第6話「夕食は、冷めてから」
大屋根の主支持層への正式な立ち入り申請書は、設備局の受付窓口で足止めを食らっていた。
セナが提出した緊急調査要請の書類には、中央管理室の預かりを示す黄色い符牒が貼られたまま、三日が経過していた。
局長であるガルド・エスニが不在を理由に決裁を保留にしているのだという。
「急いてはいけませんね。手続きを無視して強行突入すれば、それこそ全権限を剥奪されて追い出されます」
昼下がりの石畳の坂道で、セナはそう呟きながらも、握りしめた図面ケースの角を指先で強く押していた。
焦りを隠しきれない彼女を落ち着かせるように、トアは自分の仕事鞄を持ち直した。
「許可が出るまでの間、目の前の仕事を片づけよう。待っている間に町が止まるわけじゃない」
二人が向かったのは、中層区の路地裏にある大衆食堂『石窯亭』だった。
昼の営業を終えたばかりの薄暗い店内には、煮込み料理の脂と香辛料の匂いが染み付いていた。
厨房の奥から、困り果てた様子の丸顔の店主が顔を出した。
「おお、トア君! 来てくれたか。もう本当に困り果てていてね」
店主が調理台の上に並べたのは、厚手の素焼きの深皿だった。
縁に素朴な釉薬が塗られた頑丈な陶器だが、そのうちの三枚が無残に真っ二つに割れていた。
断面は鋭く、まるで内側から刃物で切り裂かれたかのようだった。
「料理を温めるための保温盆に載せるたびに、皿が割れちまうんだ。ここ一週間で五枚目だ。この器はうちの煮込み料理専用の特注品でね、そう何枚も買い直せるもんじゃないんだよ」
トアは割れた器の一片を手に取り、断面を光に透かして観察した。
陶器の素地はしっかりと焼き締められているが、割れ目の深部に、微細な黒い煤のような変色が見られた。
続いて、調理台に組み込まれた保温盆に視線を移す。
四角い真鍮の枠の中に、淡く黄色い光を放つ平たい発熱板が嵌め込まれていた。
家庭用のものより一回り大きく、食堂で大量の皿を一度に温めるための業務用設備だった。
「オルミ技師、この保温板の術式銘板を見てもらえますか」
「はい」
セナが鞄から拡大鏡を取り出し、真鍮枠の側面に刻まれた微小な数値を読み取った。
「基本出力は300ケルン。立ち上がり時間は……1秒未満。急速予熱型の熱伝導回路ですね。停止条件は底面接触センサーの開放。至って標準的な仕様ですが、経年劣化により熱の立ち上がりカーブが急峻になっています」
「急峻、っていうのは?」
店主が不安そうに尋ねた。
「簡単に言えば、火の回りが早すぎるんです」
トアは割れた皿の底を指先でなぞった。
「親父さん、この皿、洗ったあと冷たい水に浸けたまま置いていませんでしたか?」
「え? ああ、油汚れを落としやすくするために、冷水桶に漬けておくのがうちの昔からの仕込み手順だが……」
「それが原因です」
トアは工具鞄から、研磨用の細いヤスリを取り出した。
「表面だけが一瞬で膨れ上がり、冷え切った内側がそれに引きずられて断裂したんです。鍋のお湯が吹きこぼれそうになっているのと同じです。いきなり温めようとするから器が内側から悲鳴を上げる。段階を踏んで温度をならしてやればいいんです」
「じゃあ、この保温板を買い直さなきゃならんのか? そんな金は……」
「買い直す必要はありませんよ」
トアは微笑み、保温板の角にある小さな調整ネジにドライバーを差し込んだ。
「熱の立ち上がりを緩やかに設定し直します。一気に温めるのではなく、10秒かけてじわじわと温度が上がるように回路の抵抗値を一段階上げます。それから、親父さん」
トアは厨房の隅にあった、木製の平鍋の蓋を指差した。
「皿を冷水から引き上げたら、いきなり保温板に載せず、この木蓋の上に一度置いて、ぬるま湯をさっとくぐらせてから載せてください。器の温度を一段階ならしてから温める。この二つの手順を守れば、もう皿が割れることはありません」
