光秀が『天』と仰いだものは何?
『天誅=神などの超越存在が悪行を行った人間に対して罰を下すこと』。
飛鳥時代、日本は天皇を『神と同等である』存在として位置づけました。だから日本において『天』とは、長い間『天皇』を指していたのです。でも本来の『天』とは『人間を超えた存在』のこと。『天誅』とは『神罰』のことなのです。
明智光秀が主君の信長を討ったときに発した『天誅』という言葉。これは『神が悪行を重ねる信長に罰を科した』という意味ではなかったでしょうか。
では光秀の言う『主君よりも優先すべき神』とは一体何だったのか。
光秀に本能寺の変を起こさせた黒幕、『神』。信長に影のように寄り添い、謀略を助けてきた『宗教』。
キリスト教イエズス会は日本を『布教』によって掌握しようとする巨大な集団でした。その彼らが『自分たちの勢力を拡大する窓口』として見ていた信長は、でもキリスト教を信じなかった。徐々に開いていく神道派の信長とイエズス会の溝。
もし信長が天下を完全に手中にしてしまったら、イエズス会は日本において存続できたでしょうか。後の秀吉や家康のように、弾圧する未来が見えたりはしなかったでしょうか。
イエズス会は、そろそろ信長に死んでもらいたかったのではないでしょうか。
さて。こう書くとまるで『光秀がキリスト教に改宗してイエズス会の手先として動いた』との印象を与えるのですが、この本能寺ミステリーにそんな無理矢理な結末は当てはめません。光秀がキリスト教徒だったという証拠がないからです。
ではなぜこんな書き方をしたかというと、光秀にとってキリスト教イエズス会とは『主君を殺してまでも取り入っておかなければならない組織』だったと言いたかったわけなのです。
前置きはこのへんにして、そろそろ、前章でお約束した『光秀と秀吉の関係』と『「天誅」の本当の意味』、そして『信長が最後に発した「是非に及ばず(俺が討たれるのは仕方のないことだ)」の真意』を語りつつ、本能寺の変が起こった真実を突き止めていきたいと思います。
明智光秀の性格は、前章でも書いたのですが、ルイス・フロイスの書簡によって『嘘が多く油断がならない』とされています。例えば、光秀は自分を誠実な人間に見せるために嘘泣きまで用いて演技をした、というのです。もっともそういう光秀の本質をルイスが見破っているところから、詰めの甘いところがあったことも否めません。そして信長はそういう光秀の性質を疎んじている向きが見られました。
光秀は信長に仕える前は将軍足利家に務めていました。ちょっとこの辺りの史料は混沌としているのですが、信長が光秀のことをなんだかんだ言いながら重用していたことからも、かなり高い身分から信長の家臣に下ったことは間違いないでしょう。
なぜ光秀は将軍家という安泰の地位にいた足利家から離反し、当時は様々な勢力から包囲されていた信長に仕えることにしたのでしょう。それは『光秀が勢いのあった信長の下で自らの立身出世も狙った』からではないでしょうか。性格には難がありながら戦上手だったとされる光秀には、足利家の停滞した空気は物足りなかったでしょうから。
『狡猾』『不誠実』とされる光秀が、では信長に対して忠誠を誓えたのかどうか。これは『否』と思います。下克上の戦国時代では家臣が主君を討っても当たり前。光秀が仕官当初から信長への『謀反』を燻らせていても不思議はないのです。ただ信長は用心深い。家臣に対して信頼を置きません。だから、なかなか機会が訪れないまま、信長が天下人の一歩手前に至る時期まで手をこまねいてしまったのです。
大勢力となった織田信長とその家臣たち。光秀が後釜を狙うには、もはや巨大すぎる存在となってしまったわけなんです。本来ならこのまま信長の下に付き従って『天下人の重臣』の地位に甘んじるべきであった光秀に。
ある時期から彼の進退すら脅かす『敵』が現れたのです。
信長の命令に忠実に従って様々な功績を上げてきた光秀。ところが同じ家臣の中に光秀の手柄を『上塗り』する人物が台頭してきたのです。それが羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉でした。
前章で信長の『長宗我部元親』に対する攻略について触れました。まず光秀が派遣されて『懐柔策』を遂行した元親に、その後『信長の方針転換』によって『秀吉が討伐軍を出した』というものです。これは光秀から見ると、
「お館様(信長)は俺を蔑ろにして秀吉に手柄を横取りさせる気か!」
と不信感を持つに充分の出来事だったでしょう。
そしてなおかつ、信長の光秀に対する態度はこの後どんどん冷酷になっていきました。光秀が知恵を絞ってお膳立てをした『徳川家康ねぎらいの宴』や『天皇や貴族に対して信長の威光を示すために行った京都御馬揃え』などの宴席を、まったく過失がなかったにもかかわらず、いちゃもんとも取れる不備を挙げ連ねて責め立てたのです。
だから光秀はなおさら『お館様は俺を捨てて秀吉に鞍替えしようとしている!』と思ってしまったのではないでしょうか。
ではここで、信長がなぜ光秀に対してこのような仕打ちをしたのか、を考えてみようと思います。
戦国武将であった信長は、当然、家臣が裏切ることもあるという事例を知っていた。そのために普段から『俺は謀反は絶対に許さないぞ』という態度を取ってきたのですが、それも、自らの力が肥大し、家臣たちも相応の権力を身につける段階になっては、抑止力が弱くなったことを自覚していた。
「光秀、秀吉、家康あたりはいつ裏切ってもおかしくないな」
と思うほどに。
だから、とりあえず完全服従を誓っている家康は置いておいて、光秀と秀吉の力を抑えることを目論んだのではないでしょうか。それが『光秀と秀吉を対立させる』という構図になったのです。彼らがお互いに監視をしあってくれれば、信長に対する反抗心は非常に持ちにくくなりますから。恐らくですが、信長は最初に比較的安全牌であった秀吉を優先し、その後で秀吉が調子に乗ってきたら、今度は光秀に花を持たせるつもりだったのではないかな。
そうして拮抗を保つはずだった二人の重臣は、けれど光秀の堪忍袋の緒が信長の想像以上に短かったことによって瓦解します。
それが、信長が本能寺にて放った「是非に及ばす」という言葉に集約されているのです。この短い言葉の真意は、
「あーあ、光秀は俺の本意を汲み取ることはできなかったかあ。でもまあしゃあないかな。俺も戦国の将としていろんな裏切りをしてきたからなあ」
だったような気がするのですね。
では光秀の謀反は単に『キレたから』が理由でしょうか?
ずっとお伝えし続けていることなのですが、光秀から見て信長は『裏切ると怖い』存在でした。これは信長自身に対しても言えますし、彼を取り巻く家臣団にも配慮を怠ることができません。
計算高いと評された光秀。その彼が勝利に対して何の準備もせずに本能寺に突撃することはありえないでしょう。つまり光秀には『謀反を起こしても俺は生き残れる』という確証があったはずです。
それは何か、というと。
いまもって信長に屈していない勢力を味方につけたこと、だったのではないでしょうか。
ここで当時の日本の勢力図を見てみましょう。戦国時代の列強国だった武田信玄の甲斐(山梨県)、上杉謙信の越後(新潟県)、今川義元の領地だった駿河(静岡県)はすべて信長の勢力に駆逐されつつありました。つまり東側に味方を求めることは不可能に近かったんですね。
そして光秀の本拠地である近江(滋賀県)や丹波(京都)の周辺も当てにはなりませんでした。一番の協力者でありえた足利氏は事実上無力になっていたし、現在の兵庫県あたりまではすでに信長の支配下にあったからです。
では光秀はどこに目をつけたのか。
それが、まさに秀吉が討伐を任されていた中国四国地方以西の武家たちだったのです。
では再度、今度は中国、四国、九州の勢力図を見てみましょう。
『人誑し』と揶揄されるほど、敵方の武将の心までつかむことができたと言われる豊臣秀吉。その彼が本能寺の変当時に対決していた勢力は『毛利氏』でした。これは中国地方すべてを統治するほどの大勢力です。織田信長には負けますが、それでも『充分に天下を狙える』とまで評価された氏族でした。
