Dear Oneself
不運な事故としか言い様が無かった。
警察官の芥川は、元は幸せな家庭を包んでいたであろう、焼け焦げた家の残骸を見つめていた。
聞けば、生き残ったのはたった一人、七歳の男の子だと言うではないか。
しかも、親戚付き合いがほとんど無く、このままだと少年は施設に預けられるのが濃厚だった。
「芥川さん」
後ろから声を掛けて来たのは、部下の柏田聡だった。
「遺体の身元、確認されましたよ」
柏田も、目の前の光景に、眉を潜めた。
「間違いなく、両親でした」
「そうか…」
芥川は、落胆の溜め息をつくと、家に背を向けた。
「それにしても…息子さんは可哀想ですね」
柏田が、呟く。
「…お前、警官になって何年になる?」
「え?…五年ですが」
「そうか…」
芥川が歩き出すと、
「あ、待って下さい」
柏田が慌ててついて来る。
「何です?芥川さん」
「いや」
芥川は、足元から視線を外さないまま、
「俺はお前の3倍この仕事をしてるんだなぁ、と思って」
「…はあ」
「…最初の頃は、そうやって、悲しい顔も素直に出来てたんだろうな、俺も」
芥川は足を止める事なく、
「あんまり慣れるなよ?」
と、言った。
保護されていた少年は、思っていた通り、施設へと生活の拠点を移す事となった。
今日、関係者が迎えに来る事になっている。
芥川は、それまでの時間を、少年に付き添って過ごす事にした。
少年は、ちっとも子供らしく見えなかった。
無理もない。
現実を理解しきれない戸惑いと、これからの不安で、気が休まる事など無いのだろう。
そして、あの日の恐怖は、芥川にも想像が出来なかった。
炎の中で、少年はどんな思いだったのか。
芥川は、少年の額と腕に貼られたガーゼを見つめた。
火傷の跡は、簡単には消えないだろう。
それ以上に、心の傷も。
「失礼します」
ドアが開いて、警官が入って来た。
「お迎えの方がいらっしゃいました」
後ろから、一人の若い女性が顔を覗かせる。
女性は、少年を見ると、満面の笑みを浮かべた。
「こんにちは」
女性が声を掛けると、少年は怯えたように、後ずさった。
「大丈夫だぞ?これから、君の新しいお家に行くんだ」
芥川が言うと、少年は不安そうな目で、芥川を見つめた。
少年は、ギュッと芥川のジャケットの端を握っている。
「怖がらなくていい。皆、君の味方だ」
芥川の言葉に、少年は女性へ視線を移した。
「はじめまして。お名前言えるかな?」
女性がにこやかに尋ねると、少年は小さな声で、
「…神谷、隼人…」
と、呟いた。
年月を重ねると、自分の容姿が変わって行くのにだんだん馴れて来る。
もちろん、仕事に関しても、要領が良くなるものだ。
しかし、芥川には、若い頃から変わらず慣れないものがあった。
それは、内勤が苦手だという事だ。
現場での捜査は、どれだけ条件が悪くても、やりがいを感じるが、その後の書類の整理は性に合わない。
「芥川さん」
後ろから、柏田が声を掛ける。
「ちょうど良かった、柏田、手伝ってくれるか?」
「え?冗談でしょう?僕も同じだけの作業をしてるんですから」
「俺は苦手なんだよ、こういう…細々した事が」
「細々した事、好きでしょう?現場では、どんな小さな物でも拾うくせに」
ずいぶん、生意気な口をきくようになったな。
最初に自分の部下になってから、かなりの年月が経ったのだから当然か。
その間、お互いに異動や転勤で離れる事はあったが、また再会を果たしたのである。
「それより、芥川さん、聞きました?」
「何を?」
「先日、息子の家庭内暴力が酷いと言って通報して来た家族の話」
「…いや?それが、何だ?」
「その息子って、神谷隼人の事なんですよ」
「…神谷?」
芥川は、記憶を辿ってみた。
「忘れちゃったんですか?…もう年ですねぇ」
柏田が、ニヤッと笑う。
「バカにするな。すぐ思い出すから」
「ほら、火事で両親を亡くした…」
芥川は、ハッとした。
そういえば、そんな名前だったな。
「ああ、思い出した。確か、施設に行ったんじゃなかったか?」
「ええ。施設から、引き取られて行ったんです、里親に」
柏田はそう言うと、少し難しい顔をした。
「…どうした?」
「いや、その里親っていうのも、ちょっと…」
芥川は、柏田に向き直ると、
「はっきり言えよ」
「…助成金が目当てで、子供を引き取って、ろくに面倒をみないどころか、虐待をしてるんじゃないかと…噂なんです」
芥川は、その言葉に立ち上がった。
「なんでそんな事が、放っておかれてるんだ!」
柏田を含め、周りの署員達も、ビクッと体をすくめる。
「…芥川さん、落ち着いてっ」
「落ち着いていられるかっ!もしそれが本当だとしたら…ただでさえ、子供達は肩身の狭い思いをしてるって言うのに…それで子供達の性格が歪むとしたら、大人が悪い!」
芥川は、ひどく腹が立った。
あの日、最後に見た神谷の、怯えた眼差しを思い出したのだ。
