『神風思想』の起こった背景は何? 4
できるだけ早く続きをアップすると申しておきながら、だいぶお時間をいただいてしまってすみません。
前回の話では曽我兄弟の仇討ちをご紹介しました。幼いころに父を殺された息子たちが、長じて、その仇を討ち果たしたという、事実に基づく物語。
この史実にはいくつかの謎があります。みなさんには前回の最後に『謎かけ』という形でこの疑問を提示させていただきました。覚えてみえるかな?
軽くおさらいしますね。
曽我兄弟の仇討ち。
場所は富士山。発足したばかりの鎌倉幕府が催した『富士の巻狩り』が、その壮絶な殺戮の舞台となりました。イベント参加者数十万人が見守る中での出来事です。
曽我兄弟にとっての父の仇討ちは、たしかに『人生を賭けた一大事』だったでしょう。でも、同じように、幕府にとって『富士の巻狩り』は、それに勝るとも劣らない重大な神事。今後の武士社会の盛衰の行方さえ左右する枢要な行事だったのです。
武士である曽我兄弟なら、当然そのあたりの事情は知っていたはず。それなのに、なぜ彼らは仇討ちを決行したのでしょうか? 幕府という強大な組織の体面に泥を塗ってまで。
また、仇討ち後にも謎は残ります。弟の時致なのですが、彼は仇の『工藤祐経』を殺害したあと、祐経の身内が報復に追ってくる中を逃げて逃げて逃げまくり、どういうわけだか将軍頼朝の宿所に忍び入るのです。「無我夢中で逃げ込んじゃったんでしょ?」と思われるかもしれませんが、それはありえない。頼朝の宿は前門に岩場、後門に谷という天然の要害(※一)です。もちろん警護も厚い。しかも周囲には有力な御家人の宿所がいくつもあったようです。『無我夢中』だったのなら、まず一番手近の宿に隠れようとしませんか? 最奥の頼朝の元に辿り着くのが『偶然』であったというのは不自然すぎる。
では、おさらいも済んだところで、謎解きに移りたいと思います。
まず最初に……。
ここでみなさんに思い出していただきたいことがあるのです。
これまでたくさんの人物が出ましたが、曽我兄弟を取り巻く人々の姓名にある共通項があることに気づかれたでしょうか。仇の『工藤祐経』、養父の『曽我祐信』、実父の『河津祐泰』、さらには兄弟にとって祖父に当たる人物は『伊東祐親』。
そう。みんな、名前に『祐』の字が入っているのですね。仇の工藤祐経も元は曽我兄弟と一族を共にしていた人ですから、つまり、彼らはすべて親類。『祐』はその証なのです。
では河津祐泰の息子である曽我兄弟の名前は?
兄は『祐成』なので、これも順当な命名でしょう。ところが弟は『時致』。
……あれ?
同じ親から生まれた紛れもない『祐』の親族のはずなのに、なぜ弟だけその字が入らなかったのでしょうか。
名前に同じ字を使うのは『通字』もしくは『系字』と言われる慣習です。これは……えーっと、いまはゲームなどでもお馴染みなのかもしれませんが、 中国から来た『諱』という考え方が元になるとされています(諸説あり)。
諱というのは『人の名前には霊的な作用が備わっており、本名を他人に知られることにより、他人に己をコントロールされる。だから、本名は忌み名(=諱)として公に使うべきではない』という強迫観念ですね。つまり、迷信がまことしやかに信じられていた中世においては、名前はとても重要なものだったんです。通字や系字が使われたのも、利便性ばかりでなく、霊的な作用を以って親類の絆を固めたり、相続の順位をはっきりさせたりする目的があったのでしょう。
ではなぜ、時致だけは同じ一族の中でこのルールから外れたのか?(※二)
父を殺害されたあとの曽我兄弟は、母の再婚に伴って、曽我祐信の養子となります。
ところが兄弟は、それぞれの元服を機に、別々の家の息子となるのです。烏帽子親制度と言う儀礼なのですが、元服のときに親の役目を果たしてくれた相手と父子の契りを交わすのですね。
形式上の親子とはいえ、烏帽子親と烏帽子子は、実の親子以上に深くて永続的な関係を結ぶことも珍しくなかった。というのも、烏帽子親の多くは実の親よりも高位に当たり、烏帽子子にとっては頼りになる存在だったからです。また実親のほうも、自分の息子を使って身分の高い人物と結びつくことに魅力を感じたことでしょうし。
そんな武家のしきたりから曽我の家を出ることになった兄弟。元服前の二人の名前は、兄が『一萬丸』、弟が『箱王丸』。元服後の彼らは、兄が烏帽子親となった祖父の伊東祐親に倣って『祐成』となりました。そして弟は。
暴れん坊で手の焼ける少年だった箱王丸は、「少しでもおとなしくなっておくれ」と願って預けられた寺社から勝手に抜け出し、ある人物の元に走ったのです。
そう。それが、名前に『時』の字を持った、箱王丸から見れば外戚に当たる実力者、北条時政なのでした。
実の父の仇を討ちたいともがいていた箱王丸。母はそんな箱王丸の気持ちを、残念ながら後押しはしませんでした。『母は身辺の平穏を望み、兄弟に仇討ちの志を捨てさせようとする』。曽我物語の一節です。
