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はずれスキルの探偵社  作者: 山岸マロニィ
Ⅰ. ベイカー通りの喫茶店
4/9

 だが、ネロはすぐに勘違いに気づいた。


 ――ベイカー通りは、パン屋が集まった街じゃない。


 四階建ての建物が並んだうち、一階が店になっているところが多い。けれど、仕立て屋とか食器屋とか本屋とかで、食べ物の店が見当たらない。


 期待した分、脱力してしまった。ネロは重い体を引きずるように通りを進んだ。

 ひもじいまま野垂れ死ぬのか……と、絶望的な気持ちになってくる。


 街路樹の向こうを、二階建てバスや立派な馬車が通り過ぎていく。

 世界から自分だけ切り離された心持ちで、ネロはとぼとぼと石畳を踏んだ。


 ……すると、どこからか食欲を刺激する香りが流れてきた。ネロは反射的に顔を上げ、鼻腔を刺激する香りの元を探した。


「……あれだ」


 ネロの視線が止まったのは、少し先の建物の前に置かれた小さな看板。

 『喫茶ハドソン 営業中』と書かれている。


 ――ここしかない。


 ネロは最後の力を振り絞り、足を進めた。

 そして、無我夢中で看板横のガラス扉を押し開けた。


「いらっしゃい」

 すぐに低く穏やかな声が聞こえて、ようやくネロは我に返った。


 小さく質素な店だった。飾り気らしいものは何もない。

 左手にテーブル席が三つあり、右手がカウンターになっている。カウンター奥の棚にはたくさんのカップが並んでいて、その前で鼻眼鏡に蝶ネクタイのマスターがこちらを見ていた。

「どうぞ、お好きな席へ」


 店内は空いていた。昼をとっくに過ぎているからだろう。端っこのテーブル席で男がひとり、新聞を見ながらコーヒーを飲んでいるだけだ。


 ネロは一番手前のカウンター席に腰を下ろした。その動きに合わせるように、マスターがメニューを差し出す。

 一応目を向けてみるが、ネロの所持金で済むものはない。

 やはり、このまま立ち去るべきだと、理性が主張する。けれど、ようやく下ろした重い腰を持ち上げるだけの力が、ネロには残されていなかった。


 そんなネロの前で、マスターがオーブンからミートパイを取り出した。目の前で焼きたてを切り分ければ、暴力的なまでの香りがネロの食欲中枢を刺激する。

 おじさんはそのうちの一切れを皿に乗せ、テーブル席の男の前に置いた。

「あいよ」

 常連なのだろう。新聞から顔も外さずに、

「どうも」

 と答えて、男はフォークをミートパイに突き刺す。


 ほとんど無意識に、ネロの口が動いていた。

「僕にも、それ、ください」


 すぐさま目の前に置かれたミートパイ。抗えるはずがなかった。

 貪るように口に運べば、想像通りの味わいが全身を満たす。

「もうひとつ、ください」

「あいよ」

 無心に頬張る。そして、

「もうひとつ」

 と、三つ目を前にしたところで、このミートパイの完璧さにようやく気づいた。


 美しい網目に程よく乗った焦げ目と艶。切れ目からは肉汁があふれ出し、香辛料と脂の芳香が、見る者の思考を支配する。

 フォークで切り分け、口に入れれば、極上のミートパイと夢想したあの味が舌を包み込んだ。

 これまでの人生で出会った最高のミートパイ……いや、至上の食べ物だ。


 同時に、とてつもない罪悪感がネロを襲った。

 これほどまでのミートパイを作れるマスターは、きっと物凄いシェフに違いない。どれだけ研鑽を積んで、この領域に至ったのだろうか。

 その努力の結晶を、僕は無賃飲食で踏みにじったんだ……。


 ミートパイを口に運びながら、ネロの目から涙があふれた。

 空になった皿にフォークを置いて、ネロは覚悟を決め立ち上がる。


「警察を、呼んでください……」

 そう言うネロの声は震えていた。

「僕は、これだけしか持ってません」

 カウンターに全財産を置いて、ネロは顔を伏せる。

「生きているうちに、こんなに美味しいミートパイが食べられたことが、何よりの幸せです……これで死刑になっても、思い残すことはありません……」


 狭い店内に、ネロのすすり泣く声だけが響いた。

 しばらくネロに困った顔を向けていたマスターは、やがてテーブル席の男に顔を向けた。

「だ、そうだ。どうする、ジャック?」


 新聞を畳む音がした。それに続き、気の抜けたような声がした。

「それは困る。そんなことしたら、俺のツケも払わなきゃならない」

「確かにそうだ。ツケが百ポンド貯まったら、ボスに立て替えてもらう約束だったな」

 マスターに言われて、ジャックと呼ばれた男は情けない声を上げた。

「それだけはやめて。近々返すから」

「またギャンブルか?」

 ジャックはツカツカとカウンターに来ると、ネロの置いた銅貨を手に取った。

「これを百ポンドにして返す。それでこいつも許してやってくれ」

 けれど、すぐさまマスターが突っ込んだ。

「今日の分もある。百ポンドじゃ足りないな」

 ジャックは首を竦め、ポケットから銀貨を何枚か取り出した。

「今日はこれで勘弁して。ボスにだけは内緒で、ね。頼む!」


 平身低頭するジャックを、マスターは呆れた目で見ていた。

「これが『不死の魔術師』と呼ばれた男だとはねぇ」

 へへへ……と媚びるように笑うジャックから、マスターはネロに視線を移した。

「だ、そうだ」


 途中から、ネロはポカンと二人のやり取りを聞いていた。

 涙も引っ込み、虚無感が満ちている。なんだ、この人は……と、ネロはジャックを見上げた。


 年齢は三十手前くらい。背は高いがひょろ長くて、色白な肌は病的なまでに艶がない。

 目を覆い隠しそうなボサボサの黒髪の隙間から、濃いくまのある目が覗いている。アメジストのような紫色の目もまた、くすんで死んだ魚のようだ。

 ヨレヨレのシャツにだらしなく巻いた黒いネクタイが、猫背の首元からぶら下がる。痩せた肩に羽織った薄いコートもまた、いつ洗濯をしたのか分からないほど埃っぽい。


 世捨て人――彼を表現するなら、そんな言葉が似合いそうだ。


 そんなネロの(いぶか)しい視線を、アメジスト色の目が見下ろした。

「行くところ、ないんだろ」


 そこでようやく、ネロは世捨て人じみたこの男に助けられたことを理解した。

「あ、あの……」

 けれど、つい先程まで死を覚悟していたせいか、お礼の言葉が出てこない。この先どうなるのか……と、不安で目を泳がせていると、温かい手がポンと頭に置かれた。

「上で探偵社をやってるんだ。とりあえず、そこに連れてく」



 ――これがネロの、ジャック、そして『ベイカー通り探偵社』との出会いだった。

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