両親を失い、見ず知らずの人達と、新しい生活をしなければならないなんて、子供にはそれだけで負担だと言うのに。
「…で?その親は調べたのか?」
「さ、さぁ?僕の管轄じゃありませんし…」
芥川は、チッと舌打ちをした。
こんなふうだから、警察がなめられるんだ。
芥川は溜め息をつくと、
「よし、俺がやる」
「は?勝手にいいんですか?」
「個人的に神谷に会いに行く」
「…知りませんよ?上から叱られても」
柏田は、すっかり根性の無い男になったな。
きっと今まで、転勤先の上司に恵まれなかったのだろう。
芥川は、デスクの書類をそのままにして、署を後にした。
しかし、芥川は、神谷に会う事は叶わなかった。
すでに、神谷は家に帰らなくなっており、完全に消息を断っていた。
「よく、お越し下さいました」
応接室に現れた施設長は、優しそうな初老の女性だった。
「突然、申し訳ありません」
芥川は頭を下げると、窓から施設内の庭を見て、少し微笑んだ。
まだ学校に上がる前の年齢らしき子供達が、無邪気に遊んでいる。
「それで…隼人くんの事をお調べになってるそうですが?」
施設長が、尋ねる。
「調べると言うか…今、彼の行方が解らないので、何か心当たりがないかと思いまして…」
芥川の問い掛けに、施設長は、首を振った。
「隼人くんは、ここを出てから一度も見てません」
「里親の元に引き取られたのは、いつですか?」
「8年前です」
芥川は、驚いた。
この施設に預けられていたのは、一年程度。
もし、里親の虐待が事実だとしたら、8年間も耐えていたという事か。
そうなら、家庭内暴力を起こしたのも、遅いくらいだ。
「…ここにいる間、彼はどんな様子でしたか?」
「そうですね…おとなしい子でした。わがままも言わない、表面上は良い子に見えるでしょうが…遠慮していたのかもしれません…」
芥川は、やりきれない思いになった。
火災で両親を失い、里親には虐待を受けていたなんて、自分も同じ立場なら、運命を呪うだろう。
「隼人くん、見つかるでしょうか?…まさか、自ら命を断つような事は…」
施設長は、不安な眼差しで芥川を見た。
「…そうならないよう、こちらも努力します」
芥川の言葉に、施設長は安心した顔をした。
「お願いします。好きで不幸になりたい人間なんて、いないのですから…たくさん辛い思いをした分、隼人くんには幸せになってもらいたいんです…」
芥川は、頷いた。
引き取られる事なく、ずっとここにいられたら、神谷は違う人生を歩けたかもしれないのに。
芥川は丁寧に頭を下げると、施設を出た。
無邪気に遊ぶ子供達が、数年後もこうして笑えている事を願いながら。
神谷隼人は、体を揺さぶられる感覚に目を開けた。
酷く体が冷えきっている。
「あ、生きてた」
神谷が目を開けると、その声の主がそこにいた。
若い女だ。
濃い化粧をしていたが、自分とさほど変わらない年齢だと、神谷は思った。
神谷は体を起こして、繁華街の路地裏に並んだゴミ箱の間に、自分が寝ていた事に気付く。
「あんた、何歳?」
女が尋ねる。
「…16」
「ふぅーん。家出人?」
そう聞かれて、神谷は言った。
「家は無い」
「ホームレス?若いのに」
女は、楽しそうに笑って、
「じゃあ、家来る?」
と、あっさり言った。
「私、アキラ。おいでよ。一人だから」
アキラと名乗ったその女は、神谷の手を引いて、体を起こした。
神谷は、おとなしくアキラの後について行く事にした。
アキラの部屋は、近くの古いアパートだった。
室内は、家具でごちゃごちゃしている上に、色も統一されていないため、騒がしい感じがした。
それでも、リビングと寝室は別になっていて、バスとトイレも別れている。
一人でつつましく住むには充分だった。
「あんた、名前は?」
アキラの問い掛けに、神谷は一瞬答えに迷った。
「言いたくない?じゃあ言わなくていいよ」
アキラは、そう言って笑った。
神谷は、部屋の隅に移動すると、膝を抱えて座った。
アキラは、そんな神谷を全く気にしない様子で、テレビを点けてくつろぎ始める。
神谷は、アキラをじっと観察していた。
まるで、不思議な生き物を見るかのように。
「ねぇ、お風呂入る?」
アキラが聞いた。
「ゴミにまみれてたんだから、入ったら?」
アキラはそう言うと、神谷がいるにも関わらず、その場で服を脱ぎ始めた。
神谷は、呆気にとられていたが、尚も目を反らさずにいた。
そして、アキラが全裸になると、その体を食い入るように見つめた。
「びっくりした?」
アキラが楽しげに笑う。
「私、男でも女でもないの」
アキラの体には、何も無かった。
女性の象徴である胸の膨らみも、男性の象徴も。
「見た目だけじゃないのよ?体の中身だって、どっちでもないの」
アキラは楽しげに微笑んで言った。
「だから、私はこの世にオンリーワンな存在。私の分身は生まれない。かっこいいでしょ?」
