No.16 チャンスの女神
第一印象は最悪だった。何と言ってもあいつの俺に対する第一声が
『廉兄ちゃん、あれ、すっごいぐちゃぐちゃ。気持ち悪~い』
だったくらいから。まだお互いに七歳の時だった。そんなチビっ子が俺の背中のケロイドを見て、率直にそう言うのはしょうがない、と今は思うけれど、俺もまたその時はチビっ子だったから、不覚にもあいつに涙を見せてしまったんだ。心の中で《だからプールなんか行きたくないって言ったのに》って、泣きながら親父を責めていた。
だけど次の瞬間、俺は親父に感謝すらしていたかも知れない。俺を傷つけたと気づいたあいつの『綾乃が泣かした。ごめんなさい』と謝りながらぱたぱたと涙を零した泣き顔と、その後であいつが見せた、向日葵の様な笑顔に出会わせてくれたとも言えるからだ。
『綾乃が悪いのに、許してくれてありがとう』
そう言ったあいつの顔は、本当に向日葵がぱぁっと花開いたみたいな、零れそうな満面の笑みだった。
宮下綾乃――書道教室でその名を記している彼女の姿を偶然見かけ、その再会に俺の心臓はステップを踏んだ。書道の師匠に訊いて彼女が隣の学区の生徒だとようやく知った。それが、小学四年生の時。その時既に、彼女からは、あの向日葵の笑みが消えていた。『綾乃』と自称していた彼女は『オレ女』になっていた。おかっぱのセミロングだった髪もばっさり切って、何処かで見覚えのある中性的な面立ちに変わっていた。
書道教室で一緒だった、彼女と同じ学校の男子に事情を訊いて、ようやく彼女の面差しが、『廉兄ちゃん』にそっくりだと気づいたんだ。そして、そうなる経緯も初めて知った――『廉兄ちゃん』が綾乃を庇って交通事故で死んだことも、そのショックでメンタルをやられた彼女の母さんの為に、綾乃が『廉兄ちゃん』を演じ続けているということも、その時俺は初めて知った。
あの時、既に俺は落ちてたんだろうか。とにかく、綾乃は俺にとって、他の女子とはちょっと違う『特別な存在』になっていた。どうしようもない幼い頃の失敗を傷として抱えたままの脆さや、母親の為に自分を捨てる一途さが、他の女子よりも『女子』らしく繊細に見えた。今では綾乃の母さんも普通に戻ったけれど、あの当時の俺は綾乃の母さんを恨んでもいた。
俺達が住んでいるこの町は、人口三万人弱という小さな町で、自転車通学が出来る中学生にあがると町内に二校しかない小学校の卒業生がこの中学に集結された。
中学三年の間で綾乃と同じクラスになることはなかった。声を掛けそびれたまま、最後の一年になっていて。塾でもそれはおんなじで、何と声を掛けていいのか解らなかった。こっちはこんなに鮮明に覚えているのに、綾乃の奴はこっちのことなんて全く覚えていなかったから、どう話を切り出したらいいのか、俺のツルツルな脳みそではいいアイディアが浮かばなかった。
『プールでケロイドが気持ち悪いって言われた奴だよ、覚えてるか?』
責めている様にしか聞こえない……。それに、その言葉は必然的に、『廉兄ちゃん』を連想させてしまうだろう。あの時、あいつは『廉兄ちゃん』を困らせたことでもショックを受けていたのだから。
辛い思い出の象徴になるのは、俺としては戴けない。考えあぐねている間に、二年の月日が流れてしまった。
あの当時、気になることがもう一つあった。
三年当時生徒会長になった、望月貴明、といういけ好かない同級生。こいつが綾乃の幼馴染らしくて、いつも隣にくっついていやがった。そこそこイケてる奴で、女子の注目を二分していたらしい――というのは、俺が別に噂好きだから知っていたというのではなく、当時俺に告って来る女子達が、何故か俺と望月をワンセットで考えていたからだ。
『藤堂先輩は百合先輩とつき合っているという噂を聞いていたから、ずっと言わずにおこうと思っていたけれど、百合先輩は望月先輩の彼女だって噂を聞いて勇気を出すことに決めました』
そんな打算まみれの手紙にうっとうしさを感じていた俺はいつも、下駄箱に入っていたそいつの冒頭を読んだ段階で読む気が失せて、必要な情報だけ手に入れたらゴミ箱に捨てていた。女子の噂というのは、どうしてこう月単位で二転三転するんだろう?