そんな母、そして養父に寺社に押し込められた箱王丸が、最終的に頼った相手。それが北条時政だった。
箱王丸の烏帽子親となった時政は、彼の思いをどう汲み取ったのでしょうか。元服後の箱王丸が時政を強く慕っていた事実から、それは簡単に導き出されます。時政は時致の仇討ちを推奨したのでしょう。
「儂だけはお前の味方でいてやるぞ」
と。
前回の更新分の最後で提示させていただいた二つの謎。『工藤祐経に説得されて一度は仇討ちを思いとどまった時致が、再び祐経に殺意を燃やすに至ったのはなぜか』と『見事に仇討ちを完遂したというのに、まだ目的は達していないとばかりに頼朝の居場所にまっすぐに向かった時致の真意は何か』。
一つめの『復讐心の再燃』は、この『北条時政の同意を得た』という理由があれば説明できます。周囲の無理解から半ば強引に仇討ちへの欲求を封じられていた時致は、烏帽子親からの賛同に心が開放されたのでしょう。
そして二つめの『頼朝を暗殺しようとした動機』。これは。
……非常に気分の悪い推測になってしまって恐縮ですが、ちょっと具体的に流れを綴らせてください。『北条時政は烏帽子子の時致をどう利用したのか』という私論を。
雨のしのつく中、仇の工藤祐経を仕留めた時致は、斜面に取られそうになる足を必死に叱咤しながら、頼朝の寝所に向かっていた。
一緒に逃げていたはずの兄は、いつのまにか姿がなくなっていた。おぼろな記憶には末期の悲鳴が残る。「ああ、兄者は死んだのだな……」と片隅に思うも、時致の疾駆は止まらない。
なぜなら、烏帽子親の時政との約束があったからだ。
この富士の巻狩りへの参加の話が来たとき、工藤祐経も参戦すると聞いていきり立った自分に、時政は言った。
「もしそのような幕府の重大時に事を起こしたとすれば、お前も兄の祐成も、たとえ仇を討ち果たしたとしても、逆賊の汚名は免れまいよ。お前の母も養父の祐信もただでは済むまい。儂としても可愛がってきた息子をそのような立場に追い込みたくはない」
けれど、時致は、当然のようにこう答える。
「父、祐泰の遺恨を晴らすのは悲願。時政さまのご忠言とはいえ、諦めることはできぬ」
すると、その言葉を待っていたかのように、時政は先を継ぐ。
「お前の意志の強固さは理解した。では儂も覚悟を決めよう。お前が逆賊へと陥った瞬間から、儂は幕府の転覆を図る。源氏に代わってこの北条が将軍に就くのだ。さすればお前と兄の罪はどうとでもしてやれよう。だから、時致、協力せい。お前は、仇討ちを果たしたその足で、鎌倉殿(源頼朝)を仕留めるのだ。鎌倉殿の寝所の手配は儂に任されている。お前の忍び入る隙は作ってやる」
と。
自分の手を一切汚すことなく、信頼を勝ち得た烏帽子子を使って、己の欲を満たす。
曽我兄弟の仇討ち。これがもし本当に『北条時政による頼朝暗殺計画』だったのなら、時政という人物は、自らを慕う人間すら顧みずに権力に執着する、とんでもなく強欲な性格の持ち主だと言えます。
こののち一〇〇年以上にも及ぶ鎌倉北条氏による執権政治。その礎を築いた北条時政の正体。
みなさんはどのようなイメージを持たれているでしょうか。
そして。
最後に残された謎『時致にとっては不名誉に当たる頼朝襲撃をあえて後世に伝え残した虎御前の気持ち』ですが、私はこんなふうに解釈しています。
時致から「富士の巻狩りで北条時政の協力を得た」と聞かされた兄の祐成。けれど彼は時致ほど素直に時政の『好意』を受け取らなかった。なぜなら、祐成の烏帽子親の伊東祐親は時政の『義父』に当たる人物。勝手な約束ごとを請け負う時政を糾弾する立場だったからだ。
仇討ちに人生を賭け、時政に依存するしかない立場の弟の気持ちは、でも祐成にもよく理解できた。だから、祐成は悩み、結論を出せないまま、時政の陰謀に巻き込まれていったのではないだろうか。
そして、愛妾として祐成からすべてを聞いていた虎御前は、祐成が返り討ちに遭い、時政に守られるはずだった時致までもがあっけなく処刑されたとき、北条時政の本性に思い当たったのではなかったか。「暗殺に失敗した曽我兄弟などと関わりを持つのはごめんだ」という本音を。
真名本曽我物語。これは、祐成を深く愛した女性が密かに企てた『時政に対する弾劾』の物語ではなかったのだろうか……。
謎解きに挑んでくださった方々、また種々の感想、励ましを寄せてもらったみなさんへ、この場を借りてお礼申し上げます。
次回は、時政がなぜここまで幕府を手中にしようとしたのか、その根拠に迫ろうと思います。
元寇にはまだ少し届かないですが、読んでいただければ幸いです。
※一 頼朝の宿所は現在『狩宿の下馬桜』と呼ばれる名所になっています。地図で見る限りは地形はほとんど変わっていないよう。よかったら、お近くに寄られた際にでも時致の足跡に思いを馳せてみてください。
※二 通字は嫡男(長男)のみに与えられる場合もあったようです。が、曽我兄弟に連なる系譜は男子のほとんどに通字を用いているので、時致の命名はやはり異例のことなのでしょう。