神谷は、立ち上がると、自分も服を脱いだ。
アキラは、神谷の体を見つめて、そっと手を伸ばすと、あちこちに残った痣をなぞった。
アキラの指が、まだ新しい打撲痕に触れた時、神谷が口を開いた。
「…汚い体」
すると、アキラが真っ直ぐに神谷を見つめて、
「いつか、ちゃんと消えるよ」
と、微笑んだ。
アキラは、18歳だった。
仕事は何をしているか明かさなかったが、神谷にとっても重要な問題では無かった。
神谷は、アキラが出掛けている間、ずっと部屋の中で過ごしていた。
帰宅したアキラが何かを食べ始めるまで、自分から催促もしない。
何か他の事を要求するなんて事も、もちろん無い。
高校にも行かなくなった。
と、言うより、学校の存在を忘れていた。
アキラと神谷の間に、男とか女とかの括りも無かった。
一緒に風呂にも入る。
体を寄せあって眠る事もある。
しかし、それ以上になる事は無かった。
ある時、アキラが言った。
「なんか、あんたは私みたい。自分と一緒にいるみたい」
不思議な存在。
不可解な関係。
でも、それが二人には普通と呼べる形なのだ。
神谷の体の痣も、大分薄くなってきた。
残酷な記憶は、だんだん姿を消して行く。
額と腕に残った、火傷の跡以外は。
アキラには、恋人がいた。
神谷が聞いてもいないのに、勝手にペラペラと喋る。
「私の体も、ちゃんと真剣に受け止めてくれるんだ。見て、見てっ」
アキラが、待受画面にしている恋人の写真を見せる。
「…珍しくないね。ありがち」
派手な男の写真を見て、神谷が呟く。
「可愛くない事言うなよっ、見た目によらず、誠実なんだよ?」
そう言いながら、アキラはニコニコ嬉しそうだった。
「僕が一緒に住んでる事、彼は怒らないの?」
その質問に、アキラがギュッと神谷の体を抱き締めた。
「そんな事、言う人じゃないよ。あんたの事は大丈夫」
神谷も、アキラを抱き締め返す。
「いつか、あんたにも紹介するよ」
アキラは幸せそうに微笑んだ。
そんなアキラが、ある日泣きながら帰って来た。
「どうしたの?アキラ」
神谷が尋ねると、アキラは真っ赤な目をして、
「…彼が…友達に話してるの聞いちゃったんだ…」
「何を…?」
「私の事…」
アキラがその場に座り込む。
「…何でも言うことを聞くから…都合がいいって…」
アキラは、すでに零れる涙を拭う事すらしなかった。
「…やっぱり、ちょっと…気持ち悪い、って…」
じっと耳を傾けていた神谷は、傍に寄ると、アキラを抱き寄せた。
アキラは、神谷にしがみついた。
「…私、生まれて来ない方が、良かったかな…」
神谷は、そっとアキラの背中を撫でる。
「眠ったら?」
神谷が言うと、
「…傍に、いてくれる?」
と、アキラがか細い声を出した。
「うん…いるよ」
神谷はそう返事をして、
「僕の名前は…隼人だよ」
と、言った。
アキラが、ゆっくり顔を上げる。
少し驚いたせいか、泣くのを止めた。
「隼人か…かっこいいね」
アキラは、笑顔を浮かべると、そっと唇にキスをした。
神谷は、シャワーを浴びて出て来ると、それをじっと見つめた。
アキラの体が、目の前に浮いている。
落ち着いた様子で身支度を整えると、神谷は床に落ちているアキラの携帯を拾い上げた。
そして、ゆっくり丁寧にアキラの亡骸を地上に降ろすと、その髪を撫でて、部屋から出て行った。
アキラの携帯を片手に、神谷は夜の街を歩いた。
しばらく行くと、あるクラブの前に辿り着く。
神谷は、店内に入ると、しばし辺りを見回した。
そして、奥の席にいる男を見付けると、携帯の待受画面を確認する。
いた。
あの男だ。
神谷は、迷う事なく男の方へ進んで行く。
複数の男女と、談笑していた男が、神谷の存在に気付く。
見知らぬ少年が、自分の目の前に近付いて来るのを見て、
「誰だ?あいつ」
と、呟いた。
次の瞬間、神谷は近くにあった椅子を掴むと、躊躇する事なく、男の頭上に振り下ろした。
何が起きたのか、周りの客達も、一瞬理解が出来なかった。
神谷は、一撃で痙攣している男を見下ろすと、すぐにその場を立ち去った。
クラブの中で響いている大音量の音楽が、客の悲鳴をかき消して、神谷の逃走を手助けする形となった。
「知ってます?」
柏田が、ちょうど昼の出前に頼んだラーメンを食べている芥川に聞いた。
「今度は何だ?」
ラーメンをすすりながら、芥川が面倒くさそうに言う。
「また、被害者が出たらしいです」
芥川は、箸を止めた。
そして、柏田の顔を見ると、
「連続婦女暴行殺人?」
「はい。また犯人のDNAが一緒だったようです」
なんてこった。
我ながら、警察は何をやってるんだ、と言いたくなる。
「これで四人目です」
柏田も、さすがに落胆の表情を見せていた。
「手掛かり、無いのか?…DNAも残して行くような犯人なのに」
