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逸脱! 歴史ミステリー!  作者: 小春日和
元寇はなぜ神風によって勝たなければならなかったの?
19/24

元寇はなぜ神風によって勝たなければならなかったの? (平易解決編)

今回、作者の思想がかなり前面に出てしまっております。そのためご不快に思われる向きも相当にあるのではないかと危惧しております。申し訳ありません。

何度か読み直したり書き直したりはしてみたのですが、どうも私の中には『軍国主義』に対する警鐘が強く鳴り響いており、それらを吐き出さないと上手くまとまらなかったのでした。

私から見ると『安易な実力行使』に頼り始めたように感じられる現状の日本。けれど私たちは本当に『やられたらやり返す』だけのことしかできない民族なのでしょうか?

本編を読んで、「いや、日本人ってもっと凄いよ」と少しでも思っていただければ幸いです。

 えー……前回の更新からしばらくお待たせしたばかりか、妙なタイトルを掲げた話になってしまってすみません。

 本来なら、今回は、前回の最後に告知した『ジンギスカン=義経説がなぜ北条氏に信じられたのか』を紐解いていくはずだったのですが、それはちょっと後回しにさせていただきます。というのも、前回更新後にみなさまからいただいた感想等の中に非常に有用なご意見があり、その解説を先に持ってくるほうが今後の推論に説得力を持たせることができる、と判断させてもらったからです。

 本来の筋道からは外れますが、一話だけですので、おつきあいくだされば幸いです。

 それでは始めましょう。


 今回の主題。

『元寇の勝利を神のおかげにしなければならなかった鎌倉幕府の台所事情』


 前回の話で『元寇時、日本軍が蒙古に歯が立たなかったというのは間違い』と断言した私の説ですが、それに対してこのような賛同を複数いただきました。

「鎌倉武士の活躍がクローズアップされるのは嬉しい」

「日本の武士が弱かったなんて吹聴されてきたのは悲しい」

等。

 実は、これらの感想をもらう前に、私自身もネット上の投稿で日本の兵力に対する数々の偏見を目にしてきました。北九州の観光ツアーに出向いた六〇代のおじいさんが元寇防塁の遺構を見て、

「蒙古のような鬼みたいに強い集団にこんなものが役に立つわけがない」

と言ったとか、現在四〇代の方が中学生のときに社会の先生から、

「神風なんていうのは迷信だけど、そうやって教えないといけないんだよ」

と告げられたとか。

 これらを見るかぎり『元寇の勝利=神風の加護』の偏見は『特にある年代の方々に強く刻み込まれた歪んだ教育の産物』と言えるような気がします。

 では、その年代とは?

 先の観光ツアーの記事は五年ほど前のものでした。つまり、該当のおじいさんは、いまなら七〇代でしょうか。後半の中学校の先生も、投稿者の年齢から換算すると現在は六〇代ぐらいかな。

 六〇歳から七〇歳にかけての高齢者に共通している条件。それは、戦後に生まれ育ち、敗戦国となった日本をプライドを持って立て直さなければならない環境だった、という時代背景です。敗者としての屈辱と辛酸を常に目の前に突きつけられながら、それでも日本という母国への敬愛を失わないためには、どうすればいいでしょう? 敵国を怨めば済むことでしょうか? やみくもに愛国心にすがれば解決するでしょうか? 私は……少し語弊がある言い方をあえてしますと、日本人の多くは『現実逃避』をしたんじゃないか、と思うのです。現実には強大な敵国に権力づくで臣従を強いられながらも、心の内では「我が国にはまだまだ底力が眠っているんだ。日本は本当は弱い国ではないんだ」と反骨の精神が燃えていたのではないかと感じるんですね。

 その証拠に、日本は戦後、封じられた軍事力の代わりに、目覚ましい経済成長で瞬く間に世界のトップに躍り出ました。


 ここで一つ、作者の私自身の疑問でもある事象について触れておきましょう。

 一九六〇年台の高度経済成長期には世界二位にまで発展し(国民総生産の比率による)、『東洋の奇跡』と讃えられた日本の経済力。良質な教育と高い工業技術を有し、得るべくして得たこの賛美の結果。

 ……に対して。

 現代の私たちは胸を張って誇っているでしょうか? メディアから連日流れてくるのは『世界に対してモノの言えない日本人』『弱小な防衛力しか持たずアジア情勢に対応できない卑小な国』という情報のほうが、圧倒的に多いのではないでしょうか?

