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はずれスキルの探偵社  作者: 山岸マロニィ
Ⅱ. はずれスキルの探偵社
5/9

 『喫茶ハドソン』のガラス扉の横に、狭い階段がある。

 ジャックがスタスタとそこに向かうから、ネロは慌てて彼の背を追った。


 マスターは、この人が凄い人みたいに言っていた。しかも、今は探偵をしているらしい。

 ……けれど、薄汚れたその背中に、威厳らしいものは何もない。


 戦争でおかしくなってしまったのだろうか。

 そんなことを考えながら階段を上っていると、急に目の前が真っ白になった。

 死にそうなほど空腹なところに、めいっぱいミートパイを詰め込んだから、内臓が対応しきれないのだろう……と咄嗟に理解はしたものの、フラリとよろめいた重心をどうにかできるものではない。ネロの体は後ろ向きに倒れていく。


 このまま階段から落ちれば、死ぬんだろうな。


 そう思った瞬間、ガシッと手首を掴まれて落下が止まった。

 何とか視線を前に向けると、もやのかかった視界の中で、ネロの手首を掴んでいたのはジャックだった。

「食い過ぎは体に毒だ」

 ジャックはネロを引き起こすと、軽々と彼を抱え上げる。病的な見た目にも関わらず、痩せた体躯は力強くて、ネロは体を彼に預けた。

 そのまま階段を運ばれる。壁に並ぶ古風なレンガの列を眺めていると、意識がだんだん薄れていく。

 そして意識を手放す寸前、ネロはおかしなことに気づいた。


 ――どうしてジャックは、数歩前を歩いていたにも関わらず、僕が倒れるのに気づいたんだろうか?



 ――――――――



 『ベイカー通り探偵社』


 そう書かれた看板が貼られた扉をジャックは開いた。そして、人の気配がない部屋を見渡して舌打ちする。

「なんだ、誰もいねえのか」


「いるのはボクだけだね」

 声と同時に、ソファーの影から小さな顔が飛び出した。


 ――ファイブ。一応は「事務員」という名目の、居候の子供だ。


 彼はソファーの肘掛けにあごを乗せ、赤みがかった目を細めた。

「誰、その子」

「喫茶店でマスターが困ってたから拾ってきた」

 

 ファイブは、ジャックがネロを、別のソファーに寝かせる様子をじっと見ている。

「探偵にする気?」

「それはボス次第だな」


 ジャックはネロが眠っているのを確認してから、テーブルの灰皿を手に、彼の定位置である椅子に向かった。

 コートの内ポケットからタバコとライターを取り出して火をつける。一呼吸して肺にタバコの香りを行き渡らせると、天井に向かって大きく吐いた。

 コーヒーと一緒に一服したいところだが、マスターがタバコを嫌うから仕方ない。


 ジャックがこの探偵社に来て、三年。

 時折、スコットランド・ヤードの妙な警部から事件捜査の依頼が来るが、それ以外は至って暇だ。


 そもそもこの事務所は、一般の依頼人を迎えるようにはできていない。

 奥にあるボス用の机と、その横に、今ファイブがいるソファーセットがあるのが、事務所らしい体裁を醸しているだけで、その他は、椅子やテーブル、トランプ台なんかが無造作に散らばっている。


 居場所のない野良猫が(たむろ)する場所――ジャックはここをそう認識していた。


 だから、ネロを連れて来たのだ。


 一方、ファイブは再びソファーの向こうに戻った。いつものように、玩具で遊んでいるのだろう。

 けれどもやはり、ネロのことが気になるようで、再びモグラのように顔を覗かせた。

「その子のスキルって、何?」

「さあね、知らない」

「名前は?」

「ネロ・ネルソン」

「出身は?」

「ダブリンの孤児院になってる」


 ジャックはファイブに紙切れを見せた。ネロの上着のポケットにあったものだ。職を探すための身分証だろう。

「七日前が十三歳の誕生日だから、孤児院を追い出され、ロンドンに来て職探しをするも、夢破れた……といったところだろうな」


「ダブリンって、アイルランドの?」

 ファイブの声に緊張が混じっているのを認識しつつ、ジャックは「そうだ」と答えた。

 ファイブは声を低くする。


「――三年前のクーデターの主犯が、アイルランドの武装組織だったよね」


 ジャックは黙ってうなずいた。

 ファイブが警戒するのも無理はない。彼はクーデターの際、武装組織に拐われるところだったのだ……ジャックが助けなければ。

 あの時、彼が間に合わなければ、この国はなくなっていたかもしれないと思うと、今も背筋に戦慄が走る。


 いつかその残党――もしくは、その後釜が、再びファイブを狙うのではないか。その懸念がジャックにもある。

 しかし、ネロがアイルランド出身なのを知ったのが、倒れた彼を探偵社に運び込んだ後だったのだから仕方ない。

 ……それに、マスターのミートパイに感動して号泣していた彼が、武装組織の一員だとは、到底思えなかった。


 ネロは、片隅のソファーで静かに寝息を立てている。

 女児のように長めに揃えた、柔らかな灰色の髪から覗く頬は、安堵しきっているように見えた。

 ファイブを目的に探偵社に潜入しようとするスパイが、こんな無防備に寝るだろうか?


「アイルランド人が全て武装組織の一員という訳じゃないさ」

 ジャックはそう答えたが、ファイブは警戒を解かない。

「奴らは孤児院からテロ要員を確保しているんだろ? 彼が武装組織の人間じゃないという証拠がなければ、ボクは信用できない」


 ジャックはタバコを灰皿に押し付け、天井を眺めた。


 ファイブは今年十歳になる……記録上は。

 年齢の割に行動が幼い一方、年齢に見合わない明晰な頭脳をしている。その明晰さが彼を幸せにしていないのを、ジャックは知っていた。

 もう少し子供らしく、大人を頼ってほしいとは思う。同時に、彼の過去を知れば、それは無理な話だとも、ジャックは理解していた。


 くすんだ色の天井に、タバコの煙がたゆたっている。

 その模様を眺めながら、ジャックは言った。

「ボスが見りゃ一発だ」

「そりゃそうだけど……」


 ファイブは、子供らしくない鋭い視線でジャックを射抜く。

「もし、彼が嘘を吐いたら、どうするの?」


 ジャックはコートの下に手を入れる。そして肩に付けたホルスターから拳銃を抜き取り、柔らかな灰色の髪に銃口を向けた。

「こうするだけのことだ」

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