トアが調整ネジを慎重に四分の一回転させ、固定ボルトを締め直した。
そして、新しい素焼きの皿にぬるま湯を通し、保温板の上へ置いた。
真鍮の枠が柔らかい黄色の光を放ち、ゆっくりと熱が立ち上がっていく。
10秒後、皿の底からは心地よい湯気が立ち上り、陶器の肌は何の歪みも見せずに温もりを蓄えていた。
「おお……! 割れない! 全然嫌な音もしないぞ!」
店主の顔に血の気が戻り、明るい笑みが広がった。
「ありがとう、トア君! 器具を丸ごと買い替えさせられるかと思って肝を冷やしていたよ。本当に助かった!」
店主は弾んだ足取りで厨房の奥へ引っ込むと、大きな陶器の壺から、出来立ての湯気を立てる牛肉の煮込みをたっぷりとすくい、頑丈な持ち帰り用の深鍋に移して差し出してきた。
「これはうちの特製シチューだ! 代金とは別に、これを持って行ってくれ! 今夜の飯に二人で食べるといい!」
さらに、正式な作業工賃として銀貨が一枚、トアの手のひらに渡された。
トアは礼を言い、温かい鍋をしっかりと両手で受け止めた。
◆ ◆ ◆
大屋根の下に夜の帳が下りる頃、雨は静かな霧雨へと変わっていた。
トアの作業場には、卓上ランプの淡い橙色の光だけが灯っていた。
木製の作業台の上には、先ほど食堂の店主からもらった深鍋と、セナが道中のパン屋で購入してきた焼きたての丸パンが置かれていた。
部屋の隅の小さな暖炉では、先日の共同住宅の仕事で得た端材の薪が控えめな爆ぜる音を立てている。
「どうぞ、座ってください」
トアが部屋の奥から丸椅子を一つ引き出し、セナの前に置いた。
作業場には、客用の椅子はその一脚しかなかった。
トア自身は、道具箱として使っている頑丈な木箱を引っ張り出し、その上に腰を下ろした。
セナは丸椅子の座面に触れ、わずかに逡巡してから腰を下ろした。
彼女の視線が、作業場の壁際を自然と巡る。
整然と磨かれた工具類、油の塗られた真鍮の部品、整頓された吸着管。
しかし、その完璧に手入れされた仕事道具の棚の隣にある、トアの私生活の空間はあまりにも寒々としていた。
擦り切れた薄い毛布が一枚置かれただけの簡素な寝台。
棚には硬くなった黒パンの欠片と、干し肉の小さな包み、そして茶渋のついたマグカップが一つあるきりだった。
「……レキネさん」
「ん?」
「あなたは、普段何を食べて生活しているのですか」
セナの唐突な問いに、トアは深鍋の蓋を開けながら苦笑した。
「何って……パンと、干し肉と、たまに野菜の端切れを煮たスープくらいですよ」
「道具の研磨剤や交換部品には銀貨を惜しまないのに、自分の食事は切り詰めているのですね。先日の売掛帳の惨状といい、生活の収支バランスが著しく破綻しています。それに……」
セナは自分の座っている丸椅子の座面を指先でなぞった。
「この椅子の座面、人間工学的に完璧な傾斜角ですね。背もたれの湾曲も腰椎のアーチに正確に沿っています。木工の素人が作れる精度ではありません」
「親父の見よう見まねですよ」
トアが笑うと、セナは照れ隠しのように手帳で口元を覆ったが、耳の端が微かに赤く染まっているのがランプの光に透けて見えた。
「冷めないうちに食べましょう。せっかくの親父さんの料理ですから」
二人はパンをちぎり、温かいシチューを口に運んだ。
柔らかく煮込まれた牛肉の旨味と、根菜の甘みが口いっぱいに広がる。
張り詰めた調査が続いていたセナの肩から、力が抜けていくのが見て取れた。
彼女は静かに目を細め、小さく息を吐き出した。
「……美味しいですね」
「ええ。あの店の煮込みは町で一番なんです」
温かな食事が、作業場の冷え切った空気を和らげていく。
