元寇って何?
今回は、いままでの『卑弥呼の正体』『源義経の逃亡先』『織田信長ミステリー』に比べると、ちょっとパンチが弱いかな、と思われる題材を取り上げてみます。みなさんは『元寇』って出来事をご存知ですか?
ざっと説明すると、これはモンゴル帝国と朝鮮半島にあった高麗って国が日本に攻めてきた戦争なのね。二回の侵攻があったと言われているんですが、その一回目は一二七四年一〇月でした。まず対馬に上陸したモンゴルと高麗の軍(以下『蒙古』と呼ばせていただきます)は、九日後には壱岐(長崎県の島)に、そして破竹の勢いで、とうとう九州本土に到達します。本土の最初の上陸地は佐賀県。ここまで順調に勝利を収めていた蒙古は、けれどそれから福岡県へと移ったときに、丘陵地・松林という地の不利と、博多湾の複雑な海域に翻弄され、撤退を余儀なくされました。これらを総称して『文永の役』と言います。
二回めは七年後、一二八一年の五月(新暦で六月)の『弘安の役』でした。前回と同じく対馬・壱岐から侵攻を始めた蒙古は、今度は日本の軍事や外交の要である太宰府(福岡県太宰府市)を目指します。ところがこれも、途中の旅程で嵐に遭ったり疫病に見舞われたりと、不幸が重なりました。というのも、内陸の乾燥地帯にあるモンゴルと温暖湿潤の日本では気候が違いすぎるのですね。だから、朝鮮半島の高麗人はともかく、モンゴル帝国の兵士たちにはこの進軍は過酷すぎたんです。そんなふうに気力を削がれていった蒙古は、前回とほぼ同じルートを通って博多湾に入り込み、そこで日本軍の張り巡らせた『元寇防塁(海に面して作られた石組みの防塁)』に上陸を阻まれたのでした。
ところで、みなさんの中には『神風』という言葉を聞いたことのある方が多いのではないでしょうか。
近代になってこの『神風』が大きくクローズアップされたのは第二次世界大戦のときでした。人間を乗せた戦闘機や潜水艦に爆弾を積み、乗務員もろとも敵の勢力内に突っ込んで自爆するという『特別攻撃隊(特攻隊)』のことを『カミカゼ』と呼んで国が奨励したのです。もちろん乗務員の死は必至の、いま考えればとんでもない愚策です。
この行為は海外においても、畏怖と、ある種の敬意を持って受け止められました。「日本人は国のために自分の命を簡単に捨てることができる民族だ」と。
『神風』というのは、本来『神が吹かせる強風』という意味の神道の言葉です。つまり『特攻カミカゼ』には『神に代わって不利な戦況に風穴を開ける気高い行為』という定義づけがあったのですね。
これらのことから、かつての日本人の心には『神』が強く意識づけられていたことを、ご理解いただけたのではないでしょうか。
なぜ元寇のテーマで神風の説明が必要なのか?
元寇についてご存知の方は「だって元寇は神風が解決してくれたんだし」と早々にわかってくださったのではないでしょうか。そうなんです。日本に攻め入った蒙古たちを追い払ってくれたのは、突然にやってきた台風だと言われているんです。台風は天災。天災とは『天(神)からもたらされた厄災』。だから蒙古たちを退去させたのは神の怒りだと、日本の歴史はずっと私たちに教えてきたのですね。
そのため、私たちの多くは、あたかも『日本は武力では蒙古にまったく歯が立たなかったが、台風が起こったという偶然のおかげで、元寇は二回とも窮地を脱した』という間違った認識を持ってしまったのです。元寇での日本の勝利は神のおかげ。台風の発生が偶発的なものだったとしても、日本人は大自然の力(神の力)に感謝すべきである、と。
たしかに、蒙古という非常に恐ろしい敵に対して、タイミングよく台風が二回も来たのなら、神の奇跡というものを私たちは信じてもいいのかもしれません。
ただ。
本当に当時、台風は来ていたのでしょうか?