 私たちは、なぜ、自分の国のレベルを自ら卑下するような社会を作ってきてしまったのでしょう。それはおそらく、戦後七〇年近くを経たいまでさえ、敗戦国の傷跡を引きずっているから。『弱小国日本』のレッテルを必要としているのは、当然、日本人である私たちではありません。私たちを抑えつけようとしている国々のはずですものね。


 では、なぜ日本はそういう卑属的な立場に反抗の声を上げないのでしょう?

 沖縄の基地問題(沖縄に米軍基地が乱立されて現地の安全が妨げられているという問題)に対して聞かれるのは「アメリカとの関係を損ねたら日本の安全が保証されなくなってしまうから。日本の国防は近隣の仮想敵国に対して無力なほど弱いから」という声です。他の国交問題も、おおむねこの『アメリカへの依存体質』から派生しているものと見られます。たしかに、戦後、軍事力の拡大を自ら禁じてきた日本の国防は、現代では世界ランク一〇位から二〇位ぐらいに位置していると言われます。ランク一位のアメリカに守ってもらわなければ心許こころもとないと感じられるでしょう。

 では、日本という国の軍事力は、実際にはどれぐらい『弱い』のでしょうか? 軍事に対して歯止めのなかった第二次世界大戦時の情報を元に類推してみましょう。


 いわゆる『列強(軍事や経済力に優れている国)』の中での比較になりますが、まず陸軍。こちらは一位アメリカ、二位ドイツ、三位ソ連(現ロシア)という順列でした。日本は、兵数こそ多かったものの、兵器の装備が酷かった等の理由から最下位に近かったようです。

 次に空軍。当時は航空戦力こそが戦況を左右すると言われた最重要部門です。けれど日本には空軍はありませんでした。有名なゼロ戦は『海軍』所属の戦闘機です。

 そして最後に海軍。

 海に囲まれた日本を攻撃するためには、空母(戦闘機を搭載できる大型船)で接近して空軍機を飛ばす、もしくは日本近海の領地を占領して空軍の基地を作る、というやり方が効果的です。そのため、日本の防衛はむしろ空より海の守りのほうが肝心。日本の敵国であったアメリカとイギリスが、日本、そして日本近海に近づくためには、当然海路でやってきますよね。だから海上でそれらの侵攻を防ぐことができれば、空爆そのものも減らせるという構図だったのね。

 では、その要の海軍の軍事力はどうだったのか。

 陸空軍力で大国相手にはまったく及ばなかった日本。その結果に敗戦という憂き目に遭い、自らの尊厳を放棄せざるを得ない立場になった私たちの先祖。

 現在でも「戦時下になったら役に立たない」などと国民自らに揶揄される防衛機構のみを有し、力VS力の闘争ではけっして勝てないと、母国を嘲笑する風潮すら蔓延させてしまっている私たちの社会。

 そんな日本の、戦時下の、実戦部隊として非常に重要視されていた海軍の軍事力は。

 世界で、二位、です。

 日本の、特に戦艦を作る技術は、世界中に注目されて恐れられていた最優秀な品質のものでした。


 日本は軍事的に弱かったわけではありません。その証拠に、日本には沖縄以外の土地で上陸戦はなかったでしょう? けれど、私たちのほとんどはこの『実力』を知りません。教科書もメディアも教えないからです。

 その理由は明確ですよね。本当は強い国だからこそ、日本人自身がそれに気づいてしまったときの行動は予測できる。軍事大国としてまた世界に肩を並べようとするか、蹂躙されていた歴史を認識して反撃するか。

 ただ、ここで一つお断りが。このような書き方をしてしまった作者ですが、私自身は戦争賛美の思想を一切持ちません。むしろ『強い日本』を取り戻すために『戦力増強』を押し出しているいまの政権には強い危惧を持っています。私の考えとしては「日本人にはいざとなったときの底力があるのだから、むやみに他国を仮想敵国とせずに、毅然、悠然と構えて交渉力で乗り切ればいい」というものです。すぐに武力に頼る人間は、私から見れば、逆に非常に気の弱い輩に見えます。


