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逸脱! 歴史ミステリー!  作者: 小春日和
源義経が最後に逃げた場所は?
5/24

義経はどこへ行ったの?

これで義経逃避行のミステリーは終わりです。

 これまでの話で、義経は頼朝に鎌倉入りをさせてもらえなかった、と書いて来ました。ではその後の義経はどうしたのか。

 彼はいったん京都に行きました。京都は義経が生まれた土地(資料はなく母の履歴から推測)。


 実はここにもドラマがあります。父の義朝が平治の乱で敗れたとき、義経はまだ生まれたばかりの赤ん坊でした。義朝の系譜をすべて絶ってしまおうと考えていた敵方は義経も殺してしまうつもりだったのです。それを命がけで止めたのが義経の母『常磐御前ときわごぜん』でした。え? 母親に助命嘆願されたからって敵は義経を助けたの? という疑問が湧きますよね。それはこの常磐御前が非常に美しい女性だったからなんです。しかもこのとき二三歳。女として一番輝くときですよね。その常磐が涙ながらに我が子の命乞いをする。敵の大将であった清盛の心を動かすには充分な理由になるんじゃないでしょうか。実際、常磐はそのあと清盛の愛妾となっています(一部には奥さんという説も)。子どもと引き換えに愛人要求。清盛も非道な男ですね。

 そんな理由で救われた義経は、清盛に囲われた母からも引き離され、鞍馬寺で幼少期を過ごします。ここで義経の性格が垣間見えるエピソードを一つ。義経には二人の兄がいてどちらも僧侶になっています。つまり兄たちは父の義朝亡きあと源氏を再興するのは無理だと早々に諦めて仏門に下ったのです。ところが義経はお坊さんにはなりませんでした。それどころか鞍馬に棲む天狗相手に戦闘力を磨いたというのです。父を殺し母を奪った平氏。そのあまりにも強大な敵に対し、いつか一矢報いるという希望を捨てなかったのでしょう。


 その思い出のある京都に戻った義経は理不尽な兄に反旗を翻すことを画策します。自分を評価してくれる天皇家を味方につけ、周辺の将に協力を依頼したのです。ところがこれは失敗に終わりました。鎌倉で北条氏との二人三脚を続けていた頼朝は、すでに覆せないほどの兵力を蓄えていました。負け戦に望む武士はいません。全国の源氏の仲間は義経を見捨て、ついには天皇さえ頼朝の力を恐れて義経の討伐を図ったのです。

 ちなみに義経が頼朝に謀反を企てたのは一個人の矮小な恨みからではありませんでした。頼朝はその時点ですでに義経討伐を命令していたのです。黙って甘受していれば殺されるのは必至。罪のない義経にそれを受け入れることはできなかったのでしょう。

 そうしてすべてのものに見放された義経は頼朝の追討から逃げるしかなくなりました。彼はまず奈良県の吉野に身を隠します。逃亡中の義経を支えたのは弁慶や愛人のしずか御前でした。特に義経と静の絆は深かったとされています。普通はいつ殺されるかわからない逃避行に恋人を連れて行く武士はいません。だから義経に付き合ったのは静のほうの意志が強かったのでしょうね。最期の瞬間まで共にあろうとした、ということでしょうか。けれど静と義経はこの吉野を最後に永遠の別れを告げることになってしまいました。静の妊娠が発覚したのです。厳しい山中の暮らしに身重の彼女を巻き込みたくなかった義経は、静を単身で京都に帰します。そして静の足跡から頼朝軍に自分の居所を察知されてしまい、また逃亡の旅に出るのでした。


 吉野を出立した義経たち。途中で頼朝に反抗心を抱く公家に匿われながら、一行は最終的に奥州平泉を目指しました。この地は少年の義経を歓待してくれた奥州藤原氏の治める地方です。願ったとおり、その当時の統治者であった藤原秀衡ふじわらのひでひらは義経を大喜びで迎え入れてくれました。それどころか自分の息子たちに対して『義経殿を主君として頼朝と敵対せよ』とまで約束させたのね。秀衡は実は頼朝が嫌いだったんです。だから義経が来てくれたことは彼にとっても都合がいいことだったの。