「芥川さん、無茶言わないで下さいよ。国民全員のDNAが警察にある訳じゃないんですから」
「そんな事、解ってるよ」
芥川は、少し苛ついて言った。
「ところで、芥川さん。まだ続けてるんですか?神谷探し」
柏田の問い掛けに、芥川は、益々苛ついた。
「お前には関係ない」
「そちらも手掛かりが無いんでしょう?なにしろ、今の神谷の顔も解らないんですからね」
そんな事は、言われなくても解ってる。
神谷の現在の顔は、せいぜいコンピューターで想像するくらいで、現実に近いかどうかさえ、謎なのだから。
その時、背後で声がした。
「芥川さん、お電話ですよ」
芥川は、急いで残りのラーメンを飲み込むと、電話をとった。
「芥川ですが」
「お久しぶりです」
聞き覚えの無い男の声だ。
「どちらさまです?」
すると、男が言った。
「神谷隼人です」
芥川は、思わず立ち上がった。
何事かと、柏田が芥川を見る。
「…ほ、本当か!?」
「はい。そうです」
芥川は戸惑っていた。
なぜ急に、向こうから連絡が来たのだろう。
「どこにいるんだ?」
すると、神谷は落ち着いた声で、
「芥川さんに、話したい事があります。二人きりで会えますか?」
「ああ、もちろん。どこに行けばいい?」
「そこに行きます」
そう言って、電話が切れた。
そこに、って…。
警察署に?
芥川が悩んでいると、ドアが開いた。
「芥川さんに、お客さんですよ」
そう言われて、入ってきた警官に芥川が目をやると、後ろに少年の姿があった。
あれは…。
少年は、少し虚ろな目をしていたが、穏やかな笑みを浮かべて、頭を下げた。
芥川は、慌てて傍へ駆け寄ると、
「き、君が…神谷隼人くんかい?」
と、尋ねた。
少年は、静かに、
「はい」
と、頷いた。
最初に神谷が言った、二人きりで会う事は、果たして叶っているのか疑問だった。
取調室に、芥川と神谷は向かい合って座っていた。
確かに、表向きは二人しかいない。
しかし、その気になれば、カメラで中の様子を第三者が見る事も出来る。
「ここで、構わないのかい?」
芥川の問いに、神谷は頷いて、
「結果的に、そうなりますから」
と、言った。
訳が解らない顔をしている芥川に、神谷は続けて言った。
「自首しに来ました」
「え?」
芥川が思わず聞き返す。
すると、神谷は再び、
「自首しに来たんです」
「…自首って…何をしたんだ?」
動揺している芥川とは裏腹に、神谷はとても静かだった。
「人を殺しました」
嘘をついているようには見えないが。
しかし、あまりにショッキングな再会に、芥川は対応に困った。
「芥川さんに、聞いて貰いたかったんです。最初に」
神谷は、真っ直ぐに芥川を見つめた。
だが、その眼差しは、どこかおかしく思えた。
確かに冷静には見える。
しかし、正気と呼べるかは疑問だった。
落ち着いているようでいて、実は、心ここにあらずという雰囲気にも見えた。
「神谷くん、まず…ちゃんと順を追って話をしよう」
芥川はそう言うと、
「君は、七歳の時に…火災で両親を亡くして…それから施設に入ったね?」
話しながら、芥川は神谷の額を見た。
確かに、火傷の痕がある。
神谷の顔が、少しこわばる。
まるで、何かに怯えているかのように。
あの火災が、彼にトラウマを植え付けているのだろうか。
「君は…施設を出て、里親に引き取られたそうだが…そこでの暮らしはどうだった?」
芥川の質問に、神谷は小さな声で、
「…普通の、暮らしでした」
と、呟いた。
それは、きっと嘘だろう。
芥川は、神谷が自分の手をギュッと握る仕草をするのを、見逃さなかった。
「でも、今まで家を出ていて、消息不明だっただろ?どこにいた?」
すると、神谷がパッと顔を上げた。
「…どうして、知ってるんですか?…僕を…探してくれてたんですか?」
「君は、それを解ってて、来てくれたんじゃないのか?」
神谷は、首を振った。
「…僕は…子供の時の記憶を頼りに…芥川さんになら、全て話せると思って…」
そう言うと、
「楽になりたいんです。もう、終わりにして下さいっ」
すがるように、芥川を見つめた。
「…解ったよ」
芥川は、頷いて向き直ると、
「それで…誰を殺したんだ?」
神谷は、ゆっくりと瞬きをして、
「昨日、遺体で見つかった女性です」
と、言った。
それが事実なら…。
連続婦女暴行殺人の犯人は、神谷なのか。
芥川は、愕然として、言葉を失った。
犯人のDNAと、神谷のDNAが完全に一致した。
これで連続婦女暴行殺人が、神谷の仕業だと確定した。
誰が見ても、神谷は極刑に値する罪を犯した。
しかし、芥川は腑に落ちなかった。
罪は罪。
決して許される事ではない。
だが、そんな神谷を作り上げてしまった原因が、世の中にあるのだ。
取り調べを進めていくにつれ、神谷の過去も明らかになっていく。
不運な事故で、幼いうちに両親を亡くし、その後に出来た新しい親からは虐待を受け、全てを捨て去ってしまった少年。
