ザビエルの入国もそれほどの抵抗は受けなかったようです。

 ザビエルはまず薩摩さつま(鹿児島)の大名の島津氏に布教を行いました。最初は好意的だった島津氏ですが、仏教寺院がその布教を見咎めて、ザビエルは最終的には薩摩を追い出されてしまいます。それから周防すおう(山口)の大内氏の元に渡るのですが、ここで『男色(日本では小姓などの文化があるけれどキリスト教では禁止)』に対する認識の違いで、またも周防から出て行く羽目になってしまいます。地方での布教の難しさを知ったザビエルは、今度は大都市のさかい(大阪)に行って、それから将軍の膝下まで近づくことに成功しました。ところが手土産を持って行かなかったので将軍は会ってくれません。しかも将軍がいるのは京都、あの比叡山延暦寺の干渉エリアです。ザビエルとキリスト教はまたも撤退を余儀なくされたのでした。

 そんな経験を得て日本の習慣というものを学んでいったザビエル。いったん長崎県の平戸まで戻った彼は粘り強く体制を立て直しました。そして先に決別した周防の大内氏の庇護を受け、国内にキリスト教を広めることに成功したのです。


 そんなふうに日本の風土と混ざり合ってきたキリスト教。織田信長とキリスト教がつながったのはザビエル入国から二〇年経った一五六九年、後継者として日本に来ていたルイス・フロイスとの謁見によってでした。フロイスの持ち込んだ数々の土産物を気に入った信長は、ルイスの故郷であるポルトガルからもたらされた銃がもともと好きだったという側面も手伝ったのでしょう、キリスト教の布教にかなり積極的な姿勢を見せたようです。


 徐々に勢力を拡大していく信長がキリスト教に傾倒していく。これは仏教寺院にとって恐ろしいことだったでしょうね。だから比叡山延暦寺も高野山金剛峯寺も信長の敵の浅井長政や荒木村重に加担した。それが信長の怒りを誘発し、攻め込まれた。

 そして仏教と相対してしまった信長は、心理的な救いを求めるために密かにキリスト教を信奉した。ルイスへの協力的な態度はそれを物語っているものである。


 なんて結末だったら話は簡単なんです。『織田信長は実はキリスト教徒だった!』みたいなタイトルですべてを集約できるんですから。

 でも残念ながら信長はキリスト教に改宗してはいないんです。キリスト教は信長にとってあくまでも邪魔な仏教を排除するための布石でしかなかった。

 なぜなら。

 キリスト教は自殺を禁止しています。

 信長は本能寺で自害しています。


 では信長の怨霊や祟りに対する本能的な恐怖心を払い、仏教の壊滅に邁進させたその『黒幕』は何だったのでしょうか。


 織田氏の祖先を辿って行くとある氏族に行き当たります。それは忌部氏いんべしという一族です。この氏族の歴史は古く、あの有名な蘇我氏とタッグを組んだこともある、古代史の中ではそこそこに有名な一族です。

 ここで一つ豆知識を。『織田氏』『忌部氏』『蘇我氏』、もっと言えば『武田氏』『今川氏』など、ある程度の勢力を持った集団には『氏』という名称を用いますよね。これはなぜでしょう。古代の日本には『苗字』というものがありませんでした。あの王であった卑弥呼でさえ名前だけです。それが、たぶん五世紀ごろ、近畿から全国を統一しようとしていた大和やまと朝廷が『人民には権力の度合いを区別できるような呼称を与えたい』とこの呼び名を始めたのです。天皇家に匹敵するぐらいの力を持っていた氏族には『おみ』、官僚級には『むらじ』というように。これを『氏姓うじかばねの制』と言うんですね。だから『氏』は基本的に天皇から与えられました。蘇我氏は政治を担っていた一族、忌部氏は祭祀を司っていた一族です。ただ織田、武田、今川等の武士勢力の氏は少し成り立ちが違います。これらの一族はかなり後年になってからつけられたもの。つまり天皇家の力が衰え、天皇が役職を割り振ることができなくなってからの氏族なんですね。だから彼らは自分たちで勝手に改名を繰り返したんです。「うちは織田にしよう」、「じゃあこっちは今川で」みたいに。この二つを見分ける方法はフルネームを口に出して言うこと。『蘇我入鹿』は『そがのいるか』と読みますよね。『織田信長』は『おだのぶなが』です。入鹿のほうは途中で『の』が入っていることにお気づきでしょうか? これは『天皇から賜った蘇我の氏の中で生まれた入鹿』という意味だから『蘇我の』『入鹿』なのです。織田信長は現在の姓と同じ『織田家に生まれた信長』。だから『の』は入りません。

 そこで話を戻しますが、忌部氏、これは先に書いたように祭祀を司っていた氏族でした。もうちょっとわかりやすく言うと『神官』のことです。古代日本では神のお告げというものが密接に政治と関わっていました。政治の『政』って書いて『まつりごと』って読ませるでしょ? これは祭(祭祀)政(政治)が一致していたころの名残です。

