②
瞼を上げた瞬間、強い光が目に飛び込んで、ネロは再び目を閉じた。
明るい光……孤児院のランプじゃない。オイルランプはもっと暗くて、天井に吊るして使うには不便だ。
あれはきっと、白熱電球……。
そう考えたネロはハッとした。
ここは、どこだ?
恐る恐る身を起こす。窓の外はすっかり暗くなり、通りの向こうの建物の明かりが見えていた。
状況を理解しようとキョロキョロしていると、見覚えのある顔と目が合った。
「やっとお目覚めかい」
「あ……」
ようやく思い出した。
ミートパイを無銭飲食したところを、ジャックと名乗るこの人に助けられて、階段を上る途中で倒れて……。
気まずくなり、ネロはソファーから立ち上がる。そして、この部屋にはジャックの他に、もう四人の人物がいるのに気づいた。
八つの目が一斉にネロを向く。
恐縮しきったネロは、直立不動で固まった。
すると、笑い声があった。
正面にある机に両手を置く人物だ。
癖のない金髪を肩まで伸ばし、仕立ての良さそうなベストを着て、紳士然としている。ジャックより年上に見えるけれど、それはジャックの身なりが不審なだけかもしれない。
彼は目を細めてにこやかに言った。
「緊張しなくていいんだよ。こう見えて、常識人ばかりだから」
「嘘はダメでしょ、ボス」
その声は、トランプ台に向かう赤毛の女のものだ。
癖のある髪をシュークリームみたいに結って、落ち着いた色のワンピースを着ている。お手伝いさんのようにも見えるけれど、その表情に、人に媚びる気配は全くない。
「イヤだなぁ。私は本当のことしか言わないよ」
ボスと呼ばれた人物がハハハと笑うと、傍らのソファーから顔を覗かせる男の子が細い目を向けた。
「これ以上矛盾した人っているのかな?」
ソファーの肘掛けにあごを載せる彼は、八歳くらいに見えた。赤みがかった目と、紫に近い赤毛をしていて、少し不思議な雰囲気をまとっている。
「ガキのクセに生意気すぎるおまえには負けるんじゃね」
赤毛の女の向かいに座る若い男が、椅子の背に肘を乗せて、軽薄そうな笑みを男の子に向けた。
ブロンドの髪の上に、オートバイ用のゴーグルを付けている。ここにいる中では、ソファーの男の子の次に若そうだけれど、ソファーの男の子よりも子供っぽい雰囲気がある。
すると、ヒュッと空気を割く音がした。
ゴーグルの彼が軽く手を振ると、その指の間に万年筆があった。
「バカの相手が面倒なだけだよ」
ソファーの男の子がむくれているのを見て、やっとネロは状況を理解した。
男の子が万年筆を投げて、ゴーグルの男が指で受け止めたのだ。
ネロは目を丸くする。反射神経がとても人間業とは思えない……。
唖然と眺めているネロに、ボスと呼ばれた紳士が声を掛けた。
「どう? 少しは気分が解れたかな?」
そういう状況ではない気もするが、ネロは反射的に「はい……」と答えた。
「なら良かった」
と、ボスは答えた。
「ジャックからだいたいの話は聞いてるよ。仕事を探しに、アイルランドからロンドンへ来たってね」
そんなことを彼に言っただろうか?
ネロは首を傾げつつも、ここで頼まなければどうすると、思い切って前に出た。
「ここで働かせてください!」
顔を上げ、そう声を張り上げる。
「役に立つスキルは持っていません。力も強くないし、頭も良くありません。でも、一生懸命働きます! トイレ掃除でもドブ掃除でも何でもします。だから……」
「まぁ……まぁ、落ち着いて」
ボスは笑った。
「とりあえず、座ろうか」
ネロは恥ずかしくなり、うつむき加減にソファーに腰を下ろす。
それを見届けたところで、ボスが机の上で手を組んだ。
「ここで働きたいのなら、少し君のことを教えて欲しいんだけど――話を聞かせてくれるかな?」
空気が変わるのが分かった。
ボス以外の五人が口を閉じ、ネロの挙動に注目したのだ。
ここで怯んだら死を待つのみだ――ネロは覚悟を決め顔を上げた。
「はい、お願いします」
「なら……」
ボスは相変わらず、瞳が見えないほどに目を細め、にこやかな表情をしている。
「まず、名前から教えてくれる?」
「ネロ・ネルソンです」
「年齢は?」
「十三歳です」
「出身は?」
「ダブリンの孤児院です」
「とすると、君のご家族は……」
「両親は、炭鉱の落盤事故で死にました。妹は……孤児院で……」
ボスはわずかに眉を上げた。
「それは不幸だったね。それで、仕事を探しにロンドンへ来たのかな?」
「はい。アイルランドでは、僕みたいな、はずれスキル持ちが働くところは炭鉱くらいしかありません。両親の死に様を見てるから、どうしても……その、怖くて……」
「君の考え方は間違っていないよ」
ボスは軽く笑って、彼を囲む四人を見回した。
「ここにいる人たちはね、みんな、世間から見れば、はずれスキルの持ち主なんだ。かく言う、私もね。それでもこの街には、こうして居場所がある」
初めて自分を肯定された気がした。
辛かった過去が波のように押し寄せて、ネロの目に涙が溜まる。
それが流れ出ないうちに、ボスは次の質問を放った。
