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逸脱! 歴史ミステリー!  作者: 小春日和
織田信長を暗殺した黒幕は?
11/24

信長は武田信玄の進撃からどう逃れたの?

 キリスト教。フランシスコザビエルが一五四九年に日本にもたらした新興宗教。

 ザビエルが所属していたのは、キリスト教会派の中でも『教皇(キリスト教の高位の指導者)の精鋭部隊』と呼ばれるイエズス会でした。この会派の指導者は元軍人さん。しかもイエズス会は男子の修道会だったようなので、日本で言えば本願寺のような戦うお坊さん集団の一面を持っていたのでしょうね。

 そのイエズス会が日本に上陸した目的は、表向きは『布教活動』です。けれどザビエルは最初に鹿児島に到着したときにこう言い放ったと伝えられます。

「マリア様(キリストの母。キリストと同じく信仰対象)! この国をあなたに捧げます!」

つまり彼の頭の中には、宗教に対して未開の日本という土地にキリスト教を植えつける、という構図があったと思われるんですね。

 けれど日本は宗教的に未開ではありませんでした。一〇〇〇年も前から仏教という教えが根づいていたのです。そのために、ザビエルは最初はことごとく布教に失敗します。ザビエルにとって、仏教とは『おのれの野望を阻止する厄介なライバル』と映ったことでしょう。


 そんな鬱屈を抱えていたイエズス会が、同じく仏教を疎んじていた信長に接触した。これを私は『運命』と言っても過言ではないと思います。

 世界中に勢力を拡大しつつあったイエズス会。日本において天下を取りつつあった織田信長。この二大タッグを退けることは、たとえ、仏教の守護者と言われた武田信玄や、毘沙門天の生まれ変わりだと評された上杉謙信でも難しかったでしょうから。


 それでは仏教は織田、イエズス会の連盟になすすべもなく衰退したのでしょうか。

 いえ。彼らはかなり激しく抵抗しました。前々回にも書いたのですが、『信長による比叡山延暦寺の焼き討ち』は、延暦寺が織田信長と敵対した武将を匿ったからです。それに高野山金剛峯寺でも同じことが起きたと併記しました。つまり仏教は信長への反目を顕わにしていたんです。

 けれどそれらの抵抗を受けても信長の勢いは止まりませんでした。困り果てた延暦寺は甲斐の武田信玄に助けを求めます。

 そして『戦国最強の虎』と謳われた信玄が、それまで友好的であった信長に対して挙兵していくことになるのです。


 信玄が信長を標的にした進軍を始めたのは、信長が延暦寺を襲った一五七一年の翌年の一五七二年の秋。それまでも、表向きは和やかにコミュニケーションを取っていた両者でしたが、信玄が信長の同盟国に闇討ちするなど、陰では緊張状態が続いていたのです。その様子は、信長と信玄が対等に決裂していたというより、信玄が一方的に信長を『話題にはなるが敵ではない』と見下している向きがありました。やはり実力者の信玄から見れば急に台頭してきた信長などは取るに足らない存在に思えたのでしょう。

 信玄が信長に対して反旗を翻した理由には諸説あります。先の延暦寺による要請という説、信長が攻めていた最中の勢力『浅井・朝倉連合』の朝倉氏に頼まれたという説、それから時の将軍『足利義昭(よしあき)』が信長の討伐を命じたという説。ただ、先の二つはそれぞれ一五七一年、一五七〇年に切羽詰まった状況にありました。なのに信玄が腰を上げたのは一年以上経ってからです。足利義昭の討伐命令には『織田とは友好国であり命令には従えない』と断っています。

 もしかしたら信玄は本気で信長を倒す気ではなく、周囲の期待に応えたふりをするために兵を挙げたのかもしれません。その証拠とも言えるのが進軍の『遅さ』です。一五七二年一〇月に甲斐の国(山梨)を出た信玄は、なぜかまっすぐに延暦寺や朝倉氏のいた近江(滋賀)には向かわず、信長の住む尾張(名古屋)を取り巻く城を潰して回っていたのです。そして翌年四月、本懐を遂げることもなく、尾張の隣国の三河で病死という結末を迎えるのでした。


 信玄のこの行動の意味は何なのか?

 武田信玄という武将は一般的に猪突猛進や勇猛果敢と言った積極的なイメージで語られます。というのも、甲斐という険しい山岳に囲まれた国を治めていた信玄は無類の戦上手だったんです。出撃すれば勝つのだから戦をためらうことがない。相手が上杉氏や北条氏のような強敵だろうと迷わず突っ込んでいったんですね。

 けれど歳を経るにつれ、信玄の方針も徐々に対話路線に移行していきます。五度も川中島という土地で衝突した上杉謙信とは決着をつけないまま敵対関係を収束していますし、北条氏とも和睦を結びました。こうして自分の地盤の周辺にいた敵国と同盟関係を結んだ信玄は、もしかしたら戦国時代そのものを終わらせる夢を見たのかもしれません。実際、信玄、上杉謙信、北条氏が手を組めばどんな勢力も敵わないことは明白だからです。

