①
『喫茶ハドソン』のガラス扉の横に、狭い階段がある。
ジャックがスタスタとそこに向かうから、ネロは慌てて彼の背を追った。
マスターは、この人が凄い人みたいに言っていた。しかも、今は探偵をしているらしい。
……けれど、薄汚れたその背中に、威厳らしいものは何もない。
戦争でおかしくなってしまったのだろうか。
そんなことを考えながら階段を上っていると、急に目の前が真っ白になった。
死にそうなほど空腹なところに、めいっぱいミートパイを詰め込んだから、内臓が対応しきれないのだろう……と咄嗟に理解はしたものの、フラリとよろめいた重心をどうにかできるものではない。ネロの体は後ろ向きに倒れていく。
このまま階段から落ちれば、死ぬんだろうな。
そう思った瞬間、ガシッと手首を掴まれて落下が止まった。
何とか視線を前に向けると、もやのかかった視界の中で、ネロの手首を掴んでいたのはジャックだった。
「食い過ぎは体に毒だ」
ジャックはネロを引き起こすと、軽々と彼を抱え上げる。病的な見た目にも関わらず、痩せた体躯は力強くて、ネロは体を彼に預けた。
そのまま階段を運ばれる。壁に並ぶ古風なレンガの列を眺めていると、意識がだんだん薄れていく。
そして意識を手放す寸前、ネロはおかしなことに気づいた。
――どうしてジャックは、数歩前を歩いていたにも関わらず、僕が倒れるのに気づいたんだろうか?
――――――――
『ベイカー通り探偵社』
そう書かれた看板が貼られた扉をジャックは開いた。そして、人の気配がない部屋を見渡して舌打ちする。
「なんだ、誰もいねえのか」
「いるのはボクだけだね」
声と同時に、ソファーの影から小さな顔が飛び出した。
――ファイブ。一応は「事務員」という名目の、居候の子供だ。
彼はソファーの肘掛けにあごを乗せ、赤みがかった目を細めた。
「誰、その子」
「喫茶店でマスターが困ってたから拾ってきた」
ファイブは、ジャックがネロを、別のソファーに寝かせる様子をじっと見ている。
「探偵にする気?」
「それはボス次第だな」
ジャックはネロが眠っているのを確認してから、テーブルの灰皿を手に、彼の定位置である椅子に向かった。
コートの内ポケットからタバコとライターを取り出して火をつける。一呼吸して肺にタバコの香りを行き渡らせると、天井に向かって大きく吐いた。
コーヒーと一緒に一服したいところだが、マスターがタバコを嫌うから仕方ない。
ジャックがこの探偵社に来て、三年。
時折、スコットランド・ヤードの妙な警部から事件捜査の依頼が来るが、それ以外は至って暇だ。
そもそもこの事務所は、一般の依頼人を迎えるようにはできていない。
奥にあるボス用の机と、その横に、今ファイブがいるソファーセットがあるのが、事務所らしい体裁を醸しているだけで、その他は、椅子やテーブル、トランプ台なんかが無造作に散らばっている。
居場所のない野良猫が屯する場所――ジャックはここをそう認識していた。
だから、ネロを連れて来たのだ。
一方、ファイブは再びソファーの向こうに戻った。いつものように、玩具で遊んでいるのだろう。
けれどもやはり、ネロのことが気になるようで、再びモグラのように顔を覗かせた。
「その子のスキルって、何?」
「さあね、知らない」
「名前は?」
「ネロ・ネルソン」
「出身は?」
「ダブリンの孤児院になってる」
ジャックはファイブに紙切れを見せた。ネロの上着のポケットにあったものだ。職を探すための身分証だろう。
「七日前が十三歳の誕生日だから、孤児院を追い出され、ロンドンに来て職探しをするも、夢破れた……といったところだろうな」
「ダブリンって、アイルランドの?」
ファイブの声に緊張が混じっているのを認識しつつ、ジャックは「そうだ」と答えた。
ファイブは声を低くする。
「――三年前のクーデターの主犯が、アイルランドの武装組織だったよね」
ジャックは黙ってうなずいた。
ファイブが警戒するのも無理はない。彼はクーデターの際、武装組織に拐われるところだったのだ……ジャックが助けなければ。
あの時、彼が間に合わなければ、この国はなくなっていたかもしれないと思うと、今も背筋に戦慄が走る。
いつかその残党――もしくは、その後釜が、再びファイブを狙うのではないか。その懸念がジャックにもある。
しかし、ネロがアイルランド出身なのを知ったのが、倒れた彼を探偵社に運び込んだ後だったのだから仕方ない。
……それに、マスターのミートパイに感動して号泣していた彼が、武装組織の一員だとは、到底思えなかった。
ネロは、片隅のソファーで静かに寝息を立てている。
女児のように長めに揃えた、柔らかな灰色の髪から覗く頬は、安堵しきっているように見えた。
ファイブを目的に探偵社に潜入しようとするスパイが、こんな無防備に寝るだろうか?
「アイルランド人が全て武装組織の一員という訳じゃないさ」
ジャックはそう答えたが、ファイブは警戒を解かない。
「奴らは孤児院からテロ要員を確保しているんだろ? 彼が武装組織の人間じゃないという証拠がなければ、ボクは信用できない」
ジャックはタバコを灰皿に押し付け、天井を眺めた。
ファイブは今年十歳になる……記録上は。
年齢の割に行動が幼い一方、年齢に見合わない明晰な頭脳をしている。その明晰さが彼を幸せにしていないのを、ジャックは知っていた。
もう少し子供らしく、大人を頼ってほしいとは思う。同時に、彼の過去を知れば、それは無理な話だとも、ジャックは理解していた。
くすんだ色の天井に、タバコの煙がたゆたっている。
その模様を眺めながら、ジャックは言った。
「ボスが見りゃ一発だ」
「そりゃそうだけど……」
ファイブは、子供らしくない鋭い視線でジャックを射抜く。
「もし、彼が嘘を吐いたら、どうするの?」
ジャックはコートの下に手を入れる。そして肩に付けたホルスターから拳銃を抜き取り、柔らかな灰色の髪に銃口を向けた。
「こうするだけのことだ」