 それでは信長は神を信奉していたのでしょうか。

 はい。私はそう考えます。

 だから信長は神の邪魔をする仏を排除したくて寺を次々に焼き討ちしていったのだ、と思うのです。


 ここで「神と仏って違うものなの?」という疑問が湧いた方がいるのではないでしょうか。

 現代の通念で言えば、神を祀るのは神社、仏を安置するのは寺、です。でも……どっちもお賽銭を奉納してお祈りするのは同じですよね? 大晦日にく除夜の鐘はお寺の行事、でも初詣の原型は神社の行事です。つまり神さまも仏さまも人間の願いを叶えてくれるという点では同じものなんです。

 では神と仏、最初に日本に誕生したのはどっちなのか。

 これは神のほうでした。それも誰かがもたらしたとかいうものではなく自然発生した概念です。世界中のすべての国々に共通する現象なのですが、科学が発達していない未開の状態の人間は『神秘的な存在』を強く妄想する力を持ちます。自分たちの周りには神のような超常的なものがいる、というような精神世界を形作ってしまうのね。日本でも『あらゆるものに神が憑依している』といった付喪神つくもがみの信仰が広がりました。これが徐々に体系化され、神話として語られるようになったのです。

 ではあとからやってきた仏は神にどんな影響を与えたのか。

 仏は仏教という宗教の中でイメージ化された存在でした。仏教は六世紀ごろに日本に伝来してきた、いわば当時の新興宗教です。インドの王シッダルタが開いたとされるこの宗教は、日本にやってきてさっそく戦争の火種になります。『仏教を擁立しようとする蘇我氏+聖徳太子』VS『神道(神を祀る信仰)を護ろうとする物部もののべ氏』が争いを始めてしまったのです。この戦で勝ったのは蘇我氏と聖徳太子でした。だから、以後、日本は仏教を第一の宗教としていったのです。

 神と仏。似てはいるけれど、……いえ、だからこそ相容れなかった二つの勢力。いわば商売敵のような関係でしょうか。

 では仏教に敗けた神道がなぜいまも生き残っているのか。これは人々の原始の感覚の中に『神を恐れる』という畏怖の情があったからだと思われます。仏がどんなに「大丈夫ですよー。神が祟ったら守ってあげますよー」って言っても、それを信用しきって神をないがしろにすることはできなかったのね。だから仏教も神道を徹底的に排除はしませんでした。寺の中に神社を造り、仏と神が融合する空間『神仏習合の施設』を増やしていったのです。


 けれど信長は神官だった祖先の意向を汲もうとした。それには戦国時代の仏教があまりにも腐敗しすぎていたという理由もあるでしょう。免除された税で肥え太り、人心を煽って一揆に駆り立てる。実際、信長だけではなく、寺院と戦おうとした武士は他にもいました。でも仏以外に心の拠り所を持たない彼らではどうしても勢いが衰えてしまうんですね。だから信長が代わりに粛清を施した。

 そうして寺の勢力を著しく削いだあと。

 信長は何を成そうとしたのでしょうか。仏教という邪魔者を消し去ったあとに作りたかった彼の天下は、どんな姿をしていたのでしょうか。


 話は飛びますが『明治維新』って言葉をご存知でしょうか。徳川家康の築いた江戸時代が倒れ、日本が近代『明治時代』への道を踏み出した改革のことです。

 このときに実は仏教と神道に対しても大きな変遷がありました。明治政府が『神仏習合』を解き『神仏分離』を進めたのです。これは、寺の中で小さく扱われていた神社を独立した寺社として引き上げる意味を持ちました。

 なぜ明治政府がこんな施策を行ったのかというと、政府は神道のほうを国家の代表宗教にしたかったんです。神の子孫である天皇を中心とした強力な中央集権国家を築くこと、『国家神道』を国の教育の要として人心を掌握することを目指したんですね。

 これって……でも少し恐ろしい気がしませんか? 合理性のない宗教という縛めで私たちは行動を極端に制約されてしまうのです。いわゆる『ファシズム』の温床ですよね。


 自分の思い通りにならなかった裏切り者たちを残酷に滅ぼしていった信長が、もし神道を主とする専制国家を成立させていったら。

 犠牲者は、それまでの比ではないような気がしませんか……?


 大うつけと呼ばれ、人とは違う思考、行動で敵を多く作ってきた信長。味方も少なくはなかったけれど、重鎮とされた秀吉や家康さえも本気で信じきることはできない下克上の時代。

 自分が専制君主になることでその不安と孤独から救われようとする弱い心が、もし信長の行動の原点だとしたら、それは天下人としてはあまりにも矮小な、そして人間としてはあまりにも寂しい生き方ではないでしょうか。

 織田信長という武将のことを『天下を取っていれば日本の歴史は変わった』と評価する歴史家はたくさんいます。そうですね。変わったことは間違いがないでしょう。ただ、それが民衆にとっていい方向になるかどうかには、申し訳ないけれど疑問を挟まずにはいられないのです。

 第六天魔王は欲望の権化。私利私欲のために仏教を排斥し続けた信長に対してのアダ名としては、悲しいほどに的確な表現になってしまいました。


 次回はそんな信長を疎んだ勢力について踏み込んでみたいと思います。

 主君を討つために本能寺に攻め入った明智光秀。けれどあまりにも無計画な行動だと現代でも『三日天下の光秀』と揶揄される彼が、本当に考えなしな愚将だったのか、というミステリーです。

 

すみません。次回の更新はちょっと間が開いてしまいそうです。

来月の二〇日前後までにはアップするつもりですので、お待ちいただければ幸いです。

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