卑弥呼を祀る神社はないの?
唐突な質問ですが、みなさんは『卑弥呼神』もしくは『卑弥呼の別称だと思われる神』ってご存知ですか?
恥ずかしながら、私は卑弥呼を祭神として祀った神社に心当たりがありません。例えば学問の神様と言われる『菅原道真』は『天神さん』の異名で天満宮という神社に祀られています。出雲の大豪族『大国主命』は『大己貴命』として全国に社を持っていますし、『平将門』なんて朝廷の逆賊にさえ『将門神社』が与えられています。歴史上の権力者や偉人に神格を持たせるのは、日本ではごく普通のことなんですね。
それなのに卑弥呼には祀る神社がない。弥生時代の日本を戦火から守った人に対して、それってあまりにも失礼な扱いじゃないですか?
考えられる理由のひとつは、彼女の存在が秘匿すぎて、神話が形成された時代に卑弥呼という人物がいたことすら認識されていなかったこと。
日本神話が明文化されたのは古事記、日本書紀においてだと言われます。もちろんそれまでも『神さま』という概念はあったんですが、その神さまたちがどんなふうに国を創って、どの神さまと結婚して、どんな子どもがどの土地に住んで、みたいな物語は言い伝えによってバラバラだったりしたのね。それを七一二年に天皇の依頼を受けた『太安万侶』がまとめました。これが古事記という書物です。上中下の三部からなる壮大な物語なんですが、現代おとぎ話としてよく聞く『イザナギ・イザナミ』とか『アマテラスオオミカミ』とか『いなばの白ウサギ』とかいうエピソードは全部上巻に収められています。ちなみにちょっと知ってる人だと『古事記を書いたのは稗田阿礼』って思ってみえる人もいるんじゃないかな。稗田阿礼は編纂者の一人なのね。でも古事記の元になった『帝皇日継(それまでの天皇系の系譜)』や古い言い伝えを口で伝えていた人なので、一番の功労者とは言えるかも。じゃあなんで稗田阿礼を一番有名にしてあげないの? って疑問ですが、彼は身分が低かったんです。太安万侶は『朝臣』という身分制度で言うと一番上の位を冠されていました。一方で稗田阿礼は『舎人』、偉い人の家来という位置づけです。いまだって公式な書物を編纂するときは『有名大学の教授が○人』とかって箔をつけるでしょ? 実際に資料集めをしたのが助教授や学生だったとしても、顔になるのはやっぱり名が知られている人なのです。
ではその日本神話成立時、卑弥呼はどういう立場にいたか?
卑弥呼のことを記したのは中国の書物である『三国志の東夷伝倭人条』っていうのは前回に書きました。三国志というのはゲーム等でも有名だから知ってる人もいるかな。中国の一時代のことですね。もうちょっと詳しく言うと『後漢』っていう大きな国が滅んで『魏呉蜀』っていう三つの国が並立した時代です。私は詳しくないけど、それぞれの国の皇帝の名前は曹操孟徳、劉備玄徳、孫堅文台だったっけ?
でまあ三国時代というのは、日本で言うとちょうど邪馬台国の時代とかぶるんですね。三国志の成立年度も二八〇年ぐらいだったと言われます。とすると、七一二年に編纂された古事記のころには、編纂者が東夷伝倭人条を読んでいた可能性が無きにしもあらず……。四五〇年ほどまえに卑弥呼という偉大な指導者がいたという事実を、もし太安万侶が知っていたとすれば、まったく無視するのは逆に不自然な気がするんですよ。たとえ卑弥呼が七一二年当時の天皇家と縁のない王だったとしても。だって天皇家と争った『大国主命』でさえ神格化されているんだもの。
それなら卑弥呼は何かの神さまにカモフラージュされて神話に登場しているんじゃないの? と思ったわけなのです。
有名どころで言えば、奈良の箸墓古墳に埋葬されている『倭迹迹日百襲媛命』が挙げられます。タイムリーに民間調査が入ったなんてニュースが流れたばかりですね。この女神さまは巫女さんでした。すぐそばの三輪山って山に棲む蛇の神に嫁ぐのですが、蛇神は自分の正体を隠したいがために、女神に『詮索してはならぬ』と命じます。けれど夫の姿は誰しも気になるもの。女神は頼み込んで蛇神の本性を見せてもらいます。でもやっぱりびっくりしますよね。女神が驚いたことに怒った蛇神は三輪山に帰ってしまうんです。女神は後悔のあまり茫然自失としてしゃがみ込み、そこにあった箸で陰部を貫いて死んでしまうという、女性にはちょっと痛いお話。
たしかに『巫女』であるという一致点はある卑弥呼と女神ですが……他はぜんぜん違うことないですか? 卑弥呼はお婆さんで生涯未婚、倭迹迹日百襲媛命は結婚しています。卑弥呼の話には蛇神や祟り神(三輪山の神のように付き合うのに犠牲を払わなければならない神のこと)はまったく出てこない。類似点としては、魏志倭人伝の中の卑弥呼の墓の大きさと箸墓古墳がぴったり一致する、というのもあるみたいだけど、もともと卑弥呼の墓は丸い小山の形をしている『円墳』、箸墓古墳は『前方後円墳』、大きさ以前に形状が違います。
というわけで、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命の説はいったん保留。
じゃあ卑弥呼とされる神さまって他にはいないの? という話ですが、実は他にも複数いるんです。その中でも近年有力視されているもの、私自身も興味深く見ている対象を挙げておきます。
卑弥呼を神格化したもの。それは。
一生結婚せずに天空の神殿で暮らした(卑弥呼の宮殿についての詳細な記述はありませんが、当時、貴人を見下ろしてはならないという概念があったことから、当然高所に建てられていたと推測されます)女神。唯一の弟との間に争いを生んだという設定。太陽が隠れたこと(皆既日蝕)に驚いてこもってしまったというエピソード。
いますよね。卑弥呼との一致点を数多く持つ、日本一有名な女神さまが。
天照大御神。万物を守護する太陽神であり、神の中でも最高の位を持つと言われる三貴子の一人。
卑弥呼って……。
そんなに偉い神さまと同一視されてるの?
