『神風思想』の起こった背景は何? 2
さて、では今回は、前回の最後にお約束した『北条氏と源頼朝・義経の確執はなぜ起こったの?』の疑問にスポットを当てて展開していこうと思います。よろしかったら、またしばしの時間、おつきあいください。
元寇時に実際の政治権力を握っていたのは、将軍ではなく執権の『北条時宗』だったと、前回ご説明しました。この北条時宗というのは、北条一門の中でも最高権力を有したとされる『得宗家』という家系の出なのですね。
得宗家は鎌倉幕府初代執権『北条時政』の直系です。つまり、時宗は鎌倉幕府設立に大きく貢献した一族の子孫なわけ。だから時宗が幕府の代表者となることは、ある意味『当たり前』ことだったのです。
……うーん……。……と言っても、そもそも、祖先の『北条時政』にもう少し触れないと、『得宗家』や『時宗』がどれほどの権威を持っているのかってピンと来ませんよね。なので、ここからは少し丁寧に『時政』について語っていこうと思います。
源頼朝と一緒に平家を打ち滅ぼして鎌倉に幕府を開いたのが、この『北条時政』という人物でした。彼が頼朝と結託したきっかけは、時政の娘である『北条政子』が頼朝に惚れ込んでしまったことです。
頼朝は当時、京都を中心として起こった『平治の乱』で敗退し、罪人として伊豆に流刑されていました。時政は伊豆地方を統括する役人の一人だったので、必然的に『頼朝を監視する』役目を担ったのですね。ところが、監視役の時政の娘である政子が、よりにもよって監視される側であった頼朝と恋仲になってしまった。これはとんでもないことなのです。だって、時政は頼朝を流刑した朝廷(京都の皇室&貴族勢力)に任命されて頼朝の監視人を務めていたのですから。もし万一、自分の娘が頼朝の子どもなどを生む事態になったら、申し開きができないわけです。
だから、時政は、最初は政子と頼朝の仲をかなり強引に裂こうとします。ところが政子は徹底抗戦。消極的な頼朝を引き連れて、なんと駆け落ちしてしまうのです。この娘の激烈な恋情を慮った時政が最終的に折れて、時政は頼朝の後ろ盾となったのでした。
ただ、一説にはこの話、政子を利用した時政の策略だったとも言われています。頼朝と政子が親密になった当時、京都では実権を握った平清盛と院政を敷いた後白河法皇(※一)の不仲が囁かれていました。権力の中枢にいる二人の確執は、その後に大きな戦乱を引き起こしかねません。時政はそれを見越して『清盛と天皇家はもうすぐ瓦解する。だったら、いま頼朝を担ぎだして革命を起こすべきではないか』と考えたとも思われているのです。
ちなみに私もこの推論を支持します。というのも、伊豆の役人だったときの時政の地位は、伊豆の守(役人の総称)の中でもけっして高くはありませんでした。つまり、時政にとって政子と頼朝の仲を認めるということは、遠い京都にいる朝廷のみならず、すぐそばの伊豆の守の仲間をも敵に回しかねないということです。そんな恐ろしい事態を『たかが娘の恋情一つ』に配慮して引き起こす武将がいるでしょうか。だから、時政は『自分が発起人となって朝廷を倒す』という覚悟が最初からあったように感じるのです。
そんなこんなで結託した頼朝と時政。彼らはそのまま怒涛の『平家攻め』を行います。敵の御大将であった平清盛は、一般的には『貴族かぶれで脅威には成り得ない』などと揶揄される人物ですが、なかなかどうしていい戦略を持っていました。地の利を活かした防衛戦、水兵を使った撹乱策。頼朝の配下にあの有名な戦術家の源義経がいなければ、勝つのはもしかしたら難しかったかもしれませんね。ともあれ、頼朝と時政は、平氏を討伐し、政権を鎌倉に移すことに成功したのです。
つまり、北条時政というのは、鎌倉幕府の設立に関して、頼朝と同等の『立役者』であったわけです。けれど知名度とカリスマ性において頼朝に大きく劣っていたため、執権として裏の世界から幕府を牛耳ることになったのですね。
幕府発足に対して、おそらく自らも『私のおかげだ』という自負があった時政。その建国心は、けれど徐々に『幕府トップに君臨する源氏一族を疎ましく思う』という驕りに変わっていきます。
娘である北条政子が頼朝の跡取りを生み、目障りであった源義経を奥州で自害に追い込んだ時政。源氏の子孫を自らの家系から輩出し、頼朝の周囲から支持者を少しずつ奪っていった彼は。
とうとう、今度は頼朝自身をも暗殺した疑いが見て取れるのです。
源頼朝が死んだのは、鎌倉幕府発足から六年経った一一九八年の年末。
政権基盤も安定し、将軍として京都の朝廷勢力との調整に務めていた頼朝は、義弟(妻=北条政子の妹の夫)が架けた相模川の橋の竣工行事に参加した帰りに、落馬して川に落ち、それが元で年明けに亡くなったと言われます。享年五一歳(数えで五三歳)。場所は神奈川県茅ヶ崎市。現在で言うと湘南南バイパス茅ヶ崎西インターのすぐ脇に当たります。いまは少し西に動きましたが、昔はここに相模川が通っていたのですね。
突然の事故による将軍の訃報。鎌倉幕府にとってはまさに青天の霹靂だったことでしょう。当時の頼朝といえば、『鎌倉殿』と呼ばれ、幕府の代表……いえ、日本の屋台骨として信仰の対象にすらなっていた人物でした。彼の死はきっと大きく報じられ、事故の責任を誰が取るかと紛糾したのではないでしょうか。
ところが……。
現在残されている史料には、頼朝の死について騒乱が起きたとは書かれていません。死因の記載についても『脳卒中では?』『体に水が溜まる病気では?』『源平合戦のときに倒した人間たち(具体的には安徳天皇や源義経)の亡霊に悩まされていたのでは?』と多岐に渡っています。鎌倉幕府の公式記録とされる『吾妻鏡』が『落馬説』を唱えているので、一般的にはその説が有力とされていますが、そもそも吾妻鏡だけが他の史料群と答えを異にしている理由はいまも説明できないのですね。
頼朝はなぜ死んだのか? なぜ天下の将軍の最期がこんな不明瞭な形でしか残されていないのか?