ここでちょっと毛利氏と秀吉の対決についての補足を。信長から中国や四国を平定しろと命令された秀吉は、当時の毛利氏当主の毛利輝元への進撃を開始します。というのも、輝元はなんと信長が京都から追い出した足利義昭を匿っていたのです。将軍家の権力を未だに保持していた義昭と天下の覇者足りえる輝元との癒着。これは信長にとっては非常にまずい事態ですね。だから信長は早々に毛利氏を潰しておきたかったのです。
というわけで、重い期待を背負って中国討伐に向かった秀吉は、でも信長の想像以上の働きを見せました。毛利氏の家臣に働きかけて造反(裏切り)を繰り返させ(この能力が『人誑し=相手をたぶらかして自分の仲間にしてしまうこと』の所以です)、また得意の『城落とし』の能力を使って、毛利氏の主要な城を次々と落としていきます。
ところがさすがにしぶとい毛利氏は徹底抗戦をしてきました。しかも秀吉に科せられた任務には四国の長宗我部氏の討伐も含まれます。と言っても、これは中国四国地方の勢力関係から自然に派生した流れ。つまり毛利氏を殲滅するためには避けて通れない道だったのですね。そのため、信長は秀吉に長宗我部氏討伐の援軍を用意しました。織田四天王の一人と称された丹羽長秀を副将につけ、一四〇〇〇の軍勢を送り込もうとしたのです。
援軍が出立する予定日は一五八二年六月二日。
本能寺の変が起きたのは、そのわずか数時間前でした。
光秀は、秀吉が長宗我部氏を討つ最大のチャンスを潰したのです。
ここで光秀側から状況を見てみましょう。
秀吉によって順調に毛利氏の勢力が抑えこまれていった当時。長宗我部氏は、実は毛利氏とは反目し合った敵同士だったのですが、同じ『秀吉』という敵を抱える同胞でもあったわけですね。
そして長宗我部氏とは過去に縁のあった光秀。もし秀吉の勢力を削いでおきたいと光秀が願ったなら、長宗我部氏に働きかけて「毛利氏と和睦して秀吉を殺してほしい」と伝えるのではないでしょうか。その際に『信長の重臣である自分が実は秀吉の失脚を狙っている』と長宗我部氏や毛利氏に知られることは、もちろんリスクもありますが、メリットも大きいのです。つまり「信長に内側から反旗を翻す俺という勢力があるぞ。だから毛利公も長宗我部公も信長を恐れることなくガンガン戦って、ともに勝利しようではないか」と知らしめることになるからです。
ところが秀吉は援軍を募ってまで長宗我部氏を滅ぼそうとした。これは光秀にとって大変困った事態でした。秀吉を討伐する夢が潰えるばかりでなく、信長は光秀にも「秀吉を助けて長宗我部氏を討て」と命じていたからです。主君の手前、協力を願った長宗我部氏に自ら手を下さなければならなくなった光秀。その彼を見た長宗我部氏はどう思うでしょう。激怒して、信長に『光秀の反意』を漏らしてしまったりはしないでしょうか。
だから光秀はどうしても援軍の出立を阻止しなければならなかった。焦り、絶望的になる中で見出した『唯一の活路』。
それが『謀反を起こして信長を消し、混乱に乗じていっときの天下を取り、のちに攻め込んでくるであろう信長の家臣たちを追い払う勢力を整えること』だったのです。
では本能寺の変を起こした後の光秀の画策したシナリオはどんなものだったのでしょうか。
これがいままでにずっと強調してきた『イエズス会』絡みの説になります。
長宗我部氏に働きかけて毛利氏との共闘を画策した光秀。ところが長宗我部元親という人物は少々頑固なところがあるのですね。自分が不利になろうと気に食わない策には乗らない、という一面を持っているのです。
その元親の性質が自分の野望の妨げになると懸念した光秀は、毛利氏に別の角度からアプローチする勢力を探します。それが北九州の大友氏でした。毛利氏とはずっといがみ合ってきた勢力であり、また信長とは友好的な関係を築いていた氏族です。
なぜそんな厄介な関係にある大友氏の名前がここで出たのか?
