『神風思想』の起こった背景は何? 3
今回は読者に謎解きを要求するラストで終わっています。『解決編』もできるだけ早くアップしますので、すみませんがまた少々お待ちください。
それまで鎌倉時代の人々の思いに想像を巡らせて楽しんでいただければ幸いです。
なお『解答』を導き出すのにちょっとコツがいると思うので、ヒントを2つばかり提示しておきますね。
Hint1.これは北条時政が源頼朝の暗殺を画策したという証明の推論です。
Hint2・弟の名前
さて。では、今回も前回に引き続き『北条時政が頼朝の暗殺を企てたと考えられる事例』を紹介しながら『元寇時に北条氏が源頼朝・義経に対して強い確執を持っていた証拠』を明示していきたいと思います。
あ、と、その前に……。
前回に提示した『頼朝暗殺計画』は、私の推論のみによるものだったので、みなさんの中には「考えすぎでは?」「説得力が弱い」と感じられた方も多かったのではないかと自省しております。なので、ここで紹介する事例については『私の個人的な推理ではなく、近年においてクローズアップされている学説』であることを最初にお断りしておきますね。
みなさんは『曽我兄弟の仇討ち』と呼ばれる鎌倉時代初期の事件のことをご存知でしょうか? 『曽我祐成』と『曽我時致』という、まだ二一歳と一九歳の若い兄弟が、幼いときに殺された父親の仇を見事に討ち果たした実例です。内容をざっとご紹介しますね。
祐成と時致は静岡県伊東市の辺りを治めていた豪族の『河津祐泰』の息子でした。
ちょっと余談になりますが、この祐泰父さんの妹の『八重姫』のことも合わせて説明させてくださいな。
このお姫さま、実は北条政子よりも先に頼朝の手がついて、頼朝の息子を生んでいる女性なのです。だから本来なら鎌倉幕府初代将軍の妻になっていてもおかしくない立場なのですが……。
残念ながら、八重姫の父親の『伊東祐親』は、当時流刑人だった頼朝と自分の娘が通じあったことに激怒し、生まれたばかりの八重姫の子を殺してしまったのです。それも『犯罪者を処刑するときの残酷な方法』で。つまり『頼朝の子は生まれながらに罪人であるから、たとえ自分の孫だったとしても生かしておかない』と祐親は表明したんですね。何のために? もちろん、京都の朝廷の顔色を窺ったのです。
そうやって見ると、北条時政が娘の政子と頼朝の仲を認めたのは、改めて、非常に不可解なことだったと思いませんか? 祐親というのは時政と同じく伊豆の守の役職に就いていた人です。それもかなりの実力者。その祐親が『頼朝の子どもは生かさない』という前例を作っているのに、後進の時政が『うちは二人の仲を許すよ』という行動をしているのです。
前回、私は『北条時政は政子の恋情を後押しするふりをして京都の勢力に反旗を翻すつもりだった』との推論を支持すると書きましたが、それはこういう背景にも影響されているのです。
では話を曽我兄弟に戻して。
祐成と時致の父、河津祐泰は、二九歳(数えで三一歳)のときに、親戚である『工藤祐経』の差し向けた刺客に弓で射殺されるという悲劇を負います。このへんの人間関係は複雑なので詳しい説明は割愛しますが、河津祐泰を暗殺した工藤祐経もまた、その行為は『河津祐泰の先祖に受けた被害への報復』でした。この一族は何世代にも渡って身内で仇討ち合戦を繰り広げていたんですね。
父を殺された祐成と時致は、そののち、母に連れられて再婚相手の『曽我祐信』の元で養子として暮らしはじめます。だから兄弟の名前は父の姓である『河津』ではなく『曽我』なのです。そして長じた兄弟は、一族の例に漏れず、父を殺した工藤祐経を仇として追いかけるようになります。
そんな折、彼らに絶好の機会が訪れました。発足したばかりの鎌倉幕府が、幕府に殉じる武士たちを集めて、大規模な狩りの儀礼を行うというのです。曽我家からは兄弟と養父の祐信が参加しました。そして、宿敵、工藤祐経もまた、頼朝の寵臣であったために、当然のごとく参戦していたのです。
数日間にも及んだ狩りの儀式が無事に終わり、明日は帰途に着くという予定の夜。兄弟は油断して寝入っていた工藤祐経の寝所に押し入り、見事に仇を討ったのでした。
けれど。
仇討ち後の兄弟の運命は悲惨でした。兄の祐成はすぐに返り討ちに遭って惨殺され、弟の時致も頼朝の部下に捕らえられて翌日には処刑されました。でもそれも仕方のないこと。だって彼らが行動を起こしたのは『鎌倉幕府が行った儀礼』の最中だったのですから。兄弟にとっては『父親の遺恨を晴らした大功』でも、幕府にとっては『大事な行事に泥を塗ったクーデター』と取られかねない蛮行だったわけです。だから、兄弟はおそらく、この仇討ちが成功してもしなくても、自分たちが鎌倉幕府の敵になってしまうことは覚悟していたでしょう。