 というところで話を元寇に戻しましょう。

 日本では国力が正しく認識されていない場合がある、というのはわかっていただけたと思います。そしてさらに、日本人というのは『間違った認識すら素直に受け止めてしまう性質がある』ということも感じてもらえたのではないでしょうか。

 大きな強制力が働くと、私たちは簡単に自らの力を貶めます。そしてこれは元寇でも同じだったのではないでしょうか。元寇は『本当は武士の力によって勝利した』戦争だった。けれど、その事実を不都合とした『強制力』によって、強引に『神風のおかげ』にねじ曲げられてしまったのだ、と。

 その理屈を紐解くには、まず鎌倉時代という社会の背景をご説明する必要があります。


 みなさんは『鎌倉時代』というとどんな時代だったと思われるでしょうか? 日本にとって初めての武士政権と言われるこの年代。となれば、当然、武士が政治の主導権を握って他の身分を圧倒していたようなイメージを持たれませんか?

 それ以前の日本は貴族政権の社会でした。つまり天皇を頂点とした貴族が政治を取り仕切っていた時代です。彼らは、当時で言えば豊富な知識と財力、そしてなにより人脈を駆使して高位の身分を保っていました。ところが、こういう社会では往々にしてある弊害が起こります。それは『世襲制による中だるみ』。財力や人脈などという『個人の力量』ではどうにもならない部分が評価される社会ですので、どうしても頼るべきは『親の七光り』になります。その結果『努力』は無視されて『家柄』が重視される。真に優秀な人材がいたとしても、その才能が開花されにくい土壌を作ってしまうのです。

 それとは相対して、武士というのは実力社会でした。鎌倉時代の少し前、平安時代末期の武士といえば源氏と平氏が代表格ですが、彼らの中でずば抜けて知名度を誇っていた源義朝みなもとのよしとも源頼朝みなもとのよりともの父)でさえ、父の源為義みなもとのためよしはあんまりぱっとしない人物です。義朝の躍進は自らの行った『東国支配(実際には支配ではなく協力関係に近いものですが)』の功績によって勢力を伸ばしていった結果だったのです。

 そんな武士たちが貴族を抑えつけて興した政権が鎌倉幕府。だから、鎌倉幕府の勢力図は当然『武士→貴族(皇族)→農民』になるはずでした。実際に初代将軍だった源頼朝が弟の義経を幕府から閉めだした表向きの理由は『義経が天皇家と結びついたから』です。

 では事実上はどうだったのか? 鎌倉幕府は本当に貴族よりも武士を優先できたのでしょうか?


 一一九二年に設立された鎌倉幕府は全部で九人の将軍を立てました。初代は前述のとおり『源頼朝』、二代目は頼朝の息子の『源頼家(よりいえ)』、三代目も同じく息子の『源実朝(さねとも)』。着実に源氏という武士の政権が存続していますね。

 ところが四代目以降になると少し不思議なことになってきます。鎌倉幕府四代将軍は『藤原頼経ふじわらのよりつね』、そして五代目は『藤原頼嗣(よりつぐ)』。この人たちは貴族の出身です。さらに六代目から『宗尊むねたか親王』『惟康これやす親王』『久明ひさあきら親王』『守邦もりくに親王』と続きます。『親王』なんてついているところから予想はつくと思うのですが、この人たちはみんな『皇族』ですね。

 あれ? 貴族政権を打ち倒そうと掲げた武士政権の鎌倉幕府なのに、そのトップに貴族が並んでいるのは、明らかにおかしくないですか?

