『神風思想』の起こった背景は何? 1
さて。一話脱線しましたが、今回からは本筋に戻ってみましょう。ではさっそく『北条時宗VS源義経』の図式のご説明を……。
……と思ったのですが、ちょっとおさらいしないと、なぜ元寇に『義経』が関係してくるのかわからない方もいますよね? これはひとえに作者の構成力の不味さのせい。なので、少し復習する時間をください。
えっと? じゃあどこからご説明しようかな……。……それではまず、二話前の『元寇って何?』のあらすじから始めさせていただきたいと思います。
元寇が起こったのはいつの時代か? これは鎌倉時代でした。当時の将軍は『惟康親王』、執権は『北条時宗』です。元寇というのはモンゴルと高麗の兵が日本の九州に攻めてきた戦争のことなんですね。大きな戦闘が二回あり、それぞれを『文永の役(一二七四年一〇月)』『弘安の役(一二八一年五月)』と呼びます。
この元寇という戦争、実際には日本の武士が大活躍した勝戦だったにも関わらず、現代では『台風がモンゴル軍と高麗軍(まとめて蒙古と言います)の船を沈めてくれたから勝てた』という敗戦論にすり替わってしまっています。
今章の『元寇編』では、この勘違いがなぜ起こったのかを推察していくつもりなのですが。
ここでちょっと耳慣れない言葉の解説をしましょう。みなさんは『執権』って制度をご存知ですか? これは鎌倉時代に入ってから取られた政治の仕組みの一つです。
幕府のトップは『将軍』でした。これは『朝廷』、つまり『皇室と貴族』が任命することで成り立つ役職です。ところが、鎌倉幕府が目指したのは『朝廷ではなく武士が政権を握る社会』。そのために、朝廷の威光がモノを言う『将軍職』というのは、あんまり魅力のない地位だったんですね。
実際、後期の鎌倉幕府の将軍職というのは、ほとんど実権を握っていません。貴族や皇室から間に合わせの人物を連れてきて据えているところからも、当時の社会が『将軍』に重きを置いていないことは明白です。
……ただ、だからといって「だったら将軍なんて地位を廃止しちゃえばいいんじゃない?」ということにはならなかったのですね。というのも……。
日本は大和朝廷が興ってからこちら、ずっと『朝廷による支配』が続いてきた国でした。だから当然、鎌倉時代に入って『武士が一番』という風潮が沸き起こったとしても、すぐには、朝廷の影響を無視できなかったんです。朝廷という勢力と上手く融和し、なおかつ武士の権威向上に務める。まだ成長段階だった鎌倉幕府には、その『ワンクッション』が必要でした。つまり、鎌倉幕府にとっての『将軍』とは『朝廷と幕府の橋渡し的存在』として失うことはできない偶像だったわけなのです。
では実際の政治権力は誰が握ったのか。
条件としては、当然『武士である』こと、そして『武士としての政府を確立しようと強く望んでいる』人たちでなくてはならなかったはず。その上で『将軍や朝廷にも堂々とモノが言えるほどの発言力を持った立場』であることが必須だったのです。
鎌倉時代にこの条件を満たしていたのが、源頼朝とともに鎌倉幕府を興した『北条氏』でした。『将軍に成り代わって政権を執る人』だったから、北条氏のことを『執権』と呼んだのですね。砕けた言い方をすると『黒幕』とでも表現すればいいでしょうか。
ちなみに、さらに脱線してしまうと、実はこれ、日本では何度も名前を変えて行われてきた手法でした。
平安時代には、藤原氏という大豪族が、皇室に次ぐ地位である『摂政』『関白』の役職を独占して、天皇家すら操る専横政治を作り上げました。このことを『摂関政治』と言います。
そして、この摂関政治のあとに生まれてきた『院政』も同じ性質を持っています。これは『本来の最高権力者たる今上天皇(そのときに即位している天皇)』が政権を握るのではなく、『すでに天皇の地位を引退した太上天皇』が政治を行うという仕組み。太上天皇のことを別称で『上皇』や『院』と表わしたので、この政治方式のことを『院政』と呼ぶのです。
たぶんですが、日本という国は『立場上最高権力を有する人物』にあまり強い実権を持たせない風土があるんじゃないかな。権力の強い人物がちょっとでも頭角を現したなら、社会全体で結託して抑え込む。『政治家の行動をマスコミが逐一批判的に報道する』なんて、現代でもこの構図、往々にして見られますよね?
まあその分、日本は『独裁政治』が生まれにくい土壌であると言い換えることもできるのですが。
だから、本当に『日本を動かしたい』と思っている革新派は、表には出ず、黒幕に徹するのが手っ取り早い達成方法なのだと思います。例えば、矢面の総理大臣の裏で特定の企業(財閥)が政治を左右する、というような。……ただの例ですが。
というわけで、元寇時の鎌倉幕府の真の為政者は『惟康親王』ではなく『北条時宗』でした。だから、いまからのミステリーの主題は『鎌倉幕府はなぜ元寇を神風のおかげにしなければならなかったの?』ではなく、もっとピンポイントに、こう言い換えさせていただこうと思います。
『北条時宗はなぜ元寇を神風のおかげにしなければならなかったの?』
……本当は『復習』としてもう一項目、『北条氏と源頼朝・義経の確執はなぜ起こったの?』という疑問の詳細までを今回、追加したかったのですが……。
すみません。ここには非常に面白い『裏事情』がありますので、次回以降にじっくりとご説明したいのです。
どうにもまとまりの悪い章になってしまっていますが、作者の思惑としては『元寇を通して日本の本当の国力を伝えたい』『日本の為政者がどのように情報を操作しているのかを証明したい』という欲があります。そのため、情報を元寇一本に集約することができず、みなさんを戸惑わせてしまっていることを、真摯に、大変申し訳なく感じています。
もし懲りずに最後までおつき合いくださるのなら、『読んで損をした』とだけは言わせない内容にいたしますので、寛容にお待ちいただければ幸いです。
では、次回『北条氏と源頼朝・義経の確執はなぜ起こったの?』『北条氏は源頼朝を使って何をしたかったの?』でお会いしましょう。
(私信となります)
少し前に、この作品の『【番外編】遷宮ってどんな儀式?』の語句の使い方をご指南くださったYさんへ。メッセージでお返事しようと思ったのですが、私のほうからの送信が不可と設定されておりますので、こちらにて。
『伊勢神宮には外宮、内宮という2つの神社がある』という当方の言い方について「伊勢神宮に所属する『神社』は125社あるはず。外宮、内宮に関しては、伊勢神宮の正宮と書くべきでは?」とご指摘いただいた内容、すべて合っております。Yさんからの忠言が正しいことをお伝えできずに、いままで心苦しく思っておりました。すみません。
その上で、こちらの姿勢を表明させてもらうのですが、私はこの作品を『できるだけ専門性を抜いたもの』として書きたいと望んでいます。つまり『神社』の表記1つとってみても『本宮』『別宮』『摂社』『末社』『神宮』『正宮』『大社』etc.と分かれる煩雑な呼称を、できるだけ簡易にまとめたいと思っているんですね。
そのため、ともすれば『パワースポット巡りのガイドブック』にも劣るような情報の削減を行います。
情報の取捨選択は私の一存で行っていますので、今回のように、読者さんから見ると「それって明らかにおかしくない?」って事態を引き起こしてしまうことも多々あると思います。
Yさんのご指摘、礼節に則ったメッセージともども、大変ありがたく受け取りました。今後ともおつき合いいただければ嬉しく存じます。
ありがとうございました。