 では義経はここで本格的に頼朝への謀反を決起することができたのか? 残念ながらこれは秀衡の息子の一人『藤原泰衡(やすひら)』によって阻止されてしまいます。義経に奥州の統治権を譲ったあと、秀衡はすぐに病気で死んでしまいました。一本気な父がいなくなった奥州藤原氏はきっと動揺していたのね。絶妙のタイミングで頼朝が申し入れてきた『義経を引き渡せ。もし抵抗すれば奥州に攻め入る』との要請に浮き足立ってしまったの。特にうろたえたのが泰衡でした。彼は頼朝に義経を差し出すと言い出します。そしてそれに反対した兄弟たちを、なんと次々に殺してしまったんです。

 その有様を目の当たりにした義経は、自分のために一国が無惨に滅びていくことに心を傷めた部分もあったのでしょう、一一八九年四月三〇日、攻め入ってきた泰衡の軍に抵抗することもなく自害したのでした。


 ここまで読んでくださった読者さんの中には、なんとなくモヤモヤとした不快感が残らなかったでしょうか。

 義経の生涯。父と母を赤ん坊のときに失くし、兄たちが憎き平氏への復讐を早々に諦める孤独の中、自らを鼓舞してとうとう頼朝という同志を見つけた。ところが全力で協力をしたその頼朝に、今度はわけのわからない理由で追い回される。

 もしこれが義経一人に対しての禍いなら、彼はもっと早くに生き抜くことを放棄してしまったかもしれません。けれど義経には忠義を尽くしてくれる家臣がいました。少ないながらも匿ってくれる味方もいました。そして最後まで付き従おうとしてくれた恋人も。義経は単身でおのれの身の振り方を決めることもできないほどの人気者だったのです。

 それなのに頼朝は義経からすべてを奪って行きました。逃避行中に義経を隠してくれた公家をことごとく滅ぼし、愛人の静を捕らえて妊娠中の子どもを殺しました。やっと辿り着いた安住の地の奥州には脅しをかけ、弁慶たち忠臣の命まで結果的に奪っています。

 源義経の伝説。これは頼朝による壮絶なイジメの構図だったんですね。


 近代になって義経には新しい伝説が加えられました。それは『義経は奥州では死んでいないのではないか』という不死伝説と呼ばれるものです。

 このミステリーは大ブームとなり『北海道に逃げてアイヌの王になったのではないか』とか『モンゴルに逃げてジンギスカンになったのではないか』なんて突拍子もない考えすら生まれました。ちなみにジンギスカンは義経とは完全に別人です。

 私もこのころの書籍を二つほど読んだ覚えがあるのですが、たしか帯だったか後書きだったかにこんな記述があったんですよ。『この本には、義経が生きていてくれたら、との願いがこもっています』。つまり義経の不死伝説はエンターテイメントの傾向が強い説なんですね。

 でも……なんとなくその気持ち、わかる気がしませんか? こんなに懸命に生きた義経が結局は頼朝に負けて死んでしまう。そんな結末、ちょっと悲しすぎるもんね……。


 というわけで、私もちょっと真剣に『義経が生きていたらどこに逃げただろうか?』を推理してみたいと思うんです。

 まず義経が奥州から逃げる機会があったかどうか。これは充分にありました。奥州藤原氏は基本的に義経の味方です。泰衡のみが頼朝に寝返ったに過ぎません。だから影武者も立ててくれたでしょうし、逃亡の資金も用意してくれたでしょう。実際、死んだことを確実とするために鎌倉に持ち帰られた義経の首は腐敗がひどくて判別がつかなかったそうです。当時は馬で奥州から鎌倉に走ったでしょうから、行程としては一五日ぐらい。それなのにこのときに首を持った使者は四三日もかけて戻っています。まるで完全に形が崩れるのを待つかのように。つまり、討ち取ったのが義経の首ではない可能性を使者も気づいていた、けれど頼朝の叱責を恐れて証拠を捏造した、というところでしょうか。

 ではその先の道行はどうか。痕跡だけなら北海道の方面に向かっているのですよ。まあ平泉は岩手県なんで北海道は近いですしね。

 ただ。

 ちょっと想像してみてください。もし自分が味方をことごとく殺された義経だったら、落ち延びてこの先、何を成そうとするでしょうか。私は、少年のころから不屈の精神を持っていた彼なら再興を目指すのではないか、と思うのです。だとしたら再興が可能な土地に向かいますよね?