『彼女いない歴十四年で悪いかっ! こん畜生――っっっ!!』
当時は、そうやってよく吠えていた。望月に負けるのが妙に悔しかった。ただでさえ成績は雲泥の差で遅れを取っていたのに、人格にまで遅れを取るのは、成績以上に悔しいものがあったんだ。
『廉兄ちゃん』がキャプテンをしていた、という話を聞いてやり始めたバスケット、中学になった辺りからは俺自身が『廉兄ちゃん』の代わりという意味ではなく嵌っている。
こいつだけは誰にも負けねえ。望月にだって、誰にだって、バスケだけは負けてなんかやらない。そんなことを考えては俄然やる気が湧いて来て、よく町内の体育館へ練習をしに行く中学時代だった。
※
二年の三学期末、何か知らんが阿弥陀くじに当たってしまい、整美委員の副委員長になってしまった。役員なんかになったら、バスケの練習時間が減るから嫌だったんだけど。役員名簿を見て、ちょっと気が変わった。あいつが応援団の副団長だったからだ。
――フレ――、フレ――、とーうーどーうっ!
彼女の通った声を思い出す。俺と知らずにいるのだろうけど、あの声援のお陰で試合はいい線までいけた。二年でレギュラーだったのは俺一人だったが、三年の先輩達に文句を言わせないだけの貢献が出来たと今でも自負している。ゴールを決めた瞬間の歓声の中、あいつの『うっしゃ――っ! ナイッシュー、藤堂っ!』
という甲高い声が俺を更に奮い立たせてくれた。
ふと思いついて、その時役員名簿と議事録を持って来た望月が立ち去ろうとするのを俺は慌てて呼び止めた。
望月は相変わらず涼しい顔で微笑みながら、柔和な態度で『後でもいいかな、議事録を配ってしまなわないと』と断りを入れて来た。
そこを俺は食い下がって、一つで、幾つかの疑問が解る質問をした。
『整備委員の役員席、応援部の隣にしてくれよ。会長権限で出来るだろう?』
望月が綾乃をどう思ってるのか、俺が綾乃にとってどういう立ち位置にいるのかを確認出来て、尚且つ俺がこいつに牽制を掛けられるというオマケつきの質問のつもりだった。しかし、流石は文武両道の生徒会長。暫く俺の顔を凝視したまま沈黙を保ったかと思うと、もっそい不愉快な気分にさせられる笑みを零して答えた。
『ふーん。藤堂って、そうなんだ』
貸し一つね、という捨て台詞を残して、にっくき望月は教室を出て行った。顔色が変わらなくてわかんねえ。でも、まあ牽制だけは掛けられた。それだけでよしとしよう、と当時は思っていたのだが――。
※
「よっ、お待たせ。友達にアイス食って帰ろうって誘われちって。遅くなって悪い」
綾乃の声で、俺は懐古から現実に戻って来た。
望月の半年にわたる助力のお陰で、あの総会をきっかけに、紆余曲折有りながらも三年の秋頃から綾乃とつき合い始めて現在に至る。あれからもう二年以上も経つんだな、と今の綾乃を見てると時間の流れをとても感じる。
相変わらずの「オレっ子」なんだが、いつの間にか仕草や服装が女らしくなって来た。何でも、進学した高校で女友達もたくさん出来て、話題についていく為に雑誌やお喋りなどで情報収集をしている内に、何となく身についていったらしい。同郷の女子で同じ高校に行ってる奴に俺とつき合っているのがバレた時、物凄い説教をされたそうだ。
『あんた、そのままだとあっという間に藤堂君に浮気された挙句に捨てられるわよっ!』
する訳ねーじゃん。その前に、まだ俺は綾乃の全部を手にしてない。まだ、綾乃にとって一番の男じゃない。――まだ、『廉兄ちゃん』を越えてない。
「おーい、どした? 行こうぜ。図書館」
「お? おお。悪ぃ、呆けてた」
いつの間にか、また自分の世界に入っていた様だ。俺が慌ててそう返事をすると