あまりにも不幸過ぎる。
まだ、17歳の若さで。
「芥川さん、ちょっといいですか?」
柏田が隣に座ると、小声で言った。
「…神谷のDNAが、思わぬものと一致したんですけど」
「…余罪があったのか!?」
驚いた芥川に、柏田が声を潜めるよう、人差し指を立てる。
「余罪というか…遺体に特徴があったので、覚えてるんですが…」
柏田が、周りを気にしながら言った。
「男か女か判断しかねる自殺体が、アパートで発見された事がありまして…」
芥川が、不思議そうな顔をする。
「性転換手術じゃありませんよ?生まれつき、どちらでもなかったり、どちらも持っていたりする方の事です」
「…ああ、そういえば、そんな事があったかもしれないな」
「死因は首を吊った事による自殺、と判断されたんですが、遺体は床で発見されました」
「…腐乱して落ちたのか?」
「いいえ。誰かが降ろしたんです。ロープも、自然に切れた形ではありませんでした。その部屋に、本人以外に、もう一人住んでいる痕跡がありました」
「…神谷か?」
柏田が頷く。
「芥川さん、その時の事も、神谷に聞いてみて下さいよ。まあ…死因が覆る期待はしていませんけど、なぜ、その場から姿を消したのかも、気になりますし」
「…解ったよ」
なんだか気が重かった。
今でさえ、凶悪犯罪を犯した神谷に対して、少し同情的な見方をしてしまうのに。
同居人の自殺を発見したなんて、益々不幸ではないか。
しかし、これは裁判でも話に出てくるだろう。
恐らく、今の神谷を作り出した要因の一つには、違いないのだから。
芥川は、取調室に入ると、担当していた刑事に、
「ちょっと…いいですか?」
と、声をかけた。
刑事は、うんざりした顔付きで神谷に視線を向けると、
「何とかして下さいよ。俺達には、話そうとしないんで」
と、言った。
芥川が向かいに座ると、神谷は少し笑顔になった。
しかし、その表情は、日を追うごとに、どんどん異様に見えて来る。
まるで、心を失っているように。
「神谷くん、聞きたい事がある」
芥川の言葉に、神谷は耳を傾ける意志を伝えるかのように、身を乗り出した。
「蓮見アキラを知ってるね?」
すると、神谷は少し視線を泳がせて、
「アキラは知ってます。苗字は…知りません」
「…一緒に、住んでいたんだよね?」
神谷は黙った。
瞬きも忘れたかのように、じっと一点を見つめて。
そして、その体は徐々に小刻みに震え始める。
「…神谷くん…?」
芥川が声を掛けた時、神谷は頭を抱えた。
どんどん体の震えが大きくなり、神谷は机に自分の頭をぶつけ始めた。
「神谷くん、やめなさい!」
慌てて芥川が、それを止める。
「離せっ!」
神谷が叫んだ。
冷静じゃない神谷を、芥川が初めて見た瞬間だった。
暴れる神谷を、刑事と二人がかりで、何とか押さえる。
「アキラは、死ななくても良かったんだ!」
神谷が構わず声を上げる。
「僕がいる、って…僕がついてるって言ったのに!」
神谷の目から、涙が溢れた。
参ったな。
芥川は、息苦しくなった。
こんな神谷を、誰が救えるというのだろう。
極刑になれば、楽になれると思っているのか。
終わらせたいとは、そういう事なのか。
そんなものが救いだなんて、世の中間違ってる。
芥川は、切ない思いで、連れ出される神谷を見つめていた。
こんな状態で、大丈夫なのか。
そんな芥川の予感は、期待を裏切る事なく的中した。
裁判が始まると、マスコミは日々、神谷の事を報道し、雑誌にも書き立てられた。
未成年が犯した、凶悪犯罪。
犯行時未成年だった少年Aに極刑は下されるのか。
そして、神谷の奇行も、クローズアップされ始めた。
時には、何も耳に入っていないかのように、終始ぼんやりしていたり、裁判の間中、ずっと泣きじゃくっていたり。
その異常性が、更に世間を盛り上げて行った。
神谷は普通じゃない。
あんな怪物みたいな奴を生かしておくなんて、恐ろしい。
世の中が、そんな流れになっていたはずが、それはある時を境に方向を変え始める。
弁護側によって、神谷の生い立ちが明らかにされていくにつれ、神谷を擁護する意見が多くなり出したのだ。
おまけに、神谷の里親まで登場させられ、当時の虐待を認めてしまったのだから、神谷に同情的な意見が益々大きくなった。
「まさか、無罪にはならないでしょうね?」
帰り支度をしながら、柏田が芥川に尋ねた。
「バカな…四人殺害しているのは事実なんだぞ。いくら精神的に問題があるにしたって、無罪は有り得ない」
「そんな判決を下したら、裁判長は市民から夜襲に遭うでしょうね」
柏田は、不謹慎にもそう言って笑って、
「しかし、弁護側は、情状酌量の余地ありと主張していますから…実際、世論もそちらに傾いてるようですし…解りませんよ?」
と、囁いた。
確かに。
神谷は、不幸を背負っている。