そんなに功績を残したの?
もし卑弥呼が天照なら、なぜ卑弥呼の存在自体がもっと大きく扱われないの?
ここからは完全な想像になるのですが、卑弥呼がこの大いなる神として祀られている理由は、私には卑弥呼の怨霊を鎮めるためのように思えるのです。
日本には古来から怨霊信仰という考え方がありました。恨みを深くして亡くなった人間は死後に強い祟りを引き起こす。疫病や飢饉、貴人の没落などが起こったときに、直近で不遇の死を遂げた偉人の恨みが引き起こしたと思われたのです。だから不幸が重なったとき、時の権力者は自分たちに被害が及ばないように、悪霊に向かって祈り、気持ちを鎮めようとしました。
卑弥呼は二四八年に死んだと言われます。魏志倭人伝には前年の二四七年には生きていたと思わせる記述があるだけ。それならなぜこの断定的な数字が出たのか。少し前に戻って説明すると、卑弥呼は『皆既日蝕』を経験しています。卑弥呼の年代においてこの天体ショーが起こったのは二四八年になるらしいのです。つまり卑弥呼は二四八年には生きていて、没年も同じ年だとされている。
ここでひとつのストーリーを組み立ててみます。
卑弥呼の生きていた弥生時代末期、生活は稲作を中心としていました。農作には太陽の恵みが欠かせません。科学の発達していなかった当時でもそのあたりは経験上当たり前となっていたでしょう。
戦乱でずっと安定した暮らしができなかった村落の民は、やっと巡ってきた平和を維持したいと切望したことでしょう。また戦が起きるのはごめんだ。この安全な陽の元で衣食住に困ることなく幸せに暮らしたい。と。
そのためには神の守護が不可欠でした。だから神に想いを届けてくれる巫女に対する依存度は高まっていきます。どんなときでも卑弥呼さまがなんとかしてくれる。卑弥呼さまを信奉していこう。そんな願いが老女の王に集中していたさなかに。
見たこともない現象、皆既日蝕、が起こってしまったのです。
時間にしてほんの数分。完全に姿を隠した太陽。それを、おそらく辛い戦乱を経験していなければ、人々はもう少し穏やかに受け止められたと思うんですね。けれど常に恐怖と戦っていた古代人たちは過敏に反応してしまった。
神に見捨てられた。またあの地獄の時代が来るのだ。と。
その絶望は神をコントロールできなかった王への憤りと変わっていきます。卑弥呼は何をやってるんだ! もう王には就かせておけない。新しい王を見つけなければ。古い王は消し去らなければ。
日蝕という単なる天体の現象が彼女に与えた運命がこれだったとすれば、卑弥呼はあまりにも哀れな、そして後世の人間たちにとって汚点になる人生を歩んでしまったことになります。後年、何度も皆既日蝕を体験した人々は、それが単なる自然現象であったと知ることになったでしょう。そして自分たちが理不尽な理由で国王を殺してしまった実情を自覚することになったでしょうから。
倭国大乱という大きな戦争を収めた英雄王、卑弥呼。その名前が大々的に取り上げられることなく、未だに謎めいた存在とされるのは、私たちの遺伝子の中に、無為な殺戮を繰り返して歴史を形作ってきてしまったという記憶が刻まれているからかもしれません。
そしてそんな過ちを、けれど後年の日本人は歴史に残すことができませんでした。戦争問題等を見てもわかりますよね? 私たちは都合の悪い事実を残さないという民族性を持っています。しかし卑弥呼は神に通じるほど神力に長けた王。忘れ去ってしまうにはあまりにも心理的な抵抗の強い相手でした。だから名前を変え、卑弥呼だと悟られないようにしてから、未来永劫人々が祀りを欠かさない手配をしたのではないでしょうか。
さて。
あなたはこの推察、信じますか? 信じませんか?