 北海道は当時蝦夷と呼ばれた未開の地でした。鎌倉時代が始まってようやく本土の人間が入るようになったんです。つまり義経との関連は何もない。

 もちろんモンゴルではありません。あ、実際にはモンゴルと日本に交易があったなんて説もあるんですよ。ただ、日本人の義経にとってかの地に渡ることはあまりにも冒険すぎる。だからこのルートも却下です。

 え? じゃあどこにも行けないじゃん? だって南に下ったら鎌倉に近づいちゃうでしょ? 逃避行中の義経にとってはもっとも忌まわしい土地、鎌倉。ここを避けるのは絶対条件だと……当然判断しますよね。


 じゃあ、鎌倉に近づかずに南下するルートがあるとしたら?

 しかも後ろ盾になってくれそうな勢力がその先に残っていたとしたら?

 導き出された答えは一つでした。

 義経は琉球(沖縄県)に渡ったんです。


 義経が自害したとされる一一八九年、琉球には一つの王朝が立っていました。その王は舜天しゅんてんと呼ばれた人物です。実はこの舜天、義経の叔父さんにあたる源為朝(ためとも)の息子と言われているのです。


 為朝というのは義経に負けず劣らずの個性的な武士だったようです。彼は、前回ちょこっと出した『保元の乱』で、頼朝や義経の父の義朝と敵対した人なのね。で敗けちゃって伊豆大島に流されちゃうんですよ。そのとき、搬送中に自慢の弓を引くことができないようにって肘の関節を外されちゃうんです。

 普通ならそんな痛い目に遭えば戦意がなくなるよね? けどこの為朝、肘が治ると同時に、なんと武力で流刑された伊豆大島を乗っ取っちゃうんです。そしてその勢いで伊豆七島(伊豆大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島)を征服しちゃうの。

 彼を流罪にした天皇家はその豪腕に恐れを成して為朝を討伐するように命令を出したんです。国を相手にしてはさすがの為朝も勝つことはできません。彼は敵の船を一つ沈めてから(!)、日本初の切腹という方法で自害したと言われています。

 表向きは。


 琉球の正史として扱われている『中山世鑑ちゅうざんせいかん』。その中には、この為朝が実は伊豆では死んでおらず琉球に逃れて息子を琉球王朝の最初の王にした、と書かれています。この史書を信じるなら為朝は琉球で生き延びていたのです。

 あ。一つだけお断りしておくと、現在の歴史学で教える琉球王国の始まりは時代がぐっと下った一四二九年からのものです。舜天説はあくまでも仮説扱いです。

 ともあれ義経の身内が同時期に沖縄に王朝を開いていた。これは再興を目指した義経にとっては願ってもない逃亡先ではなかったでしょうか。


 では締めとして残された疑問の解明に向かいたいと思います。


 まず。琉球に為朝の息がかかった王国があったとして、為朝や息子の舜天は義経を迎え入れてくれるでしょうか?

 為朝が伊豆に流されたのは頼朝や義経の父親の義朝に負けたから。実際、為朝は頼朝を深く恨んでいたようです。だったら義経はどうなのか?

 実は為朝は琉球に逃れるのと前後して舜天ではない別の息子を奥州平泉に送っています。当時は義経も平泉に逗留していました。まだ源平合戦に合流する前ね。だからたとえ確執があったとしても、頼朝を嫌っていた奥州藤原氏のお膝元で、義経と為朝が邂逅する機会はあったんじゃないかな。


 もう一つ。最後の疑惑です。平泉から逃げた義経が遠く離れた琉球に渡ることが果たして可能だったのかどうか。

 屋島の戦いのときに、源氏は水軍を持っていないので苦戦した、と書きました。つまり海にさえ出てしまえば航海術に疎い頼朝に追撃される恐れは激減するのです。

 船で沖縄に辿り着く。いくら剛毅な義経でもあまりに距離があり過ぎますよね。……ええ。たしかに一か八かの賭けではあったと思うんです。

 ただ、平泉と琉球の間に航路は。

 存在していました。

 世界遺産となった平泉でもっとも威容を誇っている建物って御存知ですか? 中尊寺の金色堂です。金張りのお堂である金色堂は、現在、建立当時の姿を忠実に再現されています。その上部には大量の沖縄の夜光貝が貼りつけられているのです。

 東北と琉球。どうも海流の関係でこの二箇所は古くから交易があったようなのです。平泉の奥州藤原氏は当然そのことを知ってますよね。だから義経が沖縄に向けて出航することにも合理性があるのです。