つまり、兄弟にとってこの仇討ちは、自らの人生と引き換えに成された『悲願』だったわけなのです。幼くして失った父は、おそらく兄弟にとって『死の恐怖を退けられるほどの憧憬と思慕の対象』だったのでしょう。そして、その気持ちを増幅させたのは、たぶん周囲の無理解でした。兄弟の養父の曽我祐信は、義息たちが無事に仇討ちを完遂したとき、それを喜ぶよりも、自分がのちの災禍に巻き込まれることを恐れたのです。育ての親からしてそんな態度ですから、兄弟の『愛する父の無念を晴らしたい』という願いは、たぶんほとんどの人間に理解され得なかったのではないかな。だから二人は孤立し、先鋭化し、若い生命を軽んじても当然だと勘違いするほどに追い詰められてしまったのだと考えられるのです。
そこまで狂おしく純粋に父を慕った曽我兄弟の行動は、当時から現在に至るまで、古典演芸の中などで人々の涙を誘っています。
みなさんは『日本三大仇討ち』という言葉をご存知でしょうか? これは戦国期から江戸時代に起こった三つの代表的な仇討ち物語を冠した言い方。『忠臣蔵』『伊賀越えの仇討ち』『曽我兄弟の仇討ち』が数えられ、いずれも悲劇的な要素を多分に含んでいます。
武士というものは主君や親の不当な死に納得してはならない(※一)という定石があるのですね。幕府は仇討ちを推奨はしませんでしたが、それでも『正当な報復』に期待する世論の目は根強かったのです。兄弟の行為は、だから、いまも昔も私たちに普遍的な感動を与え続けているのでした。
ではここで、みなさんにもその世論のもたらす一つの流れを考えてみていただきたいと思います。当時の人々になりきって判断してみてください。
一一九二年に発足した鎌倉幕府は、翌年、富士山の麓で大規模な狩りの儀式を行いました。参加した武将は、一説には数十万とも言われています。
この儀式、専門的にいうと『巻狩り』と呼ばれる行事なのですが、なぜ行うのかというと『幕府の力を対外的に見せつける』ため。幕府というのは武士が運営する政権、つまり『軍事政権』です。だから、軍隊(武士)以外の勢力、すなわち朝廷に「俺たちはこんなに人数がいるんだぞ。幕府は朝廷なんかに負けないぞ」と見せつけ続ける必要があったのね。
一一九三年の富士の巻狩りは、のちの同様の儀礼と比べても、突出した規模を誇っていました。それも当然といえば当然。幕府発足直後に行われたこの行事は、朝廷に『一発かます』第一弾なのです。ここで最高の勢力を見せられなければ、幕府の権威が失墜してしまうかもしれないのですから。
幕府の威信をかけた富士の巻狩り。だから、これはどうしても成功させなければなりませんでした。参加した武士たちにも、もちろんその意気込みはあったでしょう。『けっして己のせいで儀礼を滞らせてはいけない』と。
なのに、そんな状況の中で、曽我兄弟はあえて私憤を晴らした。
なぜ彼らは、巻狩りに参加を許可されるほどの忠臣でありながら、幕府に恥をかかせるようなことをしたのでしょうか。
理のある原因を推測するなら、まず『仇の工藤祐経がこのような場でないと会えない人物だった』と考えることができます。祐経は、常日頃から屋敷に閉じこもっているか、外出時にはいつも大勢の伴を引き連れているような、将軍ばりの地位の人物であるからだ、と。ところが彼は一介の御家人……つまり鎌倉幕府の数多い家臣の一人だったのです。頼朝に可愛がられてはいましたが、そこまでガードは硬くなかったのね。ではもう一つ『工藤祐経と曽我兄弟の居住が非常に遠方に離れていて近づけなかった』というパターンは? 工藤祐経は伊豆の武将です。一方で曽我兄弟の養父の曽我祐信の所領は相模。現在で言うところの静岡県と神奈川県です。お隣りだよね。
この条件を鑑みるに、兄弟には『どうしても富士の巻狩りで仇討ちを決行しなければならなかった』理由はなかったように思えます。巻狩りの会場でたまたま工藤祐経の姿を見かけて頭に血が上ったのでしょうか。でも、兄弟の父『河津祐泰』が殺されたのは、兄弟が四歳と二歳(数えで五歳と三歳)のときです。仇討ちを成し遂げるまでには一五年以上の歳月があった。それなら、他の機会を探したり、仇討ちに適した場を吟味したり、ってしないかな。
実は、時致に至っては、過去に一度、工藤祐経と刃を交えているのです。が、そのときはまだ少年だったために、逆に祐経に『仇討ちの非正当性(祐経が祐泰を死なせたのものっぴらきならない理由があったこと)』を説かれて、刀を納めているんですね。つまり、時致にとって、富士の巻狩りで工藤祐経に再会したことは『いったんは邂逅した相手との出会い』なのです。だからますます、短絡的に殺戮に走るなんて行動は想像しがたいのですよ。
これ、みなさんならどう思われるでしょうか。
激しい源平合戦の戦国期が終わり、誰もが望んでいた武士の天下がやってきた。その象徴たる幕府が、今後の存続をかけたイベントを催している最中に、別にここで強行する必要もない私怨を持ち込んだ曽我兄弟の気持ち。
……わかりますか?