 信玄に信長討伐の要請が入ったのは、そんな情勢が整えられた折でした。そのときの信玄の気持ち……。やっと戦によるいがみ合いから逃れて日本を統一する手立てが見えてきたまさにそのとき、またも信長という火種と対立するきっかけが生じてしまったのです。信長は戦力において信玄を脅かすものではありませんでした。けれど知略においては油断のならない相手。できればまた戦火を拡大するよりも、信長自身に『天下取りの夢を諦めて尾張に篭ってほしい』と願ったのではないでしょうか。


 一五七二年の一〇月に甲斐を発った信玄の軍は、実は最初はそれほど牛歩の態はありませんでした。二ヶ月の間に信長の縁戚の城や同盟国の徳川家康の城を、四つ、かな、落としたし、大きな合戦もこなしています。信長本隊に対する攻撃ではなかったからでしょうか、このあたりの信玄には迷いがありませんね。

 不可思議な行軍をするようになったのは年が明けてからのことです。とうとう織田信長の膝元の愛知県に侵攻した信玄は、途中にあった小さな城『野田城』の攻略に一ヶ月もかけたのです。野田城がなかなか落ちなかった理由を、現在の地元では『守備をした城主の菅沼氏の功績である』と伝えています。でも本当に菅沼氏が籠城上手だっただけかな? というのも、そのときに信玄が率いていた兵は三万余でした。対して菅沼氏は五〇〇です。しかも信玄は小城だからと侮っていたわけではありません。甲斐の財産とも言える優秀な鉱夫の『金堀衆かなほりしゅう』まで動員しての力の入れようだったのです。


 ここで蛇足ながら一言雑学を。

 金堀衆というのは鉱山の採掘をする人足の集団です。山岳地帯の甲斐の国(実際には長野県や愛知県に近いところだったようですが)には数多くの金山があったと言われていて、信玄の配下の金堀衆はそこに従事していました。

 かなり過酷な労働だったらしく、全国の金堀衆の中には『還暦の祝いは二五歳、寿命は三〇歳』との史料が残る集団もあります。

 信玄は山肌や地下に穴を掘ることに長けた彼らを兵として使い、地下道を使った諜報活動や、敵の城の水源を断つという工作をさせていたようです。『百足むかで衆』との固有名詞で呼ばれる信玄の金堀衆たちの頭目と言われているのが、近年になって急に注目を浴びてきた『山本勘助やまもとかんすけ』ですね。この人も面白い伝説をたくさん持っています。


 閑話休題。

 野田城攻めに思いの外長い間手こずった信玄。一方で信長はそんな信玄の行動に疑問を感じます。

 ここからは私の推察を挟ませていただきますね。

 自分の討伐に向かったという信玄が一向に尾張に近づいてこないことに様々な憶測を巡らせた信長。信玄はそのとき五三歳。そろそろ武人としての限界が来ている歳です。そこを無理を押して進軍しているとしたら……。

「信玄は病気にでもなったのではないか」

と信長は考えたのではないでしょうか。

 ただ、そう確証があったとしても、信長には信玄を迎え撃って野田城辺りまで向かうことは無理でした。というのも、そのころ、信長は浅井・朝倉連合との小競り合いがまだ続いていたし、新しく参戦した本願寺戦力とも戦っていました。だから自分の土地を離れることができなかったのね。

 けれど信玄の動向は必ずつかんでおかなければならない。もし信玄に尾張に攻め込まれたら、他の敵との戦闘で手一杯の自分などひとたまりもないことは信長自身もわかっていたからです。

 ではどうするか。


 一つは同盟国に依頼するやり方です。特に野田城は親密な関係を築いていた徳川家康の土地。家康が情報を探ってくれることが一番合理的な方法でした。ところが家康はその前の三方原の戦いで信玄に壊滅の憂き目に遭っていたのね。だから信長に協力するどころか、自分が助けて欲しい立場に転落していたのです。

 では他の仲間はどうか、というと、この状況下で腹心の部下たちをスパイに出すなんてことはできません。また尾張から西側の勢力はいつ裏切るともわからない連中。信玄という強敵に立ち向かってくれ、とはとても言えない間柄だったのです。

 じゃあもう手はないの? ということですが。

 一つだけ。信長をまず裏切らなくて、また斬新な方法でスパイ活動をしてくれそうな味方がいたのです。

 ルイス・フロイス。イエズス会の宣教師だった彼は、密かに日本全土に広まっていたキリスト教徒を包括する立場にありました。そしてイエズス会の目的は、一説には日本の金銀鉱山を掌握することだったとも言われます。つまり、ルイスの息のかかったキリシタンがまさに野田城のある長野愛知の県境あたりの金鉱山に住み着いている可能性があったのです。


