蟲の肥
もし僕の他にも見える人が出てきた時のために、この手記を残そうと思う。
まず何よりも先に言いたいのは……。
大丈夫。君はおかしくなんかなってない。君は正常で、病気なんかじゃない。
あれは確かに存在している。
そして少しずつ、僕ら人類を消していっている。
きっと君も、これまで散々な目に遭ってきたんじゃないかな。
誰にも信じてもらえなかっただろう。嘘つき呼ばわりされたこともあるかもしれない。頭がおかしいと罵られたことだってあるかもしれない。
あるいは、君自身が自分の正気を疑っているかもしれないね。
でも安心してほしい。
少なくとも、あれが見えることについて、君は何も間違っていない。
僕が保証する。
だからどうか耐えてほしい。
どうか戦ってほしい。
抗えるのは、僕たちだけだから。
まずは僕が初めてあれを見た日のことから記そうと思う。
あれは確か、小学生の時だった。
体育の授業で何か球技をしていたんだ。ドッジボールだったかな。それともサッカーだったかもしれない。
もう随分と昔のことだから、細かいところまでは覚えていない。
ただ、天気が良かったことは覚えている。
雲一つない青空で、少し汗ばむくらいに暖かかった。
そんな、どこにでもある普通の日だった。
仲の良かった女子生徒が転ぶまでは。
その子は走っている最中に足をもつれさせて、グラウンドに倒れ込んだ。
僕は笑ったんだ。
だって、いつもは僕のことを鈍臭いってからかってくる子だったからね。
ほら見たことか、なんて。
今思えば、どうしてすぐに駆け寄ってあげなかったんだろう。
その子が倒れた瞬間、あれは現れた。
いや、現れたという表現は正しくないのかもしれない。
気がついた時には、そこにいたんだ。
虫のようでいて、確実に虫ではない。
造形は確かに虫のそれと似通っていたけれど、パーツは酷くチグハグだった。
蜘蛛のような脚が何本も生えていて、胴体は芋虫のように膨らんでいた。背中には何の役に立つのかわからない羽がついていて、頭と思われる部分には複数の眼が不規則に並んでいた。
色んな虫を適当に組み合わせたような、そんな見た目をしていた。
大きさは大型犬くらいだったと思う。
それが、倒れた女子生徒に覆い被さっていた。
そして腹の辺りから伸びた細長い管を、その子の背中に突き刺したんだ。
何かを吸い上げているのがわかった。
管が脈打つたびに、怪物の腹が僅かに膨らんでいたから。
女子生徒は酷く苦痛の表情を浮かべていた。
口を大きく開けて、何度も叫んでいた。
助けて。
痛い。
誰か。
確かにそう叫んでいたんだ。
なのに、誰も見向きもしなかった。
すぐ近くでは男子生徒たちがボールを追いかけていたし、先生は笛を吹いていた。
みんな、いつもどおりだった。
僕は慌てて先生のところへ走った。
あの子が大変なんだ。変な虫に襲われているんだ。早く助けてあげて。
必死に説明したよ。
でも先生は、僕が指差した方を見ても首を傾げるだけだった。
何もいないじゃないかって。
そんなはずはない。
あんなに大きな怪物がいるんだ。
あの子だって、あんなに苦しんでいるのに。
僕は何度も訴えた。
でも先生は、僕の顔を覗き込むと、額に手を当ててきた。
熱中症かもしれない。
そう言って、僕を保健室に連れて行ったんだ。
僕は泣きながら抵抗した。
あの子を助けて。
お願いだから。
でも、誰も聞いてくれなかった。
結局、保健室でしばらく休まされて、学校が終わる頃にようやく戻ることができた。
そこには、ただのグラウンドが広がっていた。
怪物も、女子生徒も、何もなかった。
だから家に帰って、お母さんに話したんだ。
今日、学校で大変なことがあったんだって。
あの子が変な虫に襲われて、先生も助けてくれなかったんだって。
するとお母さんは言った。
「そんな子、クラスにいないわよ」
と。
そんなはずはない。
仲良しだった。
一番の仲良しだった。
家族ぐるみで旅行にも行った。
