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逸脱! 歴史ミステリー!  作者: 小春日和
元寇はなぜ神風によって勝たなければならなかったの?
17/24

【前書き】鎌倉を旅してみて(※若干ホラー風味)

この【前書き】は旅行記になっております。ごく一部ですがホラーっぽい表現がありますので、苦手な方はお気をつけください。

 つい先日の三月一五日に神奈川県鎌倉市を訪れてみました。

 春は名のみの風の寒さや、という早春賦の時期も一段落したようで、鶴岡八幡宮の参道ではもうちらほらと桜も開いております。

 自称『歴史オタク』な私の旅は、いつも相当な強行軍となります。当日も朝の五時半に出立し、近場の駅の始発に乗って、青春一八きっぷを駆使した『JR鈍行列車の旅』で六時間かかって江ノ電の藤沢駅に着きました。ここから鎌倉までは三〇分ぐらいです。

 ちなみに、私は電車にはほとんど知識がありません。ですから遠出をするときは中学三年生の息子を連れ出します。彼は関東中部関西の路線図をほぼ掌握しているので、乗り換えのときに大変に重宝します。

「この電車は途中で後ろ五両は切り離されちゃうから、前の車両に乗ってないと駄目だよ」

とか、

「この普通列車の直後に快速(特急料金なしで乗れるJRの高速列車)が来るから、一本やり過ごすよ」

とか。高確率で人身事故に遭遇するその宿命さえなければ、息子はきっといい乗り鉄になるでしょう。

 というわけで、JRから江ノ電に乗り換えたわたしくたち。青色のクラシックな車体にうきうきしつつ、まずは腰越駅もよりの満福寺へ。ここには源義経が兄の頼朝に宛てた『腰越状』の下書きが残っています。詳細は、本作『義経ってどんな人?』の章より抜粋。


 源平合戦の功労者であった義経は(合戦の)その後どうなったのでしょうか?

 普通に考えれば、総指揮を取っていた兄の頼朝に喜色満面で迎え入れられて相応の地位を拝命できたはずです。けれどそうはなりませんでした。鎌倉にて平氏全滅の報を受け取った頼朝は、当然のごとく英雄として凱旋してきた義経を、鎌倉の入り口である腰越で追い返しました。理由は義経がこれからの武士の世の中に不適切であると判断したからです。邪魔な平氏のいなくなった世で鎌倉に武士の本拠の幕府を開こうとしていた頼朝は、天皇家や貴族に武士の威光を知らしめたかったのです。ところが義経は天皇から従五位なんていう高い官位をもらってしまっていた。天皇家の息のかかった義経を幕府の要職につけることは頼朝にはできなかったのね。

 (中略)

 兄の命に従って命がけの戦乱に身を投じた義経は、合戦後の頼朝の言いがかりに対し、こんな書状をしたためています。

『(私には)功績があっても罪はないのに、(兄上の)御勘気を被り、空しく血の涙にくれております』

 義経は自分の命を賭してまで頼朝の喜ぶ顔が見たかったのかもしれません。


 この義経の書状のことを腰越状と言うのですね。満福寺にあったのは弁慶が下書きをしたと言われるもの。あいにくご住職さんが見当たらずにお話が聞けなかったのですが、乱暴者とされている弁慶らしからぬ繊細な達筆の書状は、それだけでしばしのタイムスリップを楽しませてもらえました。


 そして次なる目的地は鎌倉駅の妙本寺。意気揚々とまた江ノ電に乗り込みます。

 ……ところが、ですね。

 ある程度の混雑が見られた車内で、開いた隙間に立っていた私。すると、目の前の座席に座っていた三〇代ぐらいの女性が、突然声をかけてきたのです。

「どこに行くんですか?」

って。

 最初は自分に話しかけられているとは気づかず、ぼうっと対面の窓の外を見ておりましたら、またはっきりと呼びかける声が。

「どこまで行くんですか? ジャケット、可愛いですね」

見下ろすと、まっすぐにこちらを見ている女性は、なんとなく目の焦点がゆるいのです。

 とりあえず、

「あ、私のことでしたか? ごめんなさい。鎌倉まで行きます」

と答えました。そうしたら、また女性は、

「ジャケットがフワフワしてて可愛いですね」

と。

 ちなみに私の服装は超メンズライクでした。該当のジャケットも、ライダージャケット仕様で袖口にかろうじてボアがついたもの。女性が気に入ってくれるとは楽勝で思えない出で立ちでありました。