 私の頭の中にある義経像は、決して生きることに貪欲ではありません。自分のために次々と他人が滅んでいく様を見て絶望したり苦悩したりする繊細な青年です。

 蛇足ながら『そんな義経がもし平泉から逃れるシナリオを手に入れていたとしたら』という視点で、周辺の人間とこんなふうに関わったんじゃないかなと思われる創作エピソードを書かせていただきます。


 頼朝の『義経引渡し』の要請を受けた奥州藤原氏。その中で泰衡が義経を討伐する動きを見せていることを察知した他の藤原氏は、義経を琉球に送ることを画策する。だが逃亡はごくごく秘密裏に行われなければならない。自分の家臣や身内から義経の身代わりとなって自害をさせる相手を選んだ彼らは、義経の一番の忠臣である弁慶にこう諭す。

「お前のような目立つ大男が一緒では逃亡の成功は難しかろう。それに表向きは自害という形を取る義経殿のそばにお前の亡骸がないのは不自然だ。すまぬが義経殿とはここで今生の別れをしてくれぬか」

 何も知らされていない義経が態度のおかしい弁慶に、

「何かあったのか?」

と問い質すと、ごつい髭面の僧侶は苦笑いしながら、

「なあ牛若、俺はお前のことを主君だと思ったことは一度もないのだぞ」

と返す。

「……なんだよ、それ?」

不審な目を向ける小柄な青年に、彼は応える。

「俺はお前を息子のように思ってきた。生まれついての風来坊だった俺にとって、家族は何者にも替え難いものだ。だからお前に会えてほんとうに嬉しいと思うのだ」

 押し黙ったあと、

「……何があったんだ?」

ともう一度繰り返す『息子』に向かって、弁慶は平然とした調子で嘘をついた。

「明日よりしばしの分かれだ。お前は明日、琉球に向かう手筈になった。俺は目立つからお前とは一緒に行けない。別で向かうことになろう。お前のそばにいてやれないのは『親』として辛いことだが、なに、またすぐに会える。お前は無事に琉球に着いて俺を迎えに出てくれよ」

 史実では、義経が自害するために籠った『衣川館』に泰衡の軍が攻めてきたときに、主君の自害を無事に果たさせて面子を守ってやろうとした弁慶は、入り口を封鎖するために矢を受けながら立ったまま死んだ、と伝えられている。


 義経の寵愛を受け逃亡先まで同行したとされる静御前は、物語に沿った舞を踊って人々を楽しませる白拍子しらびょうしであった。その彼女は逃亡先で妊娠が発覚し、義経と別れて京都に戻る途中に吉野の山中で捕まった。

 身重の身で「義経の居所を教えろ!」と詰め寄る頼朝に決して屈しなかったという彼女。それどころか頼朝が戯れに「お前は有名な白拍子だそうだから一差し舞ってみせろ」と愚弄する態度に対し、義経への恋歌を踊ったという強気な女性だったらしい。

 だが彼女の精神は子どもを取り上げられたときに破綻したという説がある。頼朝は静に「生んだのが男なら取り上げて殺す」と妊娠中に告げていた。残念ながら義経の息子を生んだ彼女は、泣き叫んで哀願するのも聞き届けられずに、赤ん坊が由比ヶ浜の海に沈められたという報を聞くのである。

 頼朝の妻、北条政子の温情によって鎌倉から放免された静。けれど彼女にはすでに希望がなかった。向かった先は郷里の香川県とも子どもが殺された由比ヶ浜とも言われる。そこで自害したという説もある。

 放浪中の静に、もしも一片でも希望があったとしたら、それは義経が自分を迎えに来てくれることではなかっただろうか。どこに逃げ落ちているかも定かでない恋人に向かって、こんな祈りを繰り返したのではなかっただろうか。

「義経様、もしあなたの子を守れなかったわたくしを許してくださるのなら、どうか、いつか、わたくしの前に姿を現してください。それまで無事に生き延びてください」


 義経の、そして義経を取り巻くすべての人々の希望となった源為朝の逃避行伝説。為朝が流れついた地は『運天』と呼ばれます。『運を天に任せる』という意味。義経が岩手から沖縄までの気の遠くなるような航海を成功させるには、まさに『天に味方をされ』なければならなかったでしょう。

 弁慶や静、そして義経の行く末を案じた人々が『天の意志』となって義経をしっかりと琉球まで運んだ。そんなファンタジーを思わず期待してしまうのは私だけでしょうか。


 さて。

 あなたはこの推察、信じますか? 信じませんか?


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