一緒にお風呂に入ったこともあるし、同じ布団で眠ったことだってある。
将来は結婚しようね、なんて約束もした。
大好きだった。
大好きだったんだ。
〇〇ちゃん。
でも、その存在は無かったことになっていた。
写真を探した。
アルバムをひっくり返して、旅行の写真を何度も確かめた。
そこには僕しか写っていなかった。
二人で並んで撮ったはずの写真にも、僕しかいなかった。
お母さんに何度聞いても、そんな子は知らないと言われた。
友達に聞いても同じだった。
誰も覚えていなかった。
あの子がいたことを。
あの子が笑っていたことを。
あの子が僕のことを好きだと言ってくれたことを。
僕以外、誰も。
そう、あの怪物は、人の存在を食べるのだ。
君がどの程度のチカラを持っているのか、僕にはわからない。
でも、僕のチカラはそんなにも強くなかった。
あんなに大好きだったあの子の名前が、靄がかかったかのように思い出せないんだ。
顔は覚えている。
声だって覚えている。
笑った時に目尻が下がることも、怒ると頬を膨らませる癖も覚えている。
なのに、名前だけが出てこない。
何度思い出そうとしても、そこだけぽっかりと穴が空いている。
まるで消しゴムで消されてしまったかのように。
それから怪物は、たびたび僕の前に現れた。
姿形は様々だった。
最初に見たような虫の寄せ集めもいれば、細長い脚だけで歩くものもいた。
人間より大きなものもいれば、掌に収まりそうな小さなものもいた。
共通しているのは、どれも酷く歪で、見ているだけで吐き気がするような姿をしていることだった。
そう、あれは単一の存在じゃない。
いくつもいるんだ。
そして、どいつも人間を喰っていた。
通学路で。
公園で。
スーパーで。
僕はそのたびに助けを求めた。
家族に訴えた。
先生に訴えた。
警察にだって駆け込んだことがある。
でも、誰も信じてくれやしない。
それどころか、僕のことを心配する人ばかりだった。
最初は優しかったんだ。
でも、何度も同じことを繰り返すうちに、周りの態度は変わっていった。
そして中学生になる頃には、誰も僕の話をまともに聞かなくなっていた。
その結果がどうだ?
重度の精神障害だと診断されて、病院に無理やり詰め込まれたよ。
もちろん、先生たちが悪いと言いたいわけじゃない。
今ならわかる。
あの人たちは、あの人たちなりに僕を助けようとしてくれていたんだ。
ただ、僕の見ているものが見えなかった。
それだけなんだ。
病院では、同じような人がいないか探したこともある。
誰か一人くらい、あれが見える人がいるんじゃないかと思ったんだ。
でも、いなかった。
僕以外は、普通に病気の人だった。
病院の先生は、僕の話をよく聞いてくれた。
否定することもなく、怒ることもなく、何時間だって付き合ってくれた。
そして、少しずつ説明してくれたんだ。
人間の脳は、時として存在しないものを見せることがある。
聞こえないはずの声を聞かせることもある。
本人にとっては、それが紛れもない現実なんだって。
僕は何度もその話を聞いた。僕も話をした。
何度も、何度も。
そうしているうちに、考えるようになったんだ。
もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。
あれは僕の作り出した妄想の産物なんじゃないか。
〇〇ちゃんだって、最初から存在しなかったんじゃないか。
僕がおかしいだけなんじゃないか。
そう思うようになった。
でもそうじゃなかった。
ある日、病院の先生が僕の目の前で喰われたんだ。
いつものように話をしていた。
先生は椅子に座って、僕の話を聞いてくれていた。
その背後に、あれがいた。
そして、あっという間に喰われてしまった。
翌日から、その先生は存在しなくなった。
そこで確信したんだ。
あれは実在する。
僕は間違っていなかった。
そして、僕だけが何とかできる存在なんだって。
僕がどうしてそう思うかって?
じゃあ君はどうなんだい?
周りにいたかい?
