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逸脱! 歴史ミステリー!  作者: 小春日和
織田信長を暗殺した黒幕は?
13/24

巷で広まっている本能寺ミステリーは正しいの?

 では前回の説の詳細説明とも言える展開をして行こうと思います。が、内容的には前章とほとんど変わりません。ですので「あとで読もう」等、今章を読み飛ばしていただいても問題はないですよ。


 今章はタイトルからして随分と挑発的なものになってしまいました。すみません。『巷で広まっている本能寺ミステリーは正しいの?』という検証ですが、実際には答えの出ない推論なので、その説を推している方々が間違っているという結論には至りません。

 なぜこんな切り口にしたのかというと、ここ数回、同じような推論を繰り返してしまっているので、そろそろ、

「いつも同じことを言ってるけど、それって作者の思い込みだよね?」

というご意見が出ると思うのです。だからあえて別の解釈を解析することによって、

「こういう推理もできるけど、私としては……」

という反証からの視点も書いてみたくなったのですね。

 既存の意見に反論するのもミステリーの醍醐味。できるだけ柔らかい&冷静な態度を心がけますので、ご気分を損ねずに読んでくだされば幸いです。


 では本題へ。


 既存の推察のケース、その一。本能寺の変は明智光秀の単独行為である。

 このケースを支持するパターンの多くは、光秀の動機について、

「明智光秀は織田信長に著しくプライドを傷つけられていた。そのため我慢の限界が来たのだ」

と論じます。では具体的に光秀は信長にどのような目に遭っていたのでしょうか。

 兵庫にある八上城という城を落とせと信長に命じられた光秀。八上城には、そのころはまだ強敵であった毛利氏(のちに秀吉が征服)の支援を受けた波多野氏が籠っていました。光秀はこの厄介な勢力だった波多野氏に「自分の母親を人質に差し出すから降伏して城を明け渡せ」と交渉します。つまり『波多野氏が降伏しても命までは取らないよ』という証拠として自らの母を交換条件にしたのですね。ところが信長はこの光秀の計略に怒って波多野氏を殺してしまいました。当然、八上城に預けた光秀の母も報復に処刑された。だから信長のこの所業に、光秀は深い恨みを抱いたはずです。

 さらによく事例として挙げられるのは、光秀の所領を信長が取り上げようとしたという話です。当時、豊臣秀吉は中国・四国地方の平定に苦労していました。そのため信長は光秀に協力するように命じます。ところがその席で信長はとんでもない条件を提示したのです。それは『平定した中国四国の領地はそのまま与えるが、いまお前が持っている近江(滋賀県)・丹波(京都府)の土地は俺がもらうぞ』というもの。ずっとホームグラウンドとして善政に腐心してきた所領を持っていかれ、敵対勢力のまっただ中の中国地方をくれると言われても、喜ぶ人間はいないですよね。これも光秀を怒らせる原因としては充分なものだと思われます。

 ただ。

 信長という主君は、往々にしてこういう無茶を家臣に強いる傾向があったんです。前々から話しているように、徳川家康も信長の気分で妻子を自害に追い込まれています。また信長公記(信長の伝記みたいなもの)に書かれた『竹生島参詣』の項には、信長の留守中に浮かれて外出した女房たちの行為に怒って皆殺し(解釈については諸説あり)にしてしまった、とあります。つまり、自分の命令をどれだけ聞くかで家臣の忠誠心を図るようなところがあったのね、信長は。

 ずっと側近として信長のその性質に触れてきた光秀が、自分に嫌がらせの矛先が向いたという理由で謀反まで起こすだろうか。私はそこに若干の引っかかりを覚えるのです。


 ケース、その二。天皇家による命令。

 私自身は前章で完全否定してしまったこの説。ではなぜこんな推論が巷に流れたのかというと、一つには、天皇家の側近の中にそれを妄想させるキーマンがいたのです。それは『近衛前久このえさきひさ』という貴族でした。前久は本能寺の変が起こったとき『自分の屋敷に明智光秀の軍を逗留させた』とか『慌てて京都から逃げ出した』等の噂のあった人なんですね。

 ではこの噂に信憑性はあるんでしょうか。また前久のこの行動が事実だとすれば、どういう思惑があったのでしょうか。

 前久の屋敷から光秀の軍が出兵した、との噂は、現代では『嘘』と認識されています。近衛家は代々天皇家のそばで執務を行ってきた名門。それを疎ましく思う勢力もあったのでしょう。それに前久自身は貴族らしからぬ行動的な人物だったと言われます。歴史上の天皇、貴族の隆盛衰退を見ると、傀儡の立場に収まらなかった人物は過たず盛大に叩かれていますから。

 では、本能寺の変の直後にタイミングよく京都から姿を消したのは本当か、というと、こちらは事実です。ただ理由は、謀略を示唆するようなものではなく、もっと単純でした。明智光秀に協力したと囁かれてしまった前久は、信長の息子や秀吉から吊し上げを食ったのです。身の危険を感じた前久は家康にSOSを出し、家康の指示で静岡県に移ったのでした。

 天皇家による暗殺説には、他にも二つほど小さな要因があります。これを『説得力がある』と見るかどうかはみなさんにお任せしますね。

 前久の行動説に続いて第二の説は、明智光秀が信長を襲ったときに「これは天誅である」と宣言したことです。『天誅』とは『天のような高次の存在が討てと命令した』という意味。つまり『天皇が信長討伐を命じたのだ』と解釈されているのです。『天=天皇』とするのは当時では普通の思想でした。ただ、果たして光秀もそう思ってこの言葉を放ったのかはわかりません。