秀吉の侵攻により重臣の多くを離反させていた毛利輝元には、実はこのとき、敗戦の色が濃く現れていたのですね。けれど意志としてはまだ秀吉に屈するわけにはいかない。だったら輝元は周辺諸国に協力を求めるしかないわけです。当時の彼の勢力である中国地方に隣接していた場所は、長宗我部氏の四国、と、大友宗麟支配下の北九州、でした。ここと結託すれば、秀吉を退けるどころか、信長勢力を転覆させることも可能だったのです。
これはまた逆のアプローチをして毛利氏を脅す手段にもなりえました。もし長宗我部氏と大友氏が、毛利氏弱体のこの機会に手を組んで毛利氏を潰そうとしたら、前門に秀吉、後門に長宗我部&大友連合が立ちはだかることになるのです。それは毛利氏の滅亡を意味するものでした。だから、毛利輝元としては、長宗我部氏と大友氏にどうしても迎合しなくてはならない図式になってしまうのでした。
では光秀は、この壮大な計略を実行するためには欠かせない『大友氏』にどうやって近づいたのでしょうか。
大友氏はフランシスコザビエルの来日当時からキリスト教を庇護した戦国大名でした。当然ルイス・フロイスとも面識はあったでしょう。
信長の元にたびたび顔を出していたルイスは、彼の著書に明智光秀の性格まで掲載しているところから、もちろん光秀とは見知った仲でした。
そう。光秀はルイスに仲介役を頼んだのです。
ここでルイスの視点に移ります。
キリスト教布教のために信長と結託していたルイス。けれど信長はルイスの期待どおりには動いてくれませんでした。寺院の建設等もしてくれないし、キリスト教のための法令も整備してくれない。ルイスの心はだんだんと信長から離れていったことと思います。
宣教師であったルイスが信長に対して一番不満に思ったことは何だったのでしょう。私はこれを『信長がキリスト教に改宗しないこと』だと思っています。現代でも言えることですが、宗教団体という組織は『信徒』をエネルギーにします。『思想』というあやふやな商品を扱う彼らは、まず『思想を受け入れる土壌』を作らなくてはならないからです。だから『布教には協力するけど信仰はしないよ』という姿勢を貫く信長は、ルイスにとっては扱いにくい相手だったと考えるんですね。
信長の天下取りが目前になったとき、ルイスは大きな不安に苛まれるようになったのではないでしょうか。「このまま信長公の下に従っても布教はままならないのではないか。もっと本心から主を信奉する人物に乗り換えたほうがいいのではないか」と。
そんな折、光秀がルイスに近づきました。光秀はこんな甘言を弄します。
「貴殿の真摯なる協力者である大友氏を天下人にする策があるのだが、乗るか?」
大友氏の当主である大友宗麟は、周囲の反対を押し切ってキリスト教に改宗した人物でした。ルイスにとってはまさに『理想的な主人』だったわけなのです。
このとき、もしルイスが、
「いいえ。信長公を裏切ることなんかできません」
と断っていたとしたら、光秀は謀反を諦めたでしょう。けれど実際には、光秀は『天が自分を後押しして信長を誅せ(殺せ)と言っている』と思い込んだ。これはルイスが光秀の策に乗った根拠と言えるのではないでしょうか。
ではルイスは光秀に協力して大友氏を説得したのでしょうか? もしそうだとしたら、大友氏はなぜ毛利氏や長宗我部氏とコンタクトを取らなかったのでしょうか?
ルイスは光秀のことを『裏切りや密会を好む』人物だ、と言い切っています。つまり光秀のことを信用してはいなかった。大友氏を協力させて信長を討つという話は信じたでしょうが、その後に大友氏を擁立してキリスト教を庇護する天下を作るという話には胡散臭いものを感じたのではないかな。
本当はこの章で本能寺の変のミステリーを終えたかったのですが……大変すみません、想像以上にボリュームが出てしまったために、もう少し引っ張って丁寧に説明していきたい欲が出ています。
次章では光秀の愚策を伝えられた後のルイスの行動を探りつつ、今度こそラストに向けて『この答え』を導きたいと思います。
『本能寺の変の黒幕は、策略家豊臣秀吉、である』、と。