明智光秀が信長を屠る理由は?
武田信玄という強敵を排除できた信長は、その後、ある意味順調に、言い換えれば独善的な出世を遂げていきました。
前章で『信玄に信長討伐の命令を出した』と書いた将軍の足利義昭、彼は信玄に呼応する形で自らも信長に対して挙兵します。けれど義昭に勝機を見いだせなかった家臣たちは次々に信長に寝返りました。そのため、義昭は将軍でありながらあっさりと敗北を迎え、なんと幕府の本拠地である京都から追放されてしまったのです。これにより、将軍のいなくなった室町幕府は事実上の終焉を迎えたのでした。
幕府という、武士にとって最大の拘束力を排除することに成功した信長。彼にはそれからも『天皇家の後押し』という追い風が吹きます。天皇にとってみれば、ずっと自分を支えてくれていた幕府がなくなったことで、丸裸にされた不安感も大きかったのでしょう。足利義昭の存在が消し飛んだと確信すると同時に、すぐに信長に利権を鞍替えしたのでした。
天皇という日本で一番の権力者を味方に得た信長は、未だ懸念の末端を担っていた浅井・朝倉を完全に打ち滅ぼし、信玄亡き後の武田氏を壊滅に追い込みました。それからしつこい攻防を繰り返していた本願寺を打ち破り、そしてついには天皇から、
「(武士としての最大級の冠である)『太政大臣』『摂政・関白』『征夷大将軍』のいずれでも好きなものを与える」
との確約まで取りつけたのです。
まさに信長は天下を治める直前まで行ったのでした。
ところがこのタイミングであの本能寺の変が起きてしまったのです。
ここでちょっと補足を。信長が任官されかけていた『太政大臣』『摂政・関白』『征夷大将軍』とは一体どんな役職だったのか。
太政大臣というのは、日本に法律ができた飛鳥時代(六世紀後半から八世紀初頭)から存在したと言われる、かなり歴史のある役職です。拝命した中での有名人といえば平清盛あたりかな。あ、死後になりますが藤原不比等も賜っています。内容は……何でも屋? 特に固定された仕事ではなく『天皇の次に偉い人』のような褒章的な意味合いが強かったみたいです。
次に摂政・関白ですが、これは政治を執り行うシステムの長ですね。いまで言えば総理大臣でしょうか。とはいえ、現代のように国民の顔色を窺いながら施政するような弱い立場ではありません。天皇という最大権力を後ろ盾に持った、ある意味独裁者とも言える強大さを呈していました。戦国時代でこの役職を任官されたのは豊臣秀吉。よく秀吉のことを『太閤』と呼びますが、太閤は摂政・関白を退任した人の敬称です。秀吉自身がこの名称を好んで周辺に使わせていたために『秀吉=太閤殿下』のイメージが広まったのでしょう。
最後の征夷大将軍は軍事を司る長ですね。いわゆる『将軍さま』はこの役職のことを指します。軍事担当なので武士がよく任官されました。鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏、南北朝の戦いを収束させた足利義満、そして江戸幕府を開いた徳川家康とその子孫たち。武将ゲームで言えばSレア以上のそうそうたる顔ぶれが並んでいます。
この三役を自ら選べるほど時代の寵児となった信長。しかも、これに勢いづいたのか、信長はこの後二ヶ月ほどで中国地方の毛利氏、越後の上杉氏(このころには謙信は没していました)の二大巨頭をガンガンと攻めて平定(厳密に言えば途中で起きた本能寺の変でうやむやになってしまったんですが。でも結果的には二勢力は屈しています)しました。本能寺の変が起こった一五八二年六月二日の時点で明らかに敵対していた大勢力は四国を統治していた長宗我部氏のみとなっていたのですね。だから、信長にとっての本能寺の変は、長い戦国時代の末にやっと『名誉』と『安泰』を迎えた瞬間に起こってしまった無念の事件だったわけなのです。
ではこの本能寺の変はなぜ起こったのでしょうか。
当時の世間では『信長に反抗するのは愚かしい』という風潮ができあがっていました。それはそうです。信長を敵にすることは、天皇や、『城落としの天才』と謳われた豊臣秀吉や、不気味に暗躍する徳川家康にも仇を成すことになるのですから。しかも信長はすでにイケイケの好戦状態からは脱していました。終の棲家とする安土城に籠り、天皇家を始めとする貴族とも折り合いをつけるために『京都御馬揃え』なんてド派手なイベントも行っています。これは貴族たちに対して『これからは平和路線で戦国の世で壊れたものの修復をしていくよ』という意味があったと言われます。
そんな信長に対して暗殺を目論まなければならなかった相手とは……。
動機の面から言うと、最後の敵になった長宗我部氏が一番有力な候補でしょう。信長が死んでメリットしか受けない立場は彼だけですから。
