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逸脱! 歴史ミステリー!  作者: 小春日和
織田信長はどんな天下を作りたかったの?
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下克上ってどんな状態?

織田信長のミステリーに取り組んでみたのですが、例によって長くなってしまったので、数部に分けていきたいと思います。一回目は戦国時代というものはどういう背景を持っていたのか、という説明です。

 織田信長。この人の名前を知らない日本人は恐らくいないと思います。その独創的な生き方から現代でのファンも多い戦国武将ですね。

 彼がどういう生き方をしたか、つまり『織田信長の伝記』については後述で詳しくやるとして、ここでは、ちょっと退屈かも知れませんが、信長の育まれた歴史背景を書かせていただきます。


 信長という人物は尾張(愛知県名古屋市近郊)を統治していた織田信秀(のぶひで)の息子として那古野城(名古屋城の前身ですが厳密に言えば立地も形も違います)で産声を上げました。兄弟姉妹は非常に多くて二二人もいます。もっとも有名なのは『戦国一の美女』と謳われた妹の『お市の方』ですかね。お兄ちゃんもいたんですが、彼は正室の子ではなかったので、必然的に信長が信秀の嫡男ちゃくなん(跡取り)となりました。

 さて、ここでちょっと考えていただきたいのですが、信長の父の織田信秀、彼はどんな身分の武士だったのでしょう。

 日本というのは戦国時代に至るまでずっと『天皇→将軍→大名』という順列で身分が下がって行きました。つまり天皇家が一番上で、実際に政治や軍事を行なっていたのが将軍だったとしても武士勢力は次点だったのね。けれどまあ鎌倉幕府やそのあとにできた室町幕府の統治のおかげで、武士は天皇家にとっての要となるまでに力を蓄えていったのです。

 そんな状態の中で戦国時代は起こった。戦国時代っていうのは戦争状態、つまり戦力になる人間がいっぱい出てきて争いを拡大していった時代です。幕府という武家社会の下で財産や兵力を拡張しつつあった武士たちは、自分たちの望みをその後も叶えていくために、一番得意である武力に、当然、頼りたくなった。そういう乱世の兆しを上から押さえつけていたのが天皇の補佐をする役目の将軍です。ところが折悪しくその風潮のさなかに将軍家の中でお家騒動が起きてしまったの。一致団結して平和を維持しなければならない立場の将軍家(+将軍家を補佐していた大名たち)だったのに、先陣を切って戦火を上げてしまったのね。これが一四六七年に勃発した『応仁の乱』のきっかけです。

 一般的に言う『戦国時代』っていうのはこの応仁の乱のときから始まります。でも、ですね。それでは応仁の乱に従事した武士たちがおのれの私欲のために将軍家の内乱を利用して混乱を大きくしていったのか、というと、そうではありません。応仁の乱はあくまでも将軍家の都合で起こり、将軍家の和睦で終わっています。ただこの戦のせいで将軍家がそれほどまとまっていない、つまり力を持っていないということが全国の武士たちに知られてしまったの。彼らにしてみれば、自分の野望を成し遂げる、まさに好機と映ったでしょう。

 戦乱の世に大きな狼煙を上げたのが地方の土地を仕切っていた大名たちでした。あ、ここで『大名』という名称を使いましたが、この時代はまだ『大名=地方国の統治者』とは確定されていません。幕府の要職に就いていた、現代で言う『政府付きの官僚』の仕事をしていた人たちのことも『守護大名』と言っていました。なのでここでは区別するために地方統治者のことを『戦国大名』と書かせていただきますね。応仁の乱以降、監視役の幕府の弱体化を知った戦国大名たちは自分たちの治める土地から幕府の役人を追い出して地方自治を確立しようとしました。そこで『一揆いっき』と呼ばれる反乱を次々に起こしていったのです。一揆というと、重税に喘ぐ農民が地頭や領主に対してくわや鎌を振るって闘うことを想像される方も多いと思いますが、それはずっと後世になってからの形。このころは戦国大名が主体で、それに農民が「いい自治国作ってくださいな」と協力したり、一向宗(いっこうしゅう)という宗派の僧侶たちが「私たちも戦えますよー」と参加したりしました。だからいかに周辺の人間を取り込むかによって戦況が大きく左右したのね。

 ここで話を戻して。織田信秀、彼は典型的な戦国大名でした。ただあの激烈な性質を持つ信長の父にしては慎重で計画性に富んだ人物です。全国でやみくもに覇権争いが繰り広げられる中、天皇と将軍に忠誠を誓って自分の地位を確たるものとしたり、次第に勢いを増してきた隣国の松平氏を討伐するときもむやみに突っ込むのではなく松平当主が戦死するタイミングを見計らったりしています。正面突破よりも搦め手で攻めるタイプの武将だったようですね。


 戦国時代とはこういう知力武力を兼ね備えた人間がたくさん出ました。のちに天下を取る織田信長、豊臣秀吉、徳川家康もその一角に過ぎません。飛び抜けた才能で他を圧倒した、というのは後世に作られた伝説です。


 では信長はなぜ他の戦国大名から抜きん出ることができたのか。

 父の信秀が一大勢力を築いてくれたのなら話は簡単です。信秀の地盤を継げば必然的に強大な戦国大名になれる。ところが父は残念ながら尾張一国の大名として終わってしまいました。しかも南に前述の松平、北には辛うじて和睦を結んだものの油断のならない斎藤道三、さらに同じ織田の系譜からも造反が出かねない状況での病死でした。そしてなにより厄介だったのが並外れた勢力を持っていた今川義元を敵に回したことです。

 今川から見れば取るに足らない矮小な存在だった織田信長は、後年になって一〇倍の数を誇っていた今川軍を桶狭間にて討ち取ります。それだけではなく、戦国の二大猛将、武田信玄と上杉謙信の勢力をも制圧してしまうのです。


 戦国時代は『下克上げこくじょう』の時代と言われます。地位や力の劣った者が優位な者に勝って立場を逆転させるという意味です。けれど実際には、弱い戦国大名たちは強い戦国大名にすり寄って生き延びる方法が一般的でした。そして好機を見つけて反逆に出るのです。

 織田信長のような『誰彼かまわず敵に回してなおかつ勝ち続ける』というのは異常なことなのです。しかも彼には強力にプッシュアップしてくれる味方がいたという史料もありません。

 相手が信長の力量を舐めていた。

 都合よく敵の大将が病死した。

 出世したい武士たちの欲をうまく鼓舞して利用できた。

 ……そんな理由で天下がはたして取れるものなのでしょうか?


 次はもう少し具体的にその点に迫ってみたいと思います。


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