「変な奴。頭使い過ぎて疲れてんじゃねーの?」
と、向日葵の様な笑みを浮かべながら、俺の腕にその細い腕を絡ませた。
※
「棚卸で臨時休業……」
二人して呆然と大型書店の前で立ち尽くす。
バスケの推薦入学で今の高校に通っている俺は、どうにも成績が芳しくなくて、進学校に進んだ綾乃に勉強を教わるのが日課になっていた。綾乃は友達と過ごしながら俺のクラブが終わるのを待ち、駅前で待ち合わせてからブックカフェで一緒に勉強をする。成績が落ちたら退学ものなのだ。バスケ馬鹿の俺には厳しい状況だった。
「あ、今日はお袋が遅番だって言ってた。喋り魔がいないし、家でやるか?」
無駄足を踏ませた詫びも含め、俺は綾乃にそう提案した。来週のテストまでに後もう二単元は確実にしておかねばならない。それを綾乃も知っているので「そうだな。んじゃ、戻るか」と苦笑しながら賛同した。ありがとう、というのが照れ臭くて、不意をついて彼女の首ったまを掴み、下ろした前髪の上から額へ「chu」とすると、綾乃は相変わらず顔を真っ赤にして「人前ですなっ!」と腕の中で足掻いていた。
――ヤヴァイ。益々可愛くなる……。そして、余計に言い出せなくなる。
俺は綾乃に『伝えなくちゃいけないこと』があるのに、今日もそれを言えそうになかった。
※
「――って感じで解くと、数値がnの時のaとbの数値を、こういう数式で表すことが出来るだろ?」
「あ、なるほど」
「んじゃ、この問題集の四番をひと通りやってみな。これが解けたらマスター出来たって考えていいと思うよ」
そう言って綾乃は自分の学校の応用問題集を貸してくれた。俺が問題を解いている間に、自分の宿題をやってしまおうという訳だ。
学校の先生よりも、綾乃の説明の方が却って解り易い気がする。中学の頃は数学の成績なんかはどっこいどっこいで同じ数学塾に通っていたくらいの筈なのに、いつの間にか綾乃に追い越されていた。この現状が助かる反面、自分の不甲斐無さに情けなくなる。俺でいいんだろうか、と時折心配になってしまうことがある。何と言うか……あまりにも、綾乃が基本、俺に対して淡白だから。
あ、いかん。勉強に集中出来てない。この問題の此処から先が訳わかめ。綾乃に訊こうと顔をあげ、その横顔を見た瞬間、何だか急に胸が痛んだ。
長く伸びた髪が、綾乃の横顔の殆どを隠す。その隙間から僅かに覗く細い瞳が、何処か寂しげに見えた。
前に綾乃が言っていた。
『廉兄ちゃんは頭がよかったからね。勉強もバスケも学年トップに主将っていう立場だったし。それに近い自分でいることが、廉兄ちゃんや母さんへの償いだと思ってる』
死んだ人に縛られて、周りで一緒に息をしている人に無関心過ぎる、と思った俺は冷たいんだろうか? まだ、何処かで『廉兄ちゃん』のレプリカであろうとする綾乃に、俺はしばしば憤る。「こっちを見ろよ」と叫びたくなることがある。
「雅之?」
不意に綾乃が顔をあげたのは、俺が彼女の頬に触れた所為。戸惑う様に眉間に皺を寄せる綾乃を見て、どうしようもない焦燥感に苛まれた。
「何? 終わったのかよ」
「なあ、お前さ、いつまで『廉兄ちゃん』のレプリカを続けるつもりだ?」
「……は?」
――俺らみたいな年頃の男が、普段何を考えてるか、なんて、なんちゃって野郎の綾乃にはわかんないだろう。
「ちょ……っ、雅ゆ……んん?!」
お前の言い訳なんかもう聞き飽きた。「そんなことない」という否定も聞き飽きた。もう、あまり時間がないんだ。いい加減、おままごとみたいなつき合いごっこを、俺は卒業したいんだ。
