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逸脱! 歴史ミステリー!  作者: 小春日和
源義経が最後に逃げた場所は?
3/24

義経ってどんな人?

源義経のミステリーに取り組んでみたのですが、少々長くなってしまったので、三部か四部に分けていきたいと思います。続きは近日中に掲載します。

 さて、今回は時代がぐっと下って源義経みなもとのよしつねの謎を追って行きます。

 源義経といえば、例えば『牛若丸と弁慶』の童話を思い出す人もいるでしょうし、『一の谷の合戦』や『屋島の戦い』なんてのを想像する人もいると思います。それぞれの逸話についてざっと説明しますとこんなふう。


 『牛若丸と弁慶』。

 これは源義経の主に幼年から少年にかけての伝説と後年の逃避行の様子を書いた『義経記』という書物から抜粋されたエピソードです。

 義経一九歳のとき、京都の五条大橋の上で武蔵坊弁慶むさしぼうべんけいなる破戒僧と対峙するという事件が起きました。弁慶は比叡山の僧侶でしたが、生まれつき怪異な姿と乱暴な性質を持ち合わせていた大男です。薙刀なぎなたを武器とする弁慶は、当時五条大橋を通る人々にいちゃもんをつけては戦いを挑み、勝つと相手の刀を奪う刀千本狩りというゲン担ぎのようなことをしていました。九九九本の刀を負けなしで手に入れた弁慶は、ある夏の夜に一人でやってきた細っこい美少年を最後の獲物と定めます。楽勝だと高をくくった弁慶。ところが相手の少年はあまりにも身軽で捉えどころがありません。結局一太刀も浴びせることなく弁慶は彼に敗れてしまうのです。その相手というのが義経でした。

 牛若丸というのは彼の幼名です。そのころ一九歳にもなってとっくに元服(昔の成人式=一五歳ぐらいで行う儀式)を済ませていた義経でしたが、このエピソードが国民の間に広く知れ渡るようになったのは童話や童謡、つまり子どもを対象としたメディアを媒介としていました。だからもうすぐ二十歳になるお兄ちゃんの物語より幼い子どものイメージを持たせたかったのかもしれません。

 この敗北で義経の臣下に下ることになった弁慶は、のちのちも義経に忠臣としてつき従います。主君が最期に籠った衣川館の戸の前で立ったまま矢を受け続けて死んだ『弁慶の立ち往生』のシーンは有名ですね。


 『一の谷の合戦』。

 宿敵である平氏を追い詰めていた源氏の一族。その源平合戦の中でのできごとです。

 二五歳になった義経は兄の頼朝とともに平氏追討の主役を買っていました。行動が軽快で奇襲を得意とする義経は、最前線の本体に合流するより、傍流からカウンターを食わすという戦法が多かったようです。

 一一八四年三月二〇日、義経は異母兄の源範頼(のりより)に加勢して平氏を追い込もうとします。このとき範頼に与えられた兵は五六〇〇〇、対して義経は七〇騎の騎馬兵を持っていたのみでした。冷遇にも程がありますよね。ところが恵まれていたはずの範頼は思わぬ苦戦を強いられます。平氏は一の谷の断崖絶壁を背後に万全の防護を施していたのです。

 ……えっと? 現地の地理に詳しくないのでおおよそですが、一の谷は大阪と兵庫の境ぐらいになるのかな? 詳しく知ってみえる方がいたらまた教えて下さい。

 ともかく一の谷の攻防は苛烈を極めました。矢が飛び交い、騎馬での白兵戦が繰り広げられる中、夜明けから始まった戦は悪戯に時間を重ねていきます。そんなとき、背後の断崖からときの声が上がりました。なんと義経は崖を馬で駆け下りてきたのです。進軍は絶対に不可能だと思われた険しい絶壁。実は事前に地元の民に「この崖は鹿なら下るのを見た」と聞き出した義経は、一度でも馬の操作をミスすれば転げ落ちて死は必至という状況も臆せず、七〇騎の軍勢を鼓舞したのです。

 結果は大成功。安全だと思っていた後ろを取られた平氏は浮き足立ち、我先に海へと逃げ出しました。そこに範頼の大軍勢が総攻撃。午前一一時ごろのことです。


 『屋島の戦い』

 一の谷で敗れた平氏は瀬戸内海を船で逃げ落ちました。実は平氏はその辺りの水軍(海賊)を掌握し、瀬戸内海の制覇権を握っていたのです。これに対し水軍を味方に持っていなかった源氏は追従することすらままならず陸路から手をこまねいていたのね。

 その有様を見た義経は摂津(大阪)、熊野(三重)、伊予(愛媛)の水軍に協力を求めます。準備万端。翌年の春先には出航のめどが立ちました。ところがここでまた苦難が。出立の当日の二月一八日が大時化おおしけになっちゃったんです。海を知り尽くしている水軍の将はもちろん船を出しません。その時点で瀬戸内海の屋島という奥まで逃げ込んでいた平氏の元に辿り着くには三日を要すると言われていました。嵐の中、三日間航海に出る。自殺行為なんてものじゃありません。

 ところが義経はまたやっちゃうんですね。水夫を脅して、なんと五艘の船で出航しちゃったんです。しかも三日はかかると言われた行程をわずか四時間でクリアしてしまいました。ちなみに現在同じ航路をフェリーで辿ると三時間三〇分だそうです。当時は人力ですよ? 船にエンジンついてないですよ?

 そして屋島に着いた義経は、平氏が意外に手薄だという情報を仕入れて、さまざまな画策をしつつ、ついに彼らに屋島から壇ノ浦への滅亡の道を取らせたのでした。


 一つお断りしておくと、これらの逸話の内容は平家物語からも抜粋されています。平家物語は史書としては創作色の強すぎる書物。だから事実と受け取ってしまうことは危険ですが、まあ、義経という人物が稀代の策士であり豪胆さを兼ね備えていた人気者だった、ということをわかっていただければ幸いです。


 源平合戦の功労者であった義経はその後どうなったのでしょうか?

 普通に考えれば、総指揮を取っていた兄の頼朝よりともに喜色満面で迎え入れられて相応の地位を拝命できたはずです。けれどそうはなりませんでした。鎌倉にて平氏全滅の報を受け取った頼朝は、当然のごとく英雄として凱旋してきた義経を、鎌倉の入り口である腰越こしごえで追い返しました。理由は義経がこれからの武士の世の中に不適切であると判断したからです。邪魔な平氏のいなくなった世で鎌倉に武士の本拠の幕府を開こうとしていた頼朝は、天皇家や貴族に武士の威光を知らしめたかったのです。ところが義経は天皇から従五位なんていう高い官位をもらってしまっていた。天皇家の息のかかった義経を幕府の要職につけることは頼朝にはできなかったのね。

 他にも多大な功績を上げた義経のことをやっかみで蔑む武家たちは少なくありませんでした。おそらくもともと飛び抜けた才能を持った弟に嫉妬していたのでしょう。頼朝はその流言に乗って希少な逸材をみすみす謀反人に仕立てあげてしまったのです。


 少し長くなったので、今回はここまで。


 最後に。

 兄の命に従って命がけの戦乱に身を投じた義経は、合戦後の頼朝の言いがかりに対し、こんな書状をしたためています。

『(私には)功績があっても罪はないのに、(兄上の)御勘気を被り、空しく血の涙にくれております』

 義経は自分の命を賭してまで頼朝の喜ぶ顔が見たかったのかもしれません。

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