そして、ここでもう一つ考えていただきたいことがあるのです。
これらのストーリーを後世に伝えたのは『真名本曽我物語』だとされています。この書物の内容は、兄の祐成の愛妾であった『虎御前』という女性が口伝で語り広めたもの(※二)。
虎御前は、いわば曽我兄弟の味方側の人間です。その彼女がわざわざ『愛する祐成の起こしたクーデター』を伝え残した意味はなんでしょう。これは女性のほうがわかりやすい感性かもしれません。彼女はきっと祐成の言い分を歴史に記したかったのだと思います。最期に汚名を着たことにより、幕府に嫌われ、逆臣として蔑まれることになりかねなかった恋人。そのフォローを延々と語り継いでいくことを、虎御前は愛情の証としたのではないでしょうか。
だから『真名本曽我物語』は、ある意味『曽我兄弟に対するえこひいき』の側面があって当たり前なのです。実際にこの史書を元に作られた演芸や書物などは、みな兄弟に同情的です。たとえ兄弟に不祥事があったとしても、そこは描くべきところではないはずなのです。
ところが。
この書物には、たった一つだけ、そのルールを破っている箇所がありました。『兄弟があえて幕府の重要行事に騒ぎを起こした証拠』とも言えるような記述が、最後の最後に書かれているのです。それも『仇討ちの物語を完成させるためにどうしても必要な要素』などではまったくない、唐突に現れる『奇行』が。
それは仇の工藤祐経を襲ったあとの時致の動きの描写にありました。
兄の祐成が返り討ちに遭って殺されたあと、すでに自らも死を覚悟していたはずの時致は、ある異常な行動に出ます。
逃げても仕方のない夜の山中、ところどころに松明が灯るのみの闇の中を、時致はどうしてだか必死で逃げまわります。たとえこの場を生き延びても、匿ってくれる味方など、もうどこにもいないのに。
逃げ続けた彼が向かった先は、さらに物語を混迷させました。時致が忍び込んだのは、なんと源頼朝の寝所。堅牢な警護をかいくぐって頼朝の鼻先まで迫った時致は、『顔を見た頼朝が思わず抜刀した』と言われるほど、頼朝に対して殺意を顕わにしていたのです。
工藤祐経に説得されて一度は仇討ちを思いとどまった時致が、再び祐経に殺意を燃やすに至ったのはなぜか。
見事に仇討ちを完遂したというのに、まだ目的は達していないとばかりに頼朝の居場所にまっすぐに向かった時致の真意は何か。
みなさんなら、彼のこれらの行動をどう分析するでしょうか。
そしてまた、この時致の不可解な『愚行』をあえて後世に伝え残した虎御前の気持ちを、どう読み解いてくださるでしょうか。
※一 仇討ちが許されていたのは親や兄などの『尊属』が害された場合のみで、弟や姉妹、妻子などの『卑属』の場合には認められませんでした。ただ『日本三大仇討ち』の中で『伊賀越えの仇討ち』だけがこのルールを破っています。こちらは男性同士の愛憎劇の末の物語なので、興味があればぜひ一読を。
※二 『真名本曽我物語』の作者は不詳です。成立に虎御前が関わったとされるのは、内部にそう明記した箇所があるから。虎御前は遊女だったので、当時の習字率の低さを鑑みると、彼女自身が執筆したことはありえないでしょう。なので、本文では誤解を避けるために『真名本曽我物語の内容は虎御前が口伝で語り広めたもの』と表記させていただきました。