それまで綾乃を赤面させてたおままごとのキスなんかじゃない、噛み付く様な形でそんな想いを綾乃に捻じ込む。捻じ込んで、かき混ぜて、それは綾乃の恐怖と混ざり合い、不協和音を奏でていた。
「おま……何考えてんだ馬鹿野郎っ、離せ!」
そう言ってもがく綾乃が、俺を引き剥がそうと爪を立てる。その指先を彩る淡いピンクまでもが「このままでいたい」という綾乃の主張に見えて、その妄想が更に俺を苛つかせた。鍛え上げて腕力が増した腕一本で、綾乃の両腕なんか簡単に拘束出来る。いい加減に気づけよ、綾乃。お前は『廉兄ちゃん』なんかじゃないし、男でもない。
「やだってば……お願い……」
両目から決壊したダムみたいに涙を流して力なく綾乃が呟いたのと、俺が彼女のキャミソールの下に手を忍ばせたのと、そして最悪なことに、突如俺の部屋の扉が乱暴に開かれたのまでもが同時だった。
「この馬鹿息子がっ! 綾乃ちゃんの叫び声で慌てて部屋に来て見れば、お前一体何やってんだいっ!!」
「げ……っ、お袋、今日は遅番じゃなかったのかよ!」
「シフトが変わったんだよっ! んなことぁどうでもいいんだよ!」
最悪だ――。
俺はお袋の背中へのひと蹴りと、正面から綾乃の両頬への平手打ちを同時に受けて、残りHPがゼロになった。
※
お袋が冷静でまだよかったと思う。俺をこてんぱんにどやしつけはしたが、綾乃に対して決して「息子を誘惑した」みたいな誤解をしなかった。むしろ一時的に戦闘不能で自己崩壊した俺に代わり、何度も綾乃に謝罪をしていた。
未遂に終わったことと、綾乃自身が俺を庇ってくれた為、お袋が綾乃の母親に詫びを入れるとごねていたのを、望月が綾乃を送迎するという形で事態は収束した。望月は相変わらずの小憎たらしい演出で
「却って綾乃のお母さんが心配すると思いますから」
とか何とか言って家のお袋をなだめていた。もう最低。俺、恰好悪い上に百パーセント、振られ確定。
軟禁された自室で、例えでなく両手と両膝をがっくりと床にくっつけた姿勢でへこんでいると、扉の向こうから親父の俺を呼ぶ声が小さく聞こえた。
「今夜は飯抜きなんだって? 母さんから職場に電話が来て聞いたよ。コンビニ弁当をこっそり買って来てやったから、食いながら少し話でもしないか?」
餌で釣って説教かよ。望月の何処が気に入らないか、久しぶりに思い出した。親父と似てるんだよ、こういう策士っぽいところが。
「説教はもう充分だよ。親父もお袋と同じことが言いたいんだろ?」
「いや、むしろ逆なんだがな」
「は?」
俺は策に嵌ったんだろうか。逆って何かと気になって、結局親父を招き入れた。
「親父だと思うと素直に聞けないだろうし、僕もそういう話をしたい訳じゃない。男同士の話ということで、母さんには絶対内緒だぞ」
俺が受け取った弁当を机に向かって黙々と食べている間、親父は俺のベッドに腰掛け、俺の背中に語りかける様に、そんな出だしで『男同士の内緒話』をし始めた。
※
「焦る気持ちもわらかんでもないが、ちょっと順序が逆だったよなあ。まだ、綾乃ちゃんには何も言っていないんだって?」
痛いところを突いて来やがる。茶で飯を流し込み、俺は無言で頷いた。
「女の子は僕ら男よりもデリケートで、特にお前達の年頃ならば余計に繊細なものなんだから。傷つけたくなくて言い出せないんじゃないのか? なのに、結局順序を間違えたばかりに綾乃ちゃんを傷つけて後悔している。今のお前の心境はそんなところじゃないのかい?」
それに答えず弁当の空き容器を袋に詰める俺に、言及するでもなく親父はとんでもないことを提言した。
「離れている間に、他の女と遊ぶのも一つの手だぞ?」
「ぶふっ!」
思わず机に向かって茶ぁ噴いた。今、何つった、このクソ親父?!
