織田信長を暗殺した黒幕は?
明智光秀から『織田信長暗殺』の謀略を聞いたルイス。と言っても、この時点ではまだ具体策は出ていなかったと思われます。ここをご説明するために、ちょっとだけ、信長が本能寺に篭ることになった経緯を書きますね。
四国の長宗我部氏を討つために秀吉が援軍を要請してきたのは(これについての詳細は後述で)、本能寺の変が起きた六月二日のほんの二週間ほど前、五月一五日でした。信長はこの要請を受けて大掛かりな討伐軍を編成します。
第一隊は丹羽長秀を副将とした本隊、第二隊は明智光秀率いる先発隊、さらに信長は、なんと自分自身も四国に向かうつもりだったのですね。だから兵力となる小姓や供回り七〇人ほどを集めて本能寺で出立を待ったのです。
ここで「なんでお寺から軍隊が出発?」と思われた方もいるでしょう。本能寺というのは、ただの宗教施設ではなく、二年ほど前に堅牢に改築された城塞だったんです。場所も現在とは違ってもうちょっと北寄りです。だからいまの本能寺を見ても面影はありません。
そして六月一日の夕刻、本隊や信長軍より一足早く進軍を開始した光秀は、途中で家来たちにこう言い放って討伐対象を変えました。
「敵は本能寺にあり!」
ちなみにまったくの余談ですが、この軍勢の中に徳川家康はいません。彼はなぜか協力もせずに京都周辺を『遊興』していたのです。
信長たちがこぞって四国に向かうことを当然知っていたと思われる家康。その家康が信長の本拠地の周囲で無意味とも思える漫遊をしていたことは、ちょっと不気味なものを感じさせますよね。
では話を戻して。
この経緯を見るに、光秀が本能寺で信長を討つという計画を立てたのは、かなり直前になってからだという印象を持ちます。秀吉の要請を受けてから討伐軍の準備が整うまでの期間があまりにも短かったため、周囲に根回しする余裕はなかったと思われるからです。
だから本能寺に攻め入った行為そのものは、長宗我部氏や大友氏との連携を図ったというより、光秀の先走りによる単独行為だったとも言えるのですね。ただ光秀をこの行動に駆り立てたのは『後ろ盾があることを信じたから』。そういう意味では協力者を確保してからの謀反ということもできるのです。
要するに、光秀は具体的な信長討伐の方法をあらかじめルイスに伝えることはできなかった、ということです。とりあえず自力で信長を殺してから「後のフォローよろしく!」と中国四国北九州勢の援軍を待つしかなかったのね。
ここまでで「光秀ってそんなに浅慮な武将なの?」と疑問視された読者もいらっしゃると思います。実際に来るかどうかわからない援軍を期待して主君を討ってしまうなんて、あまりにも深慮がなさすぎますから。
ただ、光秀に強い焦りがあったと仮定すればこの行動に説明はつきます。謀反の根回しを順調にしてきてしまった光秀だからこそ、いつどこから自分の計略が漏れて信長に伝わるかわからない。そうなる前に信長にいなくなってもらいたい、と。私たちもそうですよね。他人の悪口ばかり言っていると、いつ悪口を言った本人の耳に入るかと気になって、また妙な画策をして自己保身してしまう。
天下の織田信長を討伐しておきながら光秀の下にほとんど協力者が現れなかったのは、彼のこの『次代の天下人を狙うにはあまりにも卑小な資質』に警戒したためではなかったでしょうか。
そして、肥大した不安から目を曇らせた光秀がしてしまったのは、敵と味方を取り違えるという大失態だったのです。
さて、それではルイスの視点に移ります。光秀の奸計を聞いた後、ルイスはどうしたか。
ちなみにここからは完全な私の当て推量になります。
では続けますね。ルイスは光秀にその場で返事を返すことをせず、まず大友氏のほうに相談をしました。というのも、光秀のもたらした案というのは、ルイスにとってまったく旨味のない話ではなかったからです。信長が倒れてくれれば新しい天下人が立つ。そこにキリスト教徒の大友氏が何らかで関与できれば、キリスト教の地位は上がるかもしれないので。
ルイスの話を聞いた大友氏は、光秀などという小賢しい将の言うことは一笑に付したでしょう。ただ、信長の足元に謀反の疑いがあることは懸念した。大友氏は信長と協力関係にあったので。
悩んだ大友氏はそれをよりにもよって秀吉に相談します。秀吉は実は大友宗麟とは友人同士だったんですね。
光秀の暗躍の可能性を知った秀吉は、普通なら当然、ルイスに「光秀の策には乗らず、この件はお館様に伝えよ」と命じたでしょう。
普通なら。
でも豊臣秀吉という人物は、歴史上で知られるとおり、立身出世を何よりも願った男だったのです。