 彼女はなおもいろいろと質問をしてきます。

「お幾つですか?」

「どこから来たんですか?」

「隣にいるのは子どもですか?」

「子どもは何歳ですか? どこの学校に通ってますか?」

等々。

 そうなんです。彼女は知的障害者だったんですね。よく見ると、すぐ隣には付き添いの実年女性が寄り添ってみえました。付き添いさんは彼女が私に踏み入ったことを聞くたびになだめていましたが、彼女の好奇心はそれでは収まらないようでした。

 なので、どうせ鎌倉までは暇なんだし、ちょっと話にお付き合い。歳を伝え、出身県を伝え、子どもの名前を教えます。会話がうまく成立しないので確信はないのですが、たぶん彼女は喜んでくれていました。

 そんな中、一つだけ答えに窮する質問が。

「あたし、挨拶しても返してもらえない人がいるんです。そういうときはどうしたらいいですか?」

 ……二分ほど考えましたね。彼女の言っている『挨拶を返してくれない相手』というのは、おそらく彼女にとって『挨拶を返してもらいたい相手』。だから、

「そんなやつほっとけ」

とは答えられない。かと言って、

「相手がわかってくれるまでがんばって」

では彼女も疲れてしまうでしょう。

 そこで、正直に、

「これがいい方法なのかわからないですけど」

と前置きした上で、

「その相手と仲良くしたいと思ううちは、無視されてもこっちからは挨拶を続けてみよっか。そのうちに仲良くなれるのか、それともずっとこのままなのかはわからないけど、お嬢さんが挨拶したいと思っている気持ちを相手に合わせて曲げなくても大丈夫ですよ」

と伝えました

 そのあとはまあ、鎌倉に着いて、そのままあっさりと別れたんですけど、ここから先がちょっとした不可思議の連続だったんです。


 妙本寺の境内には人っ子一人いませんでした。あ、いえ、途中でご住職らしい方は見かけたのですが。

 とはいえ、私が訪ねる史跡はいつもたいがいこんなもん。歴女と言っても興味の範囲がずれているんでしょうかね。名刹よりマイナーな古刹、復元した名城より原っぱのような小さな城跡、五百羅漢より路傍の道祖神、等々にどうも引っ張られる傾向があります。

 妙本寺は『比企ひき一族』の屋敷だった場所に建てられたお寺です。この比企一族、鎌倉幕府初期において非常に重要なポストに就いていた氏族なのですが、頼朝が亡くなったあとに北条氏によって滅ぼされたのです。当主の比企能員(よしかず)は北条時政にだまし討ちにされ、娘の若狭局わかさのつぼねや孫の一幡いちまんにまでその凶行は及びました。詳細はこのあとの本編にて。

 境内には比企一族の墓がずらりと並んでいました。享年まだ六歳だったという一幡の墓に新しい花が供えてあるのを見て、しばしの黙祷。彼は北条襲撃の際に一族とともに焼け死んだと伝えられています。

 一五分ほどで境内を探索し終え、私と息子は帰路に着きました。妙本寺は急な石段を登りきったところにあるお寺。帰りは逆に段を下りながら、両脇に美しく咲く椿の花をなんとなく目に入れていました。

(そういえば、源平のころって、首が落ちる椿は凶兆だとか言われて忌み嫌われてたんだよなあ)

なんて思いながら。

 あと少しで石段が終わるというところまで来たときに、突然。

 ぼとん。

 ぼとん。

 と椿が二つ、ほぼ同時に落ちました。

 続いて、頭上を、

「がさがさがさがさっ」

と何かが走り抜けるような音がしました。

 びっくりして立ち止まり見上げると、また椿がぼたぼたと連続して落ちてきます。

 時刻は一七時数分前。すでに辺りは残照に彩られています。

 枝葉の暗い隙間に目を凝らすと、そこにいたのは。

 リス。

 しかも二匹。

 一気にテンション上がりまくりで、息子に、

「見て見て! リスだよ、リス! 長野県じゃないのにリスがいるよ!」

と呼びかけ、

「偏見だよ、それ」

と冷ややかに返す息子とそれでもしばらくのあいだ見とれていると。

 ふと重要なことを思い出しました。

 この寺には、もう一つ、ものすごく行きたいところがあったんです。疲れていたのですっかり忘れていました。

 蛇苦止堂じゃくしどう。比企能員の娘の若狭局が身を投げたという呪いの井戸のことを……。


 案内図によると、蛇苦止堂は、寺の敷地の本当に片隅に建っているようでした。

 コンクリートで整地された路地を向かうと、途中で急に霊場特有の冷気に包まれます。死んだのちに蛇となって北条に祟ったと言われた若狭局の墓所らしい雰囲気です。

 一七時を回って町内のチャイムが物悲しげに流れ始めました。なんとなくそわそわとした気持ちでお堂までの短い石段を登ります。

 小さな敷地には、それでも立派なお堂がありました。あれ? でも、ここお寺の中なのに、建物は神社の様式です。神宮寺(お寺と神社が混在している寺院)でしょうか?