 これは鎌倉幕府の失策のせいだと言われています。貴族政権の中心地であった京都の勢力を抑えきることができず、また、同じ武士である『御家人(幕府に有償で仕えてくれる武家のこと)』の信頼を維持できなかった背景が、この事態を招いてしまったのです。

 つまり、鎌倉政権というのは『武士政権を目指しはしたけれども上手く行かなかった政府』ということなんですね。


 さて。そんな鎌倉幕府でしたので、威光を存続させるためにはかなりの無理をする必要がありました。幕府という権力を超大に見せ、反乱分子に常に目を配る必要に迫られていたんです。

 そして、その折にやってきた外敵が蒙古だった。

 もちろん幕府としては引き下がれません。時の権力者、北条時宗は、「うちは強い国だから従いなさい」と言ってきた蒙古の使者を、散々に無視します。その結果、蒙古は『交渉では埒が明かない』と業を煮やして元寇をしかけてきたのですね。


 結末として、日本は蒙古軍を退けられました。だから本当なら『元寇』というのは、鎌倉幕府にとっても『武士の実力を見せつけた戦い』と評価されるべきだったのです。『神風』に手柄を取られるなんて、あってはならないことのはずだったんですね。

 けれど……。


 実は元寇の真相とはこういうものでした。

 前回の話の中で、私は『元寇一回目の文永の役では九州の武士勢力が集結をした』と書きました。……そう。文永の役で蒙古を破ったのは、実際には『九州勢』だったのです。

 じゃあ鎌倉幕府はどうしていたの?

 一二七四年一〇月五日に対馬を襲来し、二一日には撤退したとされる元寇。半月あまりの短い激戦の知らせは、当然、逐次、鎌倉の幕府にも届けられました。ただ、幕府の出足は鈍かったのですね。鎌倉時代の史料『勘仲記』には『一〇月二九日には鎌倉から総司令官を蒙古軍討伐に派遣するか、未だに議論中』と書かれているそうです。このころにはもう、蒙古軍は日本にいません。(※一)

 ……ということは、鎌倉幕府は蒙古に対して「かかってこいやあ!」と勇ましいことは言ったけれど、現実に戦闘には加わらなかったってことですよね?


 実力主義の武士政権として模範を示さなければならなかったはずの北条時宗。そのために、本当ならいち早く現地に駆けつけ、「日本は我々が守るぞ!」と名乗りを上げなければならなかった立場の鎌倉幕府。

 ところが、終わってみれば、幕府に注がれたのは遅延に対する不信の目。そしてこの芽は、その後さらに大きくなり、九州武士の反乱や皇室による幕府打倒の歴史へと傾いて行くことになります。


 元寇が『幕府抜きの武士の力によって勝利した』戦争だったとしたら、それを『神風のおかげ』にしてしまった理由は、幕府こそにあるのではないでしょうか?


 ……そして、時代が進むにつれ、最初は「自分たちの活躍があったからだ!」と声を上げていた九州の武士たちも、政権という『強制力』の中に立ち消えていった。

 第二次世界大戦時には強いと認識されていたはずの日本の海軍軍事力が、その後に捏造された歴史の中で話題にもされなくなったことを考えると、どうしてもそんな図式を描いてしまいます。


 元寇を『神風のおかげ』にしてしまったことの弊害として、私たちは、当時の九州という国力を見誤るとともに、自分の力に対する信頼を捨ててしまったような気がします。

 戦後復興を成し得た私たちの先祖は、焼け野原の中で食用にもならない種芋をかじりながら、一〇年後には三種の神器と言われる『白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫』の家電製品を発明しました。

 日本人は、ときに『神さま』以上の力を発揮する民族なのでしょう。けれど、能力の限界を発動する機会を持たなくなった現代の私たちには、その底力を実感できません。だから、ついつい『すごいことができるのは神さま(強運)のおかげ』で片づけて、自らを高める努力を怠ってしまっているのかもしれません。


 さて。本筋からの脱線というスタイルで進めていった今回の推論『元寇はなぜ神風によって勝たなければならなかったの? (平易解決編)』。長々とした話におつき合いいただいて、どうもありがとうございました。

 それでは、一応の締めとして。

 あなたはこの推察、信じますか? 信じませんか?


※一 一説には、蒙古が対馬に上陸した(事実上の開戦)情報が幕府にもたらされたのは十一月に入ってからだったという話もあります。そうなると、『勘仲記』にある『一〇月二九日に鎌倉から総司令官を派遣するか迷っている』という記述は、蒙古が本当に上陸するかどうかわからないため、という弁明が立ちます。


次回からは話を戻して『元寇が義経の復讐だと思われた理由』を展開していきたいと思います。

今回の推論では、強引な理屈と不親切な歴史説明に終始してしまったこと、お詫び申し上げます。


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