 最後の三番目の説は、天皇の息子の『誠仁親王さねひとしんのう』が黒幕であるというものです。これは親王の義弟の日記にそう書かれていたから。この義弟『勧修寺晴豊かんじゅじはるとよ』は武家伝奏ぶけてんそうっていう職務に就いていた人です。武家伝奏とは武士の意見を天皇に伝える仕事。その、どっちかというと武家寄りの立場の人に「親王(天皇家)が信長を暗殺したんだよ」と誰かが伝えるのは、あり、な感覚なのかしら。


 ケース、その三。他の武将と共謀した。

 この説を推す場合、誰と共謀したかによって信用度が変わってきます。まず個人的にはありえないだろうと考えている徳川家康との関係について見てみますね。

 家康と光秀が不仲だったという話は前回に書きました。というか、ルイス・フロイスの書簡によると、光秀という人物は仲間とうまく強調できない性格の武将であったようです。『考えが深く抜け目がない』『すぐに奸計を図る』『よく裏切りをする』、これらがその評価の一端です。

 ではもし光秀と家康が、仮に『自らが天下を取るために共謀して主君を斃す』という選択をした場合、この二人の間にあった感情は何でしょう。それは『警戒』だと思います。光秀は実行犯の役を担う代償として家康に後のフォローを求めたでしょう。逆に家康は光秀を矢面に立たせることによって光秀においしいところを持っていかれる羽目になる。二人で天下を取るためには、お互いがその役割を順守しなければなりませんが、光秀にとっては「本当に家康は後で俺の味方になってくれるのか? あっさり寝返るんじゃないか?」との懸念があるでしょうし、家康にとっても「もし謀反が成功して光秀がお館様(信長のこと)の後釜に座れたとしたら、儂など簡単に切り捨てるのではないか?」との疑問を拭えなかったでしょう。この感情の動きからも、私には、光秀と家康の結託は感覚的にしっくり来ないのですね。

 それともう一つ。彼らが協力関係ではなかったという決定的な理由があるのです。それは光秀が本能寺で信長を討ったときの家康の行動でした。一五八二年六月二日、本能寺の変勃発当時、家康は大阪辺りを遊興していました。そして信長が殺されたという報を聞いたとたんに、光秀の軍が今度は自分を襲うのではないかとパニックを起こし、なんと家康は自ら京都の知恩院にて自害するとまで言い出したのです。付き従っていた家臣団が慌てて止めたので事なきを得たのですが、家康の狼狽ぶりは相当なものだったと伝えられます。もしかしたらこれらは演技だったのかもしれないけれど、だとすれば家康は、その時点ではまだ信長を倒して勢いづいていた光秀に対して「儂はこんな謀反は知らなかったことにする。だから光秀への協力もしないかもしれない」と言っているようなものですよね。こんなに早くはっきりと『裏切り』の意志を示すことは、家康にとってはメリットにならないはず。だって、もし仮に光秀が後年に天下を取っちゃったら、そんな家康は真っ先に排除されてしまうんですから。だから私は『家康は本当に光秀の計略を知らなかった』と結論づけるのです。


 では他の人物なら可能性は残るのか。

 前回の候補の中で『信長の死を一番望んだであろう人間は、唯一、敵対していた長曾我部氏である』と書きました。ではその長曾我部氏が光秀と密約をして本能寺の変を起こすことはありえるのか。

 ほとんど知られていない説なので意外かもしれませんが、光秀と長宗我部氏には繋がりがありました。信長は秀吉に中国・四国地方に攻め入るように命令する前に、実は光秀に『懐柔策』を取らせていたのです。当時の長宗我部氏の当主は長宗我部元親(もとちか)。軟弱な性格だったとも言われる人ですが、四国全土の征服を企んだ等、血気盛んな一面があったことも確かな武将です。光秀は彼に斎藤道三(信長の正室のお濃の方の父親)の縁戚筋に当たる女性を嫁がせて友好関係を築いていました。

 ちなみにこの元親の正室となった女性。名前はわかりませんが、姪っ子はあの有名な春日局かすがのつぼね(徳川三代将軍の家光の乳母)です。

 そんなふうに長宗我部氏との和睦を進めていた光秀の手腕は、信長がいきなり方針転換した『秀吉による長宗我部氏の討伐』により、まったく意味のないものにされてしまいました。長宗我部氏のほうもころころと戦略を変える信長に嫌悪感を顕わにしたようです。その感情が結びつきとなって二人の共闘を誘った。これは非常に自然な流れだと思われます。

 さらに光秀には長宗我部氏と繋がるメリットがありました。信長に対して謀反を起こした後、反逆者の光秀の元には信長の家臣団が攻め込んできます。それを食い止めてくれる大勢力を長宗我部元親は持っていたのです。

 これなら長宗我部氏が本能寺の変の黒幕と断定できるのではないか!

 ……ところが、この説には決定的な落ち度があるのです。元親は、光秀が信長を討った後、光秀に一切援軍を出していないのです。「単に元親が裏切ったんじゃないの?」と言われるかもしれませんが、それならば追いつめられた後の光秀は共謀していた元親の名前を出したはず。その痕跡すらないのですね。


 これで『光秀の単独行動』『天皇家による命令』『徳川家康との共謀』『長宗我部元親の後ろ盾』のすべての案が否定されました。

 ところでまだ一人いますよね。巷で黒幕の正体とされる人物が。

 豊臣秀吉。前章ではいったん候補から外したのですが、実はある条件を加えれば、彼ほど光秀を動かすのに適任者はいないのです。

 次回、これで本能寺の変のミステリーを最後にできることを祈って、策略家豊臣秀吉と光秀の『誰にでも納得できる』関係を解いていこうと思います。


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