「このエロ中年、何考えてんだ、あんた」
信じらんねえ、我が親父ながら。都市銀行の支店長という肩書きが泣いてるぜ。
そんな俺の嫌悪の目を気にもせず、親父は自分の若かりし頃の武勇伝をおもむろに語り、苦笑しながら気色悪いことを言った。
「母さん譲りだな、お前のその一途さは。だから、僕は母さんにだけはこの話が出来ないんだけどね。場数を踏むから、理解が出来る。そういう考え方もあるんだよ」
親父はそう言って、振った振られた、そんな若かりし頃の恋話を幾つか、軽くなぞって俺に聞かせた。そして、最後にこう言った。
「綾乃ちゃんにも言えることだ。まだ若い内から、お互いに縛られる必要はない」
僕はお前を一人前の男として認めているから、お前の将来のことも許したんだ、と言って部屋を出た時、初めて親父の違いに気がついた。
自分のことを「父さん」ではなく「僕」と称していたことや、泣いて反対したお袋に、あの無謀な俺の将来の夢を一緒に説得してくれたのも、全部、親父なりに俺を一人前の男として認めるという意思表示だったんだ、と今頃俺は気がついた。
「まあ、当たって砕けてみるのもまた一つの手だしね。いずれにしても、お前自身が自分に自信を持つことだ。でないと、向こうへ行っても無意味だよ」
逃げないこと、と言いながら、子供の頃と同じ様に俺の頭をくしゃくしゃに撫でて、親父は部屋を出て行った。
※
翌日、翌々日と二日連続で綾乃は駅前のいつものベンチで俺を待ってはいなかった。逃げているつもりはないんだが、練習を綾乃の為にサボる気が起きなかった。俺からバスケを取ったらただの馬鹿でしかないという自覚があるし、何よりきっと、綾乃がまた自分を責めるだろうと思ったから。
「やっと週末じゃん……」
待ち遠しかった週末。朝練のない日の前夜。
俺はチャリをかっ飛ばして、綾乃の家に直進する。今日こそちゃんと伝える為に、駄目元で当たって砕けてみる。
「ごめん」という謝罪と、「やっぱり焦らなくてもいい」という前言撤回と、それから――。
綾乃の部屋の窓を見上げながら、チャリにまたがったまま電話を掛ける。それで出なけりゃピンポンだ。綾乃の母さんを味方につけて、取り敢えずツラだけでも拝んでやる。――なんて意気込みと覚悟で電話をしたんだが、意外とあっさり電話に出た。結構拍子抜けしないでもない。
『クソタヌキ、今更謝っても許さないからな』
内容は覚悟以上にダメージを食らうものだった。許さねえのかよ……。
「許さなくていいから、取り敢えずツラ貸せ。殴りたければ殴ればいいし、取り敢えずお前に言っておかなきゃいけないことがあるんだ」
返事を聞かずに電話を切る。それでそのままなら、今日のところは帰ることにする。
俺の携帯が音量最大で、綾乃に特定した着信音を周囲に響かせる。と同時に、綾乃が部屋の窓を勢いよく開け放つガラガラ、という音の直後に
「てめ、家まで来てるなら先に言えっ!」
とぐしゃぐしゃの顔をし、鼻水を垂らしながら怒鳴りつけた。一気に緊張が解けた瞬間だった。よかった、綾乃に嫌われてはいなさそうだ。
門の前に現れた綾乃の、パーカーを羽織った下は思い切り部屋着のまんまで、結構露出の激しい真夏の服装。それはちょっと今の俺には目の毒なので。
「そこの公園までちょい付き合えや。そのまんまだと襲われっぞ」
そう言って思わず視線を逸らしてしまった。
「お前が言うなよ」
という綾乃の声は柔らかで笑いも混じっていた。ほっとしたものの、彼女が着替えの為に部屋に戻っている間に次の緊張が高まって来る。仲直りの直後にまた喧嘩、なんて事態になったら今度こそ本当に終わりかな、みたいな。だけど、伝えておかなくちゃ。もう決めたことなんだから、今更やっぱなし、という訳にはいかないのだし。
「お待たせ」
そう言って今度は目のやり場に苦心しないTシャツにジーンズというラフな恰好で現れた綾乃を後ろに乗せて、俺らは小さな近所の公園に向かった。
※
「この間はすまん。もうあんなことはしないって約束する。それから、やっぱ焦らなくていいから、綾乃が楽な自分でいてくれたらそれでいい」
ブランコを立ち漕ぎしている綾乃にあわせて、右へ左へと視線を揺らしながら、俺は取り敢えずそこまで一気に告げた。それから、一番報告しなくちゃいけないことをようやく舌に乗せることが出来た。
「言い訳みたいで、このタイミングで言うのはどうかと思うけど……俺、東海大を受けることにしたんだ」