一回目の『文永の役』が起こったのは一〇月でした。現代で言えば一一月です。台風のシーズンかどうかは微妙です。
また二回めの『弘安の役』のときにも、台風が襲来したという痕跡はありません。豪雨や大時化といった現象はあったかもしれませんが、六月の台風という稀な気象を「確実にあった」とする証拠は出ていないのです(これについては補足を後述)。
蒙古の襲来を阻んだ本当の理由は、日本の風土に対する蒙古の知識不足、玄界灘などの把握することが難しい海流を読み間違えたこと、日本軍が海からの進撃に対して極めて有効な防護策を取れていたこと、等が考えられるでしょう。
それをわざわざ過剰に『神の加護』としたがった当時の日本の権力者たち。この意味はいったい何なのでしょうか。
ここで先の特別攻撃隊の話に戻ります。
特攻カミカゼが編成されたのは第二次世界大戦の末期でした。すでに日本に勝機はなく、ただ漫然と敗北を引き延ばしていた時期です。その状況で勝つためには神の力にすがるしかない。倦怠感の蔓延していた国民に対し、再び戦争に対する意欲を鼓舞するために、軍部は『神力』という詐欺まがいのメリットをちらつかせたのです(一部では『特攻隊という悲惨な現実を見せることで戦争を早期に終わらせる』という目的もあったそうです)。
では元寇はどうだったのか。
元寇を起こした蒙古はモンゴル帝国と高麗の連合軍だった、と冒頭に書きました。高麗については波があるので一概に『強敵』とは言えないのですが、モンゴル軍は強いだけではなく非常に残酷な民族性を持っていました。初期に上陸した対馬や壱岐の島民たちはほぼ全滅の憂き目に遭っています。男は殺されて割腹され、肝を食べられた。女は掌に穴を開けられ、数人を縄でつないで生け捕りにされた(のちに殺された)。元寇の複数の史料にはそういう記述が散見します。元寇の起きた鎌倉時代の日本人は、まだ戦国時代の血で血を洗うシビアな感覚を身に着けていなかった。だからことさらにモンゴル軍の残忍さに震え上がったことでしょう。恐怖に萎縮する心が蒙古を異常に強大に見せ、神の力に頼らざるをえないほどの弱体化を招いた。だから、日本軍を統治していた時の権力者は「神が必ず味方をしてくれるから億するな!」と叱咤する羽目になった。そして、結果的に蒙古を追い返すことができた元寇を『神風のおかげ』と過剰に持ち上げるようになったのだ。
……………………。
いえ。
全然違いますね。
まず第一に、日本軍は蒙古に萎縮してはいませんでした。一回目の文永の役では、対馬、壱岐が壊滅したあとでも九州の勢力が続々と集結して、内地に上陸してきた蒙古を撃退しているのです。最終決戦(と思われる。史料不足)となった『鳥飼潟の戦い』で活躍した竹崎季長は、蒙古との激戦を絵巻物にして残しているのですが、その中には、降り注ぐ矢に果敢に立ち向かう自身の姿や逃げ惑う蒙古たちを描いています。また、のちに蒙古から日本軍の働きを聞き知ったモンゴルの役人の『王惲』は、その著書の中で、日本軍のことを『人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず(勇敢で死を恐れない民族だ)』と記しているのです。
二つ目には日本人の戦略の周到性が挙げられます。文永の役で蒙古の脅威を知った日本軍は海からの侵略に備えるようになりました。それが先に書いた『元寇防塁』と呼ばれる石塀です。これは、文永の役の際に蒙古軍が上陸してきた博多湾の湾岸に、高さ二メートル、長さ二〇キロに及ぶ石垣を築いて、毒矢、てつはう(爆弾)等の攻撃を防ぎ、上陸を阻止しようとするものでした。この工事は、二回めの元寇である弘安の役(一二八一年)よりもあと、一三三二年まで続いたということですから、外敵に対して日本がいかに慎重かつ持続的な心構えを持っていたか、という論拠になります。
日本は元寇に対して人間の力で有効策を取ることができた。元寇での勝利は、間違いなく日本人の能力がもたらした一面があるのです。
ならばなぜ、重ねますが、元寇は『神風によって勝てたことにしなければならなかった』のでしょうか。
私は、この『神風思想』に、元寇当時の軍部の権力者の裏工作を感じてしまうのです。時は鎌倉時代。日本を統治していたのは鎌倉幕府の八代目の執権(将軍職を補佐する事実上の幕府統括者)であった『北条時宗』。
私は以前、源義経ミステリーの中で『北条氏の祖である北条時政が源頼朝を操って平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を牛耳る算段を立てていた』という推測を述べさせていただきました。改めてご説明すると、巨大な権力を手中にしたかった時政が、頼朝を偶像化して邪魔な平氏を滅ぼした後、厄介ごとの種になりそうな源義経を計略で殺し、最終的には頼朝本人も暗殺した、という説です。
北条時宗はその北条時政の子孫。私の推論に沿って考えると、時宗も当然、頼朝、義経兄弟に対して負の確執があったと思われます。
元寇を起こしたのはモンゴル帝国と高麗。その中でも主戦力であったモンゴル帝国の初代皇帝はジンギスカン。
ジンギスカンは義経と同一人物だという噂があります。
ジンギスカン=義経説は現在では荒唐無稽だと一笑に付されています。私自身もその考えは支持しません。
けれど、北条時宗がその仮説を信じてしまうほどの要因が当時にあったとしたら、時宗が元寇を『義経の復讐』と捉えても不思議はないと思いませんか?
次回は『ジンギスカン=義経説がなぜ北条氏に信じられたのか』を紐解いて行きつつ、神風思想を用いてまで自分の行いを正当化しなければならなかった時宗の立場を考えていきたいと思います。