本能寺の変が起こったとき、信長は五一歳(数え。実際には四九歳)でした。そして信長とは三歳しか違わなかった秀吉は、すでに四八歳になっていました。そのまま家臣の地位に甘んじていれば、けっして自らの手に天下を握ることはなかったでしょう。
その秀吉にとって、光秀の造反は願ってもない可能性。
だから秀吉は、一言、たった一言だけを、ルイスから光秀に返させたのです。
主君信長の死を願う呪詛として。
「大友宗麟は明智殿に協力する。だから明智殿も必ず信長公を誅してほしい」と。
そう考えると、本能寺の変の異常性について、ほとんどの事象に説明がついてしまうのです。
まず、光秀が毒殺等ではなく大々的に合戦を開いて信長を斃した理由。臣下としてそばにいたのなら、秘密裏に殺してしまうほうが光秀にとってはずっと容易かったはず。これは全国の武将勢力に『信長を討ったのは俺だ!!』と知らしめる必要があったからです。大友宗麟や毛利輝元、長宗我部元親という大物を動かすだけの行動を、光秀は取らないといけなかったわけなんですね。戦で堂々と信長に勝つからこそ、他の武将たちは光秀に一目を置くのです。こそこそとした毒殺では反感しか呼びません。そしてこれは『光秀が単に自分の恨みから本能寺の変を起こした』とされる説を覆すものでもあります。ただ信長に死んでほしかっただけならこんな大掛かりで不確実な行動を取る必要はないでしょうから。
そして今度は秀吉の不可解な行動に移ります。本能寺の変が勃発した当時、信長からの長宗我部氏討伐の援軍を待っていたはずの秀吉は、なぜか自らは毛利氏の配下にいた清水宗治の城をぐずぐずと攻略していました。これは援軍が来ない可能性を考えていたからではないのでしょうか。そして、本能寺の変で信長が死んだ報を受けるとすぐに、それまで遅々としか進めなかった攻撃を一変して和議で決着させ、そして四日後の六日には宗春の城を出立し、電光石火の動きで一三日には大阪と京都の境辺りまで戻っているのです。この行軍は『中国大返し』と呼ばれ、歴史に残る『奇跡的な疾さ』として現代も称賛されています。
この中国大返し。ちょっと詳しく見てみましょう。
この行軍が成功した理由として、秀吉自身は『成り行き任せ』と答えているようです。けれどこれはそんな行き当たりばったりの施策では到底なし得ない偉業だったのですね。
当時は整備された大きな街道などというものは都のような限られた場所にしかありませんでした。よく聞く『山陽道』や『東海道』なども本格的に広げられたのは江戸時代以降です。つまり山や谷、また大きく迂回した道を、二万から三万もいたとされる秀吉軍が一週間あまりで大阪まで上ることなど、よほどの準備をしておかなければ無理な話だったのです。実際、秀吉は、こんな混乱した状況にありながら、軍隊より先に先導隊を出し、草取りや橋制作などの仕事を昼夜を問わずやらせて道を整えたと言われます。非常識なほど手際がいいですよね。
そしてまた、秀吉が帰還途中にしたのはそれだけではありませんでした。信長の死を知った配下の武将たちが浮き足立って寝返るのを防ぐために「信長公は生きておる。近江まで無事に逃げおおせたぞ」と嘘の流言を広め、味方の勢力が光秀に流出するのを留めたのです。だから光秀には二〇〇〇(一説によると四〇〇〇)程度の加勢しか集まりませんでした。一方で『お館様を襲撃した光秀を討つぞ!』という名目を掲げた秀吉には一万以上の兵が加担したんです。
ここまででも秀吉の計画性の異常な優秀さは感じ取っていただけたことだと思います。
でも実は、秀吉の行動において一番に疑問を呈するのは、中国大返しを行う前、清水宗治の居城『高松城』攻略の手順なのです。
四月一五日、三万の軍勢で高松城を包囲した秀吉は、けれど堅牢なその城を攻めあぐねていました。ぐずぐずしていては宗治と協力関係にある毛利氏が加勢に来てしまう。そのため焦った秀吉は信長に援軍を依頼します。けれど武田氏の殲滅を達成したばかりの信長は兵を休ませる必要があったため、秀吉に「自分でなんとかしろ!」と叱咤したのですね。困り果てた秀吉は、のちに名参謀と評される黒田孝高(黒田官兵衛)に相談して『水攻め』というやり方で高松城を落とします。
ここでちょっとトリビア。
秀吉の行ったこの『水攻め』というのは、人為的に洪水を起こして城を浸水させる戦法です。具体的には、低地にある城に対し、周囲を流れる河川の水を落とし込んで水没させてしまうのね。高松城は窪地に土を盛って建てたような構造だったので、周囲は大きな堀のような状態だったわけです。そこに、わざと堤防を作って堰き止めた足守川の水を一気に決壊させたのでした。
黒田官兵衛の名を一躍世間に知らしめたこの奇策、でも実は二番煎じだったってご存知ですか?