綾乃の視線が、真正面から俺の方に移ったのが俯いた視界の隅で感じ取れる。ブランコの動きが止まって、彼女がそれに座る気配を感じる。
「東海大って、二年連続で優勝したチームの大学、だよな」
「うん。すげえ偶然だけど、家の監督が人を通じてあそこの監督を去年の試合に招待してたらしいんだ。それで俺に気づいてくれて、家のチームに来ないか、って誘ってくれたんだ」
一年近くも黙っていて、何だそりゃ、と怒鳴られると思っていたんだけど。
「東海大って、確か北から南までキャンパスがある学校だよな。お前が行くのは何処なんだよ」
消え入る様な声で、呟く様にそう言った。
「神奈川県。ずっと黙っててすまん。離れるって聞いたら、お前に絶縁されると思って、なかなか言い出せなかった」
「何で?」
そう言って寂しげな笑みを浮かべるのは、きっとまた自分を責めているからだ。
「離れてる内に、その……『廉兄ちゃん』に負けるかも、っていうか、また忘れられちまうっつーか、その……」
駄目だ、そこから先が巧く言えん。こいつの前で自己主張していないと、視界から外れたら『廉兄ちゃん』に、綾乃の気持ちのウェイトを全部占められてしまうと思ったんだ。客観的に聞いて、これは怪しい。死人に嫉妬する俺という構図は変だ。しかも相手は兄貴だし。
ブランコに大股開きで腰掛けたその態度は偉そうなのに、俺は肘を自分の膝についてうな垂れていた。それ以上、巧く言えない。自分に対する歯痒さが、俺のまつ毛を軽く濡らした。不意に綾乃の履いていたサンダルが視界に映る。細い指先が俺の両の頬に触れ、そっとその輪郭をなぞったかと思うと、そのまま挟んで俺の視線を綾乃の方に向けさせた。困った様な、面映いという様な苦笑を浮かべて綾乃が目の前に佇む。彼女がほんの少し俺の方に姿勢を傾けると、その長い髪が前に垂れ下がり、彼女の表情は月明かりの逆光となって、あまりはっきりと見えなかった。
「――ッ!」
それは、いつものままごとの様なのでもなく、この間の噛み付く様なものでもない、流し込まれて来る綾乃の気持ちがストレートに伝わる様だった。
「雅之、信じろ。オレはずっとお前の応援団だ。お前がその道を決めたのなら、オレはいつでもお前のところへ応援に駆けつけるから。それは、廉兄ちゃんの真似じゃなくて、お前自身が目指している夢なんだろ?」
耳元に甘く囁くその声は、「オレ」という自称名詞が全然似合わない『女』の声で、立ち膝になって綾乃の懐に納め抱えた俺の髪を弄ぶ指は、とても愛しげに扱う仕草で。『廉兄ちゃん』がいるのは、綾乃の心の中じゃない、俺の中だったんだと今更ながら思い知った。
「嫌われたかと思ってた。別れたいって言われるのが怖くって、駅で待てなかったんだ。あんなことで繋ぎ止めようなんて焦らなくても、オレはもう絶対お前のことを忘れないよ」
お前のことが好きだから、待ってなんかやらない。ずっとお前の隣で応援してるから――。
初めて、綾乃が自分の気持ちを口にした。初めて自分から俺にキスをした。オレは、初めて綾乃に素の自分を晒せていた――。
「お前が何で泣いてんだよ。まるでオレが泣かしたみたいじゃん」
そう言って綾乃は立ち上がり、俺の目と頬を乱暴にTシャツの裾でごしごしと拭き取った。それからもう一度、「ちょっとだけ大人のキス」をしてくれた。
「女に、こんなことさせてんじゃねーよ」
とその直後にこめかみゴリゴリの刑もお見舞いされた。
※
俺らは相変わらず、喧嘩しては仲直りする毎日を送る。少しだけ変わったのは、綾乃が「オレ」から「アタシ」に呼称が変わったことだ。
俺はやっぱり綾乃以上の女はいないと思う。自信を持ってそう思えることで、何となく親父のことも越えられた様な気になってる俺がいる。
焦らなくていい。それは、綾乃だけじゃなく俺に言えることなんだと思う。二人のことも、遠距離恋愛になってからのことも、その更に先のバスケのプロ選手になるという夢の実現も。
推薦の形ではなく、自分で自信を持って堂々と在籍出来る様、真っ当に受験することにした。綾乃が協力してくれるし、結構イケる自信もある。日本中の優秀な選手が集まるのだろうから、そこでもし夢が潰えたとしても、他の選択肢も持てる様、勉強も一応頑張っておきたい。
大丈夫、どう転んでも俺の前には常にチャンスが転がっている。傍らで、ずっと女神が応援しているんだから――。