おんなじようにあれを認識できる人が。
君は大丈夫だって言ってくれる人が。
僕にはいなかった。
僕が、僕だけがあれを認識できるんだ。
なら、その対処だって僕が何とかしなくてはいけないだろ?
だって、誰も認識できないんだから、対処しようがないじゃないか。
それからの僕は、人に理解を求めることをやめた。
だって無駄なんだから。
喰われれば存在しなくなる。
襲われれば認識できなくなる。
あれの存在は誰にも見えない。
一人で何とかするしかなかった。
でもね。
ここからが大事な話なんだ。
君がまだあれに手出しをしていないのなら、それは正解だ。
あれは獲物を諦めない。
そして、妨害者を決して許しはしない。
あの時の僕はただ、運が良かっただけなんだ。
初めてあれと戦った時だ。
ある日のことだった。
買い物に出かけた僕は、ベビーカーの中にいる赤ちゃんに、怪物が取り憑いているのを見つけた。
バレーボールくらいの大きさだった。
今まで見てきた怪物の中でも、随分と小さい方だったよ。
母親はすぐそばにいた。
赤ちゃんは泣いていたけれど、母親は何も気づいていない様子だった。
怪物は赤ちゃんの胸元に管を突き刺していた。
僕は迷った。
あれに近づいて、どうにかできるのか。
そもそも触れるのか。
そんなことさえわからなかった。
でも、見ているだけなんてできなかった。
あの時と同じだったから。
〇〇ちゃんが喰われた、あの日と。
僕は怪物に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、あれは僕に飛びかかってきた。
恐ろしかった。
今でも覚えている。
昆虫に類する顔には、表情なんてないはずなのに。
確かに怒りの感情を感じたんだ。
そして、僕に対する強い敵意を。
僕は咄嗟に蹴り上げた。
怪物は地面に転がった。
そのまま何度も踏みつけた。
何度も、何度も。
動かなくなっても、しばらく踏み続けていたと思う。
気がつけば怪物は消えていた。
僕は立ったまま震えていた。
心臓が壊れそうなくらい早く動いていたのを覚えている。
もし、あれがもっと大きかったら。
もし、最初の一撃を避けられていたら。
僕はあの場で殺されていただろう。
それくらい、危険な相手だった。
あれに襲われていた赤ちゃんが気になるかい?
無事だったよ。
怪物が消えた途端、泣き喚く赤ちゃんに母親が慌てて気づいて、抱き上げてあやしていた。
そう。
怪物が死ねば、認識阻害は解けるんだ。
あの時、僕は初めて人を救えた。
誰にも信じてもらえなかった僕が。
何もできずに大切な人を失った僕が。
ようやく、誰かを助けることができたんだ。
嬉しかったよ。
本当に。
まあ、赤ちゃんに近づいた上に、何もないところで暴れていた僕は、ものすごい顔で母親に見られていたけどね。
慌ててその場から逃げ出したよ。
今となっては笑い話さ。
でも、覚えておいてほしい。
あの赤ちゃんが無事だったのは、僕がたまたますぐに気がつけたからだ。
あいつらに存在を半分くらい吸われてしまうと、もうダメなんだ。
周囲には認識してもらえなくなる。
それだけじゃない。
自分というものまで希薄になっていく。
そして、数日と持たずに空間に溶けて消えてしまうんだ。
僕はそれを何度も見た。
助けるのが遅くて、間に合わなかった人を。
アイツらがどんな意図で、どんな理由で存在を喰らっているのか、僕にはわからない。
ただの栄養補給なのかもしれない。
生きるための糧なのかもしれない。
あるいは、どこかから送り込まれた敵性存在の尖兵なのかもしれない。
僕たちには理解できない、何か別の目的があるのかもしれない。
何年も考え続けたけれど、結局答えは出なかった。
まぁ、そんなことは今更どうでもいい。
僕はもうダメだ。
あいつらは、その矜持なのか習性なのかわからないが、存在を喰らうのは決めた獲物だけなんだ。
妨害者を喰らうことはない。
しかし、その圧倒的な凶暴性をもって、僕を排除しようとしてくる。
噛みつくもの。
爪で引き裂くもの。
毒のような液体を吐き出すもの。
怪物によって攻撃方法は様々だった。
僕はいくつもの怪物を倒してきた。
最初の頃は、勝てることの方が珍しかった。
何度も逃げた。
何度も怪我をした。
助けられなかった人も大勢いる。
それでも、少しずつ戦い方を覚えていった。
もちろん、どうにもならない相手だっていたけれどね。
そして、僕もやらかした。
少しのミスが命取りになる戦いの最中、あの子が、〇〇ちゃんが見えた気がしたんだ。
あの日と同じように、僕を見ていた。
きっと、僕ももう限界だったんだろう。おかしくなってから、いや、アレが見れるようになってから、僕の人間関係は酷く希薄になった。
まぁ、君もわかるだろ?