そして、逃げる訳でもなく、警察が犯人を突き止める前に、自首して来たのだ。
未成年だったため、神谷の風貌が明かされていない事も、尚更その素性をミステリアスなものにしている。
多少、騒ぎすぎなくらい、世間は神谷の事件に踊らされていた。
「知ってます?神谷、ネット上では、カリスマ扱いですよ」
柏田の言葉に、芥川は顔をしかめた。
「馬鹿馬鹿しい。何がカリスマだよ」
「だって、実際そうなんですから。奴がどんな人間なのか、本性が見えない分、特別な存在だと祭り上げられてるんです」
犯罪者に影響を受けるだけでなく、カリスマだと?
芥川は呆れて溜め息をつくと、
「そんな世の中だから、神谷みたいな人間が作られるんだ」
と、吐き捨てるように言った。
結審の日。
裁判の傍聴希望者の倍率は、今までに比べると桁外れだった。
朝から、ニュースも神谷一色で、まさに、お祭り騒ぎだ。
芥川は、警察署内でその時を待っていた。
他の署員達も、どこか落ち着かない様子で、署内は異様な緊張感が漂っていた。
やがて、判決の時。
全員が、ニュースの中継に耳を傾けていると、それは告げられた。
被告人は
無期懲役
その瞬間、署内にざわめきが起こった。
神谷の人生は、終わりを迎えない事になったのだ。
芥川は、複雑な思いで、慌ただしく喋るリポーターを眺めていた。
きっと、どちらの判決が出たとしても、こんな気持ちにはなるのだろう。
生きて償う。
その道を与えられた神谷は、果たして楽になれたのだろうか。
「また、世間は大騒ぎでしょうね」
柏田が、他人事のように呟く。
全くだ。
まあ、それも、どっちの判決が下っても同じだろうが。
芥川は、すでに音声など耳に届いていないテレビの画面を、じっと見つめていた。
弁護士の袴田進は、事務所に入ろうとして、足を止めた。
そこに、男が立っていた。
「ご依頼ですか?」
袴田が尋ねると、目の前の男は、胸から警察手帳を取り出した。
「芥川と申します」
聞き覚えのある名前に、袴田は少し驚いた顔をした。
そうだ。
神谷の話の中に、出てきた人物だ。
「お疲れ様です。何か、ご用ですか?」
すると、芥川は頭を掻いて、
「いえ、用というほどでは…たまたま近くまで来まして…」
しかし、袴田は、芥川が何を言いたいのか察したように、じっと言葉を待っている。
「…えっと」
芥川は、意味も無く咳払いをして、
「…判決が出ましたね」
と、言った。
「ええ。今後、検察がどう出て来るかによりますが…」
「妥当だと思われますか?この判決」
芥川の言葉に、袴田は少し迷ったように視線を動かして、
「どうでしょうね…神谷本人は、何も言ってませんから、受け入れてはいるんだと思います」
「…いつか、刑期を終えたら、神谷は世に放たれる訳ですよ?」
すると、袴田が、クスッと笑った。
「随分、気が早いお話ですね。いくら僕が彼の弁護人でも、そう簡単に外に出してはいけない事くらい理解してますよ。これからカウンセリングも受けなきゃいけないし…時間は、かかると思いますよ」
「…そうですが…」
どこか納得のいかない顔の芥川に、袴田は言った。
「では、死刑なら良かったと?」
それにも、芥川は答えられなかった。
人に向かって、死ねばいいと言うようなものだ。
困っている芥川に向かって、袴田は微笑むと、
「神谷は、あなたの事を随分信頼しているようですから…良かったら、面会をしてやって下さい。神谷は、あなたになら素直な心境を話すと思います」
そう言うと、ふと思い直したように、
「もっとも…神谷の素直が、正常とは限りませんが」
と、付け足した。
芥川が、神谷に会いに行ったのは、最終的に神谷がどうなるか決まった後だった。
神谷の無期懲役は、覆らなかった。
正常な人間とは異なる精神状態と、そうなるきっかけとなった過去に、情けがかけられた結果だった。
行って何を話すかなんて、考えてはいなかった。
それでも、なぜか会わずにいられない。
神谷は、自分の運命をどう感じているのだろう。
そんな漠然とした思いで、芥川は神谷に会いに来た。
神谷は、自分が生きながらえたからといって、特に嬉しそうな顔をしている訳ではなかった。
どこか感情が欠落したような、読めない雰囲気は裁判の時から変わらない。
「元気にしてるか?」
何を切り出していいか解らず、芥川は在り来たりな言葉を告げた。
神谷は、そんな芥川を真っ直ぐに見つめる。
そして、
「ある男の話をしましょうか」
と、ひどく冷淡な口調で言った。
「ある男は、四人の女性を殺害した罪で、裁判にかけられた。世間の誰もが、男は死刑になると思っていた。でも、判決は無期懲役。世の中は、彼を生かす事に決めた」
芥川は、背筋が寒くなった。
神谷は、一体、何を話そうというのか。
「男が死刑にならなかった理由は、何だったと思います?」
神谷が、ガラス越しの芥川に、少し近付いて聞いた。
それは、自分の事なのか?
