①
ロンドンに漂う霧は、故郷ものよりも濃く、冷たかった。
アイルランドを飛び出し、イングランド行きの船に乗ったものの、着いた先に待っていたのは非常な言葉だった。
「アイルランド出身、ねぇ……」
「はずれスキルか……フン、いらないね」
「そんなスキル、何の役に立つの?」
「世の中には、もっと使えるスキル持ちがゴマンといるんだ。ゴミスキルの田舎者を雇う意味がない」
『従業員募集』の看板を見つける度に、「働かせてください」と頭を下げるものの、彼のスキルを聞いた途端、鼻で笑われて追い出された。
――神は人の弱さを哀れ給い、神の力をひとつずつ分け与えられた。
毎週、日曜ミサで朗読した聖典の一節。
それを思い出して、ネロ・ネルソンは奥歯を噛み締める。
――スキルが神の力の一部であるなら、『その人が最後に食べた物が見える』なんていうスキルを、神はどう使っていたのか、教えて欲しい。
石畳の通りには無数の人々が行き交う。その一人一人に目を向ければ、必然的に見えてくる。
ママの特製ミートパイ。温かいミルクティーに焼きたてのスコーン。ベイクドビーンズを添えたオムレツ。モルトビネガーのソースを添えたフィッシュ&チップス……。
今は午後だから、昼に食べたものだろう。その人がどんな気持ちで食べたのかすら、匂い立つように伝わってくる。
見なきゃ良かった……と、ネロはすぐさま顔を伏せた。
もう三日は食べていない。お腹が空いて倒れそうだ。
空腹には慣れていた。お腹いっぱい食べたことなどなかったから。
両親は炭鉱で働いていて、昼間は家にいなかった。干乾びたパン一切れを弁当に学校に行き、家に帰っても何もない。
けれど、みんな同じようなものだから気にならなかった。
落盤事故で両親が死に、妹と共にダブリンの孤児院に入ってからも、似たようなものだ。内戦のせいで孤児院に回ってくる食糧は少なくて、みんな毎日、どうやって空腹を誤魔化すかを競っていた。
……けれど、平等な不幸が終わるのは呆気なかった。
この世界では、十歳頃までに、みんな何らかのスキルを発現させる。
次々と有用なスキルを発現させていく仲間たちの中で、自分のスキルを認識した時、ネロは人生が終わったと自覚した。
怪力を出せるスキルや、計算が早いスキルを持つ子には、次々と里親が見つかった。
けれど、「その人が最後に食べたものが見える」なんていうはずれスキルを持つ子供に、差し伸べられる手はなかった。
「この孤児院には、十三の誕生日までしかいられないんだよ」
院長の冷めた目が忘れられない。
「その後は、炭鉱で働くか、自分で仕事を探すか、二つに一つだ」
炭鉱はどうしても嫌だった。両親の死に様を見たから。
かといって、はずれスキル持ちの孤児を雇ってくれるような奇特な人は、内戦中のアイルランドにはいなかった。
唯一、希望を見い出せたのは、子供たちの世話人である修道士がしていた話。
「ウェストミンスター教会は素晴らしかった。それだけじゃない。ロンドンという街には、古くて立派な建物がたくさんある。それが何を意味しているか、分かるかい?」
修道士は子供たちを見回した。
「――千年もの間、一度も戦争で焼かれていない、ということだ」
ネロはゾクッとした。
アイルランドの歴史は学校で習った。バイキングに支配されたり、植民地になったり、内戦が起こったり……。
孤児院から一歩出れば、壊れた街がどこまでも続くダブリン。灰色の風景からロンドンを想像すると、鮮やかに光り輝く街が見えた。
ネロの中に、ロンドンへの憧れが沸き起こった瞬間だった。
だから、十三歳の誕生日に孤児院を出たその足で、ロンドンへ向かう船に飛び乗った。
……それなのに。
灰色の霧に沈む街で、ネロに目を向ける者はいなかった。
考えてみれば当たり前だ。はずれスキルを持った時点で、この世界では生きていけないんだ。
目の前には、野垂れ死ぬ未来しかないんだ。
――どうせ死ぬなら、お腹いっぱい食べて死にたいな……。
ネロの脳裏に蘇る、妹の死に顔。
お腹を満たせば、あんなに幸せな顔になれるものなら、死ぬ前に一度くらい笑ってみたい。
ネロは足を止め、顔を上げた。
すると、道路標識が目に入る。
「……ベイカー通り……」
きっと、パン屋が集まった街なんだろうと、ネロは思った。
人類の歴史で、最も人の食欲を満たしてきた食べ物。死ぬ前に食べるには最適だろう。
つぎはぎだらけのニッカポッカのポケットに手を入れる。指先に当たるのは、小さな銅貨が数枚。パン代にもならない。
「…………」
パン屋の人には悪いけど、警察に突き出してくれればそれでいい。死刑になるなら本望だ。
ネロは人波を横切り、レンガの建物が並ぶ通りに足を向けた。