「じゃあ、君のスキルを教えてくれるかな?」
ネロは軽く目をこすって姿勢を正した。
「その人が最後に食べたものが分かる……そういうスキル、です……」
一瞬、空気が固まった。
「それは使い道ねえよな……」
とゴーグルの男が同情を込めて呟くと、向かいの女が彼の脛を蹴り上げる。
一方、ボスは「なるほど、なるほど……」とうなずいて、
「念のため、そのスキルがどの程度のものなのか、確認してもいいかな?」
とジャックに顔を向けた。
「あ……彼はミートパイとコーヒーです。喫茶店で見ましたから」
「そっかぁ。じゃあ、私の昼食は分かる?」
ネロはすぐさま答えた。
「フィッシュ&チップスです。マッシィビーズと、タルタルソースみたいなのが添えてある……」
「市役所前のスナックスタンド、だな」
ジャックがニヤリと呟いた。
それに興味を持ったのがゴーグルの男だ。
「じゃあ、俺は分かる?」
彼の顔を見て、ネロは即答する。
「もしかして、昼食を抜いてませんか? ジャムトーストしか見えません」
「お、正解」
そこで身を乗り出したのが、彼の前に座る赤毛の女だ。彼女は淡い水色の目を細めて、ゴーグルの男に詰め寄った。
「あれれぇ〜? 昼の休憩に行くって出てったのになぁ〜。何しに行ったのかなぁ〜?」
「あ、あれは……」
ゴーグルの男は、挙動不審に目を泳がせた。
けれど赤毛の女は、それ以上追求するよりも、ネロを試した方が面白いと思ったのだろう。
「ねぇ、今度は私の食べた物、当ててみなさいよ」
と、ネロに挑戦的な目を向けた。
ネロは戸惑いつつも答える。
「……これは何だろう。肉の入ったスープみたいなものですけど、色が食べ物に見えないというか……」
視線の端で、ジャックとゴーグルの男が目を合わせた。何か言いたげな彼らの横で、女はポンと手を打った。
「ほぼ正解。ボルシチよ。ウクライナの煮込み料理。知らない料理は答えられないものね」
「自分で、作ったんスか……」
ゴーグルの男が恐る恐る訊くと、彼女は自信ありげに微笑んだ。
「本物を食べたことないけど、解釈としては合ってたと思うわ」
ゴーグルの男とジャックは首を竦めた。
その様子で、ネロは料理の味が分かった気がした。
すると、黙って聞いていたソファーの男の子が、身を起こして肘掛けにひざを置いた。そして、何もかも見通すような視線をネロに向ける。
「ジャックは問題外として、ボスは山勘が当たったとも考えられる。昼にフィッシュ&チップスを食べる人なんてゴマンといるから。エースのだって、彼の軽薄さを見れば、昼を抜くのは容易に想像できる」
エースというのは、ゴーグルの男を指しているようだ。彼は「なッ……」と声を上げるが、ソファーの男の子は構わず続けた。
「クイーンの料理は、正確な名前を答えられなかったからナシだ。肉の入ったスープ料理なんて珍しいものじゃない。偶然を否定できない」
クイーンというのは、話の流れから、赤毛の女に違いない。男の子にそう言われた彼女は、
「まぁ、それもそうね」
と、軽く笑った。
それを確認してから、ソファーの男の子はじぃーっとネロを見つめる。
「――ねえ、ボクが最後に食べたものを当ててみてよ。これを当てたら、ボクは君のスキルを信用する」
ネロは眉を寄せた。「それ」をどう表現していいか迷った末、彼は首を傾げつつ答えた。
「……紙?」
男の子がニヤリとする。
「どんな?」
「何かの証明書みたいに、細かく字が書いてある。四つ折りにされていて、そうだ、ちょうどこんな感じの……」
と、ネロは上着の内ポケットを探った。そこでようやく、彼は身分証がなくなっているのに気づいた。
男の子はハハッと笑った。
「大正解!」
「はああ?」
ネロの声がひっくり返る。
「まさか、僕の身分証を、食べた!?」
「うん」
男の子はソファーに寝転がる。
「インクが好きなんだよね。特に、公文書に使われてるものは質が良いから甘いんだ」
「…………」
「でも、インクだけ舐めると甘すぎるから、紙と一緒に食べる。そうすると、甘みが中和されて、いい感じになるんだよ。書きたてものもよりも、時間を置いた方が熟成されて尚良い」
どう突っ込んでいいのか分からず、ネロはただ呆然と男の子を眺めた。
彼の横で、ボスが肩を竦める。
「ごめんね。身分証ならいくらでも偽造するから」
「いや、そういう問題じゃないでしょ……というか、大問題でしょそれは」
頭が混乱してクラクラする。
何なんだ、この人たちは……。
倒れそうになったネロの肩に、ジャックが腕を回した。彼はネロの顔を覗き込んでニヤニヤしている。
「まあ、気にするな。こんな奴らと一緒に働けないと言うんなら、止めはしないけどな」
ネロは頭をブンブン振って、現実に意識を戻す。そして思い切り背筋を伸ばした。
「慣れます! 少なくとも、ミートパイ代は働いて返します!」
ネロの声は裏返っていた。けれども、ボスは満足げに笑った。
「じゃ、明日から来てくれるかな? 嫌になったら、いつでも辞めていいからね」