だとしたら…。
「…その男の、過去か?…両親を亡くして…里親に虐待を受けていた過去のせいだ…8年もの間…」
「そう、8年」
神谷は、自分の左腕の袖を捲ると、消えない切り傷の痕を指差した。
「時には、こんな消えない傷を負う事もあった暴力に、8年も耐えた」
芥川は、やりきれなくなった。
そんな仕打ちを受けていた少年が、辛くなかったはずがない。
「8年経った時、男は初めて反抗的な態度をとった。8年も我慢していた男は、結果的に殺人を犯すような人間だったのに…なぜ、里親を殺してしまわなかったんでしょうね」
意味が解らない。
これは、新手の自白なのか?
芥川が戸惑っていると、神谷が続けた。
「虐待を証言出来る、唯一の存在。だから、男は殺さなかったんです」
「…そんな…男は自分が捕まった後の…裁判の事まで考えていたというのか?…そんな先の事まで…」
芥川は首を振って、
「殺人なんて…簡単に出来る事じゃない。親への暴力の時点では、まだそこまで…そんな事が出来るような人格になっていなかった…違うか!?」
もしかしたら、芥川は、まだ神谷の中に救いがあると思いたかったのかもしれない。
根本は、悪い奴じゃない。
ただ、不幸なだけだと。
「どうして、そう言えるんです?」
神谷は、芥川が何と答えるか、興味津々な顔をした。
「…最初に殺人を犯す時だ…よっぽどの覚悟が無きゃ…」
さっきまでの希望は、次の神谷の言葉に、打ち砕かれた。
「すでに、最初の殺人を終えていたとしたら?」
「…なんだ、と?」
芥川は、愕然とした。
「警察が決めたんですよ?火事が事故だって事も、同居人が自殺したという判断も」
芥川は、体の内側から震えが沸き上がる感覚を、初めて味わった。
「…まさか…」
芥川は、あの頃の神谷を思い出していた。
「…あんな…七歳の子供が…」
すると、神谷は小さく息を吐いた。
「もし、事実が誤りだとしたら…今更、自分達のミスを謝罪して、再捜査する勇気が警察にあると思いますか?ましてや、そのスタートを間違えてしまったおかげで、殺人鬼が生きながらえる結果を作ってしまったのに」
「…お前…本当に?」
すると、神谷はクスッと微笑んだ。
「言ったでしょう?ある男の話だ、って」
こいつは、本当に悪魔なのか。
世間は騙されたという事なのか。
「男は、どうすれば周りに自分が良く見えるのか、解っていたんですよ。その証拠に、人々は面白いくらい振り回された」
もはや、神谷の顔は、今まで芥川が見た事がないほど、輝きに満ちていた。
「…なぜ、両親を…?同居していた友人だって、その人のために、お前は泣いたんじゃないのか!?」
そして芥川は、あの幼い小さな手で、自分のジャケットを握り締めていた神谷の姿を思い起こしていた。
「お前、じゃなくて、ある男です。間違えないで下さい」
神谷は、チラリと背後の看守を見た。
「両親に関しては…自分より上に立つ人間が不要だったから…友人は、生まれて来た事を、一瞬でも悔いて迷った。だから、望みを叶えてやった。ただ、それだけ」
「…それだけ、って」
芥川は、さっきの悪寒とは別に、怒りで体を震わせ始める。
「…お前には、情って物が無いのか…?」
すると、神谷は急に冷たい眼差しになると、
「実際には見た事ありません。作り物には、よく出会うけど」
芥川は、もう訳が解らなかった。
まだ若い神谷に、少しでも憐れみを感じて、幸せな人生を味あわせてやりたいと、立ち直る可能性を信じたのに。
「軽蔑してる?」
神谷は、じっと芥川を見つめた。
こいつは、頭なんか悪くない。
計算高い、紛れもない凶悪犯なのだ。
そんな様子を見て、神谷は言った。
「残念です。もう会う事も無いでしょう。僕は…人の言葉しか理解出来ない。あなたはもう、僕が認めた、それでは無い」
芥川は、神谷が退室しても尚、席を立てずにいた。
最後に見せた神谷の不敵な笑顔を、芥川は一生忘れないだろう。
言い様の無い怒りと虚しさの中で、芥川は唇を噛み締めた。
勢いよく事務所のドアが開いて、袴田は、驚いて顔を上げた。
息を切らした芥川が立っている。
「…どうしたんです?いきなり…」
袴田は、あまりに無礼な登場の仕方に、呆れて溜め息をついた。