 お賽銭を出そうと財布を取り出したとき、後ろから呼び止められました。

「お参りされる? それなら上がってらっしゃいな」

振り向くと、女性の住職さんが立って、こちらに微笑みかけています。

 反射的に、

「いいんですか?」

と返して靴を脱ぎ、お堂の中に。もちろん息子も一緒。

 入ってすぐのところに、奈良の橘寺のような見事な天井画。それだけでも眼福なのに、住職さんはさらに祈祷をしてくださるというのです。

 神社の外観にご本尊は蛇苦止明神という仏さま。いままで見たこともないぐらいの神仏習合(神さまと仏さまが一緒になって祀られている状態)を果たしているお堂の中で、住職さんについて南無阿弥陀仏を唱えました。祈祷は何度か受けていますが、あんなに心が鎮まったのは初めてかも。

 お祈りが終わり、深々とお礼をして、座を立とうとしました。そしたら住職さんがこう言うんですね。

「わたし、普通ならこんなふうにお参りにお誘いすることないんですよ。なぜあなた方には声をかけたのかしらね」

住職さんのことを単に『親切な尼僧さん』と思っていた私は、この言葉にしばしぽかーん。続けて住職さんがおっしゃってくださるには、

「きっとなにか見えない力が働いたんでしょうね。願いごと、たぶん叶うよ。がんばって」

とのこと。


 再び頭を下げ、にへにへしながらお堂を出ました。そのまますぐそばにある若狭局が身を投げたという井戸にお参り。心の中では(お導き、ありがとうございます)とひたすら感謝。


挿絵(By みてみん)


 そのあと、帰ろうとした私を、今度は息子が呼び止めました。

「……ねえ、これ、目が普通のと違う」

 息子が見ていたのは、おそらく若狭局を供養した観音像。手に巻物を持ち、素朴な体型をした比較的新しい仏さまでした。

 でも……。

 ……いえ、よく見ればごくごく通常の造作なんです。細い目の中は中央が眼球の形になるように彫り込まれていて、造りとしてなんらおかしなところはありません。

 なのに、どの角度からどう見ても、仏の視線は右方向をじっと睨みつけているのです。


挿絵(By みてみん)


 視線の先にあるのは若狭局の供養塔。もう彫られている文言もわからないほど朽ちた小さな石碑です。

 ……若狭局が自害したのは一二〇三年。それから八一〇年余り。もしまだ彼女が成仏していないのなら、あまりにも長い時間さまよっていることになります……。

 可哀想に、とまた念入りに手を合わせた私は、いまさらになってあることに気づきました。さっき、ご住職に祈祷していただいたとき、慌てていたので、自分の願望を蛇苦止明神に伝えることをすっかり忘れていたのです。まったく別のことを考えたまま、祈祷を済ませてしまいました。

 そのときに頭にあったのは、比企能員を始めとした比企一族の魂の安寧でした……。


 次にあそこを訪れたとき、私の願いが叶って、若狭局の御霊が少しでも安らかになっていたのなら、それはそれで嬉しいかな……。

 なんてことを考えながら、妙本寺をあとにしました。


 そしてこの後も小さな不思議はさらに二つほど続きます。


 すでに日も落ちているというのに、

「鎌倉に来たのに鶴岡八幡宮を飛ばしちゃ駄目だろ!」

と疲れの見えてきた息子を強制労働に駆り立てたわたくし。

 それなのにこの母ときたら、道に迷いやがったのですよ。八幡宮の周辺の路地に入り込み、行き止まりの道をわざわざ選択して歩いてしまったのです。

 よく出来た息子なので文句一つ言わなかったのですが、それでもさっさと来た道を戻るその後姿はちょっと怖かったですね。途中で見つけた『鎌倉宮』の道案内に興味を惹かれたことも言い出せないぐらいでした。

