④
一番街のパブ。
この時間でもほとんど満席で、酒や軽食を楽しむ人々で賑わっている。
ネロはこういう店に来るのは初めてだった。孤児院は修道院の中にあって、労働者階級の人と触れ合う機会はなかったし、そもそもまだ十三歳。酒を楽しむ年じゃない。
狭い店で騒ぎ立てる男たちの怒声と、タバコと酒と機械油の匂い。ごちゃごちゃした空気に当てられて、ネロはそれだけで酔いそうな気分になっていた。
クラクラする頭でクイーンと名乗る女と向き合うも、ネロはどうしていいか分からなかった。
「あ、あの……」
豪快にスコッチのグラスを傾ける彼女に、ネロはとりあえず話し掛けてみる。
「いつから探偵社に?」
「そろそろ一年くらいかしら。こう見えて、あそこでは私が一番新人なのよ」
赤毛をシュークリームのように結っているところは上品だけれど、酒が入った水色の目は、迫力を感じるまでに据わっている。
落ち着いた身なりからは、若いのか、それなりの年齢なのか分からないけれど、話の様子では、キングより年上なのかもしれない。
彼女はネロのグラスに水を注いで、ニコリと首を傾けた。
「本当は手料理をご馳走したかったけど、あいにく、食材を切らしててね。ここは品がない店だけど、ブラックプディングは美味しいわよ」
と、彼女は皿に乗った黒い輪切りをネロに差し出す。ひとつ摘んで口に入れれば、香辛料の刺激が舌を刺した。孤児院ではジャガイモばかり食べていたから、涙が出そうなほど大人の味だ。
慌てて水に手を伸ばし、喉に流し込む。ふうと一息ついて顔を前に戻すと、クイーンが細い目をしてネロを見ていた。
「いきなりうちで働きたいなんて、いい度胸してるじゃない」
テーブルに肘を置いて、トロンと赤らんだ目でネロを眺める。
「す、すいません……」
ついネロは謝った。それをクイーンは笑い飛ばした。
「謝ることないじゃない。私は褒めてるの。ボスは常識人だとか言ってたけど、あんな変人集団の中で、よく働きたいと言えたって、感心してんのよ」
皮肉なのか本心なのか、彼女の表情からは分からない。
「それは……」
ネロは目を伏せた。
「ジャックさんに助けられるまで、野垂れ死にするんだと本気で思ってたんで……」
「なるほどね。溺れる者は藁にも縋る、ってやつか」
クイーンは氷の残ったグラスにスコッチを注ぎ、じっとネロに視線を送る。
「――死ぬのは、怖い?」
何を言われたのか理解できず、ネロは顔を上げた。彼を見て、クイーンは繰り返す。
「さっき、あなたのご両親が炭鉱の事故で亡くなったって言ってたじゃない? それが嫌で炭鉱で働きたくないと。やっぱり、死ぬのは怖い?」
どう答えるべきか迷った末に、ネロは正直に話すことにした。
「死ぬのは、そこまで怖くないです。周りの人が死ぬのをたくさん見てきたんで、いつか死ぬのは当たり前だと思ってます。それと、炭鉱で死ぬのが怖いのとは、ちょっと違います」
「へぇ……」
「落盤事故があったって聞いた時、町の人はすぐに、鉱山の入口を塞ごうとしたんです。まだ中に、大勢の人がいるのに」
「…………」
「落盤の原因がガス爆発だったら、町も危険だからって。原因も分からないし、家族が中にいる人だってたくさんいるのに、町を守るためだからって」
クイーンは静かにグラスを口に運んだ。
「それで?」
「僕は一人で反対しました。でも、誰も話を聞いてくれません。それどころか、おまえの両親が事故の原因だったのかもしれないと言われて……」
ネロは顔をしかめる。大人たちから、罵詈雑言と共に浴びせられた拳の痛みが蘇った気がして、彼は両腕で体を抱える。
「その時、両親が言っていたことの正しさを知りました。炭鉱で働いていた子も多かったのに、どうして僕は、貧乏生活をしてまで学校に行かされるのかと聞いた時の答えです」
――こんな町にいたら、ロクな大人になれない。勉強して賢くならなければ、本当の意味での大人にはなれないんだよ――。
「だから、僕もまた炭鉱で働いて、落盤事故で死んだりしたら、天国の両親は何と思うんだろうと……それが、怖いんです」
クイーンはグラスを止め、しばらくネロを眺めてから、
「そう」
と短く言ってグラスを置いた。
「あなたが炭鉱を嫌った理由は分かったわ。でも、ひとつ訂正をさせて」
彼女の眉間にシワが寄る。
「あなたのご両親を否定する訳じゃないのは、最初に言っておくわ。でもね、私、知ってるのよ――どんなに賢くなったって、バカな人間はバカなままなの。無害なバカが権力を持つバカになるから、余計に始末が悪いわ」
「はぁ……」
彼女の言葉の意図が分からず、ネロは困惑した。
けれどクイーンは急に機嫌良くなって、
「マスター、いつもの」
と声を掛けると、ニコリとネロに顔を戻した。
「あなた、見どころあるわね」
「はぁ……?」
ネロは目をぱちくりさせた。クイーンは満足げに彼を見ている。
「ちゃんと自分の意思を持ってるもの」
クイーンの指先で、グラスの氷がカランと音を立てた。
「探偵、特にうちは特殊だから、危険と隣り合わせなんて日常茶飯事。だからこそ、『死を受け入れる覚悟』と『生きたいという意思』の、両方を持ってないと、やっていけないのよ」
クイーンの水色の目は、どこかジャックに似ていた。高原の湖のように澄んでいるのに、光の届かない湖底は見えない。
今までに見たことのない色だ。
彼女は優しく微笑み、瞼でその色を隠した。
「私、あなたを応援したげる。うちの探偵になりなさい」
「あ、ありがとうございます……」
そこに、ウエイターが皿を持ってきた。それを受け取り、クイーンはネロの前に置く。
「この店で一番のオススメ。若いんだし、しっかり食べなさい」
ローストビーフだ。マッシュポテトが山のように添えられている。
マッシュポテトは孤児院で嫌になるほど食べたけど、グレイビーソースの染みたこれは、目を丸くするほど美味しい。
クイーンはネロを満足げに眺めてから、グラスを満たして手を上げた。
「新人探偵クンに、乾杯」