だからだ、何年も、何年も、あの子のことを考えていた。
助けられなかったことを後悔していた。
もう一度会いたかった。
名前を呼びたかった。
それだけだったんだ。
ほんの一瞬、目を奪われた。
そして腹を割かれた。
怪物は何とか退けたけれど、傷は深い。
随分と血も流れてしまった。
治療をしないことには、長くは持たないだろう。
ああ、大事なことだから、ここにも記しておこう。
怪物の捕食を妨害すると、妨害者も認識阻害に呑み込まれる。
怪物を殺せれば、認識阻害は解ける。
その時に起こったことも、周りの人に認識されるようになる。
勿論、怪物のことは見えない。
つまり、どうやっても僕は頭のおかしな人にしか映らないのさ。
そして、一番大事なのが、怪物が態勢を整えるために一時退散した場合だ。
この時、認識阻害は解除されない。
獲物になった人間も、妨害した僕も、誰にも認識されないままになる。
怪物が再びやってきて、それを殺すまで。
僕がもうダメな理由、もうわかるだろ?
今回の怪物を、僕は仕留めきれなかった。
僕はまだ認識阻害の中にいる。
病院に行くこともできない。
助けを呼んでも、誰も気づいてくれない。
目の前に人がいても、僕の姿は見えない。
そして、僕にはもう、あの怪物を追いかける力が残っていない。
治療できないんだ。
致命的な、この傷をさ。
不思議なものだね。
あれほど人に理解してほしかった僕が、最後には誰にも気づかれずに死んでいく。
誰にも知られないまま、誰にも看取られないまま。
きっと、僕が死んだことに気づく人さえいないんだろう。
それでも、後悔ばかりじゃない。
僕が助けた赤ちゃんは、今頃どこかで元気に育っているかもしれない。
あの子だけじゃない。
僕が助けた人たちは、僕のことなんて知らずに、普通の毎日を送っているはずだ。
それでいいんだ。
最初の一ページは、遺書と、後に続く人に向けた言葉にしようと決めて、今まで空白にしていたんだ。
随分と長くなってしまったね。
ごめんよ。
でも、これだけは伝えておきたかった。
君は一人じゃない。
少なくとも、君と同じものを見て、同じように苦しんで、同じように戦った人間が、ここにいたんだ。
次のページからは、僕の戦いや苦悩の日々が綴られている。
怪物の特徴。
僕が見つけた弱点。
そして、僕が助けられなかった人たちのことも。
全部、書いてある。
どうか、それらが少しでも君の役に立つことを祈るよ。
……さて。
そろそろ、ペンを握るのも辛くなってきた。
これでお別れにしようと思う。
どうか、耐えてほしい。
どうか、諦めず戦ってほしい。
そして、もしできることなら。
僕のようにはならないでほしい。
君には、僕が出会えなかった誰かと出会ってほしい。
一人で戦わなくてもいい日が、いつか来てほしい。
それまでは、どうか生き延びてくれ。
どうにかできるのは、僕らだけなのだから。
ああ、死にたくない。
どうして僕が、1人で頑張ったのに。
全部じゃないよ、でも大勢助けた。
感謝なんてない、誰も知らないんだから。
だから誰か……僕を……みてよ。