前述した信長による武田氏の殲滅作戦。これは諏訪湖の真ん中にある高島城を攻略するというものでした。周囲を湖に囲まれたこの城に大軍勢を近づけるには船で進むしかありません。でも不安定な水上の戦いでは城からの迎撃に耐えられない。そこで信長は諏訪湖の取排水口を堰き止めて水位を増し、城を沈めてしまおうとしたんです。結果的には城は生き残りましたが、周囲の村落は無惨なことに水没しました。そのときの様子は『諏訪中が水びたしになり、村の家屋は流され、動物も人間も我先に争って生きようともがいていた。まさに地獄のごとし』と伝えられています。この有様を見た高島城城主の諏訪氏(だと思われる。確実な資料なし)は、もはや勝ち目はないと悟ったのでしょう、自ら城を明け渡し、降参の意を示したのでした。
信長の行ったこの作戦、私自身は信長の冷酷さを非難する感情を持つのですが、それはさておいて、戦略としてはかなり優秀なものがありました。それなのに、この『諏訪侵略』は現代の歴史の中でほとんど知られていないのです。それは有名な史料に記録が残されていないから。詳細が残るのは郷土史の『小平物語』のみだと言われます。なぜ信長の生涯を綴った『信長公記』はこの功績を書き残さなかったのでしょうか。信長公記の著者は『太田牛一』という人物です。この人は秀吉の家臣でした……。
では脱線を戻して。
信長の援軍なしに自力で宗治の降伏を誘った秀吉。それを見た毛利氏は秀吉に和議を申し入れます。毛利氏を完全に討伐する難しさを痛感していた秀吉としては願ったりな展開……だったはず。
それなのに秀吉は『城主の宗治の切腹を望む』という無茶な要求を出して和議をのらくらとかわしたのです。これ、どこがそんなに無茶なのかというと、意外かもしれませんが、日本にはそれまで『切腹』という作法がなかったのですね(一部には認知されていました)。むしろ腹を切るなどということは野蛮でみっともないことだという意識すらあったのです。つまり、秀吉はありえない自刃の方法を宗治に強いたことになります。
これは当然、落ちかけた高松城において『城主を守らなければ』という臣下の意気を高める結果となってしまいました。五月二一日にはすでに終焉が見えていた高松城攻略は、それからずるずると時間を重ね……。
結果的に、信長に援軍を用意させ、信長を本能寺に行かせる羽目になったのです。
秀吉が信長に援軍を募った流れはごく自然なものでした。毛利氏配下の清水宗治を攻めている最中に親玉の毛利氏が加勢に来たのです。そりゃあさすがの秀吉だって慌てますよね。だからここに余計な策謀はなかったと私は思います。
でも、援軍を要請した後、秀吉がこう考えたとも思うのです。『もしお館様を守りの強固な京都近郊からこちらに向かわせることができたなら、謀反を起こそうとしている光秀めにとって大きなチャンスになるのではないか』と。
いったんは援軍を断ってきた信長に再度腰を上げさせる方法。それがこの膠着状態を作り出すことだったとしたら、秀吉の『切腹云々』という要求の意味もはっきりわかってくるのです。
そしてそれを証明するように、秀吉は信長が討たれたという報を聞くやいなや、一転して和議に積極的に応じたのでした。
ここで、小さな要素ですが、このミステリーを裏づける証拠を二つほど提示したいと思います。
一つには、光秀が本能寺の変を成功させた後に、すぐさま毛利氏に使者を送っていること。これは信長討伐の一報をまず毛利氏に伝えようとしたためです。でも光秀にとって毛利氏は、その時点では『敵』ですよね? もし事前に根回しがなかったら、そんな情報、信じてもらえない可能性のほうが高いんじゃないかな。
もう一つは、その光秀の使者を秀吉が途中で捕獲したことです。これにより秀吉は誰よりも早く信長死去の事実を知ることができた……と同時に、毛利氏に貴重な情報を渡さずに済んだというわけです。だけど光秀の使者ってもともと秀吉の仲間ですよね。もし見つかったとしてもどういうふうにも言い逃れができたはず。つまりこれは、光秀の造反の意志をあらかじめ知っていた秀吉が、そのつもりで使者を責め立てた結果だとも言えるわけです。
さらにキリスト教がここに関与していた証拠を挙げておきましょう。
もともと『秀吉が光秀の謀反を前もって知っていた』という仮説を立てるためには『ルイス→大友氏→秀吉』の流れが不可欠なのです。が、あちこちに思わぬ繋がりを持っていた秀吉のこと、もしかしたら現在の私たちの与り知らぬ関係から光秀の計略を知ることもあったかもしれません。だから別の立証も念の為にしておきます。