 では具体的にどうやってキリシタンが信玄に近づいたのか。

 鉱山や鍾乳洞という洞窟に入ったことのある方はいらっしゃるでしょうか? もしあるとすれば、かなりの確率で仏像や神像を目にしたのではないでしょうか。光の届かない闇の世界で圧迫された人間の感性は、過剰に信仰を求める傾向にあるようです。これはキリスト教の派生したヨーロッパでも同じでした。ポーランドの世界遺産『ヴェイリチカ岩塩採掘坑』は岩塩鉱山(塩を採掘するための鉱山。ヨーロッパでは一般的)の内部に作られた巨大な神殿です。主たるモチーフは現地の神話でキリスト教ではありませんが、キリストの像も数多く見つかっています。ルーマニアの女性からも同じような説明を聞いたことがあるので、きっとヨーロッパ全土にそういう風潮が当たり前にあるのでしょうね。

 洞窟を聖地と見なす習慣のあるキリスト教。その彼らが日本の金鉱山を手に入れようとしていた。けれど日本には日本で、キリスト教伝来以前から金鉱脈を掘る金堀衆が存在した。だったらキリスト教はどうするか。答えは一つしかないと思いませんか? 金堀衆をキリスト教に改宗させるのです。

 ここで先刻の百足衆の登場となります。信玄直属の金堀衆の百足衆。彼らは金鉱脈の宝庫と言われた長野愛知の県境辺りに従事していました。もし、フランシスコザビエルを始めとした初期の宣教師たちがすでにこの集団に改宗を求めていたとしたら? すべての百足衆がキリシタンにならなかったとしても、そのごく一部だけでも密かにキリスト教を信仰していたとしたら?

 キリシタンといえば当時で有名なのは広島の毛利氏とか山口の大友氏あたりでしょうか。やっぱり西日本が圧倒的に多いです。でも、前回も書いたように、現在までまったく知られていない隠れキリシタンの史跡が岐阜南部から見つかったりもしています。正直、どこまで勢力を伸ばしていたのか測ることは難しいのですね。


 もし信玄配下の中にキリスト教徒が混じっていたら。しかもそれが諜報を得意とする一族だったとしたら。信長に信玄の実情を伝えるのは簡単だったでしょう。

 いえ、それどころか。

 武田信玄は、彼の主治医の手紙によると『胃癌』を患っていたようです。長年の間に進行した癌は信玄に激痛を与えていたでしょうね。だから信玄は常にたくさんの薬を持ち歩いていました。これは有名な話。野田城を攻略してから一気に病状が悪化した信玄は、そこから進軍することもままならず、甲斐の国に帰ろうとしていたと言われます。

 けれど信長からすればそれは勝機そのものですよね。そのまま甲斐に戻られてまた信玄が回復などすれば、今後も襲ってくる可能性がある。だからぜひ今回の退陣の途中で仕留めてしまいたかったでしょう。でも自分は動けない。それならば。

 信玄終焉の地は長野県南部の下伊那地方と伝えられています。現在、国道一五三号線に沿って建てられている『信玄塚』の場所は、山々に囲まれた谷あいの小さな村落の中です。当時はさらに侘びしい未開の土地だったでしょう。狭い谷底を耕作してなんとか食べ物を得るような環境。飲水は汚濁されていようが河川や井戸をそのまま使うような無頓着な境域。山間の暮らしは贅沢など言っていられない粗悪なものが多かったのです。

 そんな場所に病気の信玄が、ゆっくりと、休み休み逗留しながら、帰っていく。

 帰路の途中でも信玄たちは食べ物や飲み物を口にしなくてはなりません。それを調達したのは当然滞在した村。

 自分が織田信長の意向を汲んでいるキリシタンだったと想像してみてください。もし信玄の命を奪うならどういう方法を取りますか? 殺傷すれば自分も殺される。それに信長や師であるルイス・フロイスが糸を引いていたことがばれるかもしれない。だったら信玄には重篤になってもらって病死という形を取りたいですよね。なるべく自然に。

 イエズス会には当時の日本にはなかったと思われている毒を扱う技術がありました。それは『ヒ素』です。大量に取れば急性ヒ素中毒で嘔吐や痙攣などの劇症が起こるこの毒、けれど実は天然の井戸水などにも多く含まれるのですね。もしごく少量の毒を小刻みに摂取した場合、人間にはほとんど影響がないと言われます。

 健康体ならば。

 すでに末期の胃癌を患っていた信玄にとってはどうでしょう。他の誰一人に毒の症状が現れない中、こっそりと毒殺されてしまう可能性はあったのじゃないでしょうか。


 そうして信玄の進撃から何とか逃れた織田信長。これを後世の人間は、やはり『信長は運が良かった』と評価して来ました。

 でも桶狭間の勝利が実は『強運』ではなく『知略』によるものだと見直されたきた昨今、案外、

「この信玄の死も実は信長の策略かも」

と疑われる日も近いのでは。


 イエズス会と信長の陰の癒着。それが最終的に信長自身に仇を成す未来を、このあとに描いて行きたいと思います。

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