しかし、トアが二口目のシチューを口に運んだところで、セナの視線が作業台の端に置かれた黒革の綴り込み帳へと吸い寄せられた。
彼女はスプーンを置き、鞄から数枚の古い青焼きの図面を取り出した。
昼間に設備局の地下書架から密かに持ち出してきた、大屋根建設初期の配管系統図だった。
「気になって、食事が喉を通りません」
セナは図面を作業台の中央へ広げた。
トアの木製スプーンが宙で止まる。
「銀滴工房の回収管と、地下洗濯場の逆流配管。この二つを結ぶ共通のバイパスが、図面上に存在しないのです。なのに、あの回収容器の中で起きた脈動は、明らかに同一の干渉源を示していました」
トアは鍋を見つめ、それから諦めたようにスプーンを作業台に置いた。
「……飯を食いながら仕事の話をするのは、職人の行儀としては最悪なんですがね」
「今は非常時です」
セナが青インクのペンを取り出し、図面の一角を指し示した。
トアも木箱から身を乗り出し、図面の細部へ目を凝らした。
二人の距離が近づき、ランプの灯りの下で互いの吐息が白く交差する。
「ここを見てください」
セナが図面の中心部、大屋根の骨組みを支える巨大な支柱の基部をなぞった。
「すべての公設回収管は、この中央主幹支柱へ向かって勾配がつけられています。ですが、ここから先の処理施設への配管図が、公的な記録からそっくり抜け落ちているのです。ただ『大屋根支持層へ接続』とだけ書かれていて、具体的なバルブの配置も、容量計算も記されていません」
「隠しているのか?」
「あるいは、記録に残せないような構造になっているか……」
トアは顎に手を当て、考え込んだ。
そして立ち上がり、作業場の奥にある頑丈な木製の道具箪笥へ向かった。
最下段の引き出しを開け、油紙に包まれた一冊の分厚い革表紙の手記を取り出す。
表紙には、かすれた金文字で『ロウ・レキネ』と刻まれていた。
五年前、病で亡くなったトアの父が遺した、現場の作業日誌だった。
「父さんは、大屋根が作られた当時の初期点検に参加していた職人の一人でした。何か書き残しているかもしれない」
トアは手記を作業台の上に置き、色褪せたページを慎重にめくっていった。
二十年前の日付が並ぶ。
そこには、鉱石板の固定手順や、雨水の流路設計、作業員の配置といった泥臭い現場の記録が、父の飾り気のない筆跡でびっしりと書き込まれていた。
セナも息を詰めて手記を覗き込む。
二人が並んでページを繰る間、卓上の深鍋からは湯気が消え、表面に薄い油の膜が張り始めていた。
料理が冷めていくことも忘れて、二人は過去の記録の中に答えを探し求めた。
そして、手記の中程、ある大雨の年の記録に辿り着いたときだった。
トアの指が、ある頁の隅でぴたりと止まった。
そのページには、大屋根の骨組みの断面図が手書きのインクで詳細にスケッチされていた。
支柱の内部を貫く、巨大な排気管のバイパス回路。
そして、その管が屋根の支持層へと潜り込む接続部に、父の筆跡で、小さく一つの符号が書き添えられていた。
三つの同心円の刻印。
セナの呼吸が浅く止まった。
彼女は震える手で、昼間に銀滴工房でスケッチしてきた回収管の部品図を重ね合わせた。
二つの図面は寸分の狂いもなく重なり合い、完全な一致を示していた。
「……お父様の、手記に」
セナが掠れた声で呟いた。
「なぜ、二十年も前の点検日誌に、最新の公設接続部品と同じ印が……」
トアは返答できなかった。
手記の余白には、父の荒々しい文字で、こう書き殴られていた。
『暫定処置として支持層へ逃がす。期限は半年。これ以上の猶予は屋根の骨を腐らせる』
トアは冷え切った自分の指先を見つめた。
大屋根の仕事は、父の誇りだった。
その裏側に押し込められていたものが、重くのしかかる。
冷めきったシチューの皿の上で、ランプの炎が、微かな隙間風に揺れていた。