本能寺の変が成功してすぐ、光秀は周辺諸国からも味方を集めるためにいくつかの勢力にアプローチしました。細川忠興は光秀の娘が嫁いでいた先だったため頼りやすかった。筒井順慶は信長の協力者ではあったけれど腰が定まらずに味方についてくれそうだった。両者とも結局は光秀の敵に回ったのですが、そんな理由から真っ先に声をかけた相手でした。
でも実は、光秀が協力を求めた相手の中には『光秀とは縁故のない』『謀反に対して非常に厳しい態度を示す』人物が含まれていたのです。『高山右近』。摂津(大阪府)を治めていた彼は、本来は裏切り者の光秀が加担を期待できるはずのない武将でした。ではなぜ光秀は右近に力になってもらえると思ったのか。それは右近がキリシタンだったからです。ルイスが自分に協力していると思い込んでいた光秀は、キリシタンは文句なく味方になってくれると信じたのでしょう。
実際には右近は光秀の期待をはねつけました。当然ですね。ルイスからの命令でもあれば右近は光秀のために動いたでしょうが、そんなものはなかったのですから。そして逆に、右近はその後秀吉に快く従軍しています。これは、ルイスと大友氏が『キリスト教にとっての真の救済者は秀吉である』としていることを知っていたからではないでしょうか。
イエズス会を味方にできずにいたために、結果的にほとんどの勢力から見捨てられる羽目になった光秀。彼は本能寺の変より一一日後の六月一三日、落ち武者狩りに出ていた百姓の『中村長兵衛』に粗末な竹槍で突き殺されました。享年五七歳でした。
ただ、ルイスによって人格を『悪である』とされてしまった光秀は、本当にそんなに嫌な人間だったのでしょうか。いえ、それは違います。自分の領地である近江の土地と人民を非常に大切にしたと言われる包容力。戦場で負傷した家臣たちに丁寧なお見舞いの書状を送ったとされる心配り。光秀は、庇護する立場の者に対しては、稀有なほど優しい主君だったのです。
信長や仲間には決して信頼を向けることのなかった光秀の真意は、もしかしたら、荒れた戦国の世を器用に渡り歩くための処世術だったのかもしれません。「俺は、不実と罵られようと、臣民に戦火が降りかかろうことになれば、主の信長すら裏切ってみせる」と。
最後に。
光秀が愛して止まなかったと言われる娘の明智珠は、謀反人の父親が粛清された後、相当に辛い人生を辿りました。嫁ぎ先の細川家では「裏切り者の娘め!」と幽閉されて責め立てられ、周囲からも白い目で見られて、自らの心を閉じていったようです。
けれど、そんな彼女に後年になって救いをもたらしたものがありました。それは深い信仰心です。
キリスト教イエズス会は、自らが創り出してしまった『謀反人明智光秀』の魂を慰めるために、珠に手厚いキリストの教えを施したのでした。
ただ、この救済は必ずしも珠を幸せにはしませんでした。離婚を禁じるキリスト教は『細川の家と決別して自由になりたい』と願った彼女の本心を否定しました。
心を偽ってキリスト教に殉教した珠は、その後、一六〇〇年、『天下分け目と言われた関が原の合戦』の直前、石田三成(関ヶ原の合戦の首謀者)と細川家との諍いに巻き込まれて、三九歳という若さで命を落としたのです。
もし珠がキリスト教徒でなかったら、この悲劇はなかったでしょう。
現在、珠の名は、『命を賭してキリストの教えに殉じた女性』として、世界中のキリスト教徒から愛されています。
そしてまた彼女は、『戦乱の世に翻弄されながら気高く生きた女性』として、多くの日本人からも慕われています。
謀反人として謗られ続けた父、光秀の人柄を受け継いたはずの珠の名前は、後世の人々の間で『聖人』として崇められているのです。
悲運の中を力強く生き抜いた娘、細川ガラシャ、と。
さて。
あなたはこの推察、信じますか? 信じませんか?
ここまでお付き合いくださってありがとうございました。
なお、本能寺の変においての信長の遺体は未だに見つかっておりません。そのために、光秀のみならず、信長の遺志を引き継いだはずの秀吉も、その後、安寧な状態になるまでには長い月日を要しました。
誰かが遺体を隠したという説も根強い中、私自身は火事で燃え尽きてしまったのだと考えています。
ただ、もしかしたらこれは信長の執念の結果なのかな、とも、オカルト的なことをふと思ってしまったりもします。
『光秀にしても秀吉にしても、俺は裏切り者は絶対に許さないぞ』
ってね。
よかったらまた足をお運びください。
できる限り極上のミステリーをご用意しておきます。