唯一の事故説を支持する吾妻鏡(※二)は得宗家が書き起こした書物です。つまり得宗家だけが頼朝を『事故死』にすることにこだわったわけですね。けれどよく考えてみれば、頼朝が馬から落ちたのは北条家の親戚がらみの行事でのこと。北条家にとっては、むしろ、頼朝の死の原因は『事故死』ではなく『病死』であってほしいのではないでしょうか。「頼朝さまの死は我々のせいではない。天命だったのだ」と。
あえて立場が悪くなる『落馬説』を得宗家自らが言い出したことについて、一番明確な理由をつけるとすれば、それはおそらくこうなるだろうと思われます。『源頼朝の死因が落馬だったのは事実。そして、その事故は縁戚として同じく参加をしていた北条時政や政子たちの前で起こった。そのため北条家はなんとか状況をごまかして責任逃れをしようとした。が、漏れでた噂が一人歩きしてますます立場が悪くなってしまったことにより、しかたなくもっとも非難を浴びない書き方をわきまえた上で、真相を吾妻鏡に掲載することにした』と。
この仮説を証明する根拠としては弱いですが、少し補足をしておきます。吾妻鏡に頼朝の事故の記載がされたのは、頼朝が死んでから、なんと一三年も経ったあとのこと。つまり、得宗家はこの間、時間をかけて思慮に思慮を重ねた上で、この『事実』を書き残したように見えるのだな。
頼朝の命を奪うきっかけになった相模川の橋の竣工行事。この工事は、実は、北条政子の妹の夫『稲毛重成』が、病死した妻を悼んで行ったものでした。なぜ橋を掛けることが死んだ人の供養になるのかは資料不足のため明言できませんが、おそらく神道の考え方が影響しているのでしょう。神道ではこの世とあの世をつなぐ道具として橋を用います。重成は亡くなった妻がスムーズに極楽に渡れるように足場を整えたのではないでしょうか。
そしてその行為は、あの世に行った義経や安徳天皇(※三)の御霊をこの世に呼び戻す妄想を世間に抱かせました。現在の鎌倉市辻堂にあった『八的ヶ原』には、相模川からの帰り道に頼朝がそこで亡霊に襲われた伝承が残っています。
けれど私はどうしても想像してしまうのです。竣工式を終え、北条一族とともに穏やかな気持ちで帰路に着いていた頼朝が、人もまばらな八的ヶ原の松林の中で見たのは、本当に亡霊の姿だったのか、と。実際には、自分を害そうと取り囲む北条家の面々の鬼気迫る殺気顔ではなかったのだろうか、と。
次回はもう一つの『北条時政による頼朝暗殺計画』をご紹介します。今度の舞台は富士山。『曽我兄弟の仇討ち』というキーワードにピンとこられる方はいらっしゃるかな?
ここのところ更新ごとに謝罪を繰り返しておりますが、今回もお詫びを入れさせてください。テーマを元寇にしながら、なかなかその考察にまで行きつけなくてすみません。
私にとって元寇とは『日本VS蒙古』のみの戦いではありません。『日本VS日本』の側面も強いのです。そのため、鎌倉時代の日本の姿をできるだけ詳しくお伝えしたくて、長々と語ってしまっております。深謝。
では、次回『続・北条氏と源頼朝・義経の確執』でお会いしましょう。
※一 天皇の地位を引退した院(上皇・太政天皇)の中でも出家した人を『法皇』といいます。
※二 後年になって別の史料もこの説を唱えていますが、吾妻鏡の記述に影響を受けた可能性が高いために、オリジナルの記事としては除外させていただきました。
※三 源平合戦の際に源氏に追い詰められ、壇ノ浦に身を投げた六歳の幼年天皇。