 内心で(やべー。八幡宮すっ飛ばして宿に帰るべきか?)と迷っていたところ、なぜか往来の反対側を歩いていたお婆さんが、私を見るなり、

「今日は暖かいと思ったけど夜は冷えるわねえ」

と喋りかけてきたのです。その柔和な顔に、思わず、

「本当ですね。結構歩き続けているんですけど、汗かかないで済んでますもんね」

と答えると、お婆さんはさらに相好を崩した優しい表情で、

「お疲れさま。がんばってね」

と声をかけてくれたあとに行ってしまいました。

 前方で複雑な顔をして立ち止まっている息子に、

「……今日の母はみんなが声をかけたくなるような何かがとり憑いているのかい……?」

と恐る恐る聞いてみると、

「かもね」

とあっさりした返事。

「もし取り憑いてるんなら、最初に訪ねた満福寺の義経か弁慶がいいねえ」

と素朴な願望を述べると、

「大物すぎて無理じゃない?」

と現実的な答えが返ってきました。

 うーん。それもそうかあ……。残念。

 でも考えてみたら、大入道の弁慶を背負って歩いてたら、声をかけられるどころか、きっと一目散に逃げられますね。義経だったら……彼は身が軽かったので、肩の上とかに立つのかなあ。義経を肩車しての鎌倉散策……。どちらもかなりシュールな光景には違いないでしょう。


 ちなみに鶴岡八幡宮にはちゃんと行きました。ここには鎌倉幕府に囚われた義経の愛妾(愛人)の静御前が舞を舞ったとされる舞殿まいどの(一般的な呼称で言うと神楽かぐらでん殿)があります。こちらのエピソードも本作の『義経はどこへ行ったの?』の章から抜粋させていただきます。


 義経の寵愛を受け逃亡先まで同行したとされる静御前は、物語に沿った舞を踊って人々を楽しませる白拍子しらびょうしであった。その彼女は逃亡先で妊娠が発覚し、義経と別れて京都に戻る途中に吉野の山中で捕まったのだと言われる。

 身重の身で「義経の居所を教えろ!」と詰め寄る頼朝に決して屈しなかったという彼女。それどころか頼朝が戯れに「お前は有名な白拍子だそうだから一差し舞ってみせろ」と愚弄する態度に対し、義経への恋歌を踊ったという強気な女性だったらしい。


 そして翌日。最後に超困惑したことが!

 昨日の鎌倉、そして本日の横須賀の旅を終えた私は、とっても充実した気分で京浜急行に乗って横浜駅まで帰ってきました。

 横浜駅というのは……地元の方ならわかると思うのですが、京浜急行からJRに乗り継ぐ際に、京浜急行の改札を出ずにJRの乗り換え改札口一か所で手続きが済むようになっています。

 青春一八きっぷを使っていた私たちは、当然のように乗り換え改札口の窓口で乗車券をちら見せして通りすぎようとしました。すると。

 駅員さんが私と息子とさらにその隣を見て、

「えっと? 大人の方が何名ですか?」

って聞くんですよ。

 息子は中学三年生。いくら背が小さいとはいえ、小学生に間違われることはありません。だから、

「あ。子どもは中学生なので大人料金で」

って伝えたんですね。

 そしたらその駅員さん、

「じゃあこちらに押しておきますね」

って、本来なら空白にして残しておかなければならない五回目の使用欄に『使用済み』のスタンプを押してしまったのです。

 ちょっと具体的にご説明すると、青春一八きっぷというのはJRの発行している、いわゆる『一日乗り放題乗車券』なのですね。五回分が一セットになって一一五〇〇円(消費税の上がる四月以降は不明)という、非常に格安のチケットになります。

 私は息子と二人で行動していましたから、昨日に二回、本日に二回の合わせて四回分しか使っていないはずなのです。それなのに、その駅員さんは五回目に押印してしまった。

 彼の教育不足なのかと思った私は、駅員さんに、

「これって押す必要があるんですか? 二人しかいないのに」

と確認しました。すると彼は戸惑ったような表情をして、

「規定ですので」

と訂正せずにチケットを返しました。

 結局、別の駅で事情を説明して五回目の押印については修正してもらったのですが、そのときに対応してくれた人が言うには、

「途中で誰か一緒になりませんでしたよね?」

とのこと。

 ……ホラーっぽいオチでごめんなさい。


 今回の鎌倉旅行。私の目的は『義経の足跡を巡る』ことと『比企一族の史跡を訪れる』ことでした。

 そして、これらはそのまま、以降の本編の資料として活用することになります。

 それではこの先もぜひお付き合いください。


 逸脱! 歴史ミステリー。

『元寇はなぜ神風によって勝たなければならなかったの?』

の章、ゆるゆると開演いたします。


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