芥川は、構わずに歩み寄ると、袴田の胸ぐらを掴んだ。
「…芥川さん、何ですかっ!?」
「知っていたのか!?」
「落ち着いて下さいっ、何の事ですか?」
「神谷の事だっ!全部解っていて、奴を弁護してたのかっ!?」
袴田は息をつくと、芥川の腕を掴んだ。
「…とにかく、落ち着いて下さいよ」
ゆっくり芥川の手を外すと、袴田は服を直して、
「あれこそが、不幸だと思いませんか?」
そう問い掛けた。
「…訳の解らない事を言うなっ。あいつの正体を知っていたのか、と聞いてるんだ」
「あれが正体だとしたら…」
袴田は静かに言った。
「まさに、人としての感情が欠如している状態なのですから…彼は、不幸としか言い様がない。裁判中の方が、まだまともだったかもしれません。喜怒哀楽を表現出来ていたのですから」
「…弁護士が、依頼人を守る役割だというのは理解しよう。しかし…あいつは…」
芥川の言葉を、袴田は手を上げて制した。
「最初に会った時から、神谷が今の状態だったら…私は、精神疾患で、無罪を主張したかもしれませんよ?」
芥川は、その言葉に呆然とした。
こいつも、奴と同類だ。
芥川は、怒りに震えながら、
「…もう、奴を極刑にする事は出来ないが…俺は…俺が生きてる限り、必ず奴に罰を受けさせてやる…必ず尻尾を掴んでやるからなっ!」
そう言うと、足早に事務所を出て行った。
最高に気分が悪い。
こんな後味の良くない事件は初めてだ。
このまま、いつか奴が社会に戻る事などあってはならない。
必ず阻止してやる。
芥川は、強い決意を固めていた。
如月は、現場を見て、溜め息をついた。
転勤早々の捜査が、同業者の殺害事件とは。
警官が、夜道で何者かに刺殺された。
財布が無くなっていたため、強盗殺人として捜査が行われる事になった。
「長い警察人生で、ようやくラストスパートだったのに…」
如月の隣で、上司の柏田が言った。
「本当に…強盗ですかね?」
如月が聞くと、
「おいおい、ただでさえ警官殺しでピリピリしてるんだから…面倒な事にしないでくれ」
柏田が、フッと笑う。
「芥川さん…熱血な人だったんだけど…こんな終わり方なんてなぁ」
柏田は、改めて運ばれて行く遺体に向かって合掌した。
「あ、ちょっと…」
如月が、遺体に近付く。
「これは…どうしたんですかね?」
刺し傷は、胴体に数ヶ所。
「どうした?」
柏田も近付く。
「刺し傷の他に…額と腕に…小さい傷が」
如月が指さした先に、クロスしたような傷跡があった。
「…揉み合ってるうちに、付いたんじゃないか?」
柏田はそう言うと、遺体を運ぶように促した。
如月は、それを見送りながら、
「…人間が犯罪者に変わる瞬間って、一体、何が起こるんでしょうね」
と、呟いた。
横で聞いていた柏田が、
「そんな事、考えたって無駄だ」
と、呆れたように言った。
「生まれつき、悪魔みたいな奴だって、いるかもしれないぞ?」
柏田は、冗談半分でそう言うと、パトカーに向かった。
「あれ?」
そこで、見覚えのある顔を見付ける。
「えっと…袴田弁護士ですよね?」
声を掛けられて、袴田が頭を下げる。
「どうしたんです?まさか、弁護士先生が野次馬ですか?」
すると、袴田は苦笑いを浮かべて、
「たまたまですよ。それにしても…芥川さんは、御愁傷様です」
「ええ…参りましたよ」
柏田が頭を掻く。
如月は、袴田と呼ばれたその男を何気なく見つめていた。
どこか、只者ではない空気を感じるが、気のせいか。
「もし犯人が捕まったら、弁護を引き受ける可能性もありますから…またお会いするかもしれませんね」
袴田はそう言って、
「では、これで」
と、頭を下げた。
袴田が去って行く姿を見送ると、
「よし、署に戻るぞ」
と、柏田が如月の肩を叩いた。
如月は、襟を正すと、その後に続いた。
まだまだ半人前の自分には、これから、想像した事もないような事件に遭遇する時もあるだろう。
正義の味方になる事。
この道を目指した時の自分の気持ちを、決して裏切らない警察官になれるだろうか。
如月は、気合いを入れ直すと、急いで柏田の後を追い掛けた。
そう。
事件だけではなく、
いつか出会う、大切なものにも期待をしながら…。
《Fin》