ただ、現代の私たちには推測すらできない関係がこのころにあったと仮定するなら、動機だけで相手を論じるのは危険です。もしかしたら正室の濃姫が子どもができないことを恨んで殺したのかもしれないしね。まあこの説は実際にはないでしょうが。
だから二つ目は『可能性』で考えてみましょう。信長がいなくなってくれて結果的に得をするのは誰か。そんなに強い理由があるわけでもないけれど、あわよくばという視点から信長排除の動きに陰で協力するぐらいならやりかねない人物。
これは多いです。実行犯の明智光秀も常日頃から信長に虐められて鬱積を溜めていましたし、同じ理由で徳川家康も少なからず恨みがありました。比較的可愛がられたと言われている秀吉も『サル扱い』には内心で頭に来ていたでしょう。しかもこれらの家臣団は信長がいなくなってくれれば次代の覇者になれるかもしれないという立ち位置。
他にも「実は天皇家では?」という説もあるのです。というのも、信長のそばにいた宣教師のルイス・フロイスは、信長の性格を著書の中でこう表現しているのです。『彼は日本のすべての王侯を軽蔑した』。つまり信長は、本心では、天皇を始めとした貴族たちのことを馬鹿にしていたのですね。その態度にプライドの高い天皇家が激高した、というシナリオはありえる気がするのです。
それならば誰が本能寺の変を起こしたのかがわからないじゃないの、とみなさんは思われるかもしれません。だから最後の条件を付け加えます。
本能寺の変を起こした実行犯は明智光秀。それならば本能寺の変はこの光秀を動かせる人物による謀略だったはずです。
明智光秀、とは信長の重臣だった人でした。自らも近江(滋賀県)や丹波(京都府)に領地を持っていた、信長の家臣の中ではかなり重要な位置にいた実力者です。この彼を矢面に立たせることができるほどの人間はそうそういない。いるとすれば……。
次の章で具体的に関係性を解いていくことにしますが、今章でもざっと候補者をあげてみますね。
まず天皇家。
京都近辺に領地を持っている光秀は、天皇家や将軍家と太いパイプを持っていました。信長に仕える前の主君は足利氏です。そしてそのころに京都奉行にもなっており、当然京都に住む天皇家とも顔を繋いでいたと思われます。
ただ、光秀は信長の家臣になるときに、足利氏の引き止めを強引に蹴っているのです。そんな光秀が、自ら士官を望んだ信長を討つ理由として、すでに力をなくしている足利氏やそれに関連した天皇家の意向を汲むだろうか? これには『天皇家の黒幕説はないだろう』と断定できるほどの疑問を挟まずにはいられないです。
では同じ家臣の豊臣秀吉や徳川家康と共謀したという可能性はどうでしょう。
実は光秀は彼らとそれほど仲が良くなかったのね。これについては一つずつ実例となるエピソードを付記しておきましょう。
光秀と秀吉の関係は、家臣としての経歴は秀吉のほうが古いのですが、秀吉は百姓の出、一方で光秀は傍流とはいえあの名門の清和源氏(源頼朝や義経の家系)の流れを汲んでいます。つまり光秀にとっての秀吉とは『出自の卑しい目下の者』という意識があったようなのですね。信長が光秀に「中国地方の平定に出ている秀吉をサポートするように」と命じたとき、彼は屈辱に震えたと言われます。また別の出自説では、光秀も秀吉と同じような足軽(百姓)の出身である、との話もあります。だとすればなおさらに『器用に権力者に取り入る秀吉』には強いやっかみがあったのではないかな。とにかく、この二人の関係を語る歴史は、ほぼ例外なく『光秀と秀吉の不仲説』を支持しています。
それなら家康との反目はどんな理由? ということですが、彼らが嫌悪しあった背景については、正直よくわかりません。光秀も家康もどちらかと言えば裏工作を得意とする武将。そんな探り合いが嫌だったのかもしれませんし、近づいて手の内を晒すことに警戒したのかもしれません。けれど光秀が家康を嫌っていたことは確かです。本能寺の変を起こすときに、「主君の信長を討ちに行く」と明言して部下を動揺させたくなかった光秀は、「本能寺には徳川家康がいる。家康の首を取りに行くぞ!」と嘘をついて兵を鼓舞したらしいのです。ということは、光秀の臣下たちは『家康は敵』と認識していたってことですよね。
信長が反逆者に対して非常に苛烈な報復をすることを、側近としてずっと見てきた光秀は、謀反を起こすことに相当に慎重になっていたはずです。けれど彼にはその危険を犯してまで信長に反旗を翻さなければならない理由があった。
次回は、光秀の行動を読み解きつつ、もう少し踏み込んだ解釈をして行きたいと思います。