囲炉裏ばたの茶碗
フサヨさんに聞かせてもらった話。
フサヨさんの生まれ育ったところは豪雪地帯で知られる山奥の小さな村だった。
今ではすっかり少なくなったが、昔は真冬にもなると家の一階の屋根の上まで雪がうず高く積もったという。そのため、雪の重みで家が倒壊しないよう、冬のはじめには家の周りを大きな板でぐるりと囲んで、更に太い支え棒で壁や柱のあちこちをつっかえて補強していた。
雪に一階部分が埋もれてしまう時季は、二階の窓から出入りをするのが常だったそうだ。
フサヨさんにはタダシさんという弟がいた。
当時二十歳過ぎだったタダシさんはかの戦争末期に兵に取られ、南洋方面に送られる予定だ、という便りを最後に行方がわからなくなっていた。
そして終戦を迎えて各地から沢山の引き上げ兵が戻ってくる頃になっても、役場では
<南洋某所に送られたが、その後は消息不明>
と告げられたきりで、タダシさんは生死すらかわらないままだった。フサヨさんたち家族はもしや、と心配していたが、それでもタダシさんがいつ帰って来てもよいよう、好物などを用意して無事の帰りを待っていた。
そして終戦翌年の二月。
当時フサヨさんはすでに隣の村にお嫁に行っていたが、ご両親が高齢で具合もよくなく、真冬の厳しい季節で心配だから、と実家に戻ってきていた。
その日もフサヨさんはいつもの様に夜明け前から起き出して、竃と囲炉裏の火を熾こし、朝の支度をはじめようとしていた。フサヨさんのご両親はまだ寝ていた。
一階屋根の上まで雪で覆われている時季は、一階は地下の様に常時真っ暗である。小さな裸電球ひとつの薄暗いなか、竈の灰の下の元火に藁屑をくべて炎を大きくし、次には囲炉裏の火を、と囲炉裏のある居間に上がろうと木戸を開けると
囲炉裏の向こう側に、壁を背にして誰かが座っていた。
「だ、誰?」
一瞬泥棒かとフサヨさんは驚いた。そしてよく見れば、それはタダシさんだった。
汚れてくたびれた軍服姿のタダシさんは部屋の明かりも点けず、暗い中で囲炉裏の前にきちんと正座して座り、穏やかな表情で姉のフサヨさんを見上げた。
囲炉裏の火はタダシさんが熾こしたのかすでに灰の中は赤々として、囲炉裏にかけたままだった鍋の芋汁の残りがうっすら湯気を立てはじめていた。
「あれぇ!タダシ!」
フサヨさんは突然帰ってきた弟に声をあげた。
「いつ帰ったんだぁ?今朝の汽車か?けんど、雪で駅からのバスはまだここまで来んやろ?歩いて来たんか?寒かったやろ。あんれまぁ、可哀相に、この子はまぁ。火、もっと熾こしな。薪、そこにあるで」
そう一気にまくしたてる姉にタダシさんは静かに笑い、
「姉ちゃ。オレ、腹が減ってさ。しばらく何も食ってねぇんだ。何かねぇか?何でもええで」
と言った。
「おうよ。ちょっと待っててや。ゆうべの飯が残ってねぇかな。漬物はあるで。そこの汁、温めて食べてな。父ちゃんと母ちゃん起こしてくるでさ。ちょっと待っててや。今日は赤飯炊いたるで。アンタが帰って来た時にって、小豆ともち米とってあるんだぁ」
今の様に電気ポットどころか魔法瓶すらない頃の事である。
熱いお茶一杯さえもすぐには出してやれない。
フサヨさんはお櫃をのぞいたがご飯は残っておらず、とりあえず糠漬けを乗せた小皿と空の味噌汁茶碗と箸を盆で運び、タダシさんの前に置いた。
「これ、もうじき温まるで。すぐに飯こしらえてやるでな。待っててや」
フサヨさんは囲炉裏の鍋の蓋を取って中身を混ぜ、やっと帰ってきた弟の顔を間近に見て、それから嬉々として両親を起こしに行った。
そしてまだ寝ぼけまなこの両親と一緒に、囲炉裏の前にやって来た時には
タダシさんの姿は無かった。
赤くなりはじめていたはずの囲炉裏ばたに火の気は無く冷え切っており、鍋も冷たいままだった。
ただ、囲炉裏の前に置かれた漬物はいくつか手をつけられており、椀の底には汁が少し残っていて、椀の上に箸が揃えて置かれてあった。
そしてタダシさんが座っていたところは、雪道をやって来た者が座った時の様に少し濡れていた。
「親には寝ぼけたのか、泥棒だったのかって言われたけど。あんな雪の深い時にわざわざ来る泥棒なんていないし。あの子にあったかいもん腹一杯、食べさせてやりたかったぁ。囲炉裏の前に茶碗があると、今も思い出してねぇ」
フサヨさんは囲炉裏ばたでしみじみと言った。
タダシさんはいまだに帰る事なく、行方不明者扱いのままだという。
あの戦争で亡